FC2ブログ
 

みんなみすべくきたすべく

チェスセット

チェスj
(承前)
「バウハウス展」には、お洒落な家具やティーセットとともに、玩具もありました。今は、ネフ社という玩具メーカーがその意匠を持っているようです。
展示を見ていくと、「あ!これ、うちにある!」

 そうです。上の写真のチェスセットです。まったく同じ。やはり、今は、ネフ社のもの。家に帰って、引っ張り出すと、箱には、バウハウスと書いてあるではありませんか!
 
 家族誰も、チェスが出来ず、宝の持ち腐れでもありますが、ただ、あまりにお洒落で、いつか、誰か、これを飾っても(使っても)おかしくない空間を用意できる人のためにと、他の玩具と一線を画して保存していました。

 それにしても、これを買ってくれた私の母、つまり、子どもたちのおばあちゃん、単に、綺麗だからという理由で、買ってくれたような気がします。今更ながら、そのセンス、いいなぁと思います。ほかにも、たくさん、ありがとう。

PageTop

バウハウス展

バウハウス85
 西宮市大谷記念美術館「きたれ、バウハウス展」(~12019年12月1日)に行きました。副タイトルには、「造詣教育の基礎 開校100年」とあります。
 カンディンスキーやポール・クレーが先生をしていたこと、ナチスに閉校に追い込まれたこと・・・・・その時代だったことぐらいしか、知識がありませんでしたが、今回足を運んだのは、建築を勉強している甥が、ちょっと、この流れの末端の勉強をしているからでもありました。

 建物の下にある総合芸術をコンセプトに、家具、設え、写真など、そして、もちろん、建築の基礎から、学べる学校だったのがわかりました。
 前半、学生たちの課題作品が並んでいたあと、カンディンスキーやクレーなどの先生の作品コーナーに来た時、作品を見ただけで、今までと違うのがわかり、さすが、先生・・・と、何故か、ほっとしました。課題ではない、伸びやかさが感じられたのだと思います。

 館内は、学生さんと思しき若い人たち、一目でそれっぽい様相の人(アート関係)で、にぎわっていました。ダサい我々、母娘のようなものでも、体験型コーナーは楽しめましたし、現代も作られている当時のレプリカの椅子に座って満足したりもしてました。(続く)

☆写真下は、左手前パウル・クレー「ホフマン風の情景」、上カンディンスキー「小さい世界」 右シュミット「デッサウ市の案内パンフレット」、中央の紙細工は、入場半券。
バウハウスj


 

PageTop

おかあさんは、なにしてる?

マリノ (1)j
(承前)
 くんちゃんがお気に入りの孫(3歳)が、図書館で借りたのが同じドロシー・マリノの描く「おかあさんは、なにしてる?」(ドロシー・マリノ作・絵 こみやゆう訳 徳間書店)でした。

 なぜ、同じ作者とわかるのか、不思議です。片やクマの子だし、片や幼稚園に行く子どもたちの話です。もちろん、同じ画家ですから、色合い、雰囲気は同じなのですが、数ある図書館の絵本から選びだしたのも興味深いことです。ま、作者別になって、くんちゃんと並んでいた、単なる偶然だと思いますが・・・

 くんちゃんも、ほとんど、暗唱できるくらい、なんども読んでもらっていましたが、ある時、孫の母親が動画を送信してきました。孫が、母親に「絵本読んであげよう」と読んでいるシーンでした。
 お布団に寝そべって、お風呂上がりの吸水タオルを頭にまき、読んでいるのが、「おかあさんは、なにしてる?」でした。(毎晩、寝る前に、母親が3冊読むようですから、動画は、別の絵本2冊のもありました。)

 まだ、「サ行」や「タ行」が、しっかり言えない孫が読むのは、
「・・・ふたごのリンダと ライルが、がっこうで しゃんすう(算数)を ならっているとき、 リンダとライルの おかあしゃん(おかあさん)は、かいしゃで けいしゃん(計算)を ちています(しています)。・・・」「シュージャン(スーザン)が、ビーズのかざりを ちゅくっているとき(作っているとき)、シュージャンのおかあしゃん(おかあさん)は、シュージャン(スーザン)のあたらしい ふくを ちゅくっています(作っています)。」「マイケルが、しゃくぶん(作文)をかいているとき、マイケルのおかあしゃん(おかあさん)は、おばあちゃんに てがみを かいています。・・・・」

 しゃんすう(算数)がなにか、しゃくぶん(作文)が何かも、まったく知らない3歳の孫ですが、おかあしゃんお母さんの読んでくれるお話は、しっかりと耳にとどめ、楽しんでいる様子です。子どもに本を読んでもらえるなんて、なんて幸せなひとときなのでしょう。

☆上記写真は、「おかあさんは、なにしてる?」の表紙ですが、中央、ジェーンと手を繋いでいるのは、ジェーンのおかあしゃん
お母さんではありません。さて、だれでしょう? 

