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みんなみすべくきたすべく

斑鳩の里

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(承前)
 斑鳩三塔の法起寺➡➡、法輪寺➡➡、そして法隆寺と歩くのですが、その途中は、田や畑、柿やイチジクの木。ときどき、コスモス・・・
 農家の前では、うっそー!みたいな値段の黒豆枝豆や、てんこ盛りのイチジク、柿、ミカン・・・もっと、本気で買い物できる袋を持っていけばよかった。
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 町で育った者には、稲刈り後ですら、美しく、モミガラ焼きも珍しい。
 おお、タニシもいました。
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 こちらは、伝山背大兄王の墓所と言われる丘陵方向。山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、聖徳太子の皇子で、法起寺・法輪寺を建てたと言われています。
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 さて、斑鳩三塔のもう一つ。こちらは五重塔のある、 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)へと向かいます。(続く)
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斑鳩三塔 法輪寺

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(承前)
 法起寺➡➡から、10分ほど歩くと、法輪寺です。
 創建は、推古30年(622)天智9年(670)の二説、ともかく飛鳥時代。写真の三重塔は、明治時代に解体修理されるも、落雷によって焼失。写真は、その後再建された昭和のもの。

 が、ここには十一体の仏像が一堂に会する講堂↓があります。
 静かなその空間で、飛鳥時代の面長なお顔立ちと平安時代のちょっとふっくらしたお顔立ちを比べるのも楽しいことでした。
 写真禁止でしたが、そのご本尊の薬師如来坐像(*現存する飛鳥時代の木彫如来像としては唯一・最大のものとされる樟(くす)材の一木造)に、コロナ終息を祈り、手を合わせてきました。(続く)

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斑鳩三塔 法起寺

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秋晴れなら、誰でも、どんなカメラでも、綺麗に写って、だれしも、大満足。
青空に、明るい色の花、そして、塔。

ここは、奈良、斑鳩。背景は、法起寺。
聖徳太子建立にかかる七寺の一つ。この三重塔だけが当時の姿そのままのようです。三重塔としては、日本最古。創建706年、世界文化遺産です。
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なだらかな場所に立ち、おだやかな気持ちになる場所です。
下の、収蔵庫のガラスが反射しているものの、木造十一面観音菩薩立像。10世紀後半平安時代のもの。杉の一材でできてて、綺麗なお顔。仏像で見ることができるのは、この一体のみ。(続く)

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見立ての好きな江戸っ子

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 (承前)
「絵で読む 江戸の病と養生」(酒井シズ 講談社)➡➡
 この本は絵が多いので、内容も分かりやすく、また江戸のしゃれっ気も読み取ることもでき、面白かった。
 
江戸時代、日本の医学は、急速に中国医学から西洋医学に接近していきます。
 ≪全身には14経路とその枝が巡り、それぞれが五臓六腑とつながって、全身にくまなく巡ると解釈していた。また、からだは場所によって陰陽が定まり、陰陽は互いに補い、虚実のバランスが崩れれば病になると説明した。こうした身体観を持つ中国では、解剖への関心は低かった。≫とする中国医学の身体観を長く信じてきた日本の医学は、江戸初期、西洋解剖書がオランダ人によって紹介されショックを受けたとありました。
 
 そして、写真の絵なども描かれていきます。この写真は「飲食養生鑑」。
この絵のキャプションには、≪人間の貴人高位でも下賤の身も、また賢くても愚かな者でも、腹の中に備える臓腑は絵のように同じである。便も腹の中にあるうちは汚くない。しかし悪病は飲食の不養生でおこるから、食料を選び、養生して、長命、子孫繁栄を望む。≫

 この写真の絵では見にくいのですが、心臓部分の絵(のどの下 赤い円形部分)には、著者のこんな説明があります。
≪見立ての好きな江戸っ子は体内を社会に見立て、五臓六腑に従って臓腑の説明をしている。心は君主の官で、火に属し、ここから腎、肝、胃、脾、肺に通じる道を出す、万事に通じる大事な所である。心のなかに奉行が座り、頼み事のある町人が平伏している。≫

 また、心臓の右下 水色部分の肝臓と胆嚢の説明には、
≪肝臓と胆嚢は対の臓腑。肝臓は将軍の官で経路を巡らす所であり、すべての食べ物、飲み物はここでこなされる。胆嚢は中正の官で、よく収め、定め、もろもろの身の内のことに決断する。肝っ玉のキモである。肝の中の役人は訴えを聞いて、沈思黙考している。≫

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絵で読む 江戸の病と養生

鍾馗6懐月堂安度
「絵で読む 江戸の病と養生」(酒井シズ 講談社)
(承前) 先に読んだ「病が語る日本史」(酒井シズ 講談社学術文庫)➡➡に比べ、こちらは、江戸に特化し、「絵で読む」のですから、文より絵(写真)が多い1冊です。

