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みんなみすべくきたすべく

まったく個人的な想い

教科書j
(承前)
 昨日の「たのしい川べ」➡➡についての評論が掲載されていたのは、瀬田貞二(1916-79)の残した仕事を死後まとめた「瀬田貞二子どもの本評論集・児童文学論」 福音館2009年刊)でした。

 この本の一番初めの章「子どもに本を手渡すこと」のその先頭は「もっとも美しい教科書」(上記写真:スイス カリジェ挿絵の教科書 右の絵は、グリム「カエルの王様」)で、その文頭は、カ・リ・リ・ロにとって、忘れない文章なのです。ただ、これは、まったく個人的な想いです。
 ≪フランクフルトから1時間も飛ぶと、もうチューリッヒの上空にあり、午前9時の雲表の上に細長い鋸歯状のアルプスが光って浮き上がってきた。
アルプス15
・・・(中略)・・・・この度は予想をはるかにこえた楽しい経験にめぐまれてきた。まず着いたロンドンでは、ケンジントン公園の秋色の中に、ピーターパンのいるというサーペンタインの長池のあたりを、朝晩散歩しているうちに
ぴーたぱんj
・・・・・(中略)・・・・また、西郊の小村クックハムで時雨をよけてはいった料亭ですてきにうまい料理を供された後、小高いクックハム・ディーンの丘をおりた辺りで、にわかに開けたのは、明るい雨上がりの広い草地の中を流れる、岸柳をつづったテームズの銀色の輝きだった。『たのしい川べ』の小動物たちの舞台である。
ヒキガエル6
・・・・(中略)…チューリッヒを離れて、・・・・マイエンフェルトからローフェルスの村々を歩いた日々は、暖かく晴れて、あちこちの牛の鈴が遠くまで聞こえた。
ハイジ25
・・・(中略)・・・「ハイジの小屋」とよばれる村の家も、最近作られたハイジの泉も、
ハイジ25j
・・・(中略)・・・帰ってから持ちよっただれの写真もが、ここの数が多く、かつ秀作ぞろいであったところをみると、山地の空気のせいもあるらしい。≫

 この一文には、他の訪問地であったフランスやデンマークのことは出てきません。ドイツも少し出てきますが、最後にはスイスのザンクトガレン➡➡ の小さな古本屋のことが書かれているのです。もしかして、瀬田貞二もイギリス・スイス贔屓だった?
  この本を読んだ2009年頃には、ここに出てくる場所に、行ったことがありましたから、瀬田貞二の言うことが手に取るようにわかり、嬉しかったのです。
 
 さて、このコロナ禍で、イギリスもスイスも遠い遠い国になりました。来夏も、多分、無理でしょう。(何らかの都合で渡航の基準を緩めようと、政府はしようとしていますが・・・)そうこうしているうちに、こちらの年齢と体力の問題も出てくるでしょう。が、あの緑、あの青空、そしてあの風を思い出せるだけで、有難いことです。
 それに、今こうして居ても、イギリス贔屓のお友達、スイス贔屓のお友達とのちょっとした交流で、かの地を共有したような気分が味わえるのも嬉しい。さらに、もう一人、イギリス・スイス両方贔屓にされている人も居て、日頃、交流がないにもかかわらず、心はつながっているような気がしています。本当は、今夏、その方、お勧めのホテルに宿泊予定でした。(下の写真に小さく写ってる…。ああ)

シルス13

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『たのしい川べ』には悲しみがある。

ヒキガエル5
(承前)
 さて、川ネズミとモグラの葛藤、あるいは「たのしい川べ」の深さについて、瀬田貞二は、【夢みるひとびと④-グレアム『たのしい川べ』】という文で、こう言っています。(「瀬田貞二子どもの本評論集・児童文学論 福音館)

≪家をすてて家にひかれるモグラ、家にいて旅を思い病むネズミ、忘却と耐えることを治療とほじのために頭をたれて受け入れる小さな獣たち。多くの喜びの涙でさえ、こみあげてくる苦痛の露出のように、ふたりの孤独な友情のなかにだけ、やっと流すことをゆるされるのではないか。『たのしい川べ』には悲しみがある。それは、悲しみの節づけをともなういやされない憧れの歌である。もちろん、明るい自然賛歌でもあって、この重層が作品を深くしていることは事実である。明暗悲喜、遠近緩急ゆたかな傑作をなして、大人にも子どもにも愛されるようになったこともいなめない。≫

 そうなのです。もともとは、ケネス・グレーアムが息子のために語り始めた話なのですが、本として構成する際に 何か深いところに伝わる章 例えば「旅びとたち」➡➡「なつかしのわが家」「あかつきのパン笛」などの章を組み入れ、結果として、大人も楽しめるようにしていると思います。カ・リ・リ・リとしては、第1章が特段好きですが・・・

 幼くして母親を亡くし、父親とも別れ祖母の暮らす、テムズ河畔クッカム・ディーンで、少年期を過ごし、優秀な成績だったにもかかわらず、学費の問題でオックスフォードに進学せず銀行家として一生過ごしたケネス・グレーアムという作家の深いところを表現したと考えられます。(続く)

☆写真は、サージェントの描いたケネス・グレーアム(*サージェントは、カーネーション・リリー・リリー・ローズを描いた画家➡➡と、アーネスト・シェパードの挿絵。

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川ネズミ

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(承前)「たのしい川べ」(ケネス・グレーアム文 石井桃子訳 E・H・シェパード絵 岩波)
 
