みんなみすべくきたすべく

おおきなかぶ

かぶりつく45
 孫の好きな絵本に「おおきなかぶ」(ロシア民話 内田莉莎子訳 佐藤忠良絵 福音館)があります。
 ≪・・・・まごがおばあさんをひっぱって、おばあさんがおじいさんをひっぱって、おじいさんがかぶをひっぱって・・・・≫
 明瞭な言葉が続きます。
 絵も簡潔で、わかりやすい。おじいさん、おばあさん、まごに犬に猫にねずみ。

もちろん「うんとこしょ、どっこいしょ」の言い回しは、その臨場感を孫も味わえるようで、その場面になると、身体をゆすって、一緒に「・・・しょっ、・・・しょっ」と言って、楽しみます。

あんまり、楽しそうにしているので、届いたばかりの本物の蕪を、見せました。
 「とうとう、かぶはぬけました。」の場面と比べるべく、これが蕪だよ。

それで、しばらく、その蕪をボウルに入れたり、出したりながら、遊んでおりました。
 ・・・が、そのとき、彼女は、蕪にかぶりついたではありませんか。

洗ってあったし、無農薬系有機野菜であったので、ま、いいかと思いつつも、カブにかぶりつくより、リンゴはどう?と、彼女に手渡すと、まあ、おそるべし、やっと生えたような歯で、ガブッ、もう一口、ガブッ、さらにガブッ・・・・というわけで、皮ごと、どんどん食べてしまい、完食。

 担当している学生たちに食育のところで、この「おおきなかぶ」の絵本を紹介してきましたが、やっぱり、間違っていなかった。

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ながい ふゆの おつきさま

月j
こんなに長かった1月は初めてです。
いつもは、1月行く、2月逃げる、3月去る・・・・の言葉通り、早く時が過ぎることが多かったものの、今年は格別長い。
スーパームーンの皆既月食だった31日のお月さまのことも、ちょうど、その頃、たまたまNEWSで知った次第。
そういえば、30日の保育所のお迎えの時に見た、お月さまも大きかった・・・

いつも寒い冬であるものの、今年は特に寒い。自分が風邪をひかぬよう、周りも風邪をひかぬよう、この生活に慣れて来たかのように見える孫を第一に考えています。

人の命の重さを、しっかり考えることができる日々です。
信じられないような子どもへの仕打ちをする大人も、初めは、人の子として命をもらったのに・・・と、憤って報道を見る暇もありませんが・・・

そんなとき、読み返したくても読み返す時間が足りない、アーサー・ランサムの「長い冬休み」やローラ・インガルス・ワイルダーの「長い冬」を、思い出して、長い冬の慰めとしています。

*アーサー・ランサム「ツバメ号とアマゾン号」シリーズ(岩田欣三・神宮輝夫訳 岩波)
*ローラ・インガルス・ワイルダー「大草原の小さな家」シリーズ(ガース・ウィリアムズ絵 恩地美保子訳 福音館 谷口由美子訳 岩波少年文庫)


☆写真は、スイス ブリエンツ湖の月。皆既月食とは関係ありません。

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タルタランの小説を読み通したことがあるのかい?

サンレミ18
「ゴッホの手紙 上中下」(硲伊之助訳 岩波文庫)
(承前)
 ゴッホの耳を切る事件があったのは、1888年12月23日の夜です。そのあと、1月1日2日と短い手紙を書き、17日になって、長い手紙を弟テオに書いています。
 その中で、アルルを後にしたゴーギャンに何度も触れています。
≪ところでゴーガンは・・・・なんでも自分のしたい事をすればいいし、独立独歩でやればいい?(独立の言葉の性格をいったいどんな風に彼は考えているんだろう)自分の考えが、われわれよりも経験を積んでいるものと思い込んでいるなら、勝手に行動したらいいさ。ここへ残して行った習作と引きかえに、僕の「ひまわり」を要求したのにはあきれた。彼の習作は贈物としてここへ置いて行ったのではないか、その習作を送り返してやろう。僕がもらっても何の役にもたたないが、きっと彼にはまだ必要なのだろう・。・・・・・(中略)・・・・いったい、僕のそばにいると邪魔だろうとゴーガンが気兼ねしたのだろうか、ほんのちょっとでもどんなに会いたがっているか、繰り返して行ったのを承知の上でそう言った事も、もちろん否定できないはずだ。・・・・・≫

