FC2ブログ
 

みんなみすべくきたすべく

子どもの本でちょっとお散歩(川 その12)

106ボストン池j
 
「かもさんおとおり」
(マックロスキー 渡辺茂男訳 福音館)

ボストン、チャールズ川の水辺のしげみのなかに気持ちのよい場所を見つけて巣を作ったのは、マラードさんご夫婦でした。
これまでも、「かもさんおとおり」の楽しさは、いろんなところで書いたり話したりしてきましたが、この絵本を初めて読んだ時から、40年たっても、いつも新鮮な気持ちで楽しめる1冊です。
末っ子のクワックが、いつも遅れて、気になる存在であるのは、相変わらずです。
実は、お母さんも、けっこう、注目なのです。
街を自慢げに歩いている時以外、一列に並んで歩いていたり、泳いだりするときのお母さんの目線は、常に、ちらりと後ろに流し眼です。やさしい視線の先には、子どもたち。お母さんの歩き方も、子どもたちのよちよち歩きとは違います。爪先から歩く、エレガントさ。
そして、「よるになると」と最後のページにあります。それまでと同じモノトーンの絵ながら、夜の帳を降ろした様子がよくわかります。橋の上につくガス灯のほんのりした明るさまで伝わってきます。

作者のマックロスキーは、実際にカモを飼い、つぶさに観察し、この絵本を作りました。ボストンの街や川や公園の池もずいぶんスケッチしたのでしょう。多分、街角の本屋さんもチャールズ通りの鍵屋さんも、そのままあったのでしょう。それで、もしかしたら、今もそこに見つけ出すことができるかもしれません。というのは、今回の池の写真でも、絵本が描かれた頃(1941年出版)と、大きく変わらない風景の写真が撮れているからです。この写真は、&Co.T1が2009年にボストンで撮ったものですが、池の大体どこに立って写真を撮ったか、絵本を見たらわかりそうです。マラードさん達の子孫も、うまい具合に写真におさまっています。

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩 (川その11)

101テムズ屋敷j
「ハヤ号セイ川をいく」
(フィリッパ・ピアス文 足沢良子訳 E.アーディゾーニ絵 講談社)

フィリッパ・ピアスの「ハヤ号セイ川をいく」に、こんな表現があります。
「・・・グレート=バーリーの家々が、見え始めた。いくつかの庭は、川に直接、面していて、川岸には、アイリスやつるばらがうえられているのだろう。たいてい、草はかりこんであり、あるところでは、しばふの一隅に、デッキ=チェアが一つ置いてあって、そのわきには、本が一冊、ひっくり返しに落ちていたりした。・・・」
このたった150文字程の文章で、イギリスの郊外の暮らしが伝わってきます。

  まず、「庭が、川に直接面していて・・」
家の裏庭の向こうが、「川」なんて、流れの急な日本じゃなかなかなか考えられませんが、日頃はどっちに流れているのかよくわからないようなイギリスの川では、よく見かける風景です。庶民の家でも、邸宅でも、家の裏が川に面しているなんて!邸宅だと艇庫があって、中にボートがつながれている。「アマゾン号とツバメ号」*のナンシーたちのおうちがそうでした。

 次に、「アイリスやつるばらが植えられて・・・」
そりゃ、イギリスと言えば、バラ、なのですが、アイリスも???確かに、美しく咲くアイリス。日本のアヤメ属が優美なイメージなら、イギリスのそれは、ずいぶん派手な色合いが多いような気がします。「グリーン・ノウシリーズ」*の作者ルーシー・ボストンは、作家だけでなく、バラの育苗家であり、パッチワークの達人でありするだけでなく、アイリスのコレクションでも、賞を受けたと、紹介されています。イギリスで庭作りに力を入れる人には、バラとアイリスが必須なのかもしれません。

