みんなみすべくきたすべく

がたんごとん がたんごとん ざぶん ざぶん

    がたんごとんj
 「がたんごとん がたんごとん」(安西水丸 福音館)
 がたんごとん がたんごとん のせてくださーい 
 がたんごとん がたんごとん・・・の、繰り返しの「がたんごとん がたんごとん」の絵本は、小さい子どもたちと、一緒に楽しんでほしい1冊です。
 がたんごとん がたんごとんと 列車が進み、リンゴやバナナ、哺乳瓶も のせてくださーい。
 小さい子どもたちの身近なものが、次々、のせてくださーい。

 で、終点です。おりてくださーい。
 絵も単純化され、小さい子どもにもわかりやすい。
 
 夏バージョンの「がたんごとん がたんごとん ざぶんざぶん」もありますよ。
 スイカやアイスクリーム、ビーチボールも出てきます。
 個人的には、がたんごとんがたんごとん ざぶんざぶんの「ざぶんざぶん」の音が好みです。
 23年ぶりの続編らしいですから、「がたんごとん がたんごとん」が長い間支持されてきたのがわかります。
 
 小さい子の絵本は、身近なものが出てきて、繰り返しのある言葉、リズミカルな言葉のものが楽しいのですが、一番は、身近な大人が読んで、一緒に楽しむことに、つきますね。

 ちなみに、この登場人物(?)の中で、孫(1歳3ヵ月)が好きなのは、小さなネズミ。

☆写真は、がたんごとん がたんごとん オモチャ。丁寧な作りです。子どもと絵本に関わる人が、作ってくれました。

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ごろつき オートリカス

    リージェンツj
 「冬物語」(シェイクスピア 小田島雄志訳 白水社Uブックス)
(承前)
 巻頭の人物欄がなければ、突然出てくるオートカリスという人が誰?と思った事でしょうが、読む前から「オートカリス:ごろつき」と示されているので、そうか、ごろつきね。とわかりやすい。読む前からわかってしまうことに異を唱える向きもあると思います。が、舞台でも、ごろつきをはっきりわからせるためには、登場するときの服装や、所作で分かるのですから、カ・リ・リ・ロごときの読者には、よくわかって、とっつきやすい。

 が、この「ごろつき オートリカス」は、大した役回りではないものの、何度か、歌いながらの登場なのです。
 そのせいか、ごろつきとはいえ、明るい役回りです。

≪雪より白い白リンネル、   カラスも顔負け黒チリメン、   バラの香りのする手袋、   顔の仮面に鼻の仮面、   黒玉細工の腕飾り、    琥珀細工の首飾り、    婦人の寝室用香水、   金糸の帽子と胸当ては、    いとしい人への贈り物、    鋼鉄(はがね)の針とアイロンは 娘さんには必需品、   さあ、お買いなさい、お買いなさい、いとしい娘に泣かれぬよう、   さあ、お買いなさい、お買いなさい。≫

・・・・で、この詩は、ウォルター・デ・ラ・メアの「Come Hither」という詩のアンソロジーにも入っています。この大著は、「A Collection of Rhymes & Poems for the Young of All Ages 」と副題がついていて、シェイクスピアが13選ばれています。ちなみに、クリスティナ ロセッティが8、エリナー・ファージョンが5。一番多いのが、ウィリアム・ブレイクで18でした。

≪Lawne as white as driven Snow, Cypresse blacke as ere was Crow, Cloves as sweete as Damaske Roses. Masks for faces, and for noses, Bugle-bracelet , Necke-lace Amber, Perfume for a Ladeies Chamber :≫
☆写真は、ロンドン リージェンツ運河

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その声が聞こえそうな臨場感

グローブ門j
(承前)
 シェイクスピア「冬物語」(小田島雄志訳 白水社Uブックス)

久しぶりに小田島雄志訳のシェイクスピアを読んだら、やっぱり面白くて、一気読み。
シチリアの王リオンティーズが、嫉妬に狂っていく様子が、手に取るようにわかります。
台詞を聞いていないのに、その声が聞こえそうな臨場感。
主要人物のひとりごと、つぶやき、叫び。これらが、ぐっと迫ってくるのが、シェイクスピア。
それに、シェイクスピアの面白いところは、ちょっとしたボタンの掛け違えが、大きな流れを誘い、笑いを取ったり、涙を誘ったり。
時代は、ずいぶんと違っても、人の心、人の心の駆け引き、そしてやり取りは同じだと、納得するのです。