 「たのしい川べ」の原題は、The Wind in The Willows (柳に吹く風)で、先日のロックの写真➡➡にも、ヘンリー・オン・テムズ➡➡の写真にも、ヤナギ(Willows)が、写っています。
 また、邦題の「たのしい川べ」には「ヒキガエルの冒険」と副題がついています。実は、川ネズミが主人公のはずだし、また、モグラやアナグマはいい味出しているものの、悪童そのもののヒキガエル、圧倒的に強烈な動きを見せています。

 とはいえ、今年の干支ネズミに敬意を表して、川ネズミが完全に主人公である章「旅びとたち」のこと。
 詩人の川ネズミは川を愛し、川を離れませんが、ある日出会った海ネズミに聞いた冒険話に引き込まれ、誘惑され、心は川を離れ広い世界に向かいます。
 海ネズミはいろんな国に出かけた話を語り、最後に、川ネズミをこう誘います。
≪だからね、若いきょうだい、きみもきたまえ。時は待っていないし、南の国は、きみをよんでいるんだ。二度と帰らない時がいってしまわないうちに、冒険してみるんだな!ただ戸を一つしめて、陽気に一歩ふみだせば、それでいいんだ!古い生活にかわって、新しい生活がはじまるのさ。それで、またいつか―――いつかずっとあとになって、もう見るだけのことを見つくし、するだけのこともしつくして、帰りたくなったら、またぼつぼつ、家へ帰ってくればいいんだ。そして、あの、きみのしずかな川べにすわって、たのしいかずかずの思い出をあいてに暮らしたまえよ。・・・・≫

そして、憑かれたように出ていこうとするネズミをモグラが力づくで阻止します。
≪モグラは、すっかりおどろいて、ネズミの前に立ちふさがると、あいての目をしげしげとのぞきこみました。それは、あやしげにかがやいて、なんか一点を見つめ、すじのはいった、しかも変わりやすい灰色の目になっていました。
それはもう―――モグラの友だちの目ではなく、なにか、ほかの動物の目でした。モグラは、ネズミをぎゅっとつかまえると、むりやりに、うちへ引きずりこみ、投げたおし、おさえつけました。・・・≫

 「たのしい川べ」は動物たちが主人公とはいえ、擬人化され、しかも、ポターの描いた擬人化された動物たちとも違う、ましてや、数々の絵本に登場するネズミの特性を持ちながら擬人化されたネズミでもなく、ネズミやモグラやアナグマやヒキガエルの姿をした「人」とも言えます。
 さて、こんな動物たちが登場する、自然描写の美しい「たのしい川べ」のことを瀬田貞二は、掘り下げています。(続く)

☆写真下は、英国 お話の舞台になったと思われるクッカム・ディーンから、そう遠くないテムズ川

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ひき舟道

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(承前)
 Lock(ロック)好きなら、のグリーンノウシリーズの「グリーン・ノウの川」
(ルーシー・ボストン作 亀井俊介訳 ピーター・ボストン絵 評論社)
➡➡➡➡  ➡➡を思い出すかもしれませんが、川の散歩好きなら、もと馬の歩いた道のフットパス歩き。思い出すのは、「たのしい川べ」(ケネス・グレーアム作 石井桃子訳 E・H・シェパード絵 岩波書店)➡➡ ➡➡(12月14日の項)ですよね。

 ここでは、馬の歩く道のことを「ひき舟道」と訳していますが、大昔、初めて「たのしい川べ」を読んだとき、イギリスの川や運河事情については、まったく何も知りませんでしたから、その道のことも 舟を引く馬のことも、ボートで暮らす女の人(と、亭主と犬)のことも、へぇーと思いながら読んだものでした。

 そして、憎めないといいつつも、懲りないヒキガエルが、騒ぎを起こした事件の道具に使われたのが、ボートのひき馬でした。
 ヒキガエルと馬とひき舟との出会いはこうです。
≪・・・と、ちょうど、まがりくねった運河のかどから、馬が一ぴき、あらわれました。馬は、なにか心配ごとでもあるように、前かがみになって、ぽくりぽくりやってきました。首輪のところからは、長い力綱が一本、ぴんとうしろへはっているのですが、馬のあるくたびに、それが水につかり、さきのほうから、玉のしずくがおちていました。ヒキガエルは、馬をやりすごすと、あとからなにがやってくるのか、見ようと思って、立って待っていました。すると、まるくなったへさきに、しずかな水を気もちよくうず巻かせながら、ヒキガエルのわきにすべりでてきたのは、一そうのひき舟でした。はでな色にぬった舟べりは、ちょうどひき舟道とおなじ高さで、舟の中には、アサの日よけ帽をかぶった、大きな、がんじょうそうな女の人がただひとり、たくましいうでにかじをにぎっていました。≫

・・・で、ひと悶着あって、
ヒキガエルは、女の人に川の水にほおりこまれます。
≪・・・(ヒキガエルは)ひき綱をはずして、投げすてました。それから、ひらり、馬に飛び乗るなり、横腹をぐんとけとばし、駆け足で走りだしました。ヒキガエルは、ひき舟道をそれ、車のわだちにそい、ひろびろとした野原へ馬をむけました。…(中略)・・・・さて、ひき舟用の馬というものは、そういつまでもかけつづけることはできないのです。はじめのかけあしは、やがて、早足となり、その早足も、やがて並足に変わりました。けれど、ヒキガエルは、それで十分、満足でした。とにかく、ヒキガエルは動いているけれど、ひき舟は動いていないのですから。・・・・・≫

 そのあと、その馬はどうなったか?
 それに、ヒキガエルは、さらに一悶着も、二悶着も起こし、どうなったか?
・・・・懲りないんですよねぇ・・・・(続く)