 で、「草は刈りこんであり・・・」
そうなのです。芝刈りはお父さんの仕事なのです。以前、コッツウォルズのB&Bで泊った時、その宿の奥さんが「ごめんなさいね。朝から芝刈りしていて、うるさかったでしょう?」庭を見やると、お父さんが、芝刈り機で行ったり来たり・・・他の村の散歩をしていても、必ず、どこか、お父さん(おじいさん)が、行ったり来たり。日本の都市部の住宅地で、日曜は朝から、車を洗っているお父さんを見かけますが、同じ顔をしています。

 それから、「しばふの一隅に、デッキ=チェアが一つ置いてあって・・・」
空間があると、つい椅子や座る場所を確保したくなるのが、人間の習性なのでしょう。「よっこらしょ・・・」ところが、日本の戸外は、夏は炎天下、冬は底冷え、雨も多く虫も多い・・・ということで、多くの家庭では、なかなか戸外にデッキ=チェアというわけには行きません。

  最後に「・・・そのわきには、本が一冊、ひっくり返しに落ちていたりした。」
この文から、わかるのは、ついさっきまで、誰かが本を落としたのにも気づかず、デッキ=チェアで寝ていて、なにかの拍子で、目が覚め、慌てて室内に入った・・・光景でしょうか。それとも、すごくお行儀の悪い、さほど本好きではない住民が居るってことでしょうか。さては、謎解き、推理サスペンス風に進んでいくこの「ハヤ号セイ川をいく」ならではの表現でしょうか。

  こうやって、ありふれた日常をリアルに切り取ることによって、非日常の謎解きに迫っていくのだと思います。
面白くない推理小説か、面白いそれかは、電子辞書で単語をひくのと、分厚い辞書で余分なところまで見ながら単語をひく関係と、似ているような気がします。早く単語の意味が知りたい、つまり早く謎が解きたいものの、謎解きに直結しないように見える描写に、想像する楽しみを見出し、ページを繰って行く。

*「アマゾン号とツバメ号」シリーズ(アーサー・ランサム作 岩田欣三・神宮輝夫訳 岩波書店)
*「グリーン・ノウ」シリーズ(ルーシー・ボストン文 亀井俊介訳 ピーター・ボストン絵  評論社)

☆写真は、英国ヘンリー・オン・テムズのテムズ川に面した邸宅。

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩(川 その10)

キューピッドとプシケーj
「キューピッドとプシケー」  
(ウォルター・ペーター文 エロール・ル・カイン絵 柴鉄也訳 ほるぷ)

 世にも美しいプシケーと彼女を愛するキューピッド、プシケーの美しさに嫉妬し、プシケーを追い詰めていく、キューピッドの母ヴィーナス。ギリシャ神話から続く、嫁姑問題とも言える話に、ル・カインの世紀末風妖しい曲線美が、魅力的な絵本です。あえて、モノクロの画面で、その情念の世界を表していると思います。デンマーク出身の画家、カイ・ニールセンや、英国の世紀末、夭折の画家オ―ブリー・ビアズリーを思い出させる画面です。

 「プシケーは大地に倒れたまま、夫の飛び去る姿を見送り、嘆き悲しみました。そして、夫の姿がまったく見えなくなると、そばを流れていた川へ身を投げました。でも、川の流れはキューピッドのためにプシケーを傷つけることなく川岸へ優しく運び返したのです。」
 ・・・ラッキー!な命拾いをするプシケーですが、今度は、愛するキューピッドの姑のヴィーナスの無理難題から、逃れようと、また川の深みに身を投げようと考えます。・・・ところが、「身投げなんかしてこの川をよごしたりしないでくださいね。」と、川のアシに注意されるのです。そして、また難題。「あのけわしい山の頂が見えますね。あそこから流れ出る暗い川は黄泉の国をうるおし、やがては三途の川であるコキュタス川に合流します。さあ、行ってこの小さな壺にその源流をくんでらっしゃい。」・・・・ところが、岩の上に立ち、困り果てたプシケーには、またもや助っ人が・・・・
  とまあ、見てはいけないことを2回も見てしまうし、かなりの意思の弱さの持ち主のプシケーながら、美しいということは、やっぱり、生まれつき、「持っている」のかなぁ・・・

