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みんなみすべくきたすべく

しだれ桜と青紅葉

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(承前)
 千本釈迦堂 大報恩寺は応仁の乱のときも両陣営から保護を受け、戦火を免れたので、京洛(京都市内)最古の建造物なのですが、日頃は開扉されないご本尊の重要文化財の釈迦如来像、快慶や定慶の作品を所蔵しています。

 宝物殿は、人出でごった返す京都とは思えないくらい、閑散としています。
 絵葉書も売ってないし、もちろん館内撮影禁止なので、そのお姿をここに紹介できませんが、定慶作の六観音像(鎌倉時代)の美しいこと。優美なこと。とはいえ、所蔵の平安時代の立像と比べると、力強さも加わって、ほれぼれします。この六体を拝観しただけでも、ありがたい。こんなにまじかに大きな観音さまを拝める機会も、そうそうありません。
 おかめ節分だとか、大根焚きで有名な千本釈迦堂ですが、もっと、このお宝を、広く世に知らしめてもいいんじゃないか・・・・

 と、思ったら、2018年10月2日~12月9日東京国立博物館 平成館で「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」展というのが開催されるようです。今と違って、当然、凄い人出でしょう。(ここでなら、絵葉書くらい手に入るだろうけれど・・・)
☆写真は、千本釈迦堂 大報恩寺の阿亀桜(おかめざくら)、向こうには、すでに綺麗な青紅葉。少し写る屋根は、国宝の本堂。
 

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桜 さくら サクラ

しだれ12j
京阪神は、一斉に桜が満開になりました。
2週間前は、梅が満開、見ごろで➡➡、今は桜。
花見日和の京都に出かけるのは、なかなか勇気が要ります。どこもここも凄い人出ですから。
が、ありました。今年も穴場が・・・
京洛(京都市内)最古の建造物で、国宝指定されているのに・・・
国宝や重要文化財も多々あるのに・・・
応仁の乱の刀傷も残る 千本釈迦堂 大報恩寺。(続く)

  しだれ

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あそびましょって ぞうさんが

ぞうさんj
 よれよれしながら、孫の居る生活にも慣れてきました。やっと・・・
 お芋や軟らかく煮た根菜中心の食事、掃除の行き届かない部屋、絵本の散らかった部屋。ああ、30年以上も前を思い出す…
 まだ明るいうちから食べる夕ご飯。8時には消灯して、静かに厳戒態勢をひいている我が家。(家が狭いので、台所やリビングと孫の寝るところが近いのです)

 孫が、久しぶりに母親と30分ほど面会した時のこと。
 病院に持参したのは「ぞうさん」の絵本(まどみちお詩 中川宗弥絵 福音館)。➡➡
 ♪あそびましょって、ぞうさんが わたしの いえに きたら いい ね、そうですね、おかあさん♪~と、急に歌い出した孫の、最後の歌詞がせつなくて、病院に持参させました。お母さんに歌ってもらえたらいいなと。

 それに、この絵本の最初はいわゆる「ぞうさん」の歌なのですが、お母さんぞうと子象が描かれています。あるとき、この絵本を歌ってやっていると、孫は、この大きい方を「おとうさん」と指さしたのです。
 離れている母親がきいたら、泣いてしまいそうな・・・
♪ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね そうよ かあさんも ながいのよ♪~

 で、このボロボロの絵本、孫のために新しい一冊を、と思ったら、福音館の中川宗弥絵の絵本は、もう手に入りませんでした。(続く)

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ほそながのえほん

ほそながj
 横長の絵本より、幅が狭い細長い感じのする絵本もあります。
 例えば、フィッシャーの「るん ぷん ぷん」(ハンス・フィッシャー作 さとうわきこ・言葉 小さな絵本美術館 架空社)(写真上)
ホフマンの「ヨッケリ なしを とっといで」(フェリクス・ホフマン絵 おかしのぶ 訳小さな絵本美術館 架空社)(写真下左)  
 どちらもスイスの絵本画家というのが共通しています。

 「るん ぷん ぷん」は、元は文字のない原書だったものに、フィッシャー氏の長男がラッパや太鼓の口真似で読み聞かせてくれたものに、さとうわきこが日本語の言葉を添え、刊行されたものです。
≪るんぷんぷん きょうは ゆかいなけっこんしき ねこのがくたい くりだして ドンチャカ ブンチャカ プッパカパー・・・・≫