と、書き続け、ここでも、タルタランです。
≪僕には彼の行為を、これ以上追求する気はない。でも或る一点に疑問を残しながら静かに引き下がろう。お互いに、彼と僕と、時にはフランス芸術や印象派について意見を交わしたこともあったが・・・・印象派が創設されて落ちつくかどうか、とてもむずかしいようで、不可能に近い気がする。英国でラファエル前派が成功しなかったときと同じではないか。団体が解散してしまったのさ。あるいは僕がこうした事件にあまりに心を痛め、悲観し過ぎるのかもしれない。ゴーガンは「アルプスの山上のタルタラン」**を読んだことがあろうか、そしてこのタラスコンの有名な友であるタルタランを思い出せるかしら、それはすばらしいは想像力の持主だったのので、彼は立ちどころに架空のスイスを想像で描いたではないか?崖から墜落してから、アルプス山上で発見した綱の結び目を彼はおぼえているだろうか?君はそれがどんな風なものか知りたいだろうが、いったい君はタルタランの小説を読み通したことがあるのかい?これでゴーガンがどんな人物かちょっと分かるだろう。これはまじめな話だが、ドオデの本からこの抜粋をもう一度読んでもらいたい。君が当地に来たとき「獅子狩りのタルタラン」***にあるタラスコンの乗合馬車の習作があったのに気がついたか。≫)(続く)

***「陽気なタルタラン」(ドーデ―作 小川泰一訳 岩波文庫) 
**「アルプスのタルタラン」(ドーデ―作 畠中敏郎訳 岩波文庫)
*「タラスコンみなと」(ドーデ―作 畠中敏郎訳 岩波文庫)

☆写真は、ゴッホの入院にした病院の中庭。スイス オスカーラインハルト美術館
下の写真は、約15年ほど前の 上記病院中庭 (撮影&T1:ただしデータの写真ではなく現像した写真)

ゴッホ病院30

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傑作の持つ偉大さ

カフェj
「ゴッホの手紙 上中下」 (硲伊之助訳 岩波文庫)
 (承前)
ゴッホは、ドーデ―の「タルタランシリーズ」だけでなく、ドーデ―の「アカデミー会員」という作品も読んでいて、気に入った言葉を見つけてはいますが、やっぱり「タルタラン」の方がずっと好きだと言い切ります。
≪「アカデミー会員」は「タルタラン」ほど色彩的ではないような気がする。そこにはこまかい正確な観察があんまり多いので、無味乾燥で冷たいジャン・ベランのいやな絵を連想させるのだ。そこへいくと「タルタラン」には「カンディード」とおなじように傑作の持つ偉大さがあり、真に偉大なのだ。≫

 と、タルタランを絶賛しているのは理解できるものの、上記の手紙内容で、個人的に、「アカデミー会員」は読んだことがなく、(もしかしたら、未邦訳?)、ジャン・ベランという画家は、よく判らず、「カンディード」(ヴォルテール 植田祐次訳 岩波文庫)は、未読。うーん、わかっているのは「タルタラン」だけじゃないか・・・・

 で、「夜のカフェ」(上記写真)を弟に、手紙で紹介するときにも、「タルタラン」なのです。
≪僕は「夜のカフェ」の絵で、カフェと人が身を滅ぼし、狂人になり、罪悪を犯すような場所だということを表現しようとした。要するに僕は、やわらかいバラ色に鮮血のような赤と酒糟色や、ルイ15世時代のやわらかい緑やヴェロネーズ緑などに、黄緑とかたい青緑とを対照させて、地獄の坩堝と青白い燐光の雰囲気の中に、居酒屋の暗い機能を表現しようとしてみたのだ。しかもこれを 日本的な陽気さとタルタランのばか正直さという形に包んでね。≫(続く)

*「陽気なタルタラン」(ドーデ―作 小川泰一訳 岩波文庫) 
*「アルプスのタルタラン」(ドーデ―作 畠中敏郎訳 岩波文庫)
*「タラスコンみなと」(ドーデ―作 畠中敏郎訳 岩波文庫)

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赤と緑のあの馬車を書いたところだ。

乗合馬車jj
(承前)東京でゴッホ展に行き➡➡ゴッホの手紙を読むことになって、また、もう一度、見に京都国立近代美術館に行って➡➡対面したゴッホ「タラスコンの乗合馬車」の絵でしたが、これを描いた時の様子を、ゴッホは弟テオに手紙で報告しています。*「ゴッホの手紙 中・下 テオドル宛」(J.v.ゴッホ・ボンゲル編 硲伊之助訳 岩波文庫)