 最後は、ハッピーエンドです。「四季の神々が部屋をバラで飾ります。琴にあわせてアポロが歌を歌い、パンがアシ笛をかなでます。おや、ヴィーナスが美しい音楽にあわせて、かろやかに踊っています。こうして、りっぱな結婚式をしてもらい、プシケーはキューピッドの妻となりました。そして、このふたりから「喜び」という名前の娘が生まれました。」

☆写真は、パリ ルーブル美術館。キューピッドとプシケー像。

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩(川 その9)

86白雪j85カージナルjj
「小さいお嬢さまのバラ」
(ファージョン 石井桃子訳 アーディゾーニ絵 岩波)

 これまで「古本 海ねこ」でも、エリナー・ファージョンの作品は、何度か紹介してきましたが、「ムギと王さま」に入っているこの「小さいお嬢さまのバラ」も可愛いお話です。「・・・丘は高く、谷間はひくかったので、丘にのぼっていく人も、谷をくだっていく人も、めったにありませんでした。ただ、上にあるお屋敷と谷間の村のあいだを流れている銀色の川だけがその二つを結びつけているように見えました。・・・」
 お屋敷に住むお嬢さまと村の元気な子どもを結びつけたのが、川であり、そこを流れたバラでした。携帯電話もなく、メールもなく、糸電話もなく、通信手段を持たない子どもが、遊び相手を探す手段が、バラを流すことだったのはとても楽しいアイディアです。「だれもあそぶ人がいないなんて、どんなにつまらないことか、あなたたちにはわからないわ。」と、友だちとつながる川に白いバラや赤いバラ、ときにはスカートに一ぱいくらいのバラをうかべ、「友だちをつれてきてほしい」と小さいお嬢さまは願いました。

 昔、3歳の長男が幼稚園に入ったのは男女半々の14-5人の小さなクラスでした。お迎えに行くといつも機嫌よく今日あったことを話してくれます。が、みていると、他の子たちは、家に直接帰らずに他の子の家に直行したり、後で遊ぼうと約束したりしています。
園の生活にずいぶん慣れてきても、彼は約束しないで一目散に母のもとにやってきました。そこで、母は「なんで、約束して遊びに行かないの?」と問いました。彼は「ん?」という顔つきです。そのうち、楽しそうに降園する他の子たちに比べ、うちの子が仲間外れになっているのかと思いだす始末・・・が、落ちついて考えてみると、他の男の子たちは、偶然にも二男か上に姉の居る子たちばかりで、約束して遊ぶという手段を知っているのじゃないかと思い当ったのです。うちの長男は、アポの取り方を知らない。そのうち、よくわかった子が「Tちゃんとこ行ってもいいか?」といい出しはじめました。よその子がうちに来るようになったものの、自分から行くと約束を取り付けるのは、そのずっと後のことでしたし、少なくとも幼稚園の間は、ほとんどなかったと思います。
 当時の長男は、園でニコニコとみんなの遊んでいるのを見て、帰宅後、見てきたことをマネしながら遊ぶのが、好きでした。大人にも、たくさんの人と群れているのが好きな人、一人でいるのが好きな人、色々な時の過ごし方や遊び方があるのは理解していたのに、子どもなら、友だちは多く、いつも誰かと遊ぶのがいいことだと、思い込んでいた母だったのです。

☆写真、白バラは、「白雪」という品種のバラで、先日から、時々写真に写っています。引っ越しのとき、挿し木にして持ってきたのですが、それが大きく育ち、まだまだ咲いてくれそうで嬉しいです。赤バラは、以前住んでいた家の庭で撮影したカーディナル・・・今頃、どうなっているかなぁ・・・

