この写真の孫がぶれているのは、♪クリチュマチュのうたが きこえてくるーよ♪と、身体を横に揺らしながら歌っている動画を静止画にしているからです。肩に巻いた布の前には、「ふくろうさん」のぬいぐるみ(彼女のお気に入り)を抱っこしています。
この歌の後、孫が言ったのは「大きいサンタさん来るかなぁ・・・」
こんな映像を見ると、遠い昔、我が子3人も、ツリーの前で同じように楽しく過ごしていたのを思い出します。
そして、そんな何気ない風景が、孫にも受け継がれていくのを、ちょっと嬉しく思います。
年末年始、しばらく 休みます。みなさま、よいお年を。

(承前)
『恐怖の四季 秋篇」と副題があるのに、「スタンド・バイ・ミー」(スティーヴン・キング 山田順子訳 新潮文庫)は、恐怖話ではありませんでした。ただ、冬篇の「マンハッタンの奇譚クラブ」は、ホラー小説好きには、普通の話なのかもしれませんが、そうでない者にとっては、やっぱり、少々・・・・。
ディケンズが、毎年クリスマス・ストーリーを発表した頃から、より定着していったとも言われる「クリスマスにはちょっと怖いお話を」の風習からインスパイアされたようなクリスマスのお話「マンハッタンの奇譚クラブ」です。日本は、盛夏にヒヤーッと、怪談話というのがありますが、イギリスは、暖かい暖炉の前でヒヤーッととするらしい。
ディケンズから時代が進み、場所をロンドンからニューヨーク マンハッタンに変えた話です。
が、クラブの書棚にディケンズ全集は並んでいるし、マディソンスクエアガーデンの向いに建つ病院を「二都物語」に出てくるような灰色の監獄と例えたり、クリスマスシーズンのチップで、「クリスマス・キャロル」のスクルージを思い出したり、どう見ても、ディケンズの匂いは払拭できません。
クラブでは、メンバーたちが話(物語)を披露します。
≪メイン・ルームでは、これまでもたくさんの話が披露されてまいりましたよ。・・・・滑稽な話から悲惨な話、センチメンタルな話まで、ありとあらゆる類いの話が。ですが、クリスマスの前の木曜日には、いつも神秘的な話が語られます。…≫
・・・・ということで、最後のシーンが、クリスマス・イブで終わる産科医マキャロンが語り始めた話は、シングルマザーのサンドラが、マキャロンのところに通い、途中から、お産のときの呼吸法のラマーズ法(その頃は、新しかったようです)を習い、出産に備えます。そして、陣痛、そして、何故か持っていた鉗子、そして、産声、そして、呼吸法・・・・
さて、このラマーズ法は、カ・リ・リ・ロも お産の時に習いました。
「ヒッヒッ フー ヒッヒッ フー」
この呼吸法のおかげかどうか、ともかくも3人の子どもは安産でしたが、話の中で、サンドラは、ちょっと違いました。(続く)
☆写真は、ロンドン ハイドパークのかささぎ
(承前)
もう一つ、「スタンド・バイ・ミー」(スティーヴン・キング 山田順子訳 新潮文庫)に書かれていたことで、面白かったのは、 やがては、物書きになる主人公ゴーディが、事故で死んでしまうお兄ちゃんデニスに、夜寝る前に読んでもらった本のこと。
母親に読んでもらうより、ずっとよかったという本のこと。
≪ 母親が読んでくれるのは「おだんごぱん」とか「三匹のこぶた」など、ちゃんとした話だったが、デニスのは「青ひげ」や「切り裂きジャック」のようなものだった。また、デニスは「三びきのやぎのがらがらどん」の変形版をもっていて、その版では、本来はやぎたちに負けてしまう橋の下のトロールが、最後に勝っていた。・・・≫
自伝的要素の強い「スタンド・バイ・ミー」ですから、こんな子どものときの読書経験が、スティーヴン・キングをホラー作家に作り上げていった一つの要素だと、示唆するものでしょうか。
それにしても、「三びきのやぎのがらがらどん」の変形版ですって?デニスお兄ちゃんのオリジナルなんだろうか・・・(続く)
☆写真は、スイス アルメントフーベル
先日、文庫本を読んでいる学生に「何よんでいるの?」と聞いたのですが、➡➡それは、その隣に座る友人から借りたものだと言いました。書名は「夏の庭」(湯本香樹実 新潮文庫)。
そのとき、貸した方の学生が言いました。「先生、これ、読んだことある?」
先生は、読んだことがありませんでした。映画になったことも知りませんでした。
