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応仁の乱

茶屋j
 京都の人が、先(この前)の戦いというと、応仁の乱のことを指すらしいと、京都以外の者は、半ば冷やかし気味に言います。実際、第二次世界大戦では、大きなダメージを受けていない、平安遷都以来の街だから、半ば自慢げに半ば誇張気味に言うんだろうと。

 が、先日の日経(2015年4月14日夕刊)を読んで、本当に、「応仁の乱」が、この前の戦いやったんや・・・

 記事は「京都の『碁盤の目』多くは短冊形?」≪秀吉が都市改造 空き地有効活用 ≫などという見出しでした。
 京都市内中央部は今も碁盤の目のようになっていて、そこから外れると、京都やおへん、と言う京都人(もちろん、宇治や山科、伏見などは、京都やおへん)。

 で、その碁盤の目のような区画が実際には正方形ではなく、細長い短冊形になっている場所も多いようです。これは、豊臣秀吉が、それまでの一辺120メートルの正方形の街並みの、通りに面していない中央部の有効活用として、正方形を縦に分割する道を敷いたのが、その理由。
 とはいえ、今も正方形の区画が三条通より南に残っているのは、1467年~1477年という長きにわたる「応仁の乱」で街が荒廃したものの、三条通以南の被害は少なく、復興も早かったとのこと。ふーむ。で、室町後期にはかなりの繁華街になり、戦国末期には烏丸三条は全国の米が集まる流通センターだったそうな。他にも、当時の繁栄ぶりのわかる地名が現存するくらい、繁栄した街を、道路で分割するわけにもいかず、今に至る。ということらしい。ふむ、ふむ。
 また、正方形の街区が多い場所と祇園祭りの関係も記事では指摘。祇園祭の鉾がある、つまり経済力のある場所は、正方形のままだというのです。経済力の強い町民が後ろに居るということで、ここにも、応仁の乱で一時中断された祇園祭という記述がありました。
 ああ、やっぱり、応仁の乱。

 記事では、秀吉の街作りについて、バランス感覚の優れた賢い政治家だったと締めくくっています。
 そういえば、先日書いた「北野をどり」の上七軒のお茶屋のときにも秀吉が登場しました。上七軒、北野などというのは、堀川通や御池通のずっーと北西。この辺りに秀吉は、京都外周として土塁、御土居(おどい)なども築いたようです。そして、その紅葉はみごとらしいので、秋になったら、行ってみよう。
☆写真は、創業明治30年(1897年)という、たった百二十年ほどの豆腐屋さんのお食事処看板。生湯葉美味しい!!

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