(承前)
「王書—-古代ペルシャの神話・伝説」(フェルドウスィ―作 岡田恵美子訳 岩波文庫)に次々出てくる「糸杉」でしたが、ゴッホの描いた糸杉のイメージとずいぶんと違う。
ペルシャ伝説では、明るいイメージの糸杉も、「英米文学 植物民俗誌」(加藤憲市著 冨山房)では、どう書いてあるかというと・・・
≪代表種は地中海東部やペルシャに多い。イギリスにもあるが、湿度と寒さで育ちが悪い。≫とありました。
≪材質が固く耐久性があり、虫に食われないないので、古くは家具のほか、棺をつくるにも用いた。≫
で、シェイクスピアの十二夜を引用しています。
『来たらば来たれ、死よ。そして弔いのイトスギ棺に納めておくれ。』
また、古代から、神殿の柱や笏や杖、槍などの武器まで、この糸杉で作ったとあり、この木の芳香は空気を清めるといって、古くは肺病によいとされていた、ともありました。
ところが、こんもりと小暗く茂らせるので、暗い沈うつな死を連想させるというし、実を結ばない事や、ひとたび切られれば再び発芽しないとも言われていたようで、死の象徴として、墓地に植えられたり、喪の象徴として葬儀にも使われたようです。
うーん、ずいぶんと、ペルシャ神話と違うなぁ…と、思っていたら、ありました、ありました。
≪Zoroaster ゾロアスターが天国から持ち帰った若枝から、ひろまった≫
そして、俗に、糸杉の種を食べれば、永遠の体力・健康・若さを保ち、その実は、出血を止め・・・ともありました。
「英米文学 植物民俗誌」では、花言葉は、死、悲嘆、永遠の霊魂.。
あるいは、「英文学植物考」(加藤さだ著 名古屋大学出版)によると、花言葉は死、服喪、絶望。
で、もう一つ、「英文学植物考」に引用されているクリスチナ・ロセッティの「歌」という詩には、
≪私が死んだ時、愛しい方よ、
わたしのため、悲しい歌は歌わないで。
枕頭にばらの花など植えないで、
また影深いいとすぎも。≫
・・・ということで、英文学における「糸杉」とペルシャ神話の「糸杉」、ずいぶんと違う捉え方ですが、プロヴァンス地方やオランダ人ゴッホの捉え方は、どうなんでしょう。(続く)
☆写真は、ゴッホ「糸杉のある麦畑」(岩波 世界の巨匠ゴッホ)
(承前)「王書—-古代ペルシャの神話・伝説」(フェルドウスィ―作 岡田恵美子訳 岩波文庫)
「王書」には、何度も「糸杉」が出てきます。今まで、読んだどんな本より、たくさん出てきます。
三人兄弟➡➡のところで、紹介したように、イラン王国の王座についた三男のイーラジの妻の名前はサヒー(健やかな糸杉)
「王書」の中の糸杉は、ただ背の高い形容だけでなく、品格までも含んでいるように思います。
たとえば、
*蛇王ザッハーク王(在位1000年)の夢では、王者の木から突然3人の勇者が現れます。それは、二人の年長者を両脇にしたがえた一人の若者で、身丈は糸杉のように高く健やか、そして王者の風貌をしている。
*フェリドゥ―ン王(在位300年)は、すこやかな糸杉のように丈高く、王者の威光に輝き・・・
*イエメンの王は多数の人民の首長、その影をひろく遠くおとす糸杉である。
*一人は麗しの娘ルーダーベ、もう一人は分別も愛情もある妻のスィーンドフトである。二人とも春の花、頭から足の先まで色と香と絵のような美しさにあふれる装いをこらしているが・・・父王は娘ルーダーベのまえで立止まり、その美しさに驚いて彼女の上に神の祝福あれと祈った。糸杉の身丈に月の顔をおいた姿を父は見たのだが、その頭には竜涎香の冠(漆黒の髪)を戴き、それはさながら天国のように美しく錦と宝石で飾られている。
*侍女のうち一人が続ける。「おお、糸杉のようなお方、誰にもこのことを知られないように気をつけてください。・・・」
*それまで稔りのなかった糸杉が実を結ぶまでに、さほどの時はながれなかった。
*伸びやかな糸杉の葉が枯れた
*白銀の糸杉の美女