そこで、買って読みました。
読みやすく、主人公が小学6年生であるものの、それ以上の年齢の人たちなら、共感できるところの多い日本の児童文学の一冊です 3人の主人公たちの性格やその行動も、わかりやすく書き分けていると思います。
ただ、あえて、「日本の」児童文学といったのは、カ・リ・リ・ロが、今まで楽しんできたイギリスを中心とした欧米の児童文学とは、少々違うからです。つまり、日本の児童文学と称するものには、子ども視線だけでなく、大人の視線も入っているものが多く、この本も然り。
例えば、イギリスのアーサー・ランサムの書いた「アマゾン号とツバメ号」(岩田欣三・神宮輝夫訳 岩波)のシリーズには、大人の考えや示唆を感じません。ひたすら、読んで楽しい・・・の世界なのです。また、同じイギリスのフィリッパ・ピアスの作品「トムは真夜中の庭で」(高杉一郎訳 岩波)も、「夏の庭」で扱う、老人との交流も、含まれています。が、片や、単純に暖かい気持ちになり、片や、前向きではあるものの、ちょっと考えさせられてしまう。児童文学観の違いのような気がします。
日本の土着感満載のこの「夏の庭」、昔映画で見た、スティーブン・キングの「スタンドバイミー」に、よく似ているなぁ・・・この際「スタンドバイミー」(新潮文庫)も読んでみました。(続く)
☆写真は、万博公園のコスモス。(撮影:&Co.H)「夏の庭」で、コスモスは重要な役割をしています。
身体の小さな不具合も増えて、老骨に鞭打つような気がする日々ではあるものの、やっぱり、自分で「やります」といった授業は、こちらもたくさんの栄養をもらいます。
昨年から引き続き履修する学生がほとんどの その授業、昨年の応用編でもあり、学生自ら絵本を作る時間になりました。
画用紙を切り、ホチキスで留めた絵本を作る・・・・・・という、簡易なものでは、いい加減に扱うのではないかと考え、いわゆるホワイトブックというハードな表紙付きで、すでに閉じられたものを用意しました。難点は、大きさが決められてしまうことで、実際、予算もあるので、小さな手のひらサイズのものしか用意できませんでした。
そして、日頃の授業態度を考えると、大半の学生がテキトーに作るんだろうな・・・と、思いながら、予算を組んでもらった以上、一人でもいいものを作ってほしいと願いながら、授業に向かいました。
すると、どうでしょう。本の作りの説明や、出来たものを、みんなの前で読むというアナウンスをしたのち、各自、ホワイトブックを手にすると、「こんなん、買いたかったんや」「わ、可愛い」などの声が聞こえます。
そのあとも、こんなに生き生きと取り組む姿は想像できませんでした。それぞれの学生が、それなりにお話や言葉遊びを考え出したのです。もちろん、????の学生も多々います。
が、いいものを作りたいという気持ちが溢れています。いつもは、寝ているような人たちも、「どんな終わり方がいいか?」とか「この絵にこの文は、合ってないか?」とか「こんな話にしたいけど・・・」等など・・・たくさんの学生が、助言を求めてきます。そこには、無限大の楽しみがありました。
学生たちの作る絵本は絵画制作などの時間ではありませんから、絵のうまい下手ではなく、また、文章のうまい下手でもありません。「子どもとどんなところを楽しみたいか、を考えながら作る。」という条件のみ付けています。
毎回、重い絵本を持参して、腰が痛くなったことなど吹き飛ばすような楽しい作品に出会えますように。
☆写真は、スイス ルチェルンの店頭
家族で外食は、もともと少ないのですが、その日は、予約でいっぱいのお店(中華料理店)に、大人ばかりで行きました。その時、目にした二つの光景のこと。
隣のテーブルには、中学1年生くらいの女の子と、小学校高学年のその妹、そして、お父さんとお母さんが席に着きました。
料理が運ばれてくるまで、二人の女の子は、携帯を出し、ゲームをしていました。そのお父さんも携帯を、いじっていました。お母さんは、何か、話しかけていますが、話しかけられた女の子たちは、目もあげないで、返事をし、そのままゲームをしています。
やがて、料理が運ばれてくると、女の子たちは、ささっと、食べ、またゲームに興じていました。そのお父さんも、画面はゲームになっていました。