 個人的な問題ですが、一つ難を言うとすると、西洋の戯曲は、名前を覚えるのに一苦労。
 よく似ているし、経年劣化の頭脳には入らないカタカナの名前。したがって、このシェイクスピアの白水社Uブックスの巻頭にある「人物紹介」のページは、必須です。舞台でなら、名前より人物やその服装、喋る様子などでも、区別がついていくのでしょうが、印刷されたものだと、主要人物以外の様子はなかなか把握しづらいものです。(続く)
 
☆写真は、ロンドン グローブ座テムズ川沿いの門扉

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ボヘミアの海

白浜j
(承前)
 「新アラビヤ夜話」(スティーヴンスン文 南條竹則・坂本あおい訳 光文社文庫)は、ボヘミアの王子フロリゼルとその腹心ジェラルディーン大佐の諸国漫遊記ですが、ボヘミアの王子フロリゼルというのは、シェイクスピア「冬物語」に登場する王子と同じです。

 ボヘミアは、およそ今のチェコ西中部を指すのですが(つまり内陸)、シェイクスピアの時は、ボヘミアの海にたどり着きなどという表現があって、よくわかっていなかったことからくる不思議な異国というイメージの象徴のようでした。また「冬物語」では、シチリアの王も出てきます。確かにシチリアの周りは海ですが、ボヘミアと船で行き来といった位置関係ではありません。

 とはいえ、「新アラビヤ夜話」でのボヘミアの王子フロリゼルが一体、「冬物語」の王子とどうつながるのか?うーん、結論から言うと、そのキャラクター同士の類似というより、どこか遠く異国の地の王族は、想像の域にあるので、不思議のイメージを深めるために、スティーヴンスンが使ったと考えられます。
 とすると、「冬物語」でシチリアの賢明で美しい妃、ハーマイオニーの名前が「ハリー・ポッター」に登場するのも、その流れなのかもしれません。

 それで、この際「冬物語」を再読してみました。(続く)

☆写真は、太平洋に面した南紀(紀伊半島)の海。ボヘミアの海は架空の海。南紀の美しい海は、実在の海。津波も地震も架空のものじゃない・・・・(撮影:&Co.Sy)

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ラージャのダイヤモンド

入り口j
 「新アラビヤ夜話」(南條竹則・坂本あおい訳 光文社文庫)
一見、短篇集に見えるこの夜話は、どれも続いていて、全部、通して読むほうが満足いくものになっています。

 ボヘミヤの王子フロリゼルが身分を隠して、どろどろした世界に関わっていく。それが、つながっていき、一つの方向が見えていく・・・といったお話の構成です。
個人的には、全てが、納得のいく面白いものというわけではありませんが、「丸箱の話」は、軽いおはなし運びも幸いして、一気に読ませてくれました。後半、ちょっとトーンダウンしてしまいますが、それにしても、スティーヴンスンのお話つくりはうまい。

 話は、たわいのない「丸箱」に秘密が隠され、甘ちゃんの若者が、秘密の片棒を担ぐものの、その帽子箱の中には、なんと!・・・といった話。
 その中に入っていたものが、とんでもないものだったがために、そのあと、いろんな人が関っていき、その後、ボヘミヤの王子フロリゼルが、いかに関わってくるか・・・が、この「新アラビア夜話」の後半部分の流れです。

 あんまり、書いてしまうと、このサスペンス仕立てのお話を読むときに、面白くなくなってしまいそうですが、後半部のタイトルにもなっている「ラージャのダイヤモンド」についての描写は、こんなのです。

≪彼は、宝石のことは何も知らなかったが、「ラージャのダイヤモンド」は誰の目にもそれとわかる驚くべき逸品だった。もしも村の子供がこれを見つけたら、金切り声を上げて近所の家に駆け込むだろうし、未開人なら、かくも堂々たる呪物の前にひれ伏して拝むだろう。その宝石の美しさは若い聖職者の目を喜ばせ、その計り知れぬ価値は、彼の知性を圧倒した。自分が今手にしているものは、大主教区の多年の収入よりもっと価値があるのだ――イーリやケルンよりも立派な大聖堂をそれ一つで建てられるのだ――そして、これを所有するものは労働という呪いから永久に解放され、何の気苦労も障害もなしに、悠々と好きなことをして暮らせるのだ。ダイヤモンドをふと裏返してみると、新しい輝きを帯びた光が放たれ、彼の心臓までも射貫くようだった。  人の運命を左右する行動は、しばしば一瞬のうちに、それも人間の理性的な部分の命令を待たずして、行われるものだ。≫(続く)
☆写真は、英国 ハンプトンコート 通用門