*背丈が八尺、伸びやかな糸杉ほどになると彼はまるで天に輝く星かと見えるほどで、世の人びとは彼を見上げてただただ感嘆のほかはない。
*糸杉の身丈に勇者の肩と項をしたザールの子が座っていた。
*サマンガ―ンの王は司教の言葉を聞くと、その喜びに気高い糸杉のように伸びやかにくつろいだ。
・・・・・が、個人的には、「糸杉」といえば、ゴッホが描いた何枚かの「糸杉」が、頭に浮かぶのものの、この「王書」で示すところの糸杉のイメージと少々違う。
なので、「英米文学植物民俗誌」で、糸杉を引いて見ましたよ。(続く)
☆写真は、ゴッホ「男たちの歩いている道≪星と糸杉≫」(岩波世界の巨匠「ゴッホ」)
(承前)
「王書—-古代ペルシャの神話・伝説」(フェルドウスィ―作 岡田恵美子訳 岩波文庫)
一冊の文庫で、それも、たまたま、転がり出た文庫本➡➡を、こんなに楽しめたのには、この「王書」には、知らなかったことがたくさん書かれて好奇心が刺激されたこと、表現が豊かで、文学としても楽しかったことがあげられると思います。
たとえば、英雄伝説の時代の英雄ロスタムの章には、こんな表現が・・・
≪夜は暗く、剣は煌めく。大地はバダフシャーン(イラン北東部の町)のルビーのように朱にそまった。振りおろし振りはらう剣のもとに血潮はながれ、天空から夜明けの光がふってきたかのよう。ロスタㇺは、一人また一人と敵の武将を剣・鎚矛・投げ縄で斃し、太陽がヴェールの陰からあらわれて天から地までこの世を光でみたしたときんは、城内に敵の軍兵のかげも見えなくなっていた。・・・≫
ん?こんな情景、現代のゲーム(?)にあるような・・・カ・リ・リ・ロは、まったくゲームをせず、周りにも、ゲームをする人が居ませんから、よくわかりませんが、テレビなどの宣伝や 電車などで隣り合わせた人が、夢中でやっているものの題材に、この「王書」を真似たものがあるのかもしれないと思います。英雄伝説だとか、やっつけるだとか、キーワードになっているでしょうから。(続く)
☆写真は、窓から見えた、町の花火。カメラをもう少し操作したら、綺麗に写っただろうに。写真下は、花火の次の朝、目の前で鳴くセミ。
(承前)
「王書—-古代ペルシャの神話・伝説」(フェルドウスィ―作 岡田恵美子訳 岩波文庫)には、神話伝説と英雄伝説、つまり史実に基づいた人ではなく、伝説上の人たちが登場するのですが、なかでも、息子3人の手柄に与えた土地が、今もなお、争いの火種になっていることを考えると、興味深い。
在位1000年蛇王ザッハーク王から王国を奪い返したフェリドゥ―ン王(在位500年)には、三人の息子がいました。三人の息子は、イエメンの王女三人をそれぞれ娶とるとき、それまで、名前のなかった彼等あるいは、彼女らに名前がつきます。
長男はサルㇺ、妻はアール―ズー(自由)、次男は、トゥール、妻は、マーヘ・アーザーデ・フーイ(高貴な月)、三男はイーラジ、妻はサヒー(健やかな糸杉)。
フェリドゥ―ン王は、世界を三つに分けます。第一はルーム(小アジア)と西方。第二は、トルキスタンとシナ。第三は英雄の国イラン。 そして、長男サルㇺには、ルームと西方の地すべて。次男トゥールに、トゥーラーン(中央アジア、アラル海の東方と想定されている)。そして、三男イーラジには、イラン国とその周辺の砂漠の地を与え、「イラン王」と呼びました。
で、結局、末っ子の三男が、イラン国の王座に就くのですから、他の二人が許さない・・・という想像しやすい展開に。
つまり、未だに、イランとその周辺の、平和ではない現状。また、あるいは、隣国ではなく、イラクを越えたイエメンから嫁をとる・・・など、根深い問題のルーツが、ここに読み取れます。
また、次男の王国トゥーラーン・・・これって、かのプッチーニのトゥーラーン・ドットにもつながっている・・・ほんと、知らないことばっかりです。(続く)