☆写真上下は、英国 ヘンリー・オン・テムズの現代のひき舟道と、川と舟遊び博物館(River & Rowing Museum)の中の「たのしい川べ」コーナー
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馬の歩く道

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(承前)
さて、ボートに住んでいるくまさんの絵本「ボートやのくまさん」(フィービ・ウォージントン作・絵 こみやゆう訳 福音館)➡➡は、ボートを馬のデイジーに引っ張ってもらって川を行き来するのですが、馬のデイジーの通る道は、川に沿った小道で、今は人が歩く道(フットパス)として使われています。つまり、川沿いのフットパスは、もともとは、馬さんが通っていた小道でもあります。

 それで、上のコンスタブルの描いた絵「フラットフォードの製粉場」(1816-7)の中央に小道が続いているでしょう。それがそうです。小道の向こうでは、釣りをしている人が居ます。
 この絵の解説(テート・ギャラリー展1998 兵庫県立美術館図録)には、
≪・・・・コンスタブル家は、彼が育ったイースト・バー・ゴールトから4マイルほど離れたフラットフォードで家業を営んでいた。一家は、ストゥール川に、穀物を挽く水車と、それをロンドンに供給するために、ミストレイまで運搬する荷船の建造ドックを所有していた。また、上流のデダムにも水車を持っていた。ストゥール川を行き来するには、荷船を馬に牽かせねばならなかったが、フラットフォード橋を通過する際には、ロープを一度はずす必要があった。この作品においても、のどかな景色のなかに馬にまたがった少年とロープを解く少年の姿が描かれている。・・・≫
*川の向こうにはロックがあり、左端に描かれている平底舟を船頭は、
 ここで、思い出したのが、「ハヤ号セイ川をいく」(フィリッパ・ピアス作 アーディゾーニ絵 足沢良子訳 講談社)のこと。川を舞台に繰り広げられる宝探しと友情の話です。お話の中に製粉工場のことが出てくるのですが、作者のフィリッパ・ピアスもコンスタブルと同じく製粉業が生家とのこと。

 閑話休題。さて、そんなボートですが、ロックを越えるときは馬をはずすので、どうやって動くか?それは、絵本「ボートやのくまさん」のなかでは、ボートに乗せてあげた男の子が、ロックを抜けるまでたずなを持っていてくれました。(ロックは、前に進むのではなく、水面の高さが変わるだけです。)
 じゃあ、馬のフットパスのないようなトンネルの下(橋の下)をくぐるときは、どうやって、ボートが進むのでしょう?
 それは、下の写真の絵に描かれています。(馬は、先に縄をはずされていますね。)
≪ボートのやねにのぼり、トンネルのてんじょうを てで おして、ボートを まえに すすめます。≫(続く)
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9月なのに涼しい

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 例年なら、いつまでも暑いねぇと言っている9月ですが、今年はあの危険な暑さの後だからか余計に、涼しい。
 近所の桜も紅葉し、一部は落葉までしています。

 連休は、大学の授業、近場に散歩、街に買い物を含めて、どこもたくさんの人出で、びっくり。
 自分も人出の一部ですが、少しでも、静かで気持ちよく楽しめるところを探して出かけた先は、京都平安神宮神苑。
 神宮前岡崎公園のイベントは若者、家族連れで大賑わい・・・なのに、本殿裏手、神苑の庭園は、ひっそり。

 平安神宮は、京都の文化財としては新しく、その神苑(池泉回遊式庭園)は、明治時代造園家小川治兵衛(7代目)の仕事を、ゆっくり楽しむことができます。たくさんの萩が、そろそろ、盛りとなりそうでした。
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 庭の西側は、万葉集などにちなんだ花が植えられ、その歌も添えられています。ちなみにこの花はシオン(紫苑:キク科)ですが、その説明には、古今和歌集から≪ふりはへて いざふるさとの 花みんと こしをにほひぞ うつろひにける≫・・「こしをにほひぞ」の「しをに」が紫苑のことらしい。 
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また、東側の庭は、特に、池に写る木々や橋、建物なども楽しい。
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次の写真は、臥龍橋で、龍が伏す姿をかたどり、石材は豊臣秀吉が造営した三条・五条大橋の橋脚。
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 美味しいものも多いこの辺り、できるだけ密を避けながらも、おなか一杯になって帰ってきました。このまま秋に突入?

☆写真一番上は、多分、マルバヌスビトハギ
 

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ボートにすんでる くまさん

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(承前)
さて、 「ボートやのくまさん」(フィービ・ウォージントン作・絵 こみやゆう訳 福音館)は、ん?ボート売ってるの?と思いがちな邦題です。(Teddy Bear Boatman)
 こちらは、ボートが自宅、ボートに住んでるくまさんなのです。仕事は、せきたんやさんであり、干し草やさんでもあります。この絵本こそは、英国色あふれるものだと思います。

 妹のスージーと同じ名前の船は、馬のデージーが引っ張ってくれます。川に沿った道を歩きながら引っ張ります。
ぱかぱか ぱかぱか!
 石炭をうると、おかねを受け取ります。
 1こ、2こ、3こ、4こ、5こ、
 6こ、7こ、8こ、9こ、10!
そして、ボートの屋根でスージーの作った昼ご飯。
≪ソーセージと マッシュポテトと おまめと それにアップルパイのカスタードクリームぞえです。≫
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 かつて、テムズ上流やその近くの運河をボートを見ながら➡➡、この絵本の馬のデイジーと同じような道を歩いてみた観光客には、本当に懐かしく嬉しい絵本でした。ロック(閘門)も様子も、懐かしい。
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 ロックで、作業をする人たちを見るのは、飽きることがありません。大きなロック、大きな船。小さなロック、小さな船。動くことがあるんだろうかと思われる古びたボート。反対に生き生きと生活している匂いのするボート。➡➡  ➡➡(続く)
ロックjjjj - コピー
☆写真は、上から2・3番目英国オックスフォード近郊 テムズ川、運河。4番目マーロー近郊テムズ川 5番目ケンブリッジ近郊 ウーズ川