  この中の「病を防ぐ」という章には、健康祈願の年中行事、小絵馬に見る願掛け、疫病退散の祭り行事、さまざまな護符などの項目があります。

【【【1月7日は、七草粥。15日は小豆粥。
2月は節分の徐病祈願
3月3日は、ひな祭
4月18日は鎮花祭(はなしずめのまつり)・・・花片が飛散する春には、疫病が四方に疫神が四方に病気を四散して疫病を発生させると信じ、疫神を鎮めるための祭り。(大宝律令)
5月5日は、端午の節句。薬猟(くすりがり)・・・鹿の若角や薬草を摘んだ古代からの風習。日本書紀に初見らしい。
6月は、茅の輪くぐり➡➡
7月は、牛頭天王を、まつる御霊会(ごりょうえ)疫病神を鎮める神…祇園祭の起源でもある。
土用の丑にうなぎは江戸で始まり、京都では下鴨神社の御手洗池の清泉に足をつけて無病息災。
旧暦9月9日は重陽の節句。菊花酒を飲んで邪気払い。
10月は神無月
11月は22日23日は大阪、少彦名神社の神農祭。(医薬の神)
12月は冬至祭。道饗祭(みちあえのまつり)・・・悪霊が都に侵入するのをふせぐために京都の四隅の路上で供物をささげまつった。
大晦日から元旦の京都八坂神社のおけら詣りの火で正月の雑煮を作った。おけらはキク科の植物で、これを炊いて悪疫除けにする。】】】

古くからのしきたり・行事のルーツは、奈良、京都を起源とするものも多く、今も行われてる祭事が多いものの、元の意味を知ってるとは限りません。伝えていかなければならないことは、本当にたくさんある・・・・ただの迷信や、因習と片付けてしまう前に、知らないと、次につながらないと思うけど…(続く)

☆写真は懐月堂安度の「雑画巻」のうち「鍾馗の西瓜割り」。疫病に強い鍾馗が西瓜を切っているのを、小鬼たちが見ているというシーン。鍾馗➡➡や赤(朱)➡➡に意味があったように西瓜にも意味があるのかとちょっと調べてみたのですが、わかりませんでした。西瓜に含まれるカリウムが疲労回復や利尿作用に関係することの意味を持つのでしょうか。
西瓜の原種はアフリカとされ、また、中国から日本に伝わったのは室町時代以降とされ、江戸当時は、珍しかったと言えます。さらに、この絵のように、外側が黒い西瓜は、今でも一部のものであるらしく、さらに珍しかったと言えます。

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赤い鍾馗さん

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(承前)
「病が語る日本史(酒井シズ著 講談社学術文庫)
 先日から、続けて写真に撮った北斎の鍾馗さんでしたが、今日の「鍾馗」さんが一番の男前だと思っています。すごい迫力!北斎(1760~1849年)晩年の作。(1846年)87歳の作品です!!!最後まで、衰えることのなかった、北斎の内なる力を見るようで、勇気づけられます。

それで、この赤い絵。これにも意味が。
≪痘瘡の専門書『痘瘡水鑑録』によると、まず東西に面した病室を選び、雨戸、障子、襖で閉め切り、香料を炷いて不浄湿気を避け、衣紋掛け、屏風に紅色の衣服をかけ、入り口に紅染めの暖簾をたれて、風を防ぎ、緞帳、蚊帳を吊って、蠅、蚊を防ぐ。痘瘡になると、部屋には赤い幔幕をはり、寝具から子供の身の回りのものはいっさい赤いものだけを使った。患児の肌着は紅紬、紅木綿でつくり、十二日間はそれを取り替えない。患者は常に寝床に横になり、安静にしていることも肝要であるという。赤を着るのは患者だけでなかった。看病人も赤い衣類を用い、玩具、本にいたるまですべて紅色を用いた。この習慣は江戸中期から始まり、種痘の普及によって痘瘡が下火になるまで続いたのである。≫

へぇ!赤い でんでん太鼓や 赤いだるまさん、赤い玩具も思いつきますねぇ。
が、この赤・・・朱色、もっと他にも見かけます。
ということで、もう1冊読んでみましたら、深みにはまってしまいました。
が、その前に、この著者酒井シズのもう1冊の本から。(続く)
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歴史的背景の影響

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「病が語る日本史」(酒井シズ著 講談社学術文庫)
 (承前)
 この本には、日本歴代の「病」のことが書かれているのですが、感染症のことももちろん、書かれています。
 当然、「ペスト」のことも。

≪ 日本にペストが初めて上陸したのは明治29年。患者は、香港から横浜港に入港した米船の中国人船客。…その後、各地で発生、年末までの2か月で、45人のペスト患者、40人の死亡者・・・・(中略)・・・初めは、ネズミの排泄物からうつると信じられ、東京市は裸足で町を歩くことの禁止令を出し、明治32年には20万匹ネズミ捕獲作戦を立てて、1匹五銭で買い上げることに。その結果1年後の捕獲数は300万匹!また、ネコを飼うことも奨励され、一気に東京市の猫が増えた。≫

 そののち、関西の紡績工場の寮や社宅でのペスト発生によって、日本の産業に大きな打撃を与え、日本経済に影響を及ぼすことが目に見えてきたので、感染経路の研究や、防疫体制の整備を急いだ。そして、明治39年40年に、大阪府が出した防疫費は160万円余。また各所の損害から、全国的防疫体制を真剣に取り組み、昭和2年に最後の犠牲者が出たのを最後に日本のペスト発生は終息。