☆写真は、スイス ヴェヴェイ 建物の壁絵。
(承前)
「王書—-古代ペルシャの神話・伝説」(フェルドウスィ―作 岡田恵美子訳 岩波文庫)の解説(岡田恵美子)は、ペルシャのことをよく知らなかった者にとって、勉強になる事ばかりでした。
先の悪魔に文字を教えてもらう件➡➡は、
ペルシャ(イラン)が、ヨーロッパとアジアをつなぐ位置であり、イスラム教のアラブとも近い。したがって、≪「王書」をはじめ、そのほかのペルシャ文学の作品を読むとき、その複雑多彩な人種の共存・混淆があったことを私たちは知らなければならない≫とあります。
その解説に書いてあるペルシャの歴史の概観をさらに概括すると、
紀元前6世紀にアケメネス朝が興る。紀元前330年アレクサンダー大王の東進で崩壊。その死後、広大な領域は分断。ついで、中央アジア起源のパルティア人が領有、その王国は期限後3世紀まで続く。226年ササーン朝ペルシャー成立。古代ペルシャの宗教ゾロアスター教を国教と定める。651年イスラム教のアラブ人の攻撃で王朝崩壊。ゾロアスターからイスラムへの改宗、アラビア文字の使用を推進。以降、中世ペルシャには、トルコ・モンゴルの異民族王朝が興亡。
(*ただし、このトルコは、現在のトルコではなく、ペルシャの東方のトゥーラーン)
(*ゾロアスター教僧侶や、社会上層部は、パフラビー語を使用。読み書きのできない一般民衆は、口語としてのペルシャ語、そこへ征服者のアラビア語・・・・)
そんな背景を持つペルシャの文化。訳者はいいます。
≪ペルシャ人の社会生活に底流する、この国際性が、この国の中世叙事詩に独特の味わいを添えていると思われる。・・・≫
そして、この「王書」は、1009-10年了とされていて、作者のフェルドウスィ―(934?~1025?)の生涯を詳しく知る事もできないものの、この「王書」には、30年から35年の労苦を要したという記述はあるようです。日本では、「源氏物語」(1005年頃)の時代です。(続く)
☆写真は、スイス オーバーホーヘン城、ちょっと、オリエンタルな趣味の部屋。
(➡➡ 承前)実は……
「王書—-古代ペルシャの神話・伝説」(フェルドウスィ―作 岡田恵美子訳 岩波文庫)は、ずいぶん前に購入していたものの、読んでいなかった文庫本でした。
文庫本は、収納スペースに、昔から使っている木の本棚に入れていたのですが、段々、棚がずれてきて、ついに、ガタン!と本が崩れ落ちました。そこで、文庫本の奥の奥のものも出てきて、整理するうち、見つかったのが、この「王書」。たまたま、先日行ったのが、「イランの子どもの本展」➡➡でしたから、これは、読まねば!
先に、「トルコ至宝展」➡➡のことを書いたとき、それと重ねてこの「王書」も紹介しましたが、イラン(ぺルシャ)に、なじみがないものですから、新鮮な感覚で読みました。また、こういう神話や伝説物にありがちな、わかりにくい訳ではなく、とても読みやすい。
この本は二部構成で、第一部は神話の王たちの時代、第二部は、英雄伝説の時代となっています。もともとは、これら伝説部門より、歴史部門の分量が多いようですが、割愛されています。
それで、薔薇水のところでも書いたように➡➡、神話伝説の王たちは、在位が1000年とか、700年とか、500年というふうに長い…中には、30年という王もいるのですが、その第三代悪魔縛りの王タフムーラス王というのが、ある意味、凄い。(どの王も、凄いのですが…)
第三代悪魔縛りの王タフムーラス王は、小悪魔たちの企みの現場を襲い、戦闘開始するも、呪術によって、敵の三分の二を鎖で縛りつけ捕虜にするのです。すると、悪魔たちは懇願します。「王よ、私らを殺さないでください。そうすれば、あなたの役に立ち新しい技術を私らから学びとることができましょう」