「ヨッケリ なしを とっといで」は、ホフマンの【子どもたちが自ら楽しめる、子どもたちの手に合ったサイズの本を】という思いから作られた作品です。これも、ドイツのわらべ歌で、原文は韻を踏んだ心地よい響きの感じられる詩のようです。
≪ヨッケリ なしを とっといで だけど なしは おちたくないよ すると おやかた いぬに いった ぱくっと ヨッケリ かんどいで いぬは ぱくっと かみたくないよ ヨッケリ なしを とりたくないよ なしは まだまだ おちたくないよ・・・・≫

 そして、写真下右は、センダック「7ひきの いたずらかいじゅう」(モーリス・センダック作 なかがわけんぞう訳 好学社) 「かいじゅうたちのいるところ」(冨山房)の番外編とでもいうか、センダックも軽い気持ちで作ったような作品です。
≪こりゃ たいへん! かいじゅう 7ひき でてきたぞ   1ばんめは そらを とびまわり、 2ばんめは じめんに もぐる 3ばんめは まちへ のそ のそ のそ やってきて、……≫(続く)

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たてながのえほん

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(承前)
 さて、左に写る「つきのぼうや」(イヴ・スパング・オルセン やまのうちきよこ訳 福音館)➡➡は、縦長を利用し、空の高さを表現しています。

 ところが、横長絵本として紹介した➡➡「ほしになったりゅうのきば」(君島久子再話 赤羽末吉絵 福音館)は、広がりを表現する横長だけでなく、写真右のように、高さを表現するために縦に描かれたページもあります。

 それは、龍の兄弟がけんかして、破ってしまった天の裂け目をつくろうために、ライロン山の緑の髭の老人に会いに行き、そこでもらった緑のわらじをはいて、ウリュー山のクマ王の繕い上手な三人の娘を嫁にもらいにいった場面です。
≪ウリュー山は、たかく そびえて、石のはしらのよう。くもや きりがあいている てっぺんに、かすかに きいろいいえがみえる。サンは、ふもとで、「クマ王よ、おまえのむすめを よめにおくれ」と、いいながら、あしを どんどん ふみならすと、ウリュー山が、おん おん おんと ゆれだした。≫

 この絵本は、赤羽末吉の力強い絵によって、その壮大な物語の雰囲気が伝わります。
 が、しかし、この壮大な中国の民話は、絵本と言う枠に入り切れていないような気がします。
 特に、ライロン山とウリュー山を行き来し、やがて、天を繕える娘を嫁にできるやりとりは、横長のページであるために、高さがよくわからず、かえって、絵があることによって、どうなっているの?と思うような描き方になっています。
 
 昔話・民話・・・というように、口で伝え、耳で聴いてきたお話を、絵本にすることの一つの限界を、ここにみます。
 とはいえ、お話自体は、わくわく、はらはら、とても面白いものです。

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よこながのえほん その2

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(承前)
 横長をうまく使った絵本には、「100まんびきのねこ」(ワンダ・ガアグ 石井桃子訳 福音館)もあります。(写真上)
 「うちに ねこが 一ぴき いたらねえ」というおばあさんの望みをかなえるべく、おじいさんがねこを探しに行く話です。
 写真に写るのは、
 ≪おじいさんは おかを こえて いきました。すずしい たにまも とおって いきました。そして、ながい ながい あいだ あるいて、とうとう、どこも ここも、ねこで いっぱいに なっている おかに でました。≫という箇所なのですが、絵を見るだけでも、その長い距離が伝わります。ねこなんか、どこにも居そうですが、おばあさんののぞみは「かわいい ちいさい ふわふわした ねこ」なのですから、特別なのです。
 それで、ついに到着するのが、
≪そこにも ねこ、あそこにも ねこ、どこにも、かしこにも、ねこと こねこ、ひゃっぴきの ねこ、せんびきの ねこ、ひゃくまんびき、一おく 一ちょうひきの ねこ。≫の丘なのです。