PageTop

くま、くるみ、くまんばち

マリノ (2)j
 くんちゃんのシリーズは、秋の今なら、「くんちゃんはおおいそがし」。夏なら「くんちゃんのもりのキャンプ」冬なら「くんちゃんのだいりょこう」クリスマスシーズンは、「くんちゃんのふゆのパーティー」などなど、四季折々の話があります。なので、保育現場で、日々、読んだり、家庭で、四季を感じながら楽しむことのできるシリーズです。

 作者のドロシー・マリノは、「ふわふわくんとアルフレッド」「おかあさん なにしてる?」「スティーヴィーとこいぬ」➡➡「ベンジーのもうふ」など、小さい子どもの生活を、その子の目線で、優しく描くことのできる作家です。(ただし、後ろ二冊の文は、マイラ・ベリー・ブラウン)

 それで、今夏、激しい夕立のあとの大きな虹を見た孫(3歳)に、「くんちゃんとにじ」を貸しました。
 繰り返し読めとせがんでいたようですから、次に、うちにきたとき、くんちゃんのシリーズ全冊、広げたら、「わぁ、くんちゃん、いっぱーい!!!」と、すべて、持って帰りました。
 するうち、保育園でアデノウィルスが流行し、孫もその洗礼を受け、高熱が出ました。
 夜、うなされながら、彼女がつぶやいたのは「くま、くるみ、くまんばち・・・・」という言葉。

 「くま、くるみ、くまんばち」は、「くんちゃんの「はじめてのがっこう」の中で、初め、学校になじめないくんちゃんが、優しい先生の導きで、教室に入るきっかけとなったシーンで、くんちゃんが大声でいう言葉です。

 高熱と戦う孫のつぶやいた一言は、彼女の奥の奥で力となっていた大事なものを見せてくれたような気がします。(続く)

くんちゃんのシリーズ(ドロシー・マリノ作)
「くんちゃんのだりょこう」(石井桃子訳 岩波)「くんちゃんのはじめてのがっこう」「くんちゃんのはたけしごと」「くんちゃんのもりのキャンプ」「くんちゃんとにじ」「くんちゃんはおおいそがし」(まさきるりこ訳 ペンギン社)「くんちゃんとふゆのパーティー」(あらいゆうこ訳 ペンギン社)
「おかあさんは、なにしてる?」(ドロシー・マリノ こみやゆう訳 徳間書店)
「ふわふわくんとアルフレッド」(ドロシー・マリノ 石井桃子訳 岩波)
「スーザンとマイケルはいちねんせい」(ドロシー・マリノ まさきるりこ訳 アリス館)
「スティーヴィーのこいぬ」「ベンジーのもうふ」(マイラ・ベリー・ブラウン文 ドロシー・マリノ まさきるりこ訳 あすなろ書房)

PageTop

メインの海

うみべのあさj
(承前)
 本が本を呼ぶ・・・文学の楽しのみ方の一つだと思います。映画を見て原作を読むのも、その一つだし➡➡、面白かった作家のべつの作品を探すのも、その一つ➡➡。もちろん、書店の溢れかえる本棚の前で、ワクワクするのも、その一つ➡➡。などなど。

 それで、「とんがりモミの木の郷ー他五篇」(セアラ・オーン・ジュエット作 河島弘美訳 岩波文庫)➡➡を読んでいて思いだしたのが、「海べのあさ」(マックロスキー作 石井桃子訳 岩波)の最後のシーン。 「ハマグリのスープが できてるのよ!」というサリーの声まで聞こえました。
 