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漢字表記の地名

カルチェラタン18
(承前)
 ボヘミアの王子フロリゼルとその腹心ジェラルディーン大佐の諸国漫遊記ともいう「新アラビヤ夜話」(スティーヴンスン文 南條竹則・坂本あおい訳 光文社文庫)ですが、短篇集のように見えて、実は、それぞれが関連づいて、進行していきます。
 そのせいか、3篇しか入っていない岩波文庫(佐藤緑葉訳)では、わかりにくいところも、7篇全部(新アラビヤ夜話第1巻相当)掲載されている光文社文庫の方では、わかりやすく楽しめました。

 特に、漢字表記地名や旧仮名遣いは、浅学ものには、なかなか手ごわい。
 まず、岩波文庫の「醫師と旅行鞄の話」(光文社文庫では「医者とサラトガトランクの話」)を読み始めて、ん?ここはどこ?
≪羅甸區の所詮家具附ホテルの七階から、巴里の人氣場所などをあれかこれかと調べて樂しみにしてゐた。≫・・・「羅甸區」この字がすぐに読めませんでした。もしかして、「ラテン区」?
 パリということだし、話の後からはリュクサンブルー公園も出てくるし・・・そうだ!もう一冊の「新アラビヤ夜話」なら、新訳だし・・・
 ということで、羅甸區は、今のカルチェ・ラタンのこと。
 
 オックスフォードが牛津、ケンブリッジが剣橋。音で漢字をあてている時もあるし、意味であてている時もあって、柔軟なんだか?思い付きなんだか?じゃあ、骨片波辺は?(続き)
☆写真は、巴里の羅甸區の珈琲店

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新アラビヤ夜話

カルチェラタンjj
(承前)
  この際、読んでなかったこの薄っぺらい岩波文庫も読んでおかなくちゃ・・・「新アラビヤ夜話」(スティーヴンスン作 佐藤緑葉訳 岩波文庫)

 「南海千一夜物語」と「新アラビヤ夜話」と言う題名から、勝手に同じシリーズかと勘違いしていたのですが、前者は、南海の話で、後者はそれこそ、アラビヤの千一夜物語に着想を得て、いろんな話が、入っています。・・・といっても、岩波文庫には、3篇のみ。「醫師と旅行鞄の話」「帽子箱の話」「若い僧侶の話」

 「新アラビヤ夜話」(南條竹則・坂本あおい訳 光文社文庫)には、もう少しお話が入っています。
 こちらの光文社文庫には、「自殺クラブ」-クリームタルトを持った若者の話・医者とサラトガトランクの話・二輪馬車の冒険 「ラージャのダイヤモンド」-丸箱の話・若い聖職者の話・緑の日除けがある家の話・フロリゼル王子と刑事の冒険—-ーの7篇が入っています。

 で、この2冊とも、とっくの昔に我が本棚に鎮座していたのに、ちゃんと読んでいなかった。
 が、なにゆえ、この2冊が・・・
 サマセット・モーム「人間の絆」にこの本が出てくるのです。「人間の絆」(上中下)には、絵画も本もたくさん紹介されて、いずれ読み返さねばと思っているのですが、その中に、
 苦境に立つ主人公フィリップが公共図書館で借りた本が、この「新アラビヤ夜話」。
≪・・・公共図書館に行って、飽きるまで新聞をいくつも読み、それからスティーヴンソンの『新アラビヤ夜話』を借り出した。しかし、目で活字を追っても、少しも頭に入らない。考えるのは、自分の苦境のことばかりだった。あまり長い時間同じことばかり考え続けたので、頭が痛くなった。とうとう新鮮な空気が吸いたくなり、図書館を出て、グリーン公園に行って芝生の上に寝転がった。・・・≫

 そうですよね。自分のことで精一杯のときは、活字を追うのは、ままならず、ましてや、想像力を駆使して、お話にのめりこむということもできない。読書ができるのは、健全な証拠ということかもしれない。
 ということで、「人間の絆」の主人公フィリップが読めなかったのは、「新アラビヤ夜話」が面白くなかったからではありません。(続く)