それで、悪魔たちは、≪王に文字を教え、知識によって、王の心を輝かせたが、その文字も一種類ではなく30に近い。例えば、ギリシャ語・アラビア語・ペルシャ語・ソグド語・シナ語・パフラビー語(中世ペルシャ語)、それらを発音のままに書いて見せたのである。≫
悪魔を縛り、その顛末に文字を教わる・・・そして、その王は≪彼の業績は彼の名残りとしてこの世にとどまっている。≫
なるほど。
が、ここには、ペルシャの歴史を読むうえでも、重要なことが書いてありました。(続く)
☆写真は、スイス ニーダーホルン ロープウェイ駅
(承前)
ジェフリー・アーチャーの短編「プリズン・ストーリーズ」は、原題をCat O’Nine Talesといいます。猫の出てこない9匹の猫の話とは、刑務所で、作家本人が聞くことのできた9つの話から来ているということも関係ありますが、この短篇集自体には、それ以外の話も3つ入っていて、9匹の「9」にこだわっているようではないようです。
訳者の解説がありました。
≪・・・ここに出てくるCATは、生きた猫そのものではなく、cat o’nine tails(九尾の猫)といって、昔罪人を打つのに用いられた九本縄の鞭のことで、猫の爪で引っかいたようなみみずばれが出来るところからそう呼ばれた。さらにこのタイトルはtails(尻尾)とtailes(物語)をかけたpun(語呂合わせ)になっているところがみそである。作者の刑務所体験を生かした九編の作品の主人公はみな犯罪者なのだから、そこで「九尾の猫鞭」をもじったタイトルが生きてくるわけである。≫
また、新潮文庫には、採用されていませんが、原書には、登場人物が擬人化された猫のイラストが描かれているようで、見てみたいものです。文庫版で、制約があるとはいえ、原作を文も絵も使ってほしかった。訳者自身も、そう言ってます。とはいえ、今は、この文庫本でさえ、図書館のを借りるしか、方法がありませんでした。
☆写真は、スイス ヴェヴェイのイエニッシュ美術館➡➡のココシュカ。
(承前)
「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ まさきるりこ訳 福音館)には、個人的に深い思い出があります。(この話は、他でも書いたかもしれないし、話すことも多いのですが・・・)
昔、小学校1年生を担任していた時、小人数のクラスだったこともあり、毎日、帰りの時間には、1冊の絵本を読んでいました。教室の後ろの広いスペースに子どもたちは半円になり、体操座りで床の上、教師の前に座ります。それで、絵本を聞くのです。
そのとき、それまで、幼稚園にも保育所にもいったことのなかった、つまり、集団生活の経験のなかったNくんは、うろうろと、動き回り、ともだちの顔をのぞきこんだりしていました。それは、そのときに始まったことではなく、授業中でも同じでした。椅子に座って聞くという経験がなかったのです。騒いだり、もめごとを生んだりするのでなく、みんなが椅子に座っているのは、どういうことなのか、うろうろ確かめているような動きでした。やんちゃ坊主ということもなく、多動過ぎるということもなく、単に、友達の存在が気になって、椅子に座っていなかったような気がします。その子の家庭は、決して裕福ではなく、狭い一部屋に5人家族が住んでいました。N君が、一番上の子で、あと2人の弟、妹が居たと思います。
いくら、この話が昔のことと言っても、当時、ほとんどの子どもが幼稚園や保育所に通っていましたから、一種のネグレクト状態だったのかもしれません。まだ、虐待という言葉自体が、知名度の低い頃で、ましてや、新卒の新米教師には、そんなに深いところは、理解もできていませんでした。
・・・・で、3学期にもなったある図書の時間のことです。
子どもたちは、思い思いの本を広げて、図書の時間を過ごしていました。ふと見ると、N君が、「もりのなか」を広げ、にっこり笑っているではありませんか。いい笑顔!!!