つまり、料理を食べていないときは(あるいは、食べている時もあったかもしれない)、4人中3人が、携帯の画面を見、指を動かしていました。一人、お母さんのみ、何か、話しかけています。
4人でする会話は、多分、初めの注文のときだけだったのかもしれません。(その時は、まったく気にしていませんでしたから、その人たちの様子がわかりません。)
さてもう一つ、席から見えた光景。
向こうの座席に、ベビーチェアに座った男の子と、その横にはその子のばあば。
その子は、うちの2歳半の孫より大きく、しっかりしているように見えました。多分、3歳以上と思える男の子でした。
「うちの孫も、もう少ししたら、このように外食にも連れ出せるのかな・・」と考えていました。
その子は、お行儀よく、ばあばに食べ物を口に入れてもらっています。
「自分で食べたら、こぼすもんね・・・」と、おとなしく食べているその子を見ながら、うちの孫の食べっぷりを思い出していました。
やがて、ごちそうさま。
すると、手には、ゲーム機。
しばらく、画面を見つめ、指を動かしていましたが、次に見たときは、まぶたが重そう・・・で、横のばあばの抱っこということになりました。男の子の前には、お母さん、赤ちゃんを抱っこしたままのお父さんが居ましたが、話しているのは、ほとんど、目にしませんでした。
会話のない、中華料理の食卓、そんなこと、考えにくいなどと思う人が、減っていくのでしょうか。
参考➡➡
☆写真は、近所の河口。
孫たちも参加のクリスマス会。
たくさんのプレゼントに交じって、果物好きのおじさんが用意したのが大粒のイチゴ。
おじさんも赤ちゃんの時、苺を洗った上に、さらに表面をとって、食べさせたことを思い出し、6か月の孫にイチゴを、口に入れた写真がこれ。生まれて初めて食べるイチゴです。
「酸っぱい!!!!」
酸っぱいものなど、口にしたことがないのに、何故にこの顔ができるのだろう???
このイチゴ、箱に入った高級品の「あまおう」。
大人たちには、甘く美味しいものでした。
もちろん、2歳半の孫は、誰よりも早く、パクパクパクッ・・・・

先日、クラシック音楽を、極上のスピーカー、プレーヤーで聴けるカフェに行きました。
最近、パソコンから、流れ続けているクィーンとはちょっと違います。
膨大なLPレコード コレクションの中からリクエストしたのは、バッハの無伴奏チェロ。演奏は、ロストロポーヴィチ。実は、クラシックなら、なるべく楽器の少ない楽曲が好みです。
中でも、チェロの楽曲は好きなのです。かつて、聴講した英国文化論の中で、ジャクリーヌ・デュプレの「エルガーのチェロ協奏曲」の演奏を聴き、落ち着いた響きの中にある情熱を感じ、その音色に惹かれました。
夫は、コーヒーを飲みながら、コレクションのリストに隅々目を通し、レコードジャケットを眺め、極上の機器に近寄り(彼の目的は、ここにあります)、カ・リ・リ・ロは、美味しいココアを飲みながら持参した本を読みました。
師走の優雅なひとときでした。
☆写真は、スイス ザンクトガレン修道院。

巷では、まだ、映画「ボヘミアン・ラプソデー」➡➡の話題がテレビや、新聞でも取り上げられ、懐かしい人だけでなく、若い人たちも取り込んで拡散しているのがわかります。ユーチューブの視聴者数も、日々、半端なく増えている・・・そこで、しつこく、クィーンの曲のこと。
昔、娘たちの出身中学校は、コーラスに力を入れていました。市のコンクールでも、いい成績だったようで、市のホールでコーラスするの聞きました。そんな音楽会もさることながら、この子たちの卒業式に歌う歌の感動的だったこと。もちろん、親だから味わえた感慨だったともいえます・・・が、コーラスという形で、心を寄せ合っているのを目にすることは、そのプロセスも見えてきて、個人的には、好きなシーンです。
そこで、クィーンです。クィーンにほとんど興味のなかった夫が、カ・リ・リ・ロとその娘が映画に行ったあと、盛り上がっているのを目にして、聞きました。「それで、一番好きな曲はどれ?」
「♪Somebody to Love ♪ かな・・・。それから、・・・・・・、それから」
このゴスペルみたいな曲Somebody to Love は、どうですか?若い彼らの情熱も伝わってきて、当時よりずっと、気に入っています。特に、I’m OK, I’m alrightのところ。強がっても、強がっても・・・