*「人間の絆」上中下(サマセット・モーム作 行方昭夫訳 岩波文庫)
☆写真は、パリ サンジェルマン付近の水ギセルの店。

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われは フランソア・ヴィヨン、學徒成、

ノートルダムj
(承前)
 「ヴィヨン全詩集」(鈴木信太郎訳 岩波文庫)
 さて、ステーヴンソン「その夜の宿」の主人公フランソワ・ヴィヨン。パリ大学の修士で詩人で悪党。ヴィヨン略年表によると、【1463年1月以降、ヴィヨンに対する公正な言及は見出されない。…一般にはこの以後あまり長くは生きていなかったと信じられている。】とあり、最期も不明のような中世の人。

 それで、この「ヴィヨン全詩集」は訳者鈴木信太郎氏が、力を注いで生まれた結晶のようで、巻末の「後記 私のヴィヨン」もさることながら、全体の三分の一以上をしめる「後註」の細かさにも驚かされます。

 この詩集を読んでみると、ヴィヨンが悪たれながら、結局は死を恐れているのが読み取れます。ステーヴンソン「その夜の宿」の老人が諭したようなことから、ついつい離れるものの、深層ではわかっていたはずなのに・・・・と、上面だけの読者にはそう思えます。

 「フランソア・ビヨン形見の歌」40篇「ヴィヨン遺言詩集」190篇近く。もっと、素直に人生を謳歌した詩も作れただろうに・・・

・・・で、「形見の歌」の冒頭です。
≪惟歳(これとし) 四百五十六、   われは フランソア・ヴィヨン、學徒成、   落着き払って 想ふやう、   馬衘(くつばみ)噛んで 一心に、 傍目(わきめ)もふらず、   己が所行を 顧みよう、   羅馬の賢人、大學者 ヴェジェスの書(ふみ)にあるやうに、   然もなくば、身の過ちの因(もと)となる・・・≫
☆写真は、パリ ノートルダム大聖堂 後ろの屋根の上

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その夜の宿

小鬼12j
(承前)
「マーカイム・壜の小鬼 他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳)の巻頭に入っているのが、「その夜の宿-フランソワ・ヴィヨン物語ー」です。
 詩人フランソワ・ヴィヨンのことは知りませんでした。
 ヴィヨンは詩人であり、パリ大学の修士号を持つ中世末期の人ですが、かなりの無法者で、スティーヴンソンの描いたのは、史実からヒントを得たフィクションです。

≪時は、1456年11月の末である。≫から始まるこの作品は、ヴィヨンを含めた悪党たちのもめごとで殺人沙汰が起り、各人がその場から離れ、行く当てのないヴィヨンは、見知らぬ老人の家に…
 盗みを働いてその日その日の命をつなぐ若者と、主君のために命を戦いぬいてきた老人。その二人の問答、対話が、話の後半です。

 解説によると、1456年11月末という設定には、史実と関わりがあるとしています。
――この一か月後のクリスマスの夜、悪党仲間と示し合わせて神学校に忍び込み、大金を盗み出してパリから姿を消し、その後何年かはパリに戻れなかった――とありスティーヴンソンは「その夜の宿」の中で、ヴィヨンの惨めな未来を予知する問答を表現したからです。

 家に悪党を招き入れた老人は、こう諭します。
≪・・・あんたは小さな欲望に心を煩わせるが、唯一の大きな欲求を忘れている。最後の審判の日に虫歯の治療をする人のようなものだ。名誉や、愛や、信頼のようなものは食い物や酒よりも高貴なだけでない。なお、望むべきもの、これなくしてはさらにつらい思いをするものだと私は思う。できるだけわかりやすく話しているつもりだ。あんたは口腹の欲を満たすのに夢中で、心のなかのもう一つの欲求を忘れているのではないかな。だから生きる喜びを損ない、いつも惨めな思いをすることになるのでは?≫

 が、しかし、ヴィヨンは苛立って、叫び、反発し・・・1456年のクリスマスの夜・・・ということになるのです。(続く)
☆写真は、スイス チューリッヒ 駅前

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生涯の核そのものとなっているたくさんの小さな出来事

渓谷j
(承前) 「マーカイム・壜の小鬼 他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳)に入ってるのが、殺人を犯した人の心理的葛藤、そして、その時の流れと情景が描かれている表題の「マーカイム」。この話には、もう一人の自分と思われる人物が登場し、現代の作家の作品だと言ってもいいような古さを感じさせない設定です。

 また、「ねじれ首のジャネット」という、表題からして、怪奇ものというのがわかる作品も入っています。
≪スコットランド方言で書かれた怪談でスティーヴンソンの年長の友人ヘンリー・ジェイムズがこの短編の初出を読んで「十三ページで書かれた傑作」と絶賛したらしい・・・≫(訳者解説より)