その笑顔が忘れられなくて、新米教師だったカ・リ・リ・ロは、前期高齢者講師になった今も、絵本の種をまき続けています。
絵本なんか見たこともなかったであろうN君に、「もりのなか」を紹介したように、これからも細々と種まきします。 とはいえ、終わりの方が近いなぁ・・・・
☆、写真は、「また もりへ」(マリー・ホール・エッツ まさきるりこ訳 福音館)➡➡の見返しを広げた上に、「もりのなか」
「シルクロードの あかい空」(イザベル・シムレール文・絵 石津ちひろ訳 岩波)
(承前)
さて、今度は青い絵本ではなくて、「赤い」絵本です。赤い色を基調にし、雄大な風景を美しく描いています。
この絵本は、科学絵本の中では、自然科学というより、社会科学絵本のような位置づけでしょうか。もちろん、今までの「あおのじかん」➡➡(イザベル・シムレール文・絵 石津ちひろ訳 岩波) 「はくぶつかんのよる」➡➡のように、図鑑的な要素もあり、絹や綿、その地の動物などの名前を記してもいます。ただ、この絵本は、シルクロードの歴史や位置づけもテーマなので、2冊の青の絵本より、単純な流れとはいえません。
今この時、シルクロードを行く人の視点だけなく、歴史上の人物も登場するため、視点がぶれ、幼い子どもにはわかりにくい。絵本の形はしていても、小学校中学年以上の子どもたちに楽しんでほしい一冊です。(続く)
☆写真上下とも、「はくぶつかんのよる」の見返しの上に、「シルクロードのあかい空」を広げています。これら、「はくぶつかんのよる」の 2つの見返しは、少々、青の明度が違い、描かれている内容も、違います。

「はくぶつかんのよる」(イザベル・シムレール文・絵 石津ちひろ訳 岩波)
(承前)
絵本「はくぶつかんのよる」は、「あおのじかん」(イザベル・シムレール文・絵 石津ちひろ訳 岩波)➡➡の続編かと勘違いしそうになる深い青色の表紙。中身も青を基調としています。
≪かわの ほとりに たたずむ はくぶつかんに まもなく よるが おとずれます。だれも いなくなった たてもののなかを そっと
のぞいてみましょう。≫と、この絵本は始まり、化石や貝殻の部屋(ここは何も動きません)、次は、昆虫標本の部屋(チョウたちがこきざみに 羽根をふるわせ始めたと 思ったら、一匹の黄色いチョウが・・・)、骨だらけの部屋(いつのまにか、チョウたちが 飛び回り)、剥製の部屋(チョウたちが呼びかけると、どの生き物も目を覚まし)、鉱石や隕石の部屋(チョウたちがふれ)、道具たちの部屋、埴輪やお面も仏像も、空中散歩、いろんな時代のいろんな地域から集まってきた生き物や化石や道具たちが、一晩中 過ごすのは、まるで、夢のようなひととき!・・・・・
たくさんの化石にも、昆虫たちにも、動物たちにも鉱石や隕石にも、名前が付けられ、さながら、小さな図鑑のようです。
図鑑のようでありながら、詩的で、美しい話の流れ、最後は、一番初めに飛び始めた、一匹の黄色いチョウの絵で終わります。(続く)
☆写真上は、「あおのじかん」の最後の見返し、世界地図の上の動物たちの絵の上に、「はくぶつかんのよる」を置いています。
写真下は、「あおのじかん」の初めの見返し、色々な青という色見本の上に、「はくぶつかんのよる」の鉱物のページを開いています。
きれいな絵本です。「あおのじかん」(イザベル・シムレール文・絵 石津ちひろ訳 岩波)
おはなしの絵本のようでもあり、小さい子どもにもわかりやすいように描かれた科学の絵本でもあります。絵本を開くと、初めの見返しの部分に、いろんな青の色見本があって、青といってもこんなにあるんだと、本を読み進む期待感が増します。
ちなみに、一番薄い青は、「こなゆきいろ」。一番濃いのが、「まよなかのそらいろ」。
≪おひさまが しずみ よるがやってくるまでの ひととき あたりは あおい いろに そまるーそれが あおの じかん≫で、はじまり、≪すべての あおい いきものを よるの やみが そっと やさしく つつみこむ≫で、終わる絵本です。
いろんな青の動植物たちが登場。詩的な世界が広がります。≪あおの じかんの はじまりを つげるのは アオカケスーー≫そして、ホッキョクギツネ、コバルトヤドクガエル、アオガラ・・・・・最後は、 ≪ぐんじょういろの イトトンボが ルリハッタケに すっと とまったら・・・・あおの じかんは そろそろ おしまい≫
見返しの最後は、青い世界地図が描かれ、絵本に登場した動物たちが、世界中で、夜更けを迎えたのがわかり、その地球規模の広がりを知り、青の深さに改めて、感心。静かで、美しい世界を味わえる1冊です。
この綺麗な絵本を学生たちに読んだ授業後、「手に とって見たい」と近寄った学生も、何人か・・・(多くは、いつも、近寄ってきません) (続く) 
「ねこのホレイショ」(エリナー・クライマー文 ロバート・クァッケンブッシュ絵 こぐま社)
(承前) 写真左は、気難しい顔つきに見えるねこのホレイショです。
ホレイショは、しまもようのおじさんねこで、ちょっと太りぎみ。灰色の眉毛が突き出しているので、気難しい顔つきに見えるとあります。が、抱かれるのも嫌いで、うれしいときも滅多にゴロゴロとのどを鳴らしません。ホレイショは、可愛がられるより、尊敬を込めて扱ってほしいと思っていたのです。
写真右は、ホレイショが笑っているところです。抱きしめられても嫌がらず、嫌がるどころか、のどをゴロゴロ大きく鳴らしたホレイショ。
この2枚の絵は、初めと最後の絵です。
ホレイショに何があったのか?