で、クィーンのOfficial ユーチューブのOfficial Video♪Somebody to Love ♪を見ると、彼らが、コーラスするシーンが写ります。 キーの高い部分では、フレディ・マーキュリーとブライアン・メイ➡➡、そして、聖歌隊に居たという高音のロジャー・テイラーが、声合わせ歌います。それはそれで、いいのですが、そのとき、ベースのジョン・ディーコンは、どこ?と少々気になっていたら、最後のコーラスでは、4人一緒にコーラスするのです。一つのマイクの前で、若者4人が心合わせて。
いいなぁ、コーラスしているのを見るのは・・・
初めて見たときは、ちょっと、うるっとしてしまいました。
若いのは、いいなぁ・・・・とも、思います。
そして、現代のこの簡易さを享受しながら、このブログを打っています。聞こえてくるのは、フレディの歌うバラード♪Love of My Life♪Official ユーチューブの音です。
☆写真は、英国 グロースター大聖堂。

「クリスマスツリーをかざろう」(パトリシア・トート文 ジャーヴィス絵 なかがわちひろ訳 BL出版)
毎年、何冊かのクリスマスの絵本が出版・翻訳されます。
この「クリスマスツリーをかざろう」も、今年翻訳出版された1冊です。
宗教的な意味合いもなく、クリスマスのパーティもまだ始まらず、ともかく、クリスマスツリーを飾る楽しみを描いています。
木を買いに行くところから始まり、部屋に設え、友達と一緒に飾りつけなるなら、なお楽しい・・・とみんなで、豆電球を飾り、オーナメントをつけていき、てっぺんには、金の星?足元にプレゼントを並べ、そして、部屋の電気を消し、豆電球の灯りを「ぱちり」と点灯したのが、上記の写真の縦開きのページ。
子どもたちとクリスマスツリーを飾り、イブの夜、サンタクロースが、ツリーの足もとにプレゼントを置いて行ったのは、遠い昔となりました。その後も、毎年ずっと、生のモミの木を用意していましたが➡➡、今年はついに、写真のような小さなイミテーションに。香りもなく、チクチク痛くもないのは、やっぱり、寂しい。が、今までのオーナメントは、孫のところの大きなイミテーションのツリーに。これは、生のモミの木を用意し続けた以前、うちの3人の子どもたちが小さい時に飾っていたものと同じもの。
久しぶりに、子どもの本の売り場の目につくところで、イングリとエドガー・パーリン・ドーレア⇒⇒の絵本を見つけました。
「オーロラの国の子どもたち」(かみじょうゆみこ訳 福音館)
アメリカでの初版は1935年とありますから、今回日本語訳の新刊と言っても、もう長らく、子どもたちが楽しんできた絵本と言えます。
絵本ですが、文章が長く、物語というより、サーミ人の暮らす地方の生活紹介の絵本ですから、幼い子どもたちより、もう少し大きい子どもたちなら楽しむことができると思います。
彼らの「オーラのたび」もそうでしたが、絵が温かくて いい絵です。今、世に溢れる尖ったもの、そんなところのないまろやかで優しい絵なのです。
文が長くて・・・と言うなら、絵をパラパラとみていくだけでも楽しく・・・・・結局 本文を読みたくなります。作者の一人イングリ(イングリとエドガーは夫婦)の祖国ノルウェーへの愛が溢れています。
写真右の馬の絵には、こんなことが書いてあります。
≪・・・・リーセとラッセは、スキーをはき、山をのぼったりくだったりして、といってもほとんどはくだりでしたが、ひろい川のところにやってきました。そこでふたりは腰をおろし、校長先生がくるのをまちました。まもなく、ベルがりんりん鳴る音がして、大きな馬が一頭、こおった川の上をはや足でやってくるのがみえました。校長先生の馬でした。先生は、馬そりに子どもたちをのせてきたのですが、もうそりはいっぱいになってしまいました。リーセとラッセは、大きな馬と、大ぜいの子どもをつんだそりの光景に、ただいきをのんでたっていました。すると、先生は手をのばして、ふたりをつかみあげ、そりの子どもたちの上にのせました。りーせとラッセは、すぐにはずかしのもわすれました。子どもたちはしゃべり、馬は水をきしませながら、村へむかってはや足でかけていきました。・・・≫
ドーレア夫妻(イングリ&エドガー)の絵本
*「オーラのたび」(吉田新一訳 福音館)