 この怪奇ものより、先の心理ものより、個人的には「水車小屋のウイル」という短編が気になりました。
 ただ、淡々と粛々と生きた、一個人のフィクションです。渓谷地帯で、養い親に育てられた孤児の一生ものです。一度も自分の思いを叶えることなく成人し、成功もし、恋をしても、結ばれることなく独身のまま老いて亡くなる・・・という話です。
 少年の頃のときめきの描写、年老いた心の描写など、少年でも、その時は老人にもなっていなかったスティーヴンソンの想像力とその筆力に感心するのです。

例えば、少年の頃、
≪…彼は川に行って魚にそう言うのだった。おまえたちはこういう生活をするために創られた。虫と流れる水と、崩れかけた土手の下の穴があれば満足するのだからな。でも、ぼくはそんなふうにはできていない。さまざまな欲望と憧憬に満ち満ちている。指先はむずむずするし、目は欲望に輝いてる。多様に変転するこの世界全体の様相もぼくを満足させることはできない。ほんとうの生、ほんとうの明るい日射しをはあのはるか向こうの平野にあるのだ。ああ、死ぬ前に一度だけこの日射しを見ることができたら!黄金の土地を心楽しく歩くことができたら!鍛えあげた歌い手の歌や、音色うるわしい教会の鐘を聞き、休日の庭園を見ることができたら!「ああ、魚よ!」と彼は叫ぶのだ。「おまえたちは頭の向きを変えて流れに身をまかせさえするならごく容易に伝説の海に入っていくことができるし、大きな船が雲のように頭の上を通り過ぎるのを見ることも、大きな波の山が一日じゅうおまえたちの上で音楽を奏でるのを聞くこともできるんだよ!」だが魚たちは頑なに向きを変えようとはしないから、ウィルは泣いていいのか笑っていいのかわからなくなってしまう。≫

そして、老境に達した頃、
≪七十二歳のある夜、彼は心身にかなりの違和感を覚えてベッドで目を覚まし、身なりを調えると、考えごとでもしようかと東屋に出た。あたりは星一つ見えない真っ暗闇である。川の水かさは膨れあがり、雨に濡れた森や草地の芳香があたりに立ちこめていた。日中には雷が鳴ったが、明日も雷雨になりそうな気配がある。七十二歳の老人にはなんとも陰気な蒸し暑い夜だ。天候のせいか、寝そびれたせいか、あるいは老体にいくらかの熱があったせいか、ウィルの心は狂おしく叫び立てる過去の記憶に責め立てられた。少年時代、太った若者と話しこんだ寄る、養父母の死、マージョリーと過ごした夏の日々、そのほか、他人にはなんの意味も持たないけれど彼にとっては生涯の核そのものとなっているたくさんの小さな出来事――目で見た物事、耳で聞いた言葉、意味を取り違えた眼差しなど――がとっくに忘れていた片隅から立ち現れて彼の注意力を占領した。≫
(続く)
☆写真は、スイス ニーダーホルンから

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南西洋折衷

ハワイコピーj
「マーカイム・壜の小鬼 (他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳)
(承前)
 「マーカイム・壜の小鬼 (他五篇)」の中の短編「壜の小鬼」の中に、当時の英国人の思い描く南洋での家の設えの様子がこまごまと書かれていて興味深いです。小鬼に自分の終の棲家の建造を願うと、こんなに思い通りの家が出来ていたというわけです。ここには、和洋折衷ならぬ、南洋と西洋の折衷が見られます。

≪家のまわりの庭には色とりどりの花が咲き乱れ、片側にパパイヤの果樹園が、反対側にパンの木の果樹園がある。真正面に船の帆柱が立っていて、海に向かって旗をひるがえしている。家は三階建てで、どの階にも、いくつもの大きな部屋と広いバルコニーがある。窓には極上のガラスがはまっていて、水のように透きとおり、太陽の光のようにきらきら輝いている。≫

・・・・そうかぁ。ガーデニングを南洋でも、しようとおもっているんだ。イギリスみたいにはいかないと思うけど・・・それに、英国帝国主義のなごりは、庭の帆柱に旗が翻るといった表現。

≪部屋にはあらゆる家具がそろっている。壁には金の額縁に入れた絵がかかっている―――船の絵、戦う男たちの絵、絶世の美女たちの絵、珍しい土地の絵などだ。この家にかかっている絵くらい色鮮やかなものは世界のどこにもあるまい。≫