ホレイショの飼い主は、親切なケイシーさん。ケイシーさんが、連れて帰ったおなかをすかせた子犬、預かったウサギ、翼のおれた鳩、隣の家の子どもたち・・・みんな、ホレイショには、不愉快な存在でした。
うんざりしたホレイショは、家から抜け出すと・・・子猫が二匹、ついてきます。お店で追い払われ、大きな犬に吠えられ、雨が降ってきても、おなかをすかせた子ネコたちはついてきます。
するうち、ホレイショが、子ネコたちのために行動し始め…
最後は、ケイシーさんのところに子ネコと共に帰る・・・というお話。
温かみのあるロバート・クァッケンブッシュの版画が、すねているホレイショをうまく表現し、可愛い子猫をより可愛く表現しています。
作者のエリナー・クライマーは、「パイパーさんのバス」(クルト・ヴィーゼ絵 小宮由訳 徳間書房)➡➡の作者でもあります。
(承前)
先のジェフリー・アーチャー「嘘ばっかり」➡➡の中の短編 「立派な教育を受けた育ちのいい人」➡➡の最終講義に引用されていた「トロイラスとクレシダ」(ウィリアム・シェイクスピア 小田島雄志訳 白水社Uブックス)。
恥ずかしながら、この話のことは、知りませんでした。
かつて、ロンドン、グローブ座にシェイクスピアの劇を見たくて何度か行きました。
その時、現地の人と一緒に笑いたいものだと思い、字幕の代わりに、いつも持参していたのが、白水社Uブックスのシェイクスピアの小田島雄志訳です。で、結構、読んだつもりだったのに、この「トロイラスとクレシダ」は、知らなかったなぁ・・・
読んでみましたが、恋愛物語と戦記物が混在。ギリシャ神話なのに、生々しい。神話や昔話にも、生臭い話は多々ありますが、どれも、淡々と描かれるものが多いのに、この本は、戯曲なので、細かい表現を信条としています。そこが、舞台なら、きっと面白い。笑えて、考えさせられる。
読むだけなら、個人的には、今まで読んだシェイクスピアの中で、一番すっきりしませんでした。多分、たくさんの主人公級の人々(神々?)が、フル出演することによって、カタカナ名前の苦手な、この読者は、しっかり、読み込めなかったと、考えられます。
解説によると、この話の最後は「トロイラスは、死にもしなければ、不実なクレシダを殺しもしない。カタルシスは起こらない。・・・グロテスクな劇は悲劇より残酷だ。」とする見方と、「風刺劇の手法から、主人公たちを嘲笑すべき対象として劇の終わりに放逐したに過ぎない。」という見方もあり、「それまで絶対的なものとされてきた宇宙の秩序・神の摂理に疑問が投げかけらるようになった17世紀初頭のこの劇がまた復活していることの意味は大きい」とも、ありました。
ということは、やっぱり、専門家たちの間でも、大きくも見解の異なる、難解な話だった・・・と、わかったら、カ・リ・リ・ロの読解力のなさも、少しは救われるかも・・・
☆写真は、ロンドン グローブ座 お芝居が始まりますよ!の時間。