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しょうぼうしのくまさん

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うちには、ぼろぼろになった「せきたんやのくまさん」(フィービ&セルビ・ウォージントン作 いしいももこ訳 福音館)「まどそうじやのぞうのウンフ」(アン・ホープ文 エリザベス・ハモンド絵 いしいももこ訳 福音館)があります。
ぞうのウンフはシリーズ化されず(日本でも、本国英国でも、ちょっとしたお値段の古書しか見当たりません。)、せきたんやのくまさんの方は、二人の作者の一方が少しずつ入れ替わりつつも、シリーズ化され、「せきたんや」「うえきや」「パンや」「ぼくじょう」「ゆうびんや」➡➡  ➡➡の5冊が邦訳されていましたが、最近、新たに、二冊 加わりました。「しょうぼうし」と「ボートや」です。

 いつも、冷静で、おちついたくまさんは、相変らず、元気に、その仕事をこなしていきます。
「しょうぼうしのくまさん」(フィービ・ウォージントンとオリバー・ウィリアムス作・絵 こみやゆう訳 福音館)の方は、ロイス・レンスキーの「ちいさいしょうぼうじどうしゃ」(わたなべしげお訳 福音館)とちょっと重なります。
 が、スモールさんとちょっとちがうのは、くまさんの仕事には、木から降りられなくなった猫を助けるという仕事もあります。

 くまさんは、しょうぼうしゃに飛び乗って、急ぎます。からんからん からんからん!
 ねこにひっかかれないように、手袋をはめて梯子をのぼります。
 1だん、2だん、3だん、4だん、5だん、
 6だん、7だん、8だん、9だん、10だん!

 もちろん、納屋が燃えているという電話にも大急ぎで対応。
 からんからん からんからん からんからん!
 そして、しゅっしゅっしゅーっ しゅっしゅっしゅーっ!

仕事を終え、≪・・・・だんろのまえに こしかけて はちみつを ぬった トーストを たべ、ホットチョコレートを≫飲んだくまさんは、消防車を綺麗にし、お風呂に入って歯を磨き、ぐっすり眠るのですが、すぐに出動できるように枕元には、電話があり、ベッドの足元にはヘルメットと服、そしてブーツが、きちんと置いてありますよ。
 仕事ができるくまさんなのです。(続く) 

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ペレスの子孫と歯の妖精

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「ねずみのペレスと歯のおはなし」(アナ・クリスティーナ・エレロス作 ビオレタ・ロピス絵 大澤千加訳 ロクリン社)

(承前)
 写真のネズミ(ペレス)は、何を押しているかというと、子どもたちの抜けた歯と交換する小さなおもちゃでいっぱいのおもちゃのトラックを押しています。これは、倉庫からお店に引っ越すときの様子です。

 かつて、うちの3人の子どもたちの歯が抜け変わる頃、我が家では、ネズミではなく、妖精が歯を取りに来てくれ、翌朝、代わりに10円おいて帰ったようです。3人の乳歯が、すべて妖精のお気に召したわけではく、何かの事情で、妖精が見つけられらなかったときは、その次の次の日に10円。また、ちょっと虫歯の詰め物をしていた歯なら、完全に妖精に嫌われたりもしたようです。妖精も、3人相手だと、慣れてきたのでしょうか。それとも経年による疲れがあったのでしょうか。ま、ともかくも、おもちゃや手紙の返信ではなく、10円でした。
 
 閑話休題。
 妖精とねずみ・・・一見つながっていないようですが、そのむかし、イタリアでは、抜けた歯を誰かが拾って粗末な扱いをしようものなら、その歯の持ち主に災いが起こるということで、活躍していたのがメズの羽アリのフォーミキナでした。歯を拾っては安全な場所に歯を埋める仕事をしていました。
 ある日、ペレスの子孫とフォーミキナは、北イタリアで出会い、一目で恋に!
 そして、彼らの子どもたちはねずみの身体に小さな羽をもっていました。
 そんなとき、アメリカに渡ったペレスとフォーミキナの子孫を見て、よくわかっていなかったアメリカ人が、歯の妖精(トゥースフェアリー)と名付け・・・

 今年は、感染症、主にペストにまつわるフィクションをたくさん読みましたが、ペストとネズミの関係も痛いほどわかりました。が、ネズミの強い歯が、世界共通認識であり、ある意味、その生命力を、人間の幼い子どものパワーに・・・という親心もあることが、「ねずみとおうさま」➡➡のような話につながることも、わかりました。そして、「ねずみのペレスと歯のおはなし」➡➡の最後の一文はこうです。
≪ねずみのペレスのほんとうの贈り物は、じょうぶな歯によって育まれる子どもたちの『成長』だということを。≫