・・・・うーん、南洋の心地よい風の部屋に、こんなにこてこてしたもの暑苦しいけどなぁ・・・・海を空を眺めていたら、人工的なものは、どれも小さく見えてしまうような気がするけど・・・

≪装飾品の類いもまったくみごとなものだ。チャイム付きの時計、オルゴール、首の動く人形、たくさんの絵が載っている本、世界じゅうから集めた高価な武器、ひとり者の気晴らしにもってこいの凝った判じ絵。≫

文化の束縛からなかなか解放されないものなんだ・・・

≪裏のポーチに出れば、陸のそよ風に吹かれて、果樹園や花々をながめることができる。表のバルコニーに出て、海の風を吸いこみながら、山の絶壁を見おろし、週に一度ほどホーケナとペレの山々を行き来するホール号や、木材、バナナなどを積んで沿岸を航行するスクーナー船を見るのもいい。≫(続く)

☆写真は、ハワイ島(撮影:&Co.Hi)

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壜の小鬼

キラウエアそばj
(承前)
 「南海千一夜物語」(スティーヴンスン作 中村徳三郎訳 岩波文庫)の中には、「瓶の妖鬼」と「聲のする島」も入っています。
 この2つの短編は、「マーカイム・瓶の小鬼 (他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳 岩波文庫)に入っている、「壜の小鬼」と「声たちの島」と同じ作品です。

 この2冊の文庫本を読んでみたのですが、後者が2011年刊であり、前者が1950年刊。片や旧仮名遣いが多く、老眼には字が小さいということも手伝って、個人的には、 「マーカイム・壜の小鬼 他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳)が読みやすかった。 

 ゲーテの「ファウスト」➡➡ が悪魔と魂を交換、ディケンズの「憑かれた男」➡➡ が亡霊との取引で記憶を失う、シャミッソーの「影をなくした男」➡➡が、 「影」をなくす代わりに「金貨の出てくる袋」を手に入れる、そしてスティーヴンスンの「壜の小鬼」は、どんな願いもかなうが持って死ぬときは地獄へ。手放すには、「ちょっとした」条件が・・・
 と、禁断の交換話は、どれも、面白い。人間の弱さが、眼に見える形で描かれている点が読みやすいのでしょうか。
 デテールは異なるものの、禁断のものに手を出してしまう、人間の弱さが、どの話にも描かれていて、面白い。

 特に、「壜の小鬼」の面白さは、瓶を手放すときは、手に入れた時よりも安価で。というのがあるものですから、持ち主が代わると、どんどん値下がりして、もうこれ以上安くできない!
 いえいえ、そんなとき、柔軟な頭の持ち主がパートナーに居ると・・・・はて、さて?(続く)

*「ファウスト」(ゲーテ 柴田翔訳  講談社文芸文庫)
*「憑かれた男」(ディケンズ藤本隆康訳 あぽろん社)
*「影をなくした男」(シャミッソー 池内紀訳 岩波文庫)

☆写真は、ハワイ島 キラウェア火山 溶岩の作った穴(撮影:&Co.Hi)

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南海千一夜物語

ダイヤモンドヘッドj
(承前)
 スティーヴンスンは、「空想的な出来事を幼少の頃から考えるのが好きであった」と自らいうくらい(「南海千一夜物語」あとがき掲載「我が処女作」より)、空想的なお話の運びがうまく、なおかつ、その心理描写も優れていると思います。

 そこで、ワクワクしながら読んでみた「ファレサアの濱」・・・
 うーん、あからさまな帝国主義、女性差別、有色民族差別。

 ーー「それはそうと君に奥様を世話しなければならないね。」
・・・・・
ーー「あの娘が綺麗だ」
・・・・・
ーー「あの娘が良い。何という娘」
・・・・・
ーー「うまく行きそうですよ。貴君のものになりそうです。娘の女親と話をつけてみましょう。なあに板煙草でもやれば、どれでもお好み次第の娘が手に入りますよ。」
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
ーー此處に(結婚證書)其寫しがある。
≪其島の生れにしてファレサアに在住するファヴァオの娘ウマなる者は、非合法的に一週間ヂョン・ウィルトシャ氏に結婚せる事を證明する。該ヂョン・ウィルトシャ氏はいつ何時たりともウマを遺棄する自由を有する。≫