≪ ある朝、歯がぐらぐらしているサリーは、すでに海岸でハマグリを掘っているお父さんのところに行く途中で、魚をつかんで飛んでいるミサゴに「あたしの歯、1ぽん ぬけかかってるの!」というものの、ミサゴは返事もしないで飛んで行ってしまい、次に水際近くのアビにも「あたしの歯、1ぽん ぬけかかってるの!」また、次には、アザラシにも「あたしの歯、1ぽん ぬけかかってるの!」
ついには、浜辺にいたお父さんに「パパ、あたしの歯、1ぽん ぬけかかってるの!」
 それで、お父さんと話しながらハマグリを探しているうちに「あれ?」・・・≫

 歯が抜けるような時期の子どもと一緒に楽しんでほしい1冊です。黒に近いダークブルー一色で描かれた絵本は、海の青さ メインの森の深い緑が、伝わってきます。そして、サリーとジェインの動きの可愛らしいこと、子どもを、よく知る目がこの作品を描いたと言えます。

 加えて、このサリーとジェインが大きくなって、絵本「すばらしいとき」(マックロスキー文・絵 わたなべしげお訳 福音館)➡➡に再登場し、またメインの海辺が見られたとき、そして、その「すばらしいとき」に描かれた大事なことに出会ったとき、ますます、マックロスキーの絵本の虜になるでしょう。
 
 そして、次には、やはりメインの海で書かれたレイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」「沈黙の春」という読書につながっていく。

*「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン 上遠恵子訳 佑学社 新潮社)
*「沈黙の春」(レイチェル・カーソン 青樹 簗一訳 新潮文庫)

       うみべのあさjj
☆写真上は、アメリカ合衆国メイン州(撮影:&CO,T1)
 

PageTop

つながっている

すばらしいときj
(承前)
 「とんがりモミの木の郷ー他五篇」(セアラ・オーン・ジュエット作 河島弘美訳 岩波文庫)➡➡を読んで、シェイクスピアを思い出す人も居るでしょう。また、カ・リ・リ・ロのように、マックロスキーの絵本を思い起こす者もいるでしょう。あるいは、遠く、メインの海を思い浮かべたり、故郷の海を浮かべたり、千差万別。
 文学が、文学を呼び、文学が芸術全般につながり、文学が科学につながっていく。・・・・だから、文学は広く深く、続いているのです。
 
 何か、結果が出るから、文学に近づく。という考えが間違っていると思っています。
 絵本を、子どもに読んだからと言って、子どもがその本を好きになると限らないし、ましてや、絵本の読み聞かせが本好き、あるいは、国語力につながるなどと、考えたこともありません。ずっと、楽しみを分かち合うために、絵本を子どもと楽しんできたし、今は、学生たちとも楽しんでいるつもりです。(優れた絵本を、文学の第一歩と捉えない人は、論外です。)

 読書感想文という評価対象の課題をこなそうとするから、夏休みの本読みがしんどいものになるだろうし、いい感想文を書くための読み方になるかもしれない。
  国語の授業で、先生が気にいる答えが出せる人が優等生で、ただ、面白かったと思っている人は、その作品がわかっていないってことに、なるかもしれない。
 入試問題に文学作品を載せても、その作家自身は、その設問に答えられないこともある、などなど・・・

 評価の対象ではなく 国語の教科書にある文学作品は、文学への手引きとなればいい。
 が、しかし、その手引き書が大学入試に関係ないから、採点が難しいから…等と、遠ざけていくのは、まったくもって、違っている。(続く)

☆写真上は「すばらしいとき」(マックロスキー わたなべしげお訳 福音館)
➡➡

写真下は、アメリカ合衆国 メインの海辺近く。10年ほど前に、長男が行ったときの写真です。知らない人が見たら、ただの倒木の根っこの写真ですが、長男には、多分、絵本「すばらしいとき」の絵が重なったに違いありません。
    すばらしいときjj

PageTop

とんがりモミの木の郷

メイン
(承前)
 まだ、高校国語文学問題➡➡につながっていると思うことを書きます。

「とんがりモミの木の郷ー他五篇」(セアラ・オーン・ジュエット作 河島弘美訳 岩波文庫)➡➡
の舞台は、アメリカ東部メイン州の海辺の町です。
ああ、ここで思い出す絵本(たち)・・・・

 「とんがりモミの木の郷」の冒頭。海辺の町を紹介する箇所。
≪・・・岩だらけの海岸、黒い森、そして波止場のそばの岩棚にしっかりと押し込まれ、木釘で留められたような、まばらな家々に惹きつけられるのもーー。これらの家々は海を見渡す眺望を大事にし、庭は小さくとも必ず、花をいっぱいに植えて明るくしていた。急勾配の破風の一番上にある小さなガラス窓は、注意怠りのない目のようだったーー港とその向こうの遠い水平線を見張っていたり、あるいは北に続く海岸と後ろに広がるトウヒやバルサムモミの林を眺めていたりーー。≫

≪・・・・・嵐の時に海からのしぶきがかからない場所なんかあまりないくらいよ。・・・・・・南側に奥まった入江があって、低い方の一部が干潟になっているのよーーー上等のハマグリがとれるの。≫

ほら!思い出した?あの絵本!

