8月も終わります。本当に暑い・・・(まだまだ)
加齢により体力も落ちたことも起因し、クーラーつけっぱなしの夏でした。
以前は、クーラーが嫌いで、いつも、羽織る上着を持ち電車も弱冷車。もちろん、クーラーをつけたまま寝るということもなく(ただ、マンションの屋根が焼けているので、以前の木造暮らしとは異なるとはいえ)、ともかく身体が冷え切るのを嫌っていました。
さらにいうと、汗もほとんどかかない、代謝の悪い身体だったのを、水泳やその後のサウナを繰り返すことで、ようやく普通の汗をかけるようになってきていたのですが・・・今や、少し動くだけで汗はかくし、流れるし、夕飯の支度など、うんざり。
ということで、クーラーのお世話になる毎日でしたが、今、原子力発電もほとんど稼働していない中、節電という言葉が一切聞かれないのは、何故?
かつて、節電節電といって、地下街の電気も一つ置きにしか点灯してなかったり、甲子園野球のピークと一番暑い時期の電気消費量が云々と言ったり、企業にもいろんな節電要請したりしていたときと、大きな差。
消費電力の少ない家電や企業努力が成果を上げたから?企業が海外に工場を移したのも大きい?
それとも、猛烈な暑さを超える危険な暑さだから、節電など言ってられない?
それとも、原子力発電稼働しないでも、それに代わる発電が頑張ってる?まさか!
節電節電。電力足らんから、もっと電気作ろう。それには、原子力発電!と、かつて世論を動かしたかった人たちの存在に気づいた暑い暑い夏でした。
(承前)
「デカメロン」の作者ボッカチオ自身の後書き(結び)は、面白い。もし、100話読む気力が湧いてこないなら、ここだけでもで、いかが?
この後書きの中で、≪第4日の冒頭で言ったように≫、という箇所があり、3日目30話済んだところで、「デカメロン」が世間から風当たりがあったのだとわかります。つまり、4日目で少々(グダグダと)申し開きをし、最後の最後で、主張したと言えましょう。
このことから、「デカメロン」河島英昭訳 講談社文芸文庫には、収録されていなかった第4日の冒頭を読むために、平川祐弘訳 河出文庫も読むことに・・・先日の「イザベラとバジルの鉢」➡➡の元の話も4日目第5話でした。つまり、河島英昭訳 講談社文芸文庫の「デカメロン」には、第4日の10話がまったく収録されていません。
では、第4日の前がきから・・・
≪親しいご婦人の皆さま、塔は天に聳えれば聳えるほど風は激しく撃ち、梢は高ければ高いほど、嵐は激しく揺すります。世の荒れ狂う嫉妬の風も同じだと賢人は申します。…(中略)・・・だが、どうやら考え違いでした。私は世の妬み嫉みを買うまいと、常に心掛けてきたのです。そのような荒れ狂う気性の風に叩かれることのないようにと、人生の低地を歩き、深い谷に沿って、進んできました。そのことは私が書いた短いお話をご覧くださいます方々には、明々白々だろうと思います。…(後略)…≫と始まり、
≪・・・・また、賢明な知恵者としてより、侮蔑をこめた悪意の人としてこんな口を利く方もおありです。「ボッカチオはもっと知恵を働かせて日々のパンがどこから手に入るかを考えるべきであって、霞を食うような空しいお喋りはいい加減にせい」というご意見です。かと思えば、私の労作にけちをつけようとして、私が話したことと実際とはまるで違うと力説したりなさいます。というわけで、・・・≫
≪…私は本書の三分の一もまだ仕上げていませんが、なにしろ敵は多数で、押しが強いときているから。本書を完成するまでに私が放置すれば、こちらからの反論、反撃がないのを勿怪の幸いに、その数もいや増すに相違ありません。・・・・≫
などなど、デカメロンの第4日の初めに、書き述べるわけです。で、100話のあとの後書き(結び)は、というと・・・(続く)
☆写真は、スイス イタリア語圏 ベリンツォーナ
(承前)
詩集を読むとき、その詩人の作品すべてが好きになるわけではないし、隅から隅まで読まないことも多いです。1冊で、一つか二つ、お気に入りの詩が見つかったら、嬉しい・・・といった、詩集の接し方です。
キーツ詩集には、さきの「イザベラとバジルの鉢」➡➡のような昔の(中世の)話を土台にしたものもあるし、ギリシャ神話やシェイクスピアなどを土台にしたものも入っています。同時代のキーツとラファエル前派は文学作品をもとにした絵が多いこともリンクします。
さて、この「キーツ詩集」を初めて手に取ったときに、気に入ったのが、「侘しい夜が続く12月に」という詩でしたが、多分、冬か、秋に読んだと思われます。というのも、この暑い8月に、もう一度、眼を通してみると、その詩より、こっちの方が、ぴったり来ました。単純なもんです。