*「ひよこのかずはかぞえるな」(瀬田貞二訳 福音館)
*「トロールのばけものどり」(いつじあけみ訳 福音館)
*「まいごのフォクシー」(うらべちえこ訳 岩波書店)
*「トロールものがたり」(辺見まさなお訳 童話館
*「オーロラの国の子どもたち」(かみじょうゆみこ訳 福音館)
「クリスマスのあかりーチェコのイブのできごとー」(レンカ・ロジノフスカー作 出久根育絵 木村有子訳 福音館)
「かえでの葉っぱ」(D.ムラースコーヴァ―文 関沢明子訳 出久根育絵 理論社)➡➡の画家出久根育の挿絵のついたチェコのお話です。
それも、クリスマスイブ一日の 心温まる話です。主人公は、フランタという、男の子。
アドベントカレンダーの最後の引き出しに入っていた、小さなベル。
「チリン、チリン。」その音を聞いたら、小さなイエス様が現れるかもしれないと、思うフランタ。
でも、部屋に入ってきたのはお母さん。
何をして遊ぼうかと考えたときに、ベルをチリンチリンと鳴らしてみるフランタ。
その音で小さなイエス様が目を覚まし、友達になって、一緒に遊びたいと考えるフランタ。
プレゼントを配る手伝いをすると考えるだけでくすくす笑いになるフランタ。
でも、今度はおとうさんが、部屋に入ってきました。
さて、お父さんは、フランタに「お前ひとりで、教会に行ってベツレヘムのあかりをもらっておいで」と言います。
そこで、遭遇する、ちょっとした出来事。出会う人たち。ドブレイシカさん、花屋のおねえさん、教会の管理人さん、それから、それから・・・
温かい眼差しをもった大人に囲まれて、クリスマスの夜を迎えるフランタです。

葉っぱが主人公のおはなしは、どうも最後が、寂しい。「葉っぱのフレディ」も、「かえでのジョニー」も。
葉っぱに、人の人生のすべてを重ねようとするからか、最後が・・・・
明日を信じる小さい子どもたちより、もう少し大きくなった子どもたちが読めば、感じるところがあるやもしれません。日本は、どうも、絵本=小さい子の物、字の読める子は、絵本じゃだめ、という風潮がありますが、字の読めるようになった小学生にも、絵本で、楽しみを見つけ出してほしい・・・
さて、チェコのD.ムラースコーヴァ―の話に出久根育の絵のついた「かえでの葉っぱ」(関沢明子訳 理論社)は、しっとりと葉の生き方(?)を伝えてくれます。もちろん、これも最後が寂しい。
チェコに在住する出久根育の絵は、チェコの空気を伝えてくれるかのようです。かつての彼女の作品は、かなり、シュールな画風で、好きになれませんでしたが、チェコ在住以降なのか、どうなのか、変化しているように思います。
*「かえでの葉っぱ」(D.ムラースコーヴァ―文 関沢明子訳 出久根育絵 理論社)
*「葉っぱのフレディ」(レオ・バスカーリア みらいなな訳 童話屋)
*「かえでのジョニー」(アルヴィン・トゥレッセルト文 ロジャー・デュボアザン絵 晴海耕平訳 童話館)

「かぜ フーホッホ」(三宮麻由子文 斉藤俊行絵 福音館)
上の写真の絵のように、風が吹いて、枯れ葉が、一斉に落ちてくるのは、楽しいものです。
頭に葉っぱがのり、がしゃがしゃがしゃと辺り一面の枯れ葉を踏みしだくのは、大好きでした。
雪がほとんど降らない神戸育ちですから、空から舞い降りてくるものは落ち葉であり、踏みしめるのも、枯れ葉でした。
もうずいぶんな年齢になっても、この絵のような情景は、わくわくするものです。
この絵本は、お話の絵本ではありません。風の音、風が吹くときの空気、風の動き・・・目には見えない風の命を読む絵本です。
≪・・・ヒューロルルル かぜの うずまき くすぐったーい おちばの おいかけっこ チッチリ チッチリ カシュクシュ カシュクシュ≫
≪けやきのきが ゴワー おちばが シャリシャリシャリシャリ チャロチャロチャロチャロ かぜ フーホッホ!≫
各自、こんなふうに聞こえるとは限りません。そこが面白いところ。耳をじっと澄ませ、身体で感じる・・・すると、いろんな音が聞こえてくるはず。
文を書いた三宮麻由子氏は、幼くして視力を無くされた人です。他に「おいしいおと」「でんしゃはうたう」「そうっとそうっとさわってみたの」「ウグイス ホケキョ」「おでこに ピッ」(いずれも福音館)など、音を表現したものだけでなく、体感を表現したものあります。