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩(川 その8)

67ロンドンアイからj
「テムズ川は見ていた」
(レオン・ガーフィールド作 斉藤健一訳 徳間書店)

 ときは、ロンドンビクトリア時代、煙突掃除の男の子が、偶然、事件に巻き込まれ、銀のスプーンと金のロケットをつかんで逃げたところから、話が進んでいきます。テムズ川を生活の拠点にする人たちと男の子、国家に関係するもっと大きな組織、秘密警察。子どもの本として書かれていますが、現代の とある国の話題先行のサスペンスや映像化を意識した小品より、よっぽど面白い。

 ところで、図書館で何カ月か待って、大人のベストセラーものを読むことがあります。その中の、もう題名も忘れた一冊に「こりゃ、いい加減なこと書いている」と思った話題作があります。事件のキーマンの声を、何年か後、電話で聞いているのに、その人とつなげようとしていない。声変わりとか、声色を使うなどという小細工もなく、ただ、時が経っていたので、結びつけず、あっさり流していました。その声の主がわかっていたら、そんな事件も起こっていなかったかもしれないと気になって、その本が一層つまらないものに。
 声の印象というのは、結構、記憶に残るものです。電話することさえ少なくなった最近でも、何かのコールセンターに電話したら、「あ、この人、前も出た」などと思うこともあり、会ったことがなくても、声や喋り方の特徴を覚えている気がします。また、何年か前、指名手配の女の声をメディアで流し、情報を集めたとき、顔は整形していたようですが、声や口調は変わっていなかったので、時効寸前で御用となったことがありました。

 閑話休題、「テムズ川は見ていた」です。
 煙突掃除の男の子、バーナクルは、煙突の中で、下の部屋の密談を盗み聞きします。なんの話かわからないものの、その人たちの声の違いを聞きわけるようになります。
「まるでつるつるした骨のようで、か細い声」「脂ぎったはらわたみたいにぶるぶる震える声」「ひとこと言うたびに笑うくせのある、女の人の声」「・・・そして、4番目の声には、何と言ったらいいか、独特の特徴があった。その声には、あたりの空気を切り裂くナイフのような刃のような鋭さがあった。しんとした中でも血も流さずに切り裂くような鋭さが。」
 この聞きわけた声の主たちが結局、キーマンとして、特に4番目の声の主が、大きな役割を演じていくわけです。
 面白い小説は、細かいことの積み重ねが、読者のわくわく感を高めます。結末がわかっていても、再読して面白いのは、この小さな描写の新しい発見を楽しんでいるのかもしれません。それに、「テムズ川は見ていた」は子どもの本だけに、最後はハッピーエンドです。よかったね、バーナクル。

☆写真は、2012年ロンドンオリンピック一年前に、ロンドンアイからテムズとビッグベンを見下ろし撮影。“厳しいセキュリティチェックの末、民族も年齢も入り混じった数十分の空の散歩はおもしろかったですよ。”(撮影とコメント&Co.I)

** 海ねこエッセイ「T」テムズの項(8月20日)

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩(川 その7)

 52ベルンアーレ川j
 「ラインの黄金―ニーベルンゲンの指環」 
(リヒャルト・ワーグナー作 寺山修司訳 アーサー・ラッカム絵 新書館)
ライン河の水面に青い水輪をゆらめかせながら、髪の長い少女ヴォークリンデが泳いでいる。
『この世の果ての揺り籠へ 
流れてお行き、ちぎれ雲
流れてお行き、水すまし』
歌う声はいつの間にか小鳥の囀りにかわり、峡谷(たに)から峡谷(たに)へとこだまする。