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ねずみのペレスと歯のおはなし

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「ねずみのペレスと歯のおはなし」(アナ・クリスティーナ・エレロス作 ビオレタ・ロピス絵 大澤千加訳 ロクリン社)
(承前)
 昨日の「ねずみとおうさま」➡➡は、実在の王様ぶび(アルフォンソ13世)にイエズス会士ルイス・コロマ神父が作ったお話で、のちに英訳されたものが石井桃子訳・土方重巳絵で「ねずみとおうさま」(岩波の子どもの本)となって、我々の手元に。
 今日の「ねずみのペレスと歯のおはなし」は、フィクションであり、ノンフィクションであり、科学の絵本でもあり、お話の絵本でもあり・・・
 始まりはこうです。
≪むかしむかし大むかしのこと。子どもの歯が抜けると、新しい歯をもってくることを仕事にしているねずみがいました。お願いすれば、何でもかじれるまっすぐな「ねずみの歯」をもってきてくれるのです。このねずみは、人間の家の屋根裏に住んでいました。歯が抜けた子どもは、まっ先に外へ出て、家に背中を向けて立ちました。そして、屋根をめがけ、力いっぱい抜けた歯を放りなげるのです。屋根裏のねずみに、ちゃんと歯がとどくように。…≫

昔は、歯を抜けたままにしておくと、その穴から「病気がはいってくる」と信じられ、さらに穴から「魂が抜けだしてしまう」と考える人まで…で、屋根裏のねずみにお願い。

そのあと、乳歯について、あるいは、歯をなげるときのお願いの言葉、建物が大きくなって屋根が高くなったので次は暖炉に、
暖炉がなくなり、オーブンに・・・という時代の変化を紹介していきます。子どもたちは、ねずみが歯を拾いやすい場所から、他の人に持っていかれない場所ということで、自分の枕の下に、歯を置くようになっていったというわけです。

そんな時、名前を持ち、引っ越ししていったねずみがペレスであり、その一家ということでした。(続く)

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ねずみとおうさま

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 多分、この岩波の子どもの本「ねずみとおうさま」(コロマ神父 文 石井桃子訳 土方重巳絵 岩波)を小学生の頃、図書室で読んだと思います。初版は1953年です。(改版は1977年)
 当時、カ・リ・リ・ロが子どもの頃、歯が抜けると「ねずみの歯と、かえてくれー」と、下の歯なら屋根にむかって、上の歯なら下に向かって、窓から投げていたので、スペインでは枕の下に手紙を置いて、贈り物と変えてくれるというのが新鮮でした。

 この「ねずみとおうさま」は、歯が抜ける頃に読んでもらう6歳の子どもと同じ年のスペインの子どもの王様が主人公です。王様も歯が抜けるのです。
このぶび(赤ちゃん)王様は、若くして王様になった実在の人で、その子(王様)のために、神父が作ったのがこのお話。宗教色を出しつつも、子どもが楽しめるお話(ちょっとした冒険をして、帰ってくる)にしています。
 
 ぶび王様は、抜けた歯を取りに来たねずみのペレスと一緒に、ネズミの姿になり、ペレス一家に会い、ネコのドン・ペドロの前を通り過ぎ、寒々しい部屋でお母さんと寝ていたペドロの歯を金貨と交換しに行きます。それで、また、お城に戻って、目が覚めると・・・・
 王様は、経験してきたことと、お母さんが話した≪あなたは、あの子どもたちの一ばん上のおにいさまだということです。だから、あなたは、みんなをしあわせにしてあげなければいけないのですよ。…(後略)≫という言葉から、考えたのが≪ああ、そうか。いままで そういうことを、すこしもしらなかった。ぼくは ゆうべのうちに たくさんのことをおぼえた≫ということで、いい王様になりました。めでたしめでたし・・・

 実在した、このぶび王様(アルフォンソ13世1886~1931:おかあさんは皇太后として、ぶびが16歳になるまで摂政政治)は、最後には、亡命し、亡命先で退位。王政復古は、その44年後で、孫のカルロス1世が王に返り咲くも、途中、独裁政治だったフランコ政権や戦争など、この絵本とは、まったく違う世界が、スペインでは繰り広げられていたようです。

 で、このペレスねずみ一家も実在ということで、かつての住所は、マドリード アレナル通り8番地の食料品を置く地下倉庫のお菓子の空箱。3人の子持ちで、そのうち2人の女の子(アデラとエラ)には家庭教師がつき、お人よしの男の子(アドルフ)が居ました。
 え?この情報は「ねずみとおうさま」には書いてませんから、次の絵本に移ります。(続く)

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人間をあらゆるものの中心にしないこと

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(承前)
「丘」(ジャン・ジオノ 山本省訳 岩波文庫)
 個人的には、この本の人間描写には、ついていけないものがありました➡➡ が、自然の表現は、詩的なもので、心に迫るものが多かった。冒頭だけでなく、何回か自然の表現が出てきます。人を表現するときの比喩よりも、こちらの方が、伝わるものがあったので、「木を植えた人」➡➡の時書いたように、著者の自然への思い入れを感じることができたと思います。

≪動物たち、植物たち、そして、石だ!
 樹木、これは強い。樹木は曲がりくねった枝でもって百年ものあいだ空の重力を押し返してきた。
 動物、これは強い。とりわけ小さな動物たちは。動物たちは草のくぼみでたったひとりで眠る。世界のなかでひとりきりで。・・・・(中略)・・・・
石、これは強い。風を共有しあっているあの大きな石たちは、いつ頃からあんなに直立しているのだろうか?千年も前からだろうか?・・・・・(中略)・・・・まだ自分の父親の膝の上で抱かれていた頃、それより前から、この世に存在していたのだ。世界の最初の日を見ていた石たちは、いったいいつから存在しているのか誰にも分からないし、石たちはいつも同じで、変化することもないい・・・・≫