≪ペスト防疫がうまくいったことは、日本がきわめて早く西洋化したことを物語っているが、日本人はペストの恐怖を十分体験しなかった。このことが日本人の危機意識を中世に激しいペストの洗礼を受け、いまもヨーロッパ各地に立つ記念塔からペストの恐ろしさを知らず知らず伝えられているヨーロッパ人と違ったものにしたのではないだろうか。エイズに対する危機感が日本人と欧米人で違うのは、ペストの洗礼を受けなかったという歴史的背景も影響しているに違いない。≫

うがいや手洗い、マスクや入浴、土足ではない暮らし。破裂音の少ない発声や硬水じゃなく軟水・・・いろんな条件や習慣と、歴史的背景。そして、古代からの遺伝子の問題?はてさて?ともあれ、まだ、この非日常は続く・・・(続く)

☆今日も、北斎87歳の「鍾馗図」です。1846年。思案しているようで、実は、その後、すぐに動き出しそうで・・・朱と、墨で書かれています。

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日本史で習ったはず

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(承前)
「病が語る日本史」(酒井シズ著 講談社学術文庫)
この本で、日本史で習ったことを ほんの少しは思い出すとともに、個人的に全然しらなかったこともあって、そうだったのか・・・と思ったのが、シーボルト事件のこと。ただし、江戸時代のことで、しかも国が絡むこと、今でも国が絡むことの真相なんて、明々白々とは言えないことを考えると、一つの考え方として、この本の説は面白い。

 医者で博物学者でもあるシーボルトが、日本の情報を収集、持ち帰ってはいけない、日本の地図や文化、博物学関連を、船に積み運ぼうとしていたら、台風で座礁し、それらのものが、ばれてしまったから、日本政府はシーボルトを留め置いた云々・・・と教科書にあったような・・・

 「病が語る日本史」では、このシーボルト事件のことは、「江戸時代に多い眼病」という章の一部に、書かれています。
ともかく、眼病の多かった当時、シーボルトは1823年に眼科道具や眼科薬を持参で、日本にやってきます。それで、日本の眼科医はシーボルトを訪問、質問、果ては白内障の手術を施術を見学、また投薬についても学びます。そのお礼に、日本の眼科医たちは、禁制のものを手渡したりしたようです。それらの品が、座礁で発覚・・・それだけではないと思いますが、そういう一面もあったのか・・・と、びっくり。が、しかし、シーボルトは、眼病が多いことをツンベリー「日本紀行」を読んで知っていたにちがいないと書いてあるので、お人よしの日本人像も、ちょっと見えます。*ツンベリーは1775年に出島オランダ商館に赴任。この人も植物・博物・医学者のようです。(続く)

☆上の「鍾馗図」。これも北斎1826年の作。昨日の「朱鍾馗図幟」➡➡のように布に書かれたものではないのですが、上方二本の線が、さも、幟のように見える図に仕立てています。野性味あふれる男前ですねぇ。衣類の端のギザギザが、北斎らしくて、個人的には好みです。他の美人画の着物もそうでしたね。➡➡ 鍾馗図は、墨や朱で描かれることが多かったらしく、特に朱書きには、意味が。

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病が語る日本史

鍾馗1 1805
  今度は、日本の病の本を読みました。というのも、ペストの本を何冊か読み、「細菌と人類」➡➡なども読んだものの、こんなに大きな流行だったペストやそのほか感染症など、日本での過去がどうなっているか、ちっとも知らなかったからです。まさか、研究が進んでない?考えようによれば、日本においては医学を学んで医療の歴史の研究に取り組むのは、地味な学問なのかもしれません。案の定、素人が読めるような本は少なかったし、著者は、今日でも女性入試差別のあった(ある?)医学部出身、しかも、1935年生まれの女性。
 
「病が語る日本史」(酒井シズ著 講談社学術文庫)
 細菌や感染症だけではなく、「病」として捉えてます。「細菌と人類」も面白かったけど、こちらもさらに面白い!
 もっと、学校の保健の授業で、取り入れるべきだと思われる分野です。歴史を知って、今、そして、未来を考えることの重要性は、もっと、強調してもいいと思う。この医史学だけでなく、どんな学問もテスト問題を解くのだけが、人智ではないのですから。
 
 「骨や遺物が語る病」の章は、興味深い。先日、大阪の土地開発で出てきた大量の骨も、今後の学問に役に立つのだろうと思うと、ちょっと喜ばしい。その土地が梅田であり…「埋めた」につながる。
 
 「糖尿病と藤原一族」の章は、教科書で習った藤原一族が、今も在り続ける糖尿病だったとは、つゆ知らず、その病からつながる、政治の動きを知るのは、興味深いことでした。
 ≪糖尿病は古くから洋の東西に存在した。古くは王侯貴族や富豪の病気であった。日本でも「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」と詠んだ従一位前太政大臣藤原道長(996~1027)がそのひとりであった。道長は『源氏物語』の光源氏のモデルといわれる。また、3人の娘を天皇の后にして、天皇に次ぐ地位にあった。この歌を詠んだ寛仁二年(1018)10月16日は、3人目の娘威子が後一条天皇の皇后に立后した日であり、喜びの宴でこの望月の歌を詠んだのである。53歳の冬であった。だが、満月はすでに欠け始めていた。道長のからだを糖尿病がむしばんでいたのである。≫