 ワーグナーの楽劇「ニーベルンゲンの指環」(4部作)の第一話が、この「ラインの黄金」です。北欧神話やローレライ伝説などのドイツ伝説をもとに作られ、一つの指環をめぐって繰り広げられるこの物語は、寺山修司の訳で臨場感溢れ、オペラの鑑賞とは縁遠い者にも、その面白さが伝わります。オペラの実際は、素晴らしいのでしょうねぇ。全部楽しむには、4夜15時間かかるらしい・・・
 そして、この新書館の「ラインの黄金―ニーベルンゲンの指環」の魅力は、もちろん、アーサー・ラッカムの挿絵!不思議で妖しい世界に近づくことができます。アーサー・ラッカムの描く髭のアルベリッヒは、「黄金の川の王さま」*でリチャード・ドイル描く黄金の王さまにちょっと似ています。かたや、黄金を盗み出し、かたや黄金を生み出すという違いがあるものの、妖しい世界に生きる向こうの世界の人という点では一致しています。もちろん、キーワードは「川」。

*「黄金の川の王さま」(ジョン・ラスキン文 リチャード・ドイル他絵 富岡太佳夫・芳子編 青土社)

☆写真は、スイスの首都ベルンを流れるアーレ川。ライン河にそそぐ支流の一つだそう。ドイツに行ったことがないので、ラインの写真のデータがありません。が、検索していたら、ん?ライン河はスイスから流れ込んでいる?もしかしたら?と調べると、アーレ川という川が、スイス中部を源としベルンを流れ、北上。結果、ライン河にそそぐということがわかったのです。で、ベルン(Bern)の語源ともなった熊(Bär)の像のあるアーレ川の写真です。

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩(川 その6)

13屋久島j
 「川はながれる」 
(アン ランド文 掛川 恭子訳 フョードル・ロジャンコフスキー絵 岩波書店)
 最初に「川はどんなふうに、どこにながれていくのか しりたいと思っている 子どもたちみんなに」と、書かれています。原題はThe Little River
 遠い北の森で、雪がとけ、氷がとけて小さな川が生まれるところから始まります。
初めは、くねくね きらきら 青いヘビのようにはいまわり、森の動物たちを喜ばせます。そして、元気いっぱい流れはじめ「どこに行けばいいんだろう」「川はどこかにむかって、ながれていくものなんだ。でも、それがどこだか わからない」
・・・・で、いろんなところに流れていきいろんな動物や人に出会い、挫折したり、楽しかったり、迷ったりしながらも、「一人前の川なら、海を見つけなくてはならない」と、理解します。
 ところが、実際に海にでても、新米の川は、まだ、悩みます。「あんなに いっぱい水がある。ぼくは いったい どうなってしまうのだろう」  でも、カモメの言葉で、やっと自分がわかるのでした。
 そうなのです。「川はどんなふうに、どこにながれていくのか しりたいと思っている 子どもたちみんなに」という最初の言葉は、「川」と言う言葉を「人生」とか「生きる」という言葉にも置きかえられるのです。この本を読んだ子どもたちは、そんなこと決して置き替えたりしません。川の流れが知りたいのですから、きれいな絵を見て、川の流れを楽しみます。動物たちが集まってるよ。へぇ、川も迷ったりするんだ。こんなところに流れていくんだ。そうか、おもしろそうだなぁ・・・
 シンプルな言葉で、きれいな絵*で、人生を語る1冊に出会える喜びは、絵本の大きな愉しみです。難解な言葉だけが、重要ではないと思います。平易な言葉の中にある大切なもの。子ども心を失わず、しかも、経験を積み、大人の姿勢を持つ大人によって生み出された優れた絵本や児童文学は、本当に奥が深い。
 子育てをするといいながら、絵本をたくさん読み、楽しんできたのは母親の私でした。絵本の中で教えてもらった数々のこと。それなのに、ちっとも成長しなかった母親でした。
 「ちいさい川にも やっとわかった、これまで旅してきたところ どこにでも、自分が居るということが―――」
 そうですね、これまで生きてきたところ、どこにでも自分が居るのです。一瞬一瞬、自分が居たのですね。これからも。