メイン50

≪大きな貝塚がいくらか風をさえぎってくれるところに≫

ほらほら!あれ、あれ・・・あっちの絵本!

≪・・・(父親は)自分の持っていた一本マストのスループ型帆船をそこに停めて≫

これでも思い出さない人は、ダレ?

≪掘ったハマグリを一杯に積むとポートランドまで行ったの。商人は割増値段で買ってくれたらしいわ。評判のハマグリだからね。ジョアンナも、よく父親と一緒に行ったらしいーー気の合う親子だから。≫

あの絵本(たち)、思い出しましたか? (続く)

「海べのあさ」(マックロスキー文・絵 石井桃子訳 岩波)
「すばらしいとき」(マックロスキー文・絵 わたなべしげお訳 福音館)➡➡
「沖釣り漁師のバート・ダウじいさん」(マックロスキー文・絵 わたなべしげお訳 ほるぷ 童話館)

☆写真は、アメリカ合衆国 メイン州(撮影:&CO.T1)

PageTop

美しい一節で心が落ち着いた

もみのき13
(承前)
 高校国語の文学問題➡➡と繋がってると、勝手に考えていることを、もう少し、書きます。

 この件を書こうと思ったときに、たまたま読んでいた本が「とんがりモミの木の郷  他五編」(セアラ・オーン・ジュエット作 河島弘美訳 岩波文庫)でした。

 その短篇集は、息を飲むような展開のものでなく、またロマンスでもありません。日常を描いているものでした。そして、そこには、知恵のある暮らしや、幸せのひとときが、書かれています。

 訳者あとがきによると、≪日本で、ジュエットの知名度が低いのは、これまで邦訳や研究が少なかったためであろう。その一方で、大学用のアメリカ文学の教科書には「ローカル・カラー文学の担い手」の一人として必ずと言ってよいほど取り上げられ、文学史上の重要性は認められている。≫
 また、≪ジュエットの作品の楽しさを、率直な善意と好意あふれる「癒やし系」であること≫とし、≪現代の読者に元気を与える小説である≫と、しています。

 加えて≪・・・ジュエットの主な関心は、プロットよりも、それぞれの人生経験を積んだ人物たちと生き方と言動に向けられている。・・・・(中略)・・・ 一見すると何でもない日常を描いた小説でありながら読む者の心に余韻を残すのは、その力のゆえである。・・・・(中略)…過去あるいは未来を巧みに現在と響きあわせるジュエットの小説には、これこそ読書の醍醐味だとおもわせるものがある。≫

・・・ということで、「とんがりモミの木の郷」の話の前半に、こんな箇所がありました。

≪リトルペイジ船長は、物思いにふけった。「そしてわたしには、読書という宝がありました」と、船長は間もなく話し始めた。「本は一冊も持っていませんでした。牧師は英語を少しだけしか話せなかったし、持っている本は全部外国語でした。しかし、思い出せる限りの文を暗唱したものです。昔の詩人たちは、自分らの作品が後世の人間にとってどんな慰めになるものか、思いもよらなかったでしょうなあ。わたしはミルトンの作品を熟知していましたが、あそこにいた頃はシェイクスピアこそ最高だと思えましたよ。航海用語が正確だったし、美しい一節で心が落ち着いた。繰り返し暗唱して涙を流したものです。頭上に輝く星と、あの詩ーーあそこでのわたしには、それだけが美しいものでした。≫(続く)
☆写真は、スイス アルメントフーベル

PageTop

改めて益なきことは改めぬをよきとする

     アメリカフウj
(承前)
 高校国語の再編について書いた記事➡➡の中に、文芸誌の文學界9月号≪「文学なき国語教育」が危うい!≫という特集のことも書かれていたので、普段は、読んだことのない文學界9月号を図書館で借りて読みました。
 大学の先生、作家、元文科省次官、文芸評論家、歌人、現役高校教師(座談会)などが、この危機に、文章を寄せています。