 その「望月の歌」を歌った7年後に四女で東宮敦良親王の尚侍藤原嬉子を麻疹で失うといった災難。麻疹流行時(1025年)19歳で身重だった娘を失った時の道長の様子は『栄花物語』の「みねのつき」「楚王のゆめ」に詳しいとあります。(お恥ずかしいことに読んでない・・・)そして、道長はこの年から急に気弱になり、出家を決意とありました。

『この世をば我が世とぞ思ふ・・・』とまで言い切った道長も、病や感染症に蝕まれたのでした。(続く)

☆ さて、今日の写真に使ったのは、北斎(1760年~1849年)の描いた「朱鍾馗図幟」(1805 麻地錦絵)。鍾馗は、中国伝来の邪気除けのよう。日本では疱瘡(天然痘)除けでもあります。
 この画集の解説には、≪着物の裾をひるがえし、許す限りの大またで進むこの鍾馗は、とりわけ幟が風の中にはためいた時には、いかにも動き出すかのように見えたであろう。≫(ボストン美術館所蔵肉筆浮世絵展 江戸の誘惑 図録)
さすが、北斎!(続く)

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スカパンの悪だくみ

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 「スカパンの悪だくみ」(モリエール 鈴木力衛訳 岩波文庫)
電車用に、本棚から引っ張り出した、このモリエールの戯曲。ドタバタ喜劇です。1671年初演。
うーん、シェイクスピア喜劇「間違いの喜劇」(1594年初演か?)と、筋立ては全く違うものの、ドタバタするところや、勘違いが騒ぎの上乗せになるところが、似ている。ま、喜劇とはこんなものなのでしょうが、カ・リ・リ・ロ自身が、ロンドングローブ座で、初めて見たのが「間違いの喜劇」(小田島雄志訳の白水社Uブックス持参で観劇)で、その後、何回かグローブ座での観劇を楽しんだ者としたら、シェイクスピアの方が先でしょ。などと、後発のモリエールを思っていたら、実際、モリエールのこの劇、着想の元になった劇があり、一部など、他作品を借用などという解説がありました。
勘違いや、人の慾、人間が侵すことですから、似てくるのは仕方ないか・・・

で、この中で、おかしかったのは、スカパンという、悪賢く、口が達者なおじさんが、一人二役で、乗り切ろうとするところ。
スカパンの主人の父親ジェロントを 剣客が探しに来たという嘘をつき、主人を袋に隠します。
≪(作り声で)「なんと!おいらにあのジェロントめを殺すことがでけんちゅうのか、どなたかあいつの居所を教えてくださらんか?(ふだんの声で、ジェロントに)動いちゃいけませんよ。(またもや作り声で)「おのれ!大地の底に隠りょうとも、きっと探し出して見するぞ!」(いつもの調子で、ジェロントに)顔を出さないで。(以下作り声と自分の声でやりとりする)「これ、袋を持ったその衆」  へい。  「おまえに一ルイ呉れてやろう。あのジェロントめがどこnいるか、教えてくれんか。」  ジェロントさんを探していらしゃるんで?  「そうとも!探しているんじゃ」   して、どういうわけで?   「どういうわけだと?」  はい。  「ちょっ!おいらはこの棍棒であいつをぶち殺してやりたいんじゃ。」    とんでもない!あのかたを棍棒でぶつなんて。罰があたりますよ。あのかたにそんなことをしたら。  「あのかたにだと? 誰が?あの間抜けの、悪党の、ごくつぶしのジェロントめが?」   ジェロントさんは間抜けでも、悪党でも、ごくつぶしでもありません。そんな口のききかたは慎んでもらいましょう。   「こいつめ、・・・・・・・・・・(後略)・・・・・≫

この後も、延々と、一人芝居は続きます。
それで、舞台で、声色を変え、多分、動作も、その人になりきって変えているスカパンの様子に失笑?あるいは大笑いしている観客。・・・・が、見えてきます。
昔、戯曲を読むのは苦手でしたが、先の「間違いの喜劇」以来、戯曲も十分、楽しめるようになりました。

「間違いの喜劇」(シェイクスピア 小田島雄志訳 白水社Uブックス)

☆写真は,5日ほど前の夜明け。明けの明星と下弦の月、見えるかな????