*翻訳されて岩波子どもの本として出版されているものより、原書はもう少し大判で、自然の流れのおおらかさが伝わり、紙質からも印刷からも、温かいものが感じられます。
☆写真は、屋久島(撮影:&Co.A)

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩(川 その5)

            40桃j
「ももたろう」 (松居直文 赤羽末吉絵 福音館書店)
「むかし、あるところに、おじいさんあとおばあさんがすんでいました。おじいさんは山へ しばかりに、おばあさんは川へ せんたくに ゆきました。あるひ、おばあさんが川で せんたくをしていると、かわかみから、ももが つんぶく かんぶく つんぶく かんぶくと ながれてきました。おばあさんが ひろってたべてみると、なんともかとも おいしい ももでした。・・・」 

 日本の「川」の話で、一番に思いだすのが、昔話「ももたろう」です。
 なにを隠そう。私は、「桃」が好きです。白桃も黄金桃も、スモモの類も。種が大きくまん中にあって、外に甘い(あるいは、甘酸っぱい)果肉の付いているフレッシュな果実。梅干しという、もはや果物から距離を置く、夏場の友、整腸の友も好みです。
 ただ、うぶ毛が生え、優しく扱わないといけない繊細な乙女の白桃らは、実は美しく食べるのが難しい。誰かに皮をむいてもらって、食べやすい大きさにしてもらって食すのは上品とはいえ、あのおいしい果汁の滴りは、いったいどうなる?嗚呼。それに誰が種のまわりの果肉を食べる?
 確かに、皮をしゅるしゅるとむいて、大きなお皿の上、もしくは、果汁がぽとぽと落ちても構わない流しのところで、ガブリといくのは、桃を愛する者の食べ方です。ただ、エレガントとは程遠い。それに、桃は、冷蔵庫で冷やしすぎると、おいしくないし、とはいえ、室温が髙すぎるようなところに置いたままだと、ぬるい。むいたら、すぐ食べないと変色するし・・・ともかく扱いの難しい果物の中でも筆頭なのが桃なのです。
 しかも、おいしい桃を店頭で見つけるのは、難しい。結構な値段で購入したのに、「皮がすっとむけない!」「実がじゃりっと、硬い!」といった経験は、数知れず。選びたいにも、触っちゃいけないし、よく見たくても薄い紙で覆われて・・・・

 が、しかし、もし、「川」から、桃がうまい具合に流れてきたなら、冷え具合も食べ頃だろうし、川に張り出した枝から落ちたなら熟して食べ頃だろうし、まさか、食べ頃を誰かが冷やしていたのが流れてきたとしても、やっぱり食べ頃だろうけれど、現在、実際の川から流れてきたのは、いくら「桃」好きでも食べない・・・・桃の品質の問題じゃなく、川の水質。やっぱり、「ももたろう」は昔話でした。とっぴんぱらりのぷう。
☆写真は、京都御所外苑 桃の花

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩(川その3)

28ウィンダミア渡しj
 「金の毛が三本ある鬼」
(グリムの昔話 大塚勇三訳 フェリクス・ホフマン絵 福音館書店)
 お話の細部は思い出せなくても、強烈な印象を残す場面や言葉が、心のどこかに残っていて、あれって、どんな話だった?と、気にかかることがあります。昔話にも、そんな話がいくつか。
 その中の一つに、「川」の渡し守が、年中行ったり来たりして、いつまでも交替してもらえないのは、どうしてか?という謎を解く話があります。「いつまでも交替してもらえないなら、次に来る人に竿を握らせてしまいなさい」という、わかりやすい答え。単純すぎて、なんか理不尽。「いつまで、やるん?」
 そもそも、人食い鬼がキーマンなのですが、鬼退治の話でなく、間抜けな役回りの鬼さんです。
重要なのは、3つの謎解き。ところが、その竿の交替の謎は思いだすのに、他の2つは、ええっと、何?印象が薄い。また、無理難題をふっかけるのは、王さまでその報いを受けるのも王さまですが、お話の初めはどんなだった?・・・・それなのに、次に来る人に竿を握らせるという明快な答えは、時として、頭の中で、ぐるぐるぐる。
 しがらみも、経験も、失敗も、みーんな、無責任に「はい、交替。」と、リセットしたいことがある身だからこそ、特に、この「竿の交替」場面が、願望となって深く心に残るのかもしれません。