 ここでもやっぱり、「水晶 他三篇 石さまざま」(シュティフター作 手塚富雄・藤村宏訳 岩波文庫)➡➡ ➡➡のシュティフターを思い出します。

 さて、解説によるとジャン・ジオノは、自書「憐憫の孤独」の中でこう語ります。
≪必要なのは、人間をしかるべき位置に置くこと。人間をあらゆるものの中心にしないこと。ただ高さや広さだけはなく、重さ、香り、身振り、魅惑する力、言葉、共感として、山が存在するということを知覚できるだけ謙虚になることだ。河は怒りや愛情、力、全能の偶然、病気、冒険などを備えた人格である。川や泉は人格である。それらは愛し、騙し、嘘をつき、裏切る。それらは美しい。≫ 

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     白馬j
(承前)
 「丘」(ジャン・ジオノ 山本省訳 岩波文庫)
 昨日の「木を植えた人」(ジャン・ジオノ 原みちこ訳 こぐま社)➡➡で書いたように、この人の自然への敬意は、文の随所に見られます。もちろん、その敬意は、畏敬の念であり、愛でもあります。

 冒頭から、ぐいぐい引き込まれていきます。
≪屋根瓦のすぐ下まで、ハクサンチドリの紅紫色の花が咲いているように見える4軒の家が、密生した丈の高い小麦畑の向こうに姿を消す。そこは丘と丘のあいだの窪地である。その窪地は大地の肉体が彎曲して豊かに盛り上がっているいくつかの丘に囲まれている。レンゲの花がオリーヴの木々の下で血のように咲いている。幹から甘い樹液をにじませている白樺のまわりで、小さな蜂たちが踊る。泉からふんだんに湧き出てくる水が、ふたつの水源となって歌う。岩から落ちてくる水源の水を風が撒き散らす。二本の水の流れは草の下であえいでから、合流し、イグサが繁っている沢を流れていく。風がプラタナスをざわめかす。それは、レ・バスチッド・ブランシュ(白い農家)という集落である。脱穀機が唸りをあげて立ち働いている平原と、野生のラヴェンダーが生い茂る広大な砂漠のあいだにある廃墟のような集落。風に支配されているその一帯は、リュールの山々の麓に位置するので、冷たい陰になっている。風の大地である。・・・・・(後略)≫

・・・と、もう少し、詩的な情景描写は続きますが、人が出てくる、あるいは、その関係性を述べだすと、一気に、鈍い頭はこんがらかってきて、一気に読み進むのがしんどくなってきました。

 そして、抽象的な表現、比喩的な表現、あるいは、妄想、幻視・・・など、自然描写の時ほど、素直な気持ちになれない読者になってしまいます。一時は、もう読みやめよう。シュティフターの「晩夏」➡➡を読みなおした方が、気分いいかも?などと考えたりしました。(続く)

☆写真は、残念ながら、フランス プロヴァンスの丘ではなく、英国のホワイトホースの描かれた丘➡➡  土壌が石灰質なので森にはなりません。

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木を植えた人

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(承前)
 昨日、森林破壊のことを書いたので、近日にUP予定だった「木を植えた人」(ジャン・ジオノ 原みち子訳 こぐま社)のこと。
 実は、同じ著者の「丘」(ジャン・ジオノ 山本省訳 岩波文庫)を読んでいて、その後に、この「木を植えた人」を書こうと思っていたのですが。

 「木を植えた人」は「木を植えた男」(フレデリック・バック絵 寺岡 襄訳 あすなろ書房)として絵本出版されたり、アニメーションにもなっています。
 
プロヴァンスの荒地で淡々と木(ドングリ)を植え続けた人(羊飼い)の話です。
≪…人住まぬこの地に木を植えはじめてもう3年になる。いままでに10万個の実を植えた。そこから二万本の芽がでた。その2万本のうち半分は育たないだろう。鼠や栗鼠にかじられるし、それだけでなく、人の思いをはるかに越えた神の御摂理が働くから、 ≫と、話の前半で羊飼いは話し、その後、戦争があったり、政治が介入したり、また戦争があったり・・・そして、森が生まれ、人が住み・・・

 かつて、この本を初めて読んだとき、実在の場所であり、実在の人であると思い、また、第一次第二次世界大戦や、行政の動きなど実話だと思ったのですが、解説を読むと、フィクションだということで、作者ジャン・ジオノの筆力に驚いたものの、なーんや、ちょっとがっかり…と思ったのが、率直な気持ちだったと思います。
 また、解説にある、ジャン・ジオノの過激な政治的発言やその生き方が、この実話でない迫真のフィクションを作ったのか・・・と、感じたのも事実です。だから、印象に残った話の一つとはいえ、30年読み返すこともありませんでした。絵本もアニメも見ていませんでした。

 が、今回 同じ著者の「丘」を読んだ後、再読してみたら、ちょっと見方が変わったような気がします。
 今なら、この著者—--ノーベル文学書の声さえあった、ジャン・ジオノが、様々な活動・発信をし続けたのも、自然という支えがあったからなのだと理解できるのです。実際、幼い頃から休日に団栗を植えながら父親と荒地を散策したという経験こそが、彼の支柱だったのだとわかります。

 話の終わり近く、荒地だったところに森ができ、村ができ
≪現在28人がこの村に住んでいて、そのうち4軒は若い家庭だ。明らかに壁も塗りたての新しい家々。それをとりまく菜園にはいろいろなものが混ざりあって、しかし整然と植わっている。野菜と草花、キャベツとバラ、ポロ葱と金魚草、セロリとアネモネ。すっかり、いかにも住み心地よさそうな場所にかわっていた。≫
 と、書いています。
 この植物の並びもいいのですが、若い家庭とか住み心地よさそう・・・とか、平凡な表現にこそ、この人の思いが詰まっているような気がします。(続く)