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予約なしの美術館

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 古筆のお稽古が再開したので、京都にでかけました。紅葉にはまだ早いので、予約なしで入場できる細見美術館「琳派と若冲展」(~2020年12月20日:入れ替えあり)に行きました。
 細見コレクションの展示しています。
 展示数が多いわけではありませんが、ゆっくり、鑑賞できました。
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 若冲の「鶏図押絵貼屏風」(六曲一双)を、また、楽しみました。➡➡
 やっぱり、初めて見た2000年の「若冲没後200年」(京都国立博物館)の大展覧会と同じように、鶏の生き生きした尾の動きに魅了されました。ともかく、こんなに近くで鶏たちを見ることができるのは、ちょっと感激ものです。
  そして、今頃やっと気づいたこと。一羽の雄鶏の羽。ちょっと切れています。仲間と喧嘩した名残り?それとも、奥さんを怒らせた?いえいえ、単なる事故?・・・・ともかくも、左から3番目の尾。
それに、「糸瓜群虫図」➡➡も久しぶり!また、11匹数えましたよ。
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 「鼠婚礼図」も「仔犬に箒図」もありましたが、いずれも、若冲の手にかかると、いまにも動き出しそうな小動物たちになります。
鼠婚礼図の可愛いネズミ達は、いつ見ても可愛いものの、この絵は、一枚単独で書かれたものだろうか?「若冲没後200年」図録の解説などにもありませんが、この絵が「ねずみのおよめさん」➡➡のように何枚もの鼠の婚礼を描いていたら、さらに楽しいものとなっただろうと思います。
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☆写真一番上は、細見美術館敷地内のカフェで記念のお皿に、モンブラン。他の写真は、「若冲没後200年」(京都国立博物館)の時の図録より。

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細菌と人類(2)

ニーチェj
 「細菌と人類 ----終わりなき攻防の歴史」(ウィリー・ハンセン ジャン・フレネ著 渡辺格訳 中公文庫)
➡➡承前)
今年、書店の平積み文庫や新書の辺りに「感染症」や「疫病」などの関連書籍が並んでいます。そんななか、この文庫は、たくさんの細菌学者や医者たちの肖像画や写真やだけでなく、当時の絵画も載っていたので、個人的には、手に取りやすかったといえます。

 ペストの章には、プッサンのアシドドのペスト(部分 1630年)、ギュスタヴ・ドレの描いたペストの災害、ジフテリアの章にはレンブラントの「テュルブ博士の解剖学講義」など。また、当時の版画など。(ただし、文庫本で、掲載画がどれも小さく、見にくいのが難です。)

 そして、素人には、罹患した著名人も興味深く、ふーむ。
 結核の章には、モディリアーニやショパンの肖像画。
 特に、梅毒の章に書かれている症状第三期の部分には、こんなことが記載されています。
≪…梅毒が寄生している人の人格を完全に破壊する前、特別恵まれた頭脳を持っている人において、知的能力が異常に上昇し、並外れた作品を残させる場合もある。ニーチェ、ボードレール、モーパッサン、シューベルトなどがその例である。また、…ルイ14世、ジェイムズ・クック、アルフォオンンス・ドーデ、ギュスタヴ・フローベル、そして、ヒトラー、ムッソリーニなどである。≫

 ともあれ、この「細菌と人類」という本の副題、「終わりなき攻防の歴史」とあるように、有史以来、ずっと様々な細菌と格闘してきたのも人類なら、発見し発明したのも人類、あるいは、差別や偏見を生んできたのも人類だったこともよくわかりました。それは、今現在の、新型コロナウィルスとの攻防と自ずと重なっていきます。

☆写真は、スイス シルスマリア ニーチェ記念館➡➡ 1881年~1888年の夏とあります。
 

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細菌と人類(1)

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 先日の「丘」(ジャン・ジオノ 山本省訳 岩波文庫)➡➡の中に、コレラ感染で、廃村となるという場面が、ほんの少し出てきます。今までの読書より、感染症の出てくる箇所には反応しました。
 また、このコロナ禍の状況で、今までに手に取ることもなかった本にも手がでます。

 「細菌と人類 ----終わりなき攻防の歴史」(ウィリー・ハンセン ジャン・フレネ著 渡辺格訳 中公文庫)
 この本の前に、日本人の書いた感染症の新書—-コロナ以後に増補したとありましたから、読んでみたのですが、専門的で、カ・リ・リ・ロが読みたい本ではありませんでした。

 で、あきらめかけていたものの、やっぱり、気になるものですから、この「細菌と人類」を読んでみたというわけです。
 こちらは、読みやすかったです。なので、もしかしたら、専門的なものを求める人には、物足りないのかもしれませんが、ともかく、タイトルの半分の、「人類」という部分が生きていて、納得することが多かった。もちろん、この本は2003年に刊行され、2008年に訳されていますから、コロナどころか、HIVやSARSなどのことにも触れられていません。