 「100まんびきのねこ」は、このリズミカルな訳が楽しいですが、写真中の「ロージーのおさんぽ」(パット・ハッチンス わたなべしげお訳 偕成社)は、ほとんど文章はなく、絵だけで、ロージーというめんどりが淡々と散歩するのを、見るのです。が、その背後には、ロージーを狙うキツネが、ずっとついてきています。・・・が、一言もキツネの存在を表現する言葉はありません。絵だけで、キツネの行動をみるのです。長い距離を進みゆくめんどり。めんどりを自分のものにできないキツネ・・・・写真に写るのは、蜂の巣箱をひっくり返して、ついには、蜂に追われる身となるキツネが、遠くに描かれます。そこで、最後のページ。≪やれやれ ばんごはんに まにあった。≫

さて、写真一番下は、空の大きさ深さ・・・・天を表現する「ほしになったりゅうのきば」(君島久子再話 赤羽末吉絵 福音館)です。が、この「ほしになったりゅうのきば」は、横長ともいえるし、縦長使いともいえるのです。え? (続く)

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よこながのえほん その1

よこながjj
 (承前)
 絵本には、いろんな大きさ・形があります。
 作品のテーマを表現するために、横長にできた絵本も多々あります。

 上記写真の上「サリーのこけももつみ」(マックロスキー作 石井桃子訳 岩波)は、サリーとおかあさんがこけもも(原書は、ブルーベリー)を摘みに出かけた先の広がりを表現するには、横長が必要です。狭い空間でこけもも摘みをしていたら、この絵本のように、母親と母熊の取り違えなんか起こりませんし、餌場が狭すぎては、こんなに平和に過ごせません。
 なだらかな広がりこそ、こけもも摘みにふさわしい。

 また、写真下の「にぐるまひいて」(ドナルド・ホール文 バーバラ・クーニー絵 もきかずこ訳 ほるぷ)も、家族が一年かかって収穫あるいは、製作したものを、お父さんが「にぐるま」をひいて売りに行き、戻ってくる話ですから、その長い道のりを横に長く表現しないとなりません。
 一年の営みを、すぐ近で、売りさばくのでは、一年分の重み、家族全員で関わった重みが薄れてしまいます。しかも、お父さんは最後に「にぐるま」まで手放し、徒歩で長い距離を引き返します。けれど、家族への土産を携えていますから、心も足も軽いのです。横長に続く道のりもなんのその・・・

 絵本の絵は、アニメーションではなく、ましてや、子どものボタン操作で動くわけではありません。
 けれども、これらの場合は、横長に表現することによって、登場人物の移動を想像し、遠いなぁ、登場人物の居る場所は広いところだなぁと、イメージすることができるのです。(続く)

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おおきい えほん

ババールj
(承前)
 小さい絵本➡➡なら、2歳にならない子どもの手に負える・・・とはいえ、もっと大きい子どもには、重くて大きい絵本も、魅力的。
 「ねこのオーランド―」シリーズや、グランドアルバムの「ぞうのババール」シリーズも。
 大きなページを広げると、絵が、隅々まで、見えて、楽しさも倍増。(老眼にも嬉しい)

 小さい絵本が、本棚で見失われがちならば、とても大きい絵本は、存在感一杯で 見失うことはありません。が、しかし、出版社が出版を継続したがらないのか、はたまた書店の棚で場所を取るからか、書店で見かけないこともしばしば。(続く)

「ねこのオーランド―」(キャサリン・ヘイル 脇明子訳 福音館)
「ねこのオーランド― 農場をかう」(キャサリン・ヘイル 脇明子訳 童話館)
「ねこのオーランド― 海へいく」(キャサリン・ヘイル 小沢正訳 童話館)

「ぞうのババール」「おうさま ババール」「ババールのしんこんりょこう」「ババールとサンタクロース」「ババールのこどもたち」「さるのゼフィール」(ジャン・ド・ブリュノフ 矢川澄子訳 評論社)


加えて、ときどき本棚の奥に潜むことのあるちいさな一冊「きみなんかだいきらいさ」(ジャニス・メイ・ユードリー文 こだまともこ訳 冨山房)