☆写真は、夏の終わりの若いドングリ。まだまだ、ポロリと落ちるまでには時間があります。

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台風

ベルニナjj
 毎年、この時期、ぶつぶつ言い続けてぶいる台風。今回も大きな大きな台風でした。確か、2年前の台風は、いつにない偏西風の影響で、針路がぐっと曲がったりしていましたが、今回やそのちょっと前の台風は、偏西風はどうなったの?というぐらい、北上しました。今後も、日本の近海の海面温度の高い場所で発生した台風が続くなら、危険度は一層増すことでしょう。

 さて、脱原子力も、悠長ですが、脱炭素という問題は、より大きな声になりません。化石燃料に頼る社会である限り、その排出量とそれを吸収してくれる森林面積のことをもっと真剣に考えなくてはならないのに、温暖化というひとくくりの言葉で片付け、後回しにしようとする向きが見られる(と、思う)。
 毎年カリフォルニアで起こる火災やアマゾンの火災、季節は反対のオーストラリアの火災、大量発生したバッタが食い尽くす草草・・・・などなど。

 太古から、自然と闘い、感染症と闘いしてきた人類。
 なすすべもない自然災害ではありますが、知恵を働かせ、知恵を寄せ合わさねば、人類にとって、もっと、酷いことになる(と、思う)。(続く)

☆写真は、スイス ベルニナ特急からみたベルニナ山

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なんにもなくても、げんきでいなくちゃいけないもの

エゴン2j
(承前)
 昨年、イノシシ年の時に代わりに猫の絵本を紹介していましたが、デンマークの絵本作家 エゴン・マチーセンの「あおい目のこねこ」(瀬田貞二訳 福音館)を、紹介していませんでした。
 ということで、エゴン・マチーセンの「こねずみ」➡➡の次はエゴン・マチーセンの「こねこ」。

 「ひとりぼっちのこねずみ」のときもそうでしたが、この「あおい目のこねこ」もふざけたような描きかた。もう一冊邦訳されている「さるのオズワルド」(松岡享子訳 こぐま社)も然り。

 「あおい目のこねこ」で、まず一番に気に入ったのは、人を食ったような始まり「1のまき」「2のまき」・・・・「7のまき」という章題(?)。
 次におかしいのが、ねずみのくにを探しにでかけたのに、途中で捕まえたのは、蠅一匹。そしてその時の台詞。「はえ一ぴきでも、なんにもたべないよりは、ましでした。」次は、小さな蚊一匹。「か一ぴきでも、なんにもたべないよりは。ましでした。」
 それで、次。あぶらむし1ぴき。「そのむしは、くさくて、べとべとしていて、つかんだ足をふっても、とれません。なんにもたべないほうが、ましでした。」
 
 そして、嫌みな黄色い目の猫たちとくらすものの、「なんにもなくても、げんきでいなくちゃいけないもの」と大きなサングラスをかけ、しっぽをまるめたり、池に顔を映したり・・・

 このポジティブシンキングの青い目のこねこ。結局はねずみの国を探し当てるのですが、その探し当てる過程も愉快です。絵の好みはあるでしょうが、3冊しか邦訳されていないエゴン・マチーセンのこの1冊「あおい目のこねこ」だけでも、子どもたちと楽しんでほしい1冊です。

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ひとりぼっちのこねずみ

エゴンj
 「ひとりぼっちのこねずみ」(エゴン・マチーセン作・絵 おおつかゆうぞう訳 福音館)
昨日の教会ねずみ➡➡は、仲間が欲しくて、たくさんの仲間たちと猫と暮らす話でした。今日の「ひとりぼっちのこねずみ」の始まりはこうです。

≪こねずみのねずおは まだわかくて やせていました。まいにち、ねずおは あっちこっちと はいまわりました。そうやって、おなかにいれられるような たべものが すこしでもないかと さがしたのです。 でも、だめでした!ねずおは すっかり くたびれて、まえより もっと やせていきました。そして、まえには だれにも みられないくらいに はやく おともたてずに はしれたのに、とてももう、そんなには はやくはしれなくなってしまいました。ねずおは、おとうさんとおかあさんが どこにいるのか しりませんでした。それに、ねずおのきょうだいたちは、みんなそれぞれ、どこかにいってしまっていました。   ええ、おはなしのはじまりは、こんなにかなしいものでした。≫

 そして、次のページで「けれど」と始まり、ねずことの出会いがあって、いろんな動物たちの家族を見て、親切なお百姓さんに出会い、そして、「ちゃんとしたねずみになったねずお」は、ねずこと結婚。たくさんのこねずみたちに囲まれ、幸せに暮らしました。

 始まりが悲しすぎる分、結末のめでたしめでたしが、嬉しい。

 ねずこがねずおに出会った当初、彼女が彼に言ったのは、≪あなたが もっと よく まわりを みていれば、きっと なにかが みつかるはずよ。わたしは、じぶんの あなのなかで あなたが くるのを まっているわ。≫と、しっかりしたお言葉。
 作者のエゴン・マチーセンは「あおい目のこねこ」(瀬田貞二訳 福音館)でも、このお言葉こそ使わずとも、まわりをよく見ることについても描いていると思います。(続く)

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教会ねずみ

教会ねずみj
 昨日の「番ネズミのヤカちゃん」(リチャード・ウィルバー作 大社玲子絵 松岡享子訳 福音館)➡➡は、大きな声で泥棒を退散させましたが、教会ネズミのアーサーも、教会に忍び込んだ泥棒を捕まえます。