 まず、「ペスト」から始まるのですが、(その後、コレラ、腸チフス、その他サルモネラ菌、細菌性赤痢・・・・と続きます。)その中に、こんなことが紹介されていました。
≪「ペストとユダヤ人に対する迫害」
ユダヤ人の習慣はタルムード(ユダヤ教の習慣律法)により律せられており、彼らの衛生状態は一般の人と比べて良好であった。彼らは離れたところに暮らしており、ネズミもよそより少なくなかった。その上、病人は強い下剤をかけられたり、不潔な器具を用いて瀉血されるより、薬草を主体とした薬剤で慎重に看護された。こういったわけで、ユダヤ人たちは周囲の人々よりペストによって死亡する率が低かったのであるが、教会権威筋、そして少しあとでは、鞭打苦行者たちも、ユダヤ人こそが病気流行の原因である、とする議論を始めた。これにより、ユダヤ人は最初の迫害を受けることとなる。
 最初の事件は1348年にジュネーブ近郊のレマン湖にあるシオン、ついでバゼル、フリブールなどで起き、ユダヤ人たちは大きな木製の建物に入れられてそのまま焼き殺された。ついで・・・・(中略)・・・・49年の夏にはこの傾向は広まったので、、多数のユダヤ人はかれらに寛容なドイツ、ポーランドなどの東国に避難した。このようにして、ロシア西部、ポーランド、オーストリア北西部などにユダヤ人の大きな居留地ができることとなる。・・・(後略)・・・≫

 そうだったのか・・・・多くの人が知っているのは、近現代での、ドイツやポーランドでのユダヤ人迫害のこと。そのルーツが、こんなところにもあったなんて、知らなかった・・・・

 それに、もう一つ、なさけないことに  よくしらなかったこと。日本の731部隊のこと。
 少しではありますが、この日本の愚行についても書かれています。(続く)

☆写真上は、スイス レマン湖 中央付近にシヨン城➡➡、山の谷間の向こうにシオンの街(文中レマン湖畔シオンとありますが、シオンはレマン湖に近いものの、レマン湖に面していません。手前はモントルーの街。
写真下は、ターナーがスイス方面にスケッチ旅行に出かけた際描いた水彩画のシヨン城(1836年頃)
上の写真と見比べると、ターナーがどの辺りで描いたかわかるような気がします。

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マスク

朝焼け1
 夏場、涼しく使っていた近江麻のマスクから丹後ちりめんのマスクに替えました。立体型の不織布のマスクも使ってみましたが、講義中に、ずれてくるのです。顎が合ってない。

 麻も絹も、通気がいいので、さて、完全防備ということはどうなのか?が、自然素材は、肌に優しい。
 外出から帰って、手洗い・うがいするときに、ちょこちょこっと、洗って、ぎゅっと絞って、干すだけで、次の朝には乾いています。使い捨てのマスクは、夏になる頃から、使っていません。

 朝早くジムに行くとき、電車は、そこそこ混んでいます。座れるか、座れなくても、戸口脇でもたれ、つり革を持たなくていい場所に立つことができます。誰も喋りません。みんなマスクをしています。
 あの密度で、あるいは、もっと満員電車で、感染が広がった話にならないということは、マスクは、やっぱり、かなり有効なのだと思います。個人的には、携帯用の消毒液も持参しています。

 今のところ、真面目な国民性のおかげで、西欧のようなことにはなっていないと報道はされていますが、清潔志向の国民も、少しづつ、慣れてきているような気もするし、緩んできているような動きもあるし・・・加えて、入国基準を緩める云々を知ると、あるいは、街で、隣国の会話が聞こえると、少々、構えてしまいます。
 そして、また、海をかなり隔てた隣国の大統領のように、治療も隔離期間も特別扱い、というのは、疫病を侮っていると思います。

☆ 写真は、台風一過の朝焼けではなく、台風より少し前の、朝焼けです。

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秋までもう一歩

藤袴
秋の森林植物園は、まだ紅葉まで今一歩。
かつらの甘い香りも、今一歩。
が、可憐な花がたくさん咲いていましたよ。
一番上の藤袴は、秋の七草。➡➡
つわぶき
つわぶきの花は、日陰で、凛と咲いていました。
ヨメナ
白いヨメナ(または、オオユウガギク)と、赤い水引の花は、いたるところに咲いていました。紅白でおめでたい。
ミゾソバ
ミゾソバの花は、小さく、可愛く池の周りに咲き、
池のそばには、まだまだ早い紅葉の木。
池
そして、台風の湿気に誘われて、ついつい出てきたカタツムリ。
    かたつむり

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人間という機械

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「ロボット(R.U.R.)」(カレル・チャペック 千野栄一訳 岩波文庫)

(承前)
≪・・・なぜ ロボットを作るかですって! 仕事をさせるためです。一体のロボットは二人分の仕事をします。人間という機械はとっても不完全だったのです。いつかは最終的に除去されねばならなかったのです。あまりに高すぎましたしね。労働量が少なすぎましたし、近代の技術にはもうついていけなくなりました。そして、第二に、それはとても大きな進歩です。…機械で産みだせるというのは大進歩です。楽ですし、速いのです。速度を速めるというのはいつも進歩なのです。自然は労働を近代的なテンポで行うという概念を持ち合わせていませんでした。幼年時代というものは初めから終りまで技術的にみればまったくのナンセンスです。要するに時間のロスです。耐え難い時間の無駄なのです。・・・・≫

 この考えが極端なものであるにしても、このおぞましい考えが、現代、まったくないと言い切れないのが怖い。
 感情もなく、愛することもないロボット。死ぬことも恐れないロボット。