 特集のそれぞれのタイトルを記します。
「教科書が読めない学者たち」「教育とは『文化遺産』の継承」「文科省元次官の個人的見解」「文学が契約書になり、契約書が文学になる」「理科系にも文学は必要だ――物理学者と数学者に聞く」「教科書が言葉を支える」「言葉の豊かさに触れること」「『文学』で『論理』は十分学べる」「保田與重郎の国語教科書」

 さて、この中で齋藤孝と北村薫の文から抜いてみます。
≪現状の国語教育に著しい欠陥がある、というわけではないのに、なぜ教科書や大学入試を大幅に替えようとするのでしょうか。「改めて益なきことは改めぬをよきとする」という『徒然草』の言葉がありますが、性急な改革の方向性は、国語だけはなく、英語などすべての科目の大学入試に言えます。  国語力を高めるためには、何よりもテキストが大切です。漱石や鴎外のような文豪の作品、あるいは『源氏物語』や『枕草子』のような古典的な作品は、作者の人格の大きさや、文学世界の広さから来る「凄み」があります。現代的な話しことばに近づいた文章ばかりが教科書に載るようになると、離乳食のようになってしまいます。ましてや、契約書のような、誰が書いたかもわからないような文章ばかりを読まされるようになると、国語が担ってきた文化遺産の継承という役割がきわめて疎かになる。そこを、私はいちばん危惧しています。≫(齋藤孝「教育とは『文化遺産』の継承」)

≪言葉の問題に関しては、今すぐ役立つことだけが大切ではない。国語が大きな流れの中にあることを忘れ、実用性、即効性をもとめれば、失うものもまた大きいでしょう。≫(北村薫「教科書が言葉を支える」)
(続く)

☆写真上は、公園のアメリカフウ 下は、黄金柏(西宮市大谷美術館)
      黄金柏j
 

PageTop

トリセツ

    ナンキンハゼ月j

(承前) 
10月21日の新聞記事に2022年から実施される高校の学習指導要領の再編について書かれていて、その見出しが≪国語も「トリセツ」重視?≫≪文章の海は豊かなのに≫といったもの。

今度は、11月3日の記事に≪思春期を揺さぶる「文学」が危ない≫の見出し。
つまり、両者、高校の国語の内容が大きく変わろうとしている危機を報じています。
カ・リ・リ・ロも、一応、教育学部出身であり、教育学修士でもあるので、学校での学習の指針が、学習指導要領にあることは知っていました。が、恥ずかしながら、高校の学習については、ついつい関心が薄く、大きく知らなかったというところが本当のところです。

今度の改訂で、つまり、2022年度から実施される高校国語の新学習指導要領では、国語の選択科目(2年から3年生)を「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」に再編成したようです。

10月21日記事によると、≪文章を論理的、実用的なものと、感性や情緒に訴えるものに区別した格好だ。文学も尊重すると、文科省は言うが、実際には、文学作品に親しむ時間は相対的に減るだろう。入試改革でも実用文への傾斜は避けられまい。≫と、しています。
 また、11月3日記事では、文科省側のコメントとして、
≪こうした批判に対し、文科省は「文学を軽視する意図はない。我々としては、文学作品を十分学べる『文学国語』を設定しているわけで、学校はよく考えて科目を選択してほしい。」と話す。≫

 はあ??????

 そして、この記事の筆者は、最後に、厳しい口調で記事を終えます。
≪・・・受験勉強偏重の中で、国語の授業で触れた文学からは、人間の弱い心に寄り添う声が届き、救われた。功利や目先の実用では解決できない人間の弱さを深く知り、共感する。その経験が生きる際の大きな糧となることを、忘れては困る。≫
 
さて、カ・リ・リ・ロにとって、国語の授業で出会った文学だけが、文学ではありません。また個人的には、論理的思考が培われなかった人生でしたが、今もまだ、まだ、まだ、読みたい本・読み返したい本があり、出会いを待ってくれている文学が、そこにあると思うだけで、楽しみをもって日々生きていけます。

 教科書で扱うか、扱わないかという論点ではなく、今ここで、今この日本で、文学をないがしろにしようとする姿勢は、間違っている。(続く)
       秋jj
☆写真上は、ナンキンハゼと有明の月

PageTop

急転直下

東福寺1

 今日、書くのは、「急転直下」というタイトルですが、「桜を見る会」の急転直下の動きのことはありません。このちょっと前の、急転直下のことです。(と、この2行、慌てて書き足しました。)

「幼児期」(岡本夏木著 岩波新書)に書かれた序章を紹介し➡➡、幼い頃の教育・保育の前途を考えていたら、今度は、大学入試時期の教育が大きく取り上げられ始めました。やっと。

 大学入試の一部 英語の民間委託評価方法が、変わろうとしていたのが、急転直下、延期になったのは、耳に新しいことです。素人でも、民間のテスト結果を提出するって、どういうこと???