 ☆写真は、英国湖水地方ウィンダミア湖の渡し船。このウィンダミアフェリーの説明文によると、創業500年以上で、初めは手こぎ、蒸気、今はディーゼルエンジン。竿の渡しとは書いてありませんでした。写真中央湖面にロープのようなものが写っているように、ケーブルが船の左右に張られていて、ケーブルフェリーというらしいです。詳しい仕組みは、わかりませんが、ケーブルカーみたいなもの?
 もちろん、向こう岸に、鬼も居ず、無理難題もふっかけられず、「いいとこやねぇ」と、大満足しました。されど、湖水地方、ピーター・ラビットとアーサー・ランサムの世界に行ったのは、もはや20年も前。したがって、この写真は、昨年行かれた方(&Co.I)のデータを、いただきました。 「ニア・ソーリーよ さようなら~」という一枚です。

PageTop

子どもの本でちょっとお散歩(川 その2)

15柳まだj
14柳緑j

  「たのしい川べ」  
                                                             (ケネス・グレーアム作 石井桃子訳 アーネスト・シェパード絵 岩波書店)
 「たのしい川べ」の原題は、「柳に吹く風」(the Wind in the Willows)です。題名に「川」が、あるわけではありませんが、「たのしい川べ」という石井桃子訳は、日本人には、原題より、なじみやすいと思います。

 やっぱり、春のお天気のいい日は、この「たのしい川べ」の第1章。
「生きるよろこびと、大そうじ抜きの春を味わううれしさに、モグラは、四つ足をいちどきに空中にはねあげながら・・・」
 子どもは、嬉しいとき、スキップしたり、小走りしたり、にこにこしたり、ともかく、身体から、喜びがにじみ出て、時に意味不明の行動をとります。私自身が、スキップしなくなって、何年経つでしょう?喜びも嬉しさも、その年齢なりに感じておりますが、全身で、喜びを表していたあの頃が、やはり懐かしい。それでも、花の香り、小鳥のさえずり、空の青さ、コートを脱いだ解放感・・・春が来るのは、嬉しいものです。今年のような、いつまでも肌寒い年は、なおのこと。
 
「川はおいかけたり、くすくす笑ったり、ゴブリ、音をたてて、なにかをつかむかとおもえば、声高く笑ってそれを手ばなし、またすぐほかのあそび相手にとびかかっていったりしました。すると、相手のほうでも、川の手をすりぬけてにげだしておきながら、またまたつかまったりするのです。川全体が、動いて、ふるえて―――きらめき、光り、かがやき、ざわめき、うずまき、ささやき、あわだっていました。」
 生まれてからまだ一度も川を見たことがなかったモグラの眼を借りて、今まで、作者グレーアムが、ずっと、じっと見続けてきた川を、こんなに生き生きと表現しました。また、物語全体に目を転じても、川の流れや動きのような構成で展開していると思います。ゆっくり流れたり、あちこち迷ったり、大騒ぎがあったり、静まったり・・・

 それにしても柳の芽吹きは、日本でも、英国でも、一気です。上の写真の中央向こう岸に芽吹いていない柳が写っていますが、下の写真左方では、初々しい若緑が写っています。この2枚は、5月上旬、テムズ川沿いマーローでたった2日の間に撮ったものです。ここから、グレーアムの住んだクッカム・ディーンは、近くです。なお、「古本 海ねこ」さんのクリスマス・アドベント・エッセイ(12月14日)にも「たのしい川べ」のことを書いています。

PageTop