 確かに、100年も前の小説を読んでいると、現代の規範と明らかに違うと思うものがたくさんあって、あるいは、その直接的な言い回しにも、ひっかかるときがあることは事実です。
 が、しかし、大抵は、その話の運びや、構成の妙に、引き込まれ、楽しい読書体験をしますが、これは、さすがにむかつきました。
 ただ、よくわかっていなかった主人公ヂョン・ウィルトシャが、こんなことを恥ずかしいと思い、最後には、ウマがたくましい女性となり、話を引っ張っていくので、ほんの少しは救いがありました。とはいえ、文末にも、しつこく人種差別してるところがあって、やっぱりなぁ・・・と、がっかり。(続く)
*「南海千一夜物語」(スティーヴンスン作 中村徳三郎訳 岩波文庫)
☆写真は、ハワイ オアフ島 ダイヤモンドヘッド (撮影:&Co.Hi)

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ヨーロッパから遠く離れた南洋の地

ギリ波
 「南海千一夜物語」(スティーヴンソン作 中村徳三郎訳 岩波文庫)
サマセット・モームの「片隅の人生」➡➡ のあと、ロバート・ルイス・スティーヴンスンの「南海千一夜物語」を読んだのは、偶然です。

 サマセット・モーム(1874~1965)のおはなしの舞台は、旧オランダ領東インド諸島(今のインドネシア辺り)でしたが、スティーヴンスン(1850~1894)の「南海千一夜物語」の南海は、サモアであったり、ハワイであったり・・・と、少々位置関係は違うものの、英国出身の作家が、ヨーロッパから遠く離れた南洋の地を舞台にしたことは、サマセット・モームにしても、スティーヴンスンにしても、根っこは同じじゃないかと思うのです。

 が、偶然といいながらも、岩波文庫の春のリクエスト復刊に、「南海千一夜物語」と表題が見当たらなかったら、手に取らなかったかもしれません。今回の復刊を待たなくても、2001年刊となっている一冊を持っていました。17年も読まずにほおっておいた一冊でした。
 
 スティーヴンスンは、「宝島」➡➡・ ⇒⇒ ・➡➡ 「ジキル博士とハイド氏」「二つの薔薇」➡➡、また子どもの詩集「ある子どもの詩の庭で」➡➡ などの作者で、英国エジンバラに生まれ、最期は、1891年にサモアに移住しサモアで亡くなるいう生涯でした。

 その海にまつわる作品の一つが、1993年作の短篇集「南海千一夜物語」で、岩波文庫の中村徳三郎訳では、3篇が入っています。「ファレサアの濱」「瓶の妖鬼」「聲のする島」・・・薄ぺらな一冊で電車用にぴったり。
 で、読んでみました、一つめの「ファレサアの濱」。(続く)

☆写真上は、インドネシア諸島のギリ島
写真下は、インドネシア諸島 ロンボク島はるか向こうにギリ島。(撮影:&Co.Ak)

向こうにギリ島 (2)j

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朝から暑い

夏4j
いつもより30分早くご近所周りの散歩に出ても、帰宅したら汗だく。
セミの抜け殻の急増。
夏2jj
生れたばかりのセミのアップも、朝早いから撮れた?
夏1j
静かな公園の池では、スイレンとアオサギの2ショット。
夏3j
公園のむくげは珍しい八重。
むくげj
琉球朝顔(一番上の写真)と鬼百合(一番下の写真)、どちらが真夏のイメージ?
                    夏6jj

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歌のうまい二人の女性

     ピアノj
 先日、キャロル・キングのことを書いたのは、近々、日本で「キャロル・キング」というミュージカルが上演され、それに伴い、新しいベストアルバムが出るという情報とは、まったく無縁のものでした。

 涼を求めて入った百貨店で流れている曲が、男性歌手が歌うキャロル・キングのものだったり、長らく、眼にしていなかった「Tapestry」という彼女のアルバムの写真を街で見かけたり・・・偶然にしては、面白いと、思っていたら、上記のようなことで、キャロル・キング再燃のような感じです。(つまり、何にも知らなかった・・・)

 たまたま、例のコンサートで、エレキギターの音を聞き、思い出した中に、キャロル・キングもいたし、レディーガガも居たというわけでした。
ジーンズとギターのキャロル・キング。
個性的すぎる眼鏡をかけて、凄い高さのヒールを履いたレディーガガ。
時代の違いこそありますが、この二人は、弾き語れる 歌のうまい二人の女性という共通点があります。そして、二人に、接点もあって、興味深い。ネットの恩恵で見たレディーガガのライブ。臨席せずとも、鳥肌がたちます。
☆写真は、ロンドン V&A