 不明なことが多いのに、今頃、検討・議論されているのも、おかしい。いつも、振り回されるのは現場であり、今回は、受験生たち。人生の大きな基点となる大学入試を、大人の勝手で動かすのは、どうなんだ?(するうち、国語の論述問題も、民間委託評価という問題が、明るみに出てきました。やっと。)
 ここでも、一部大人たちの利害や、勝手が見え隠れ。利便性や、下手すると経済効果という側面で、教育が存在するのは、おかしい。

 「教え」「育む」の「育む」「育てる」という面がないがしろにされていない???
 グローバル感覚の評価というなら、入試で小手先を変えるのでなく、もっと、根本から議論・検証するのが、教育だと思う。しかしながら、問題は、大学入試だけではなかった。(続く)

☆写真上下、2019年11月中旬 東福寺臥雲橋から。この橋を通るのは、生活道路なので、無料です。

東福寺3

PageTop

一華院

一華5
 京都東福寺塔頭 一華院の秋の特別公開に行きました。
庭の特別公開のことばかり気になっていたら、紅葉と言えば、東福寺・・・ということをすっかり忘れていました。結果、東福寺塔頭の一華院は、拝観者もほとんどいませんでしたが、東福寺全体としては、にぎわっていました。

一華2

 一華院では、四神の庭を見ました。
≪四神とは、東西南北の四方を守る神獣のことで、南は朱雀、北は玄武、東は青龍、西は白虎が司る。四神相応とは四方に四神が配置されている土地のことである。北は丘、東は川、南は池、西は道のある地が適し、その地は長く繁栄すると言われている。京都(平安京)も、この四神相応を取り入れた地である。・・・・≫(一華院案内より)
一華3

さて、その四神を石や、松などで表現した庭の写真です。どれが、どの神獣を表しているか分かりますか?
一華4
☆写真上から 南庭 朱雀(伝説の鳥である朱雀が、庭中央で大きく羽ばたいている)北庭 玄武(亀が東から西へ泳ぐ姿) 西庭 白虎(大小の石で親虎と子虎に見立てている)東庭 青龍  一番下は、一華院のお玄関口近くのドウダンツツジ

一華6

PageTop

あの風

アイガー1

アイガー12
☆写真上は、2019年アイガーとメンヒが写っています。二番目写真は、2016年アイガーが写っています。

 英国びいきで、チャンスさえあれば、イギリスに行きたいと思っているものの、夫婦で毎年スイスに行っているのは、お互いの興味に歩み寄った結果です。

 スイスと言えば山、という固定観念さえなくなれば、自然は満喫できる、美術・博物館は充実している、しかも、海外旅行でポイントの高いと思われる 清潔で、安全、しかも鉄道が優秀・・・で、スイスをリピートしています。
 
 さて、だらだらとスイス報告を書いているうちに、今や、日本の秋、真っ盛りとなり、冷ややかな風が吹いていますが、スイス・リピート要因は、もう一つあります。
 かの地の夏に吹く風の心地よさです。我々、夏場の湿気に嫌気を感じている者には、くせになる。
 と、そのことを、近年、同じく、スイスファンになった友人に言うと、ああ、あの風。香りが違うやん・・・・

 が、しかし、ここで、定点観察➡➡などと悠長なことを言っている場合ではありません。もっと、個人ができることを考えます。あの風が、あの花が、いつまでも、地球の上にありますように。

PageTop

彫り物たち

彫刻1

 昨年行った スイス ルガーノの街にも彫塑は多かったのですが➡➡、スイスには、塑像や彫刻だけでなく、木彫りのものも、多い。
 山深いソノーニョ村➡➡やシャトーデー村➡➡ のように、山に囲まれた谷あいには、素朴な木工。
彫刻5
 