 まず、「タラタラン 三部作」の「アルプスのタルタラン」について、書いています。
 ≪「アルプスのタルタラン」を読んだら、とても面白かった。(第467信)≫
 その後、何度かタルタラン物語について触れ、かの乗合馬車の作品については、
≪「タルタラン物語」を君は読んだかい。そうさ、それを思い出してくれたまえ。「タルタラン」の中で、タラスコンの古い乗合馬車についての愚痴が書いてある。あのすばらしい一節を憶えているかね。そうだ、僕は宿屋の中庭にある赤と緑のあの馬車を書いたところだ。今に君に見せるよ。急いで描いたこの見取図でも構図はわかるだろう。前景は単純で灰色の砂地、背景も非常に単純で、緑色の鎧戸のついた窓のあるばら色と黄色の壁と、青空の一角がある。二台の馬車はモンチセリ風の厚塗りだ。君は以前、海岸にペンキ塗りのボートが四隻あるクロード・モネの美しい絵を持っていたね。ここではそのボートが馬車になっているわけだが、構図は同じようなものだ。(第552信)≫(続く) 

*「アルプスのタルタラン」(畠中敏郎訳 岩波文庫)➡➡
*「陽気なタルタラン」(小川泰一訳 岩波文庫)➡➡
*「タラスコンみなと」(畠中敏郎訳 岩波文庫)

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乗合馬車の愚痴が聞こえる

平安j
 日本列島が凍りつく今日この頃。
 久しぶりの京都にお稽古の日。お稽古前の遠足は、お寺の拝観は寒いし、お庭は今は寂しいということで、京都国立近代美術館の「ゴッホ展ー巡りゆく日本の夢」(~2018年3月4日)に行ってきました。
 東京で見たものの➡➡、その後、「ゴッホの手紙 上・中・下」(硲伊之助訳 岩波文庫)を読んだり、3冊のドーデ―「タルタランシリーズ」(岩波文庫)を読んだりしたので、もう一度、見たいと出かけました。
 すでに、ここで紹介した絵をもう一度丁寧に見る楽しみもさることながら、やっぱり、かの「タラスコンの乗合馬車」では、乗合馬車の愚痴が聞こえてきそうで、思わずにんまり。しばらく、見入って耳をすませておりました。あまり人が群がっていないのが幸い。

  もし、今から「タラスコンの乗合馬車」を見に行く予定のある方は、ぜひ、「陽気なタルタラン」(小川泰一訳 岩波文庫)だけでも、いえ、せめてこのブログに引用した部分だけでも➡➡知ってると、ちょっと楽しいかもです。(続く)

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精神の糧にしてもらいたかった

ゴッホ手紙1
*「ゴッホの手紙 上 ベルナール宛」(エミル・ベルナール編 硲伊之助訳 岩波文庫)
*「ゴッホの手紙 中・下 テオドル宛」(J.v.ゴッホ・ボンゲル編 硲伊之助訳 岩波文庫)
(承前)
 「ゴッホの手紙:」「(岩波文庫)は、手紙の全訳ではないようですが、読みやすく、わかりやすい訳なので、一気に読めます。
 とくに、芸術論を展開している内容を、素人にも伝わるように訳してくれているのは、助かりました。

 一体、誰が、訳したのか。硲伊之助という画家、のちに陶芸家でした。(浅学のカ・リ・リ・ロは、この人のことも知らなかった)
 それにしても、翻訳家のように訳がこなれていると思ったら、硲伊之助は、フランスに9年滞在し、マチスに師事した人のようです。その後、日本とフランス絵画、そして、ゴッホのオランダと日本をつないだ人でもあったようで、なるほど。と納得。
 そのあと、九谷焼陶芸に身を投じるのですが、この辺りは、いつか、北陸 加賀にある、この人の美術館に行ってみたいというに思いが生まれました。

 それで、硲伊之助のあとがきの最後の最後の文です。
≪ヴィンセントの絵画に対する情熱と人類愛的な心を知る上に、これらの手紙より適切なものはないと信じ、若い人達にこの本を読んで、精神の糧にしてもらいたかった。それが私の願いである。≫とありました。
 訳者の芸術家としての思い、若い人達を想う大人の思い、この人が訳して、よかったなと思いました。(続く)

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ゴッホの手紙

ゴッホ手紙2j
 昨秋からゴッホの美術展➡➡、  ➡➡ゴッホの映画➡➡、そして、ゴッホの手紙➡➡と、ゴッホに傾斜していましたが、特に「ゴッホの手紙」は、今まで読んでこなかったことを悔やまれる本でした。