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テロなど気がかりなことが多いけれど

ハングライダーjj
旅行に行くときは、ホテルに直接予約メールを入れることが多いです。

スイスは、ドイツ語圏とフランス語圏とロマンシュ語圏に分かれていて、初スイスのときは、ドイツ語圏とフランス語圏のホテルにメールを入れました。
ドイツ語圏のホテルは、うそっ!と思うくらい、返事が早く、驚きました。
フランス語圏のホテルは、返事がなかなか来ず、再送で、促しました。
実際に、スイスに行ってみても、ドイツ語圏のお店は、定刻になると、さっさと、綺麗に片づけておりました。フランス語圏のお店は、さほど、定刻にこだわらず、なんだか、ゆったりとしていました。
ゲルマン民族とラテン系民族の違いかなと、考えたりしました。
あれから、10年以上経ったのですが、その違いは大きく変わっていないような気がします。今も、ドイツ語圏のメールの返信は早い。

・・・とまあ、旅行は、些細なことに喜びを見出すことができます。
テロなど気がかりなことが多いけれど、先週早々と、パリなどを周遊してきた息子夫婦、今、英国に行っているお友達と北イタリアに行っているお友達、これから、英国に行くお友達、クロアチアに行くお友達。それぞれの人たちの夏休みが、もう始まっています。
 みなさん、写真を楽しみにしてますね!
☆写真は、スイス ニーセン山から

         ハングライダーj

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退蔵院

妙心寺1j
 息苦しいほどの湿気と暑さの中、駅を間違え、予定より多く歩くことになったものの、着いたお庭公開は、人気もなく、ゆっくりできました。京都 妙心寺 退蔵院。
 手入れが行き届いている庭の青紅葉。秋の紅葉時は、さぞや美しいであろうと想像できます。
また、下の写真左奥とその向い辺りには、枝垂桜の葉も写ってますから、春も然り。
    妙心寺2j
 四季折々、違う花が、来訪者を魅了できるように造られています。
 大きな枝垂桜の根元の影に育っているせいか、今もまだ咲く、紫陽花や、八重の柏葉紫陽花。
           妙心寺5j
妙心寺6j
もちろん、今回の目的は、蓮でしたが、可愛いスイレンも咲いています。
もはや、咲いていない藤棚もきれいだろうなぁ。

ここは、国宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」(如拙筆)を持っているのですが、今は、京都国立博物館にあるようで、秋から始まる「国宝展」(10月3日~11月26日:四期)で、公開されるようです。(この絵の公開は10月24日~11月26日)
ちなみに、この国宝展のイメージソング「嗚呼」を先日のコンサートで、聞きました。
             妙心寺3j

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山の上の火

    夏の大三角j
まだ、梅雨明けしてないのに、もはや暑い。朝から、チョーあづい。
出勤途中の娘からメール。
「この暑さ、『山の上の火』の人にプレゼントしたい」

「山の上の火」はエチオピアの話です。
この国の大部分は2000メートルから2500メートルの高原です。
そんな国の、ある寒い夜が、この話の始まりです。

金持ちの気まぐれから、「人間というものは、どのくらいの寒さまで、我慢できるものか?」と思いついたものですから、召使アルハは、「勇気ある男なら、裸でスルタ山の上に一晩中突っ立ってても、決して死なない」というと、主人は
≪「そうか。おまえがそれほど死なんというなら、ひとつ、このわしがかけてみようじゃないか。もしおまえが、たべものも、水も、きものも、毛布も、火もなしで、それでも死なずに一ばんじゅう、スルタ山の岩の上につったっておれたら、家と牛とヤギをつけて、四十ヘクタールのりっぱな畑をくれてやるがな。」≫

・・・・ということで、アルハは、寒い山の上に一晩中、立つことになるのですが、物知りのおじいさんの助言によって、スルタ山の向こうに火を燃やしてもらい、その火を見つめることで、一晩を過ごすのです。
≪風はどんどんつめたくなって、まるでからだのなかをふきぬけて、骨のずいまでこおらせるようでした。アルハのつったっている岩は、氷みたいになってしまいました。じかんがたてばたつほど、アルハのからだは、ますますこごえてしまって、もう二どとあたためることはできまいとおもえるほどになってしまいました。けれどもアルハは、かっちりと目をおっぴらいて、谷のむこうで、ちかちかしている火をみつめたまんま、あのおじいさんが、