    彫刻11
    
    彫刻4
       
  ルガーノやロカルノの街には、スイスなのに、イタリア風の大理石のもの。
彫刻3

ロカルノのアンティークショップにはこんなレディもいましたよ。
彫刻2

 と、思ったら、サンモリッツには、こんな洒落男。
    彫刻9

一番上の写真は、レマン湖畔のモルジュ。向こうに見えるのは、朝のモンブラン。また、以下の レマン湖畔モントルーには、斬新な作品の数々。
     彫刻8

     彫刻7

彫刻6

彫刻10

PageTop

朝焼け

 朝2
 夜更かしのできないタイプですが、朝は得意です。
 特に旅先で、朝焼けを見るのは、幸せなひと時です。シーンと静かな空気。薄桃色の東の空。
 旅から帰ってきて、写真を見ながら、思い出すのも嬉しい旅のお土産。
 が、しかし、今回の写真を見て気付いたこと。最初の朝は、時差の関係からか、結構遅く起きているのか、もうすでに青空になっている!(一番下の写真)
 それで、旅の最後の方は、早く起きて朝焼けも綺麗・・・ということで、今回の写真は、旅の最後から、順に並べてみました。レマン湖畔モルジュ3枚、ブリエンツ湖畔インターラーケンオスト3枚、サンモリッツ湖畔、マッジョーレ湖半ロカルノの順です。

朝4

朝3

朝7

朝やけ

朝5

あさ1

朝6j

PageTop

駅の構内

 駅7
(承前) シャトー・デー駅➡➡は、なかなか楽しいものでしたが、スイスの鉄道駅は、改札口がありません。なので、自由に出入りして、それぞれの意匠をあちこち見て回ることもできます。古い駅はそれなりに、改装された駅もそれなりに、大きな駅も小さな駅も・・・です。
 いつも利用するシュピーツ駅も、こっちは、上のような景色。(湖は、トゥーン湖)。反対側は、こんな景色(ニーゼン山)。ホームには、このニーゼン山➡➡の素敵なポスター。
駅8

   駅6

それに、また、レマン湖モルジュの駅もよく利用しますが、ここには、男女ともに、ずいぶんおしゃれな人が、多いと感じていたら、とあるローザンヌ在住の日本人いわく、「この辺りは、自分たちはフランス人だと思っている様子もうかがえる」というご意見でしたから、スイスのイタリア語圏、スイスのドイツ語圏、スイスのロマンシュ語圏、そして、このレマン湖付近のフランス語圏、改めて、面白いと思います。
 一番下の写真は、電車の駅ではなく、スイス モルジュの船着き場。
駅1

駅12

PageTop

シャトー・デー駅

シャ1
 (➡➡承前)
 シャトーデー駅の通路(線路下)は、郷土愛に溢れています。
 切り絵細工のような絵、この地域の紋章図の鶴、それから、地域の有名人たち・・・そんな中に居たのが、バルテュス➡➡。晩年、彼と日本人の奥さんの住んでいたグランシャレーも描かれています。

駅5

駅4

駅2

駅10

 ちなみに、下の写真は、駅通路下を出たところですが、予約でいっぱいだったチーズ工場をあきらめた我々が、お昼を食べたのが、このパラソルの写るテラス。
  ここも、特産のレティヴァチーズをふんだんに使ったジャガイモの料理。美味しいけど、凄いボリュームで、食べきれません。
駅9

PageTop

カメラ

大山崎j
(承前)
 お天気も上々、 「東山魁夷スケッチーー欧州の古き町にて」(~2019年12月1日)➡➡の後期もやっているし、・・・・・で、大山崎山荘に行きました。
 夫婦そろって、カメラを持って出かけました。
 幸い、まだ、新しいカメラを購入するに至っていないので、いつものコンデジと、10年以上使っているデジタル一眼レフを、各々が携えていきました。
大山崎2

 紅葉には少し早いものの、そろそろ色づき始めています。
 この時期、ここに来たら、桂のあまーい香りも楽しめるので、大好きです。➡➡
 先日来た時には、まだ早かったツワブキの花が、庭のあちこちで咲いています。
大山崎3

 さ、東山魁夷スケッチ展後期に入場しましょう・・・と言ったら、絵は見なくてもいい・・・と言いだす人が居ます。
 入場したら、いい景色が広がっているバルコニーに出ることができるし、中庭も見ることができるバルコニーもあるし・・・と、誘うものの、前にも来たし・・・・と、結局、入館せず、無料で開放しているお庭を楽しんだのみで、帰りました。(思い出すのは、スイス ベルンのポール・クレー センター➡➡まで行って、途中で飽きた人のこと)