 今まで、いくつかの作家たちの書簡集や手紙を読んだことがあります。が、しかし、このゴッホからの一方通行の、しかも膨大な量の、しかも、さほど長い期間ではない手紙は、今まで読んだものとは違っていました。(ただし、上巻の前半は、ベルナールが本にするときの前書きなどです。)

 これは、読みやすい芸術論ではありませんか。
 もちろん、情にあふれた手紙ととることもできるでしょう。
 窮状を訴える手紙ともいえるでしょう。
 身内だから、いえることも書いてあるでしょう。
 全編に流れるのは、ゴッホの絵画論、色彩論の展開。
 絵を描くことに命を懸けたゴッホの生きざまが書かれています。(続く)
*「ゴッホの手紙 上 ベルナール宛」(エミル・ベルナール編 硲伊之助訳 岩波文庫)
*「ゴッホの手紙 中・下 テオドル宛」(J.v.ゴッホ・ボンゲル編 硲伊之助訳 岩波文庫)

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サーカスの女の子

     サーカス
(承前)
 「とても とても サーカスなフロラ」(ジャック・センダック文 モーリス・センダック絵 江國香織訳 集英社)

 モーリス・センダック最後の作品「わたしの兄の本」と同時期に未邦訳だった「Circus Girl」もでました。

 サーカス生まれサーカス育ちのとてもとてもサーカスな女の子フロラが、ある日「外の人たちってどういうふうなの?」と不安な気持ちを抱きます。そこで、フロラは、サーカスの外に出ていき、見たもの、感じたものは・・・というお話です。
 お話は、画家のモーリス・センダックのお兄さんのジャックが書いたもので、絵はモーリス・センダックで1957年共作。

 たくさんの挿絵はついているものの絵本ではなく、お話が楽しめるのは、小学校以上の子どもたちかと思います。

  センダックの描く絵で、特に好きなのは、夜や薄暗がりのシーンです。そこに居る人物(動物のこともあるけれど)の背中が物語っているように見え、夜のしんとした音が聞こえそうだからです。
 この「とてもとてもサーカスなフロラ」も(上の写真の下半分)も、「うさぎさんてつだってほしいの」(シャーロット・ゾロトウ文 こだまともこ訳 冨山房)(上の写真の上半分)も、「ケニーのまど」(じんぐうてるお訳 冨山房)「つきよのこどもたち」(ジャニス・メイ・アドレー 岸田衿子訳 講談社){ムーン・ジャンパー」(谷川俊太郎訳 偕成社)「シャーロットの白い馬」(こだまともこ訳 冨山房)「ふふふん へへへん ぽん!-きっといいこと きっとあるー」(モーリス・センダック作 じんぐうてるお訳 冨山房)➡➡などなども。

 そして、背中を向けたシーンではありませんが、、明るい調子の「かいじゅうたちのいるところ」(神宮輝夫訳 冨山房)。あの深い夜の色合いは、他の絵本には見られないもので、やっぱり、センダックの描く「夜」は、いいですね。

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センダック最後の本

センダックj
「わたしの兄の本」(モーリス・センダック 柴田元幸訳 集英社)
 
 2012年に亡くなったセンダックの最後の作品と言われるこの「わたしの兄の本」が昨秋、邦訳出版されました。
 ウィリアム・ブレイクとイメージが似ています。
 シャガールの影響も見えます。
 この話は、シェイクスピア「冬物語」を下敷きにしています。
 子どもの絵本ではありません。 

 二人の青年、ガイとジャックの物語です。
 が、しかし、兄のジャックは1995年に亡くなっていますから、この本が、仲の良かった兄ジャックへの直接的なオマージュというものではないかもしれません。もしかしたら、50年パートナーであったEugene Glynnが2007年に亡くなっていますから、その彼へのオマージュと考える方が近いのだと思います。
 そして、「わたしの兄の本」について生前センダックは、ニューヨークタイムスのインタビューに答えて「哀しい謎解きは、自分にとって最善のものだ」という言葉を発しています。つまり、二人の絆を深く考えることが、敬意を示すことにつながる・・・・(続く)

☆写真左は、「わたしの兄の本」最初のところ
≪荒涼たる真冬の夜に
新星ひとつ!ーー燃え立つ光!
水晶のまばゆさ!ーー月を隠し、
空を焦がし、
ガツン!ーー鉄の大地をまっぷたつに裂き、≫の挿絵

☆写真右はモーリスが描いた兄ジャックの絵(「センダックの世界」(岩波)掲載)

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