 そして、人は生まれてこなくなります。
≪・・・・これは世界の終り。悪魔のようにうぬぼれて、神さまみたいに人間を作り出そうなんてしたからです。これは不信心というもので、おまけに神様みたいになりたいという不遜な行いです。それで神様が人間を天国から追放したように、今度はこの世界から追い出されるのです!・・・・≫

 人が生み出したものは、人によって細工もされる・・・・そして、反乱、暴動。そして・・・・

☆写真は、カレル・チャペックの兄の「ヨゼフ・チャペックエッセイ集」(飯島周編訳 平凡社ライブラリー)です。どちらの絵も「人造人間」という章のもの。ロボットという言葉は、チャペック兄弟で生み出したもののようです。
 それで、上の絵が描かれた箇所は、「給仕君、デザートのゴルゴンゾーラチーズをくれよ」客が言う。「ただいまお持ちします。お客様。」(新特許の瞬間回転記録器が装備されている)給仕が、うやうやしい目つきで客の満腹計の赤い線を測定し、こう言う。「上等の鴨料理をお持ちしましょう。お客様の胃にはまだ余裕がおありのようですから・・・・」
 うーん、この瞬間回転記録器と満腹計って、いま流行りのスマートウォッチみたい!!!

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ロボット

チャペックj
(承前)
 「白い病」(カレル・チャペック 阿部賢一訳 岩波文庫)➡➡を読むと、他のチャペックも読み返したい・・・と思い、「ロボット(R.U.R.)」(千野栄一訳 岩波文庫)を読みました。

 ああ、これも やっぱり面白い。いつの時代なの?
 この翻訳の岩波文庫が出たのは1989年ですが、カ・リ・リ・ロが読んだのは2000年頃です。たった20年前、否、20年も前ですが、書いてある内容の理解度が進みました。
 というのも、以前は、ロボットのイメージは、四角い頭を、四角い箱の身体に積み重ね、棒のような手足がロボットのイメージでしたし、ぎこちなく二足歩行するロボットやロボット犬が出てきた頃でもありましたから、まさか、人と見間違えるような人造人間というのは、1938年のSFの世界ならでは、と考えていました。

 が、しかし、今回読み返すと、ほとんどがSFとは思えない。これ、AI(人工知能)の人間そっくりの物?者?を、すでに予見しているではありませんか。

 「ロボット(R.U.R.)」の原題のR.U.R.はロッスムのユニバーサルロボット。このロボット製造会社が戯曲の舞台なのです。(続く)
 
☆写真の絵は、カレル・チャペックの兄ヨゼフ・チャペックの描いたカレル R.U.R.のユニフォーム着ています。この文庫本の中には、プラハで初演のときの俳優たちの写真と、建築家であり舞台装置家の舞台の絵も掲載されています。ちょっと、不気味な雰囲気のただよう人間とロボットの写真です。どっちもどっちで、一見しただけでは、人間役なのか、ロボット役なのか不明な者?物?が、写っています。

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悲しくも現実のものとなっていること

どんぐり1
(承前)「白い病」(カレル・チャペック 阿部賢一訳 岩波文庫)➡➡は、フィクションですが、これは、1937年のチェコで出版されています。話の舞台は戦争目前の設定です。
 
  特効薬を発見した医師ガレーン博士と、戦争を推進しようとする者とのやり取りは、息をのむものがあり、両者の思いの深さには、人間の業が見えます。それは、小国チェコにおけるカレル・チャペック、そしてその兄、逮捕され収容所で亡くなったヨゼフ・チャペック➡➡の生涯、彼らの父が医師だったこと・・・などなど、深い深い意味を含む1冊なのです。

 この本の前書きを読むと、一体これは、いつ書かれたの?と思います。というのも、「今日」という言葉が何度も使われ、当時の「今」と、今現在の「今」が、重なる部分が多いからです。

≪・…政治権力の精神は、今日の世界状況では、倫理的、民主主義的な人間愛というヨーロッパの伝統と対立している。年を追うごとに、この衝突は国際関係において激しさを増しているが、同時に、各国の内政問題にもなっている。外面的には、今日のヨーロッパで戦争が勃発するのではないかという緊張感が常在しており、暴力や殺人によって政治的問題を解決しようとする傾向が顕著になっている。たしかに、今日の世界的な対立は、経済的、社会的な概念を用いて定義できるかもしれない。もしくは生物学的に生存競争としても説明できるかもしれない。だが、その最も劇的な様相は、対立する二つの大きな理念の衝突に見られる。一方には、全人類への人間愛、民主主義的な自由、世界平和、人間らしい生や権利への敬意という倫理的な理念がある。他方には、権力や支配への志向、民族主義や拡張主義という反人間性を謳う力強い理念があり、そこで暴力は装置として歓迎され、人間の命はその単なる道具にすぎない。今日の一般的な表現を用いるならば、それは、民主主義の理念と、野心的で際限を知らない専制政治の理念の対立である。このような対立が悲しくも現実のものとなっていることが『白い病』を執筆する契機となった。≫

 この本が、今日 この時に、手に届いたこと(初訳出ではないとはいえ)、大きな意味があると思います。(続く)

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白い病

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「白い病」(カレル・チャペック 阿部賢一訳 岩波文庫)
 2020年という特別な年の緊急事態宣言が出された日に訳出され、毎週末WEBで少しづつ公開され、5月中旬には訳出終了。そして、岩波文庫として出版。
 もともとの話自体も、もちろん、臨場感があって面白いのですが、訳にも勢いがあって、時代が全然違うのに、国も背景も違うのに、緊迫感を伴い、一気読み。
 今まで、何冊かの「ペスト」本を読んできましたが、もしかしたら、疫病関連小説(フィクション)で、一番面白かったかも.