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おかあさんのしごと

北野j
先日、懐かしいものを見せてもらいました。
 むかし、むかし、友人たちと子どもの本について思うこと、知っていることの情報交換していたことがあって、それをA4の一枚紙にまとめ、郵送していたことがあったのです。その全コピーです。

 このまえ、ここに書いたように➡➡、当時は、はがきで、個人の絵本と子育ての報告通信もしていましたから、子育てで時間がない!とぼやきながらも、こまめに発信していたことを思い出します。
 小学校1年生だった息子が、生活の授業で「おかあさんの しごと」を書き記すとき、「ごはんをつくる。せんたくををする。こぴーをする。」などと書いていましたから、いくら、家庭用コピー機のお世話になっていたとしても、自分勝手な毎日を送る母親だったと言えましょう。
 
 さて、それで、その昔の全コピーです。保管されていた人のを、わざわざコピーしてくださってファイルに入れてありました。感激です。そして、それをまた、コピーして読みたいと言ってくださる人が居て・・・

 実は、もちろん、原文は手元にあるのです。
 が、しかし、はがき通信のように冊子にせず、切り貼りのままの原文なので、退色甚だしく、見せていただいた全コピーのような状態では残っていなかったのです。

 そして、ご親切にも、その全コピーを、カ・リ・リ・ロに用意くださった人が居て、今、1987年から94年までの101号分まで読み直すことができました。感謝です。 

 思えば、長いあいだ、絵本のこと、子どもの本のこと、楽しんできたものです。
☆写真は、京都 北野天満宮

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桃桜

 桃桜j
 京都 平野神社は、桜の種類が多く、桜の季節は、信じられないくらいの人出です。
 そこで、境内の桃桜が満開との情報を得て、行ってきました。北野天満宮➡➡のすぐ近くです。
 境内は、花見のお席の準備で、大変そうでした。
 
 「桃桜」・・・・桃なのか桜なのか・・・この早咲きの桜、薄桃色の花が満開でした。
          桃桜2j
下の写真は、一番上の写真の反対側なのですが、贅沢にも手前左に「蝋梅」、手前右に「白梅」そして、向こうに「桃桜」が写っているのが見えますか?
桃桜3j

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見頃も見頃

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 2月が充分寒かったので、梅も遅く、早咲きも、遅咲きも一斉に咲いて、京都北野天満宮の梅苑は、満開も、満開。見頃も見頃。
 これまでも何度か、梅の季節に北野天満宮に足を運びましたが、今年が一番でした。
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 空は青く、香りも優しく、春がやってきました。
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ちいさい えほん

おーちゃん
 「せきたんやのくまさん」シリーズ➡➡も「まどそうじやのぞうのウンフ」➡➡も小さく、扱いやすい装丁です。  

 小さい子が、小さい本を好きなのは、彼らの手のサイズにあって、持ちやすいということもあります。それは、かれらの身体の大きさとのバランスを考えると、いわゆる「手に負える」ということでもあります。
 したがって、小さい子どもが、よっこらしょと持つような絵本は、小さい絵本に比べて、リピートの対象になりにくい。
 
 ということで、先日紹介したような「はるがきた」「たのしいなつ」「いまはあき」「ふゆがすき」➡➡のような手の平サイズのもの、内容は、特に小さい子向きということではないものの「ピーターラビット」シリーズ(福音館)などは、小さい子が持ちやすいという意味で、彼らには魅力的です。
 また、真四角で安定した要素のブルーナーの「うさこちゃん」のシリーズ(福音館)、今、数多く出版される赤ちゃん絵本なども、形や重さからみると、理にかなっているといえます。
 
 また、先日から紹介してきた「ブルンミ」のシリーズ➡➡ ⇒⇒ 真四角とはいえませんが、小さめの形でもちやすい絵本と言えましょう。

 絵本は、装丁、大きさまでも、子どもを想定して作られていますが、その分、大きさがまちまちで、本棚の整理とは程遠い状況になりがち。なので、シリーズではなく、1冊物の絵本で、小さいものは、本棚で埋もれてしまうと、次、探すのに一苦労。
 ということで、センダックが絵を描いた「きみなんかだいきらいさ」(ジャニス・メイ・ユードリー文 こだまともこ訳 冨山房)を、見失うこと、しばしば・・・(続く)