「きりぎりすと蟋蟀」(キーツ詩集 中村健二訳 岩波文庫)
≪大地の詩が滅びることはない。
すべての鳥が熱い日差しにぐったりして、
涼しい木の間に隠れるとき、刈り終わった牧草地の
生垣から生垣へ、声が流れるだろう――
それはきりぎりすだ。彼は夏の贅沢な
虫の音の先陣を切る。彼の愉しみは
尽きることがない。というのも、歌に飽きると
どこか快適な草の下でのんびり休めるから。
大地の詩は決して絶えることがない。
・・・・・・・(後略)・・・・≫
二行目です。
別の訳者は、ここを
≪鳥たちがすべて酷熱の太陽に気も遠くなり≫と訳しているのですが、(対訳 キーツ詩集 宮崎雄行訳 岩波文庫)
カ・リ・リ・ロとしては、今現在、「熱い日差しにぐったりして」に共感してしまいます。
感傷とか 美意識とかとは違う まったく 単純な感覚です。(続く)
(承前)
さて、次は、ジョン・エヴァレット・ミレーの「イザベラ」。(*ミレーは、オフィーリア➡➡の画家)
左手に3人並んで嫌なお兄さん。、妹のイザベラとロレンゾをにらんでいるでしょう。一番手前のお兄さんなんか、妹が優しくなでている犬を蹴飛ばそうとしているし、苦々しく、クルミを割ってもいます。恋人同士が分け合っているのは、真っ赤なブラッディオレンジだし、ちょっと見えないのですが、そのお皿の絵は、首切りの絵らしい。そして、その5人以外は、我関せずと、お食事中。給仕も入れたら絵には13人。バルコニーには、植木鉢も見えます。また、昨日、書いたように、3人の兄弟とイザベラとロレンゾのほかは、少々、階級が違う人々。(*参考:「ラファエル前派画集 女 」ジャン・マーシュ 河村錠一郎訳 リブロポート)
14世紀のボッカチオ「デカメロン」では、淡々と話が進むので、こんなお食事の場面はありません。また、賤しい身分という表現は、時々見られますが、当時、英国ラファエル前派集団が表現したかった、階級社会については、深入りしていません。(続く)
(承前)
ラファエル前派集団の画家たちは、キーツの詩に連作挿絵をつけようとしたらしく、それには、「聖アグネス祭の前夜」 や「イザベル、またはバジルの鉢」(キーツ詩集 中村健二訳 岩波文庫)があり、ホフマン・ハントは、昨日の絵➡➡と、もう一枚、上の「倉庫で机に向かうロレンゾ」を描いています。まだ、ロレンゾが生きて、働いているときの絵です。
つまり、昨日の絵「バジル」は、バジルの鉢を抱え、悲嘆に暮れている箇所の絵で、今日の絵「倉庫で机に向かうロレンゾ」は、ロレンゾがイザベラの高慢な兄のもと、倉庫の中で仕事をしながらも、イザベラがそっと入ってくるのに気づいている様子を描います。
が、恋人たちを隔てる硬い直線。あるいは、二人の間の犬。
そしてまた、ここには、恋愛事情を表現しているだけでなく、当時、身分の違う恋人たちの仲を引き裂く原因となった階級意識についても描かれているようです。それは、背景に描かれている搾取される側の人々です。これは、次に、紹介する連作挿絵仲間のジョン・エヴァレット・ミレーの「イザベラ」という絵にも登場しています。
(*参考:「ラファエル前派画集 女 」ジャン・マーシュ 河村錠一郎訳 リブロポート)(続く)
単純なもので、昔、絵本の集まりで知り合った人たちの子どもたちが、活躍されているのを小耳にはさむのは、嬉しいものです。しかも、絵本とつながっていると思われるのは、なお嬉しい。
保育士や幼稚園の先生になった人たちは、絵本から遠くないのは当然ながら、さらには、絵本を出版しイラストでも活躍している今やお母さんの彼女や、絵本を楽しんだ子ども時代を過ごし、最近、個展(上の写真は、その一部)を楽しませてくれた若手➡➡。
ずいぶん昔、長男が就職か、このまま試験を受け続けるかで迷っていた頃、絵本出版の大手、福音館に登録したら、さっさと落とされたものの、福音館を探し出したことに、嬉しい想いをしたことがあります。
そして、孫の母親(長女)が、このばあばと同じリズムで、昔楽しんだ絵本を読んでやっている様子は、この上なく嬉しい。
欲張らず、小さな種をまき続けていたら、その種は、いつか、またどこかで芽吹く種になる、と思う。
(承前)
「ねずみの歯いしゃさんアフリカへいく」(ウィリアム・スタイグ 木坂涼訳 セーラー出版)
