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みんなみすべくきたすべく

狭い世界

大山崎1
(承前)
 かつて、おばさんになってから大学院に籍を置いたのは、教育系博士前期課程です。(博士後期課程は中退しました。)
 教育学部出身のカ・リ・リ・ロの指導教授は、女性の小児科医でした。当初、彼女の指導と、カ・リ・リ・ロ自身のそれまでの知識・経験は、なかなか、近づくことができませんでした。とはいえ、違う畑の人の考えを受け入れていく(偉そうに、失礼!)過程を経ると、違った視点が見えてきました。

 学問は、専門を究めることも確かに大切ながら、ちょっと離れて、違う角度から見、広い視野で、考えることは必要かと思います。しかも、人間の土台である、子どもの教育を考える重要性は、誰にでもわかることだと考えます。
 が、いまでも、なかなか、専門領域の敷居は高いものがあるのではないかと思います。
 
・・・等と考えてきたのですが、先の「古代の朱」➡➡ ➡➡ の著者は、文中、何度か、頭の固い学者を非難している(と思われる)箇所があり、著者自身は、文学という畑から、地質学という畑との共同研究という形になっていくのです。そこで、見えてきたものも多い古代の研究だったと思います。論文ではなく、一般に読みやすく書かれた単行本(文庫本)という形ではありましたが、垣根を越えて見えてくるものへの熱意を感じました。

 それは、最近読んだ文庫本「自閉症は津軽弁を話さない」(松本敏治著 角川ソフィア文庫)でも、感じることでした。
 これは、夫婦ともに、臨床発達心理士でありながら、夫(著者)は学究、妻が現場というそれぞれの立場でした。

 子どものこと、人間のことを考える研究は、机上の論理だけでは成り立つはずもなく、現場という時空が、必須だと思います。現場のデータ集めという意味でなく、その場の空気で読みとり、受け取るもの、それが、重要だということです。それは、今でいうオンライン授業と対面授業という関係に、少し似ている側面があるような気がします。

 ともかくも、著者のこの研究の発端は、現場をよく知る奥さんとの意見の相違から始まり、探求する流れ、そして、奥さんに完敗という結末です。
 津軽弁が相当、共通語と異なるようですが(聞いたことがありません)、共通語を話す社会であれば、気づかなかったかもしれない大事な視点が、この本には書かれています。 この本も、学術的な論文とは違い、広く一般向けに書かれていて、子どものコミュニケーションで悩む人のみならず、コミュニケーションとはどういうことなのか?を考える一つのきっかけともなります。
 現場をないがしろにし、本だけの学問を推進する学者には、知ってほしい現場の声でした。
 

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