☆写真は、足をぶらぶらさせて、楽し気に読んでくれています。ディック・ブルーナ「おーちゃんのおーけすとら」(まつおかきょうこ訳 福音館)

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まどそうじやのぞうのウンフ

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(承前)
「せきたんやのくまさん」 (フィービ・ウォージントン、 セルビ・ウォージントン いしいももこ訳 福音館)のシリーズ➡➡は、未だに手にすることができますが、「まどそうじやのぞうのウンフ」(アン・ホープ エリザベス・ハモンド いしいももこ訳 福音館)は、なかなかお目にかかれません。

 奥付を見ると、どちらも1979年11月に福音館から出ていて、大きさも今より、ひと回り小さいながら、二冊とも同じ大きさだし、活字も同じようにして、動物仕事シリーズのような感じで出版されていたのです。作者は全く違うものの、なんとなく、雰囲気が似てなくもない。
 そして、くまさんもウンフも、アナログな仕事。片や、石炭を馬車で運ぶ。片や,鼻で水を吹きかけ、窓を拭く!しかも、三輪車で移動。
 「せきたんやのくまさん」の馬の「ぱか ぱか ぱか ぱか」という音が楽しいならば、「まどそうじやのぞうのウンフ」が窓に水を吹きかけるときの「しっ しっ しゅう」という音も楽しい。 くまさんはベビーベッドで寝て、ぞうさんは青い服を着て、ぽちぽちのついたスカーフをまいて、赤いサドルのついた3輪車を持っている。最後で、すぐに ぐっすりねむってしまうのがくまさんならば、ぞうさんは、こどもたちの大好きなゆで卵を食べる・・・・

 くまさんもぞうさんも、こどもそのものです。そして、くまさんもぞうさんも、2歳前の孫とまったく体形が同じ・・・つまり、おなかがぽっこり。(ぞうさんは、すこし、足が長いのですが・・・)この親近感こそが、このくまさんやぞうさんの魅力なのでしょう。

 さて、「まどそうじやのぞうのウンフ」は、英国1958年版で、「せきたんやのくまさん」は英国1977年版なので、一見、ペアのように見えるこの2冊も、実は、20年も間があいているのです。そこで、「まどそうじやのぞうのウンフ」のスタイルにヒントを得て、「せきたんやのくまさん」のシリーズも出たんじゃないかと推測します。

 いずれにしても、我が家のこの2冊の絵本は、ボロボロで、どちらにも、どの子が書いたか「ジージー」したあとが残っています。
 

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すぐに ぐっすりと ねむってしまいます。

くまさんj
小さい子向きの絵本の「せきたんやのくまさん」と「まどそうじやのぞうのウンフ」(アン・ホープ エリザベス・ハモンド いしいももこ訳 福音館)の2冊は、楽しい絵本です。が、いつの頃からか「ぞうのウンフ」は見かけなくなり、くまさんの方は「せきたんやのくまさん」シリーズとして出版され続けています。
*「ゆうびんやのくまさん」のことは、海ねこさんのブログ➡➡(2006年12月2日分)のクリスマスのときに紹介済み。

くまさんは、どの職業についても、生真面目に働きます。朝から、晩まで。
最初の「せきたんや」さんなどという、なじみのない仕事も、あるいは馬車で「ぱか ぱか ぱか」運ぶ運搬ぶりも、今の日本では、イメージしにくいものながら、子どもたちは、そこにでてくる「どさっ どさっ どさっ」という音、「1こ 2こ。1こ 2こ 3こ」という3つまでしか数えられない数え方に親近感を覚え、その小さな絵本を楽しみます。

とはいえ、「パンやのくまさん」が邦訳されてからは、パンという、身近で美味しいものを売る仕事。ということもあって、「よんで」の声が1番多いのではないかと思います。
まだ、2歳になっていない孫には、パンというのはとても魅力的。パンをこねるときの「どさっ どさっ どさっ」という音、車で売りに行った先での鐘の音「がらん がらん がらん」という音。貯金箱にいれるお金をかぞえるときの「1こ 2こ 3こ 4こ 5こ!」「1こ 2こ 3こ 4こ 5こ!」・・・くまさんは5つまで数えられるようになっている!!