「歯いしゃのチュー先生」(ウィリアム・スタイグ うつみまお訳 評論社)➡➡の続編ですが、名前がソト先生、奥さんの名前がデボラさんと訳されています。チュー先生の原題もDOCTOR DE SOTO となっていますから、チュー先生も本当はソト先生だったのです。日本の子どもたちには、チュー先生の方が、馴染みやすいかもしれません。
≪ねずみのソト先生は、何百万人にひとりいるかいないかという腕のいい歯いしゃさんです。助手であるおくさんのデボラさんのひょうばんも たいしたもので、ふたりの名前は 世界に知れわたっていました。≫で、始まります。それで、アフリカから象の歯の治療の依頼が来て、出かけます。ところが、象の治療を本格的にするまえにアカゲザルに連れ去られ、閉じ込められてしまいます。が、なんとか脱出するも、石につまずいて、くるぶしを骨折。あきらめかけた時、みんながやってきて、担架に乗せられ、無事、救出。
さて、はじめは、痛さをこらえながら「おふたりに かんひゃ ひます」と言っていた象のムダンボ。痛み止めの薬を、ココナッツミルクで流し込むのがやっとだったムダンボ。地響きのような悲鳴をあげていたムダンボ。が、車イスに乗った ソト先生の指示で、おくさんのデボラさんが虫歯をほり、博物館から きふしてもらったセイウチのきばを けずってつめると、虫歯は みごとに なおり、ムダンボは、≪にっこり、くすくす、ぐわはっはっは!おくさんの手をとり、ドシン、ドシン おどりだすしまつです。≫
その後、おくさんのデボラさんは「ねえ、あなたのからだが よくなるまで、わたしたち このまま旅をつづけないこと?」と、ソト先生に提案。その返事は、いかに???
***さて、ソト先生夫妻のようには、今夏 旅に出られませんが、祝日やお盆休みで、ちょっと、休みます。
(承前)
ウィリアム・スタイグは、もともと漫画家でイラストレーターだったようですが、後半生は、たくさんの動物の出てくる絵本を残しています。
ネズミの絵本でいえば、「ねずみとくじら」(ウィリアム・スタイグ作 瀬田貞二訳 評論社)➡➡のように、ネズミだけでなく、2種の動物が主人公ではなく、「歯いしゃのチュー先生」(ウィリアム・スタイグ うつみまお訳 評論社)は、まさに、主人公がネズミです。
とても、患者想いの先生が歯いしゃのチュー先生です。
はしごを使ったり、別室で宙釣りになりながら、治療したり、大きな患者には、長靴をはいて、口のなかで治療したり、指先が器用でドリルを優しくかけるので、痛みなんか感じないほど…
そして、ネコや危険な動物の治療は断っていました。
ところが、やってきたのが、ほっぺを包帯でぐるぐる巻きにしたキツネ。一端は治療を断るものの、痛がるキツネをみて、治療することに。さて、そのキツネに、下心がわいてきて・・・
お話の終わりは、なかなか愉快です。
が、お話もさることながら、絵も、楽しい。
「ゆかにおすわりになって、」と、キツネに指示するチュー先生の怖い顔。
「キツネをしんじるなんて、バカみたよ!」と、ぶつぶつ言ってるチュー先生の顔。
さらに、「いったんしごとをはじめたら、わたしは なしとげる。おとうさんもそうだった。」ときっぱりいうチュー先生の鋭い顔。
そして、最後のページ、二階の診察室から階下に降りるキツネの絵ですが、階段は大きい動物用と小さい動物用の二種類が並んで描かれています。
やっぱり、チュー先生は、患者想いの名医です。(続く)
「七ひきのねずみ」(エド・ヤング作 藤本朝巳訳 古今社)
このコラージュの絵本は、画もあっさりしているなら、文もあっさり。とはいえ、とても小さい子どもには、最後のねずみの教えは理解しにくいと思います。
7匹のねずみが池で不思議なものに出会い、まず月曜日に、赤いねずみが調べに行くと「がっしり はしらだ」と言います。火曜日には、緑のねずみ「あれは くねくねへびだ」 水曜日は、黄色ねずみ…木曜日は…結局、みんなの言うことが てんでバラバラなので、日曜日に白ねずみが近づき、はしからはしまで駆け回りました。
そして、「なるほどね、やっとわかったわ」みんなのいうことを合わせると、「ぞうよ!」
それから、ほかのねずみもかけあがり、はしからはしまで調べて回りやっと、全部が見えたのでした。
そこで、最後に、ねずみのおしえ:
≪すこし みて わかったつもりは まちがいのもと すみから すみまで ぜんぶ みて ほんとうのことが わかるのです。≫
この大きなものと小さなねずみの対比のお話は、他にもあります。また、強いものと小さいものの対比として、先日書いた、ライオンとの対比もありましたね。マウスさん一家とライオン(ジェイムズ・ドーハーティ作 安藤紀子訳 ロクリン社)➡➡(続く)