 戦争目前の世界で、ペストと違って白い斑点(大理石のような白斑)ができるという未知の疫病がはやり始めます。
冒頭近く、患者がいいます。
≪天罰か!天罰か!いったい、おれが何をしたからといって、天罰を受けるというんだ。たいしていい生活もしていない、知っているのは貧乏暮らしだけ。貧しい連中を罰する神様がいるとしたら、よっぽど変わり者の神さまじゃないか?≫

場面代わって、枢密顧問官が、記者の質問に答えていいます。
≪病原体の細菌がどういうものかまだわかっていない。ただ、とてつもないスピードで広がっているということだけは確かだ。それから動物への感染は見られず、人間でも、すくなくとも若い世代への感染はないこともわかっている。・・・≫
≪パンデミックだ。雪崩のように世界中で流行する病気のこと。いいかね。中国では毎年のように興味深い新しい病気が誕生している。おそらく…≫
≪ん?なに?予防法?それは無理な話だ!ぜったいに無理!いいかね、わたしたちは皆、死ぬ。40歳を過ぎた者は誰もがそういう定めなんだ。ーー愚かな30歳の君には、どうでもいいことだろうが!・・・≫

場面代わって、今度は特効薬を見つけたという町医者(この人が主人公とも言えます)が登場し、特効薬と引き換えに要求したものは???(続く)

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萩の花尾花葛花撫子の花 をみなへし藤袴また朝顔の花

 萩
「萩の花尾花葛花撫子の花 をみなへし藤袴また朝顔の花」
芒12

 昔から知っていた、この秋の七草。
 口調よく、リズミカルで覚えやすかったので、春の七草と一緒に覚えていました。
 学校で習ったんだろうか?大人に教えてもらったんだろうか?
おみなえしj

 万葉集の山上憶良の歌だと知ったのは、大人になってからでした。
 危険な暑さだった八月から一気に秋が深まっていきますね。

 先週のギンナンの実がたくさんなったイチョウの木も、今週は、すっかり色づいていました。

☆写真上3枚は、9月連休時の平安神宮神苑。萩、ススキ、おみなえし。下は、昨日の公園のイチョウの木。
 ギンナンj

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いちょうの木

どんぐり3

色づくには早いいちょうの木。雌株に、すでにたくさんギンナンがなってました。

ゲーテの「西東詩集」に『いちょう葉』という詩があります。(小牧健夫訳 岩波文庫)
≪東の邦よりわが庭に移されし  
 この樹の葉こそは 
 秘めたる意味を味わわしめて 
 物識るひとを喜ばす

 こは一つの生きたるものの  
 みずからのうちに分れしか  
 二つのもののの選び合いて  
 一つのものと見ゆるにや

 かかる問いに答えんに   
 ふさえる想念(おもい)をわれ見いだせり   
 おんみ感ぜずや わが歌によりて  
 われ一つにてまた二つなるを≫

ゲーテは、当時の恋人マリアンネをズライカ、ゲーテをハーテムとして描いた相聞歌「ズライカの巻」に、この詩を挿入歌のようにして入れています。

日本人は、いちょうの木の黄葉を楽しみますが、ゲーテは、その葉の先が、2つに割れているところに着目したのですね。

銀杏2

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神無月はじめの頃ほい、

ドングリ3
十月、神無月。
 神さまが一年のことを話し合いに出雲に出かける月です。明るい展望が開ける話し合いとなりますように。 

どんぐりは、どんどん茶色くなり、この前の青臭さ➡➡はどこかへ。
どんぐり2

「丸盆の椎に昔の音聞ん」(蕪村)
≪丸盆の上に載った椎の実、共に芭蕉翁の昔を聞きましょう。(芭蕉の精神を継承しましょう)≫
「椎ノ音懐古」という文のこの句は、芭蕉の草庵を移築し、その時、椎の木も移植した幻住庵で仲間(?)と共に作った歌のようです。 芭蕉は「まづ頼む椎の木もあり夏木立」と残していたようですから。(*蕪村文集 藤田真一編注 岩波文庫)(*蕪村句集 玉城司訳注 角川ソフィア文庫)
 カ・リ・リ・ロには、丸いお盆の上でコロコロ転がる椎の実(ドングリ)が見えるようだし、聞こえるようで、明るく芭蕉を偲ぶ様子が浮かびます。(続く)

☆タイトルの「神無月はじめの頃ほい、」は、蕪村の「遊行柳懐古」の文頭。遊行柳も芭蕉の「奥の細道」で詠じられ、もとは、西行の謡曲「遊行柳」ゆかりの柳のようです。

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