いずれにしても、「せきたんや」さんも「ぱんや」さんも「ゆうびんや」さんも「うえきや」さんも「ぼうじょうののうふさん」も、みんな、一日の終わりは、すぐに ぐっすりと ねむってしまうんですよね。
お疲れさま!!!(続く)

「せきたんやのくまさん」 (フィービ・ウォージントン、 セルビ・ウォージントン いしいももこ訳 福音館)
「ぱんやのくまさん」「ゆうびんやのくまさん」(フィービ ウォージントン、 セルビ ウォージントン まさきるりこ訳 福音館)
「うえきやのくまさん」 「ぼくじょうのくまさん」(フィービ ウォージントン、 ジョーン・ウォージントン まさきるりこ訳 福音館・童話館)

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おやすみ アンニパンニ!

 アンニパンニj
(承前)
 今まで、このブログの文章の多くは、少し先に書きためたものですが、書いた時期とUPする時期がずれても違和感のないようしているつもりです。

 ところが、先日書いていた「くまのブルンミ とんとんだあれ?」(マレーク・ベロニカ 風濤社)➡➡は、2・3か月前から、孫のお気に入りだった絵本で、今や、その本より、もう少しお話の長い絵本の方がお気に入りなのです。「ラチとらいおん」(マレーク・ベロニカ作 とくながやすとも訳 福音館)➡➡も然り。
 中でも、「おやすみ アンニパンニ!」「びょうきのブルンミ」に興味深々。

「おやすみ アンニパンニ!」(マレーク・ベロニカ文絵 羽仁協子訳 風濤社)では、主人公のブルンミやアンニパンニより、迷いんできたこねこ(にゃあにゃあ)に関心が集中。にゃあにゃあが、どこにいるか、指をさして楽しんでいます。

 「びょうきのブルンミ」(マレーク・ベロニカ文絵 羽仁協子訳 風濤社)は、ハクション、ハクションの繰り返しが楽しいらしく、自分も一緒にアックション、アックション。しかも、お医者さんが二度登場するのですが、そのページは、じっと見つめています。また、保育所に行く前に、必ずする検温も、アンニパンニが体温計をもっているシーンがあって、じっと真剣なまなざし。自分の体験に照らし合わせているのでしょうか?

 この二冊は、1歳10か月の孫には、身近なテーマであったことが、彼女の関心を呼んだのだと思います。反対に、同じシリーズでも、「ブルンミのたんじょうび」(マレーク・ベロニカ文絵 羽仁協子訳 風濤社)は、同じような長さの話ではあるものの、ブルンミに秘密で誕生会の用意したり、秘密を教えてくれなくて、すねてしまうブルンミの様子というものが、今は、理解できない様子です。2歳の誕生会の後なら、誕生ケーキにのみ関心が出るかもしれませんが・・・

 いずれにしても、お話の長くなってきた絵本は、文言すべてを読んでいるわけではありません。主人公の行動とオノマトペ(擬声語・擬態語)を中心に、読んでやっているものの、どんどん、本文も聴けるようになってきて、今や、次々、絵本が散らかってきています。ああ、歴史は繰り返す・・・・

 ブルンミのシリーズは、上記他、「ブルンミとアンニパンニ」「ブルンミとゆきだるま」「ブルンミとななつのふうせん」「ブルンミのピクニック」「ブルンミのドライブ」「ブルンミのねこ」「おはなしよんで、アンニパンニ!」「サッカーしようよ!ブルンミ」が 羽仁協子訳 風濤社から出ています。

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わたし おかあさんです。

ハンプトンコートj
 最近、「おかあさんだから・・」という言葉に反応する空気があり、「おかあさんだけど・・・」という言葉で反応する空気もあって、おかあさんの大変さを、広く知らしめるきっかけの一つになっています。

 「おかあさんなのに・・・」と言わないところが、ずいぶん温かい。

 確かに、おかあさんは、効率のよくない日々を送ります。
 無償の愛とはいうけれど、そんなものくそくらえ!と爆発しそうになることも。
 評価されてきて当たり前の世代には、評価なんかできない子育てと、結果も見えない、鬱々とした日々。
 自由に自分の時間のあった者には、自分以外のものに振り回されることの苛立ち。

