FC2ブログ
 

みんなみすべくきたすべく

裁判資料

ステンドグラス兵士j
 (承前)
 「ドリアン・グレイの肖像」の前半は、かつてジイドの 「一粒の麥(むぎ)もし死なずば 上下」(アンドレ・ジイド 堀口大學譯 新潮文庫)」で感じたような、奥歯にものの挟まったような書き出しのように思えます。後半は、ドリアン・グレイ自らが考え行動し始めるので、話が生き生きしてきます。ただ、奈落の底にまっしぐら。

 ドリアン・グレイは言います。「ぼくは幸福を求めたことなどありません。幸福を追い求める人間などあるでしょうか?ぼくがもとめてきたものは快楽です」
  そうなのです。この作品に一貫して流れているのは、自分勝手な快楽主義です。人を追い詰め、また、罪を犯してまで、自己保身を画策し続け、切り抜けたかのように見えるドリアン・グレイ。そして、追い詰められたその末路。

 ワイルドの描いた虚構の世界「ドリアン・グレイの肖像」は、そののち、現実の世界の裁判に資料となって使われます。「ドリアン・グレイの肖像」が不道徳で卑猥な書物だという主張でした。また、実際のラブレターという証拠も、文学作品としてフランス語訳で雑誌に掲載するという周到さをもって臨みます。その結果、法廷では、文学解釈の応酬になり、裁判の決め手にはならなかったようです。
 今となっては、オブラートに包んだような表現すら、当時の倫理観とかけ離れ、証拠資料となったということです。

 この裁判でワイルドの弁論は、後世に残る名演説であったとか。
 ≪年長のものが年若いものへ抱く崇高なる愛情は、かつては(旧約聖書)ダヴィデとヨナタンを惹きよせ、プラトンが彼の哲学の礎とし、ミケランジェロやシェイクスピアのソネットのなかで謳われるのと同じ愛≫だといい、≪それはたいそう深い精神的な愛であり、完璧にして、かつ純粋なもの≫だといいます。そして、≪この愛は、シェイクスピアやミケランジェロに見られるような偉大な芸術作品を生み出し、そのすみずみに行き渡るものの、今世紀になってからというもの、その愛は誤って理解されている。≫と主張します。そして、≪この愛情にに「自然に背くもの」など何一つありはしない。きわめて知的な愛情であり、年長者と少年との間に常に存在していた。≫と言います。≪知性あふれた年長者と、喜びと希望、そしてこれから花開こうとする人生の輝きのすべてを持つ若者と、そんな二人がいるところにこの愛情はいつだって生じるのです。いや、あってしかるべきなのに、世間は理解しようとしない。この愛情を世間は嘲り、時にこの愛ゆえに人をこうして晒し者にさえするのです。≫(「オスカー・ワイルド〈犯罪者〉にして芸術家」より)

 「正論」とはいえ、ワイルドのそれまでの言動、あるいは、出獄後の言動を知ると、これは「詭弁」じゃないかと思うのです。(続く)

*「ドリアン・グレイの肖像」(オスカー・ワイルド 福田恒存訳 新潮文庫)
*「オスカー・ワイルド〈犯罪者〉にして芸術家」 宮崎かすみ著 中公新書)
☆写真は、英国 ケンブリッジ

PageTop