「教会ねずみ」のシリーズは、過去に8冊、現在は徳間書店から3冊出ています。
そのシリーズの1冊目は、泥棒を退治する話、「教会ねずみとのんきなねこ」(グレアム・オークリー 三原泉訳 徳間書店)です。
細かすぎる、あるいはリアルすぎるネズミの絵が好みでない人もいるかもしれませんが、個人的には、舞台がイギリスというだけで、ちょっと楽しい。

 教会に住むねずみアーサーは、教会で安心して暮らしていました。というのも、サムソンという、ねずみをいじめたりしない猫が居るからです。アーサーもサムソンも、牧師さんの話「みんななかよく」というお話をよく聴いているからでした。が、ある日、仲間が引っ越して来たら、楽しくなるぞと、思いつき、町のねずみたちを集め、教会暮らしの良さを一席ぶったのです。そして、たくさんの仲間が引っ越してきたのは、いいのですが、少々、トラブルが・・・とはいえ、結局、泥棒を捕まえたのですから、めでたしめでたし・・・

 さて、この絵本のねずみのアーサーとねこサムソンは、先日の「アンジェリーナはバレリーナ」(キャサリン・ホラバード文 ヘレン・クレイグ絵 おかだよしえ訳 講談社)➡➡のように、クリスマスがきたり、レストランをやったり、ヴァカンスに出かけたり、宇宙飛行士になったり、海外ロケに行ったり、誘拐されたり・・・とシリーズ化されています。とはいえ、アンジェリーナや「ぐりとぐら」(中川李枝子文 大村・山脇百合子絵 福音館)のように、どれもが子どものすぐわかる身近なテーマというわけではありません。
 イギリスの生活文化を、踏み込んで描いているものもあって、少々、理解するのが、難しい部分もあります。また、絵がたくさんあるので、絵本というより、大きい子どものコミック本という様相もあります。
 ただ、BBCの連続現代ドラマが好きな人(子どもではない)には、絵本の形をしたBBC現代ドラマみたいな側面を楽しめるかもしれませんが・・・

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番ネズミのヤカちゃん

番ネズミj
「番ネズミのヤカちゃん」(リチャード・ウィルバー作 大社玲子絵 松岡享子訳 福音館)

おかあさんねずみと、四匹の子ねずみの一家は、ドドさんの家の壁と壁の隅間に住んでいました。
4匹のうち、3匹はおとなしくてしずかな子でしたが、四匹目は「やかましやのヤカちゃん」と呼ばれる、大きな声の子ねずみでした。

おかあさんが、暮らしのルールの数々を教えると、3匹の子ネズミは小さな声で「うん、わかったよ、おかあさん」と言いますが、ヤカちゃんだけは「うん、わかったよ」「なに、そのねずみとりって?」「でも、ねこってなあに?」と、大きな声で言います。
すると、「しーっ、しずかに!」と、お母さん。

そんなヤカちゃんが、その大きな声で、ドドさんの家に入った泥棒に気づき・・・という、わかりやすい展開のお話です。

大人は、話声をコントロールするなんて、簡単なことと思っていますが、小さな子には、結構難しいもの。ましてや、ひそひそ声なんて、なかなか、小さな子にはできません。原題はLOUD MOUSE

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アンジェリーナはバレリーナ

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 ネズミ年 も、3分の2過ぎましたが、周知の事実の混乱にも関連して、ネズミの絵本を紹介する予定が、ずいぶん、ずれ込んでいます。ネズミは、小さくてちょろちょろしたイメージが子どものお話に合うのでしょう。絵本にたくさん登場します。

 そんななか、「アンジェリーナはバレリーナ」(キャサリン・ホラバード文 ヘレン・クレイグ絵 おかだよしえ訳 講談社)は、シリーズ化され、ネズミのアンジェリーナは、はじめてステージに立ったり、スターになったり、スケーターになったり、おねえちゃんになったり、ハローウィンだったり、クリスマスだったり、はるまつりだったり、誕生日だったり・・・
 ここまでシリーズ化されたネズミは、野ネズミとは言うものの、日本なら、「ぐりとぐら」(中川李枝子文 大村・山脇百合子絵 福音館)シリーズですね。かいすいよくにいったり、クリスマスをいわったり、かぼちゃでてきたり、大掃除したり、遠足行ったり、ともだちできたり・・・

 アンジェリーナは、寝ても覚めてもバレリーナに憧れる女の子。その子が、本当にリリー先生のバレエ教室にレッスンに通いだし、いい子になって、やがてはマドマゼル・アンジェリーナという有名なバレリーナになるというお話。
 そして、「アンジェリーナのはじめてのステージ」という続編では、踊るのが好きでも勝手にぴょんぴょんやってる小さないとこのヘンリーと同じ舞台に立つことに。妖精の役と、妖精を探す小さな役。
 
 昔、昔、カ・リ・リ・ロが子どもの頃、バレエを習っている子が居て、羨ましく思っていたことがあります。レッスンするのが、幼稚園の部屋の一室だったものですから、のぞきに行ったこともあります。そして、その子は、大人になっても、姿勢のいいおばさんになりました。

 バレエという華やかで誰でもが経験できない世界、衣装も可愛く、非日常。多くの小さな子どもたち――特に女の子――が、憧れる世界が描かれている絵本です。が、絵本を楽しめる年齢でも少し大きめの子の方が、アンジェリーナの心の動きも楽しめるかもしれません。
 絵は、細かく、隅々まで、遊び心があって、わかりやすい絵が描かれています。

☆絵本の話と全く関係ありませんが、写真に写るオレンジの薔薇は、お盆明け、危険な暑さと言われた週に、べランダで咲いた薔薇です。切り取る前から、ドライフラワーみたいでした。

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