 でもね・・・・おかあさんに、誰もがなれるわけじゃない。ましてや、その子のおかあさんになれるのは、一人。
 今、ばあばまましていると、よくわかります。
 長期入院したままで、我が子を抱きしめることもできないおかあさん。
 数々の絵本や、歌に、「おかあさん」が登場しても、自分のそばには居ないおかあさんの不思議。

 一人の子どもに自分の時間が喰われるのは、ほんの2-3年。多く見積もっても、数年。その間、ほんのちょっとだけ「わたし、おかあさんです。」と、その立場を楽しむのは、どう?
☆写真は、英国ハンプトンコートパレスの春

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正体なく寝込む

メレンゲj
 先日、夕方の電車の隅っこの席にいた母子。
 お勤めの帰りでしょうか。膝に乗せた3歳くらいの男の子と、おかあさんはぐっすり・・・というか、正体なく二人で寝込んでいました。

 女の人が、勤めながら子育てをする。本当に、大変なのです。世には、母子支援の言葉が躍ります。改革されるという言葉も踊ります。
 もちろん、たくさんの支援も援助もあり、カ・リ・リ・ロが、長男を保育所に預け働いていた時より、働きやすくなったのかもしれません。
 が、しかし、大変なのです。理屈や理論じゃ割り切れません。
 
 トイレに行く時間もままならず、もちろん、新聞を読む時間もなく、今だったら、携帯を触っていたら、興味津々で触らせてくれという子どもから、携帯を引き離すために、こそこそと携帯をのぞき、立ち食いのような状況で食事をし、はいつくばって、子どもの食べこぼしを掃除し・・・・
 
 思い出しました。
 どうやって3人の子どもを育てていたか。大人の本の読書などする時間もないので、絵本を読み絵本を読み、絵本で子どもと一緒に読書していたこと。
 自分の時間なんかなかった、子育て真っ最中のあの頃、カ・リ・リ・ロは、毎月、絵本と子どもの報告を私信で出していましたっけ。
 友人と会う時間もなく、電話する時間もないぶん、その私信のお返事を楽しみにしていた時期があったこと。

 今、また再び、大人の本を読む暇なく、絵本中心のブログになっています。
☆スイスでみかけた、メレンゲ

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はるがきた

はるがきたj
 ロイス・レンスキーは、スモールさんシリーズ(渡辺茂男訳 福音館)で有名ですが、この4冊「はるがきた」「たのしいなつ」「いまはあき」「ふゆがすき」(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)は、手のひらサイズという小ささだけでなく、内容もとても可愛い絵本です。

 タイトルからして、センスがいい。どれも、5-6字なのに、それぞれの季節を端的に表しています。原題のタイトルもおよそ、短くわかりやすいのですが、この日本語のタイトルは、優れもの。

 中身もリズミカルで、小さい子どもも、じゅうぶん楽しめます。
 1ページの日本語が概ね4行未満で、ページを繰るのも無理がありません。
 
≪はるが きた きた! はるが きた!さむい ふゆには さようなら。≫で始まり、
次のページは、
≪おひさま ぽかぽか かぜは さわやか。 さあ、ドアを あけて そとに とびだそう。≫
・・・・そして、最後のページは
≪はなの かおりを はこぶ かぜ。 あっちも こっちも はるの いろ。≫

・・・・詩的な表現で構成されているのも楽しいし、わかりやすい優しい絵も楽しい。
子どもたちの好きな小動物もいろんな場面に登場して、親しみを深めています。
そして、ロイス・レンスキーは、きっと犬が好きなのだと思います。子犬が、あちこち登場し、孫は、いちいち「わんわん」と指さして楽しんでおります。

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おはながわらった

梅j
 関西は、一気に暖かくなり、近くの公園の梅も早咲きも遅咲きも一度に咲いて、桃の花も咲いていました。

~♪春の風がふいてきたら めだかもちょうちょも小鳥たちも
うれしそうに 歌うだろう 春だよ ぼくらの春がきたよ~~♪
 と、かつて、長男が歌って教えてくれた「春がきたんだ」 (ともろぎゆきお作詞 峯陽 作曲)を、ついつい口ずさんでしまいます。➡➡