 シャッター速度を変えたり、なんやか、ダイヤル操作をするのが 楽しいカメラ遠足のようでした。
 ということで、今回の写真は、カ・リ・リ・ロ持参のコンデジ。ぱっぱと撮れるコンパクトデジタルカメラでも、十分、綺麗に撮れると思っていますが・・・。

PageTop

写真

アイガー14
 以前、このブログにカ・リ・リ・ロ自身の父親が写真好きだったことを書いたことがあります。➡➡
フィルムカメラでなくなった今、何枚撮ってもいいし、素人でも編集できるし、カメラ本体でなくても、携帯でも綺麗に写るし・・・で、 父の時と違い、一枚一枚撮るときの緊張感に大きな差があると思います。ただ、撮りたい、という気持ちは、変わらない。ということで今夏のスイスでも、二台のカメラで撮った写真は、凄い数。しかも、夫がスマホで撮った写真も、ものすごい数。
 ただ、写真の対象は、夫とカ・リ・リ・ロでは、全然、違います。データのように全部撮らないと気がすまない人と、思い付きで ぱっと、シャッターを押す人の違いです。

 かつては、写真に関心のなかった夫ですが、スマホで簡易に撮れるようになってからは、習うより慣れろで、上達著しいカメラワークです。また、孫に見せたいというモチベーションも加わって、始めは、へっぴり腰で、脇も開いて撮影していた夫が、今や、老眼のカ・リ・リ・ロより、いい写真が増えています。あーあ、自信喪失・・・

  帰国後、さっさと写真のファイリングを済ませた夫は、「この写真、文章書くときに使っていいよ」と、データを差し出す、余裕の発言。
 そして、今では、カメラの本を読み、レンズのパンフレットを取ってきています。うーん、写真というより、カメラという機具に興味が大きいようで・・・どうなる?


・・・と、およそ2か月近く前に、以上の文章を書いていました。で、ついに、夫は、カメラメンテナンスの講習に足を運び、カメラ教室に申し込む勢い。OH!カメラもレンズも高いんだよぉ・・・・(続く)

☆写真上は、アイガー北壁。下は、ヴェンゲンナップからユングフラウの西側を見る。

アイガー2

PageTop

「幼児期」序章

子ども3
  「幼児期」(岡本夏木 岩波新書)
 日頃は、読書趣味のまったく異なる夫と私ですが、2005年に出版され、その時に読んだより、はるかに大きな衝撃を感じた最近、この本の序章を、夫に、どうしても、読んでほしいと差し出しました。私と違って、心優しい夫は、その序章を読みました。
  あなたにも、この序章を押し付けます。図書館で借りるなり、本屋で立ち読みするなり(15分はかかると思いますが…)、この著者の訴えることを読んでほしいのです。

 これが、2005年に書かれているのに、なんら、変わらない、日本の教育・保育の世界。
 著者がいうように、小手先の改革をして、さも、子どもたちを導こうとしているように見せかけている・・・

≪「今」こそ、「幼児期」を見直す作業が必要だということを痛感するのは私だけでしょうか。≫と、2005年刊行の「幼児期」の序章は始まります。
そして続きます。
≪今日の幼児の世界は早くからおとな社会の強大な圧力にさらされています。そこでは幼児期をして「幼児期」たらしめている特徴が軽視されがちになっていると言わざるを得ません。幼児期においてこそ形成されるべき人間の生き方の基礎があるにもかかわらず、その獲得が不十分なまま、子どもたちはおとな社会へ投げ出されてゆきます。それは「幼児期の空洞化」とも呼ぶべき現象です。  そのことがはらむ危機に対して、「保育」はどう取り組むべきか、その方法も、またそれを支える原理の探求も深められていないというのが現状です。・・・・≫

≪・・・・子どもは小さく、親に多くを依存しているとはいえ、一人の人間として自分の生活を生き、その生涯の出発期を生きています。親でも奪えないもの、犯せないものが生まれ時から備わっている存在です。その確認から出発しない限り、表面は愛情に彩られていても、子どもの「物」化は進行していきます。・・・・≫

☆写真は、スイス 暗くなりかけたレマン湖畔

PageTop