 ・・・と、我が家で定番になった歌ですが、今は、~♪おはながわらった~♪
を孫と楽しんでいます。
 孫が、今、入院している母親に、この歌をよく歌ってもらっていた時は、最後の~♪一度にわらった~♪のあと、「あはははっは!」とオリジナルに付け加え、孫も一緒に楽しんでいました。が、今や、歌詞が身内にはわかるくらいには歌え、最後の「あはははっは!」も歌います。つまり、保育所で習ったのでもなく、ばあばが教えたのでもなく、会うこともままならない母親が歌ったのを覚えているのです。

 さて、孫は、いただきものの、タッチすれば、歌が流れる玩具を自宅にもっています。それを孫が触って歌うとき、機械から流れる歌のあまりの速さ、というか、孫の歌うスピードとの差に、孫はついていけず、自分が歌うことではなく、ボタンを触って、次々流れることで、遊んでいるのを見ました。
 もともと、機械から流れる音楽や映像と小さい子の関係を考えてきたつもりでしたが、この風景を見て、冷たいものを感じたのです。それは、適当に、ボタンを押しているその姿だったのかもしれません。

 母親の声で、孫の回らぬ舌で、一緒に歌う暖かさ。
 なんの道具がなくても、ましてや、巧妙なテクニックがなくても、そこには、大事なものが流れ、孫の支えになっているのだと思うのです。

        桃j

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元気な黄色

 蝋梅j
久しぶりに京都に出かけました。
 梅を見ようと思っていたものの、今冬の寒さのせいか、京都は、未だ、ちらほら。
 ならば、ということで、蝋梅なら、まだ咲いている?
 検索して出てきたのが、大蓮寺。その名の通り、蓮の寺。
 しかも、安産の寺とありました。
 お参りのつもりで、出かけましたら、大きな蝋梅の木には、まだ花も咲いていて、小さな境内で見つけたのは、黄色い福寿草。
 紅白のめでたい梅見では、なかったけれど、黄色い蝋梅と、黄色い福寿草に、エネルギーをもらったような気がします。

 この小さなお寺は安産祈願だけでなく、明治から大正初期に、安産祈願に来ることができない妊婦さんにお札を届ける宅配をしていたそうで、日に15里走る宅配の僧を「走り坊さん」と呼んでいたそう。その縁から、足腰健常のお守りもありましたが、この際、欲張らずに、安産祈願のお守りだけ、いただいてきました。

  福寿草

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ラチとらいおん

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 「ラチとらいおん」(マレーク・ベロニカ作 とくながやすとも訳 福音館)
(承前)
 当時、ハンガリーの絵本と書いてあるのも珍しく、そのあとも、翻訳されたハンガリーの絵本をよく知らない期間が長かったように思います。そして、この「ラチとらいおん」の奥付を見たら、なんと、1977年の版(翻訳初版は1965年)。

 小さな版のこの絵本は、単純な描き方で、子どもたちにもわかりやすい絵で表現されています。
 犬が怖く、暗い部屋に入るのが怖く、遊んでもらえなくてべそをかいているような臆病で弱虫な男の子ラチのところへ、やってきた小さな赤いらいおん。
 初めは、馬鹿にしていたらいおんが、実は力持ちで、しかもラチを鍛えてくれます。そして、最後は、ラチが居なくても、ラチは、強くなって友達とも仲良く遊べるようになります。

 小さい子どもたちは、自分の存在を小さなものだとは思っていません。が、しかし、暗い部屋に入っていくことは、ちょっと苦手だという子どもたちは、実際には多いのです。そんなときに現れた、ポケッタブルのらいおん。助っ人らいおん。

 孫は、まだ2歳になっていませんが、この絵本のページを繰ることによって、このらいおんに親近感を覚えるのか、最近、保育所に行くときの小さな手提げ袋(実は、不要な荷物です)に、このらいおんも入れていくのです。
 絵本のように、このらいおんから勇気をもらっているとは思いません。が、らいおんであっても、一緒にいれる小さなハンカチやテッシュであっても、自分の身の回りのものを携えていくのは、ちょっと励まされ、安心する気持ちになるのではないかと考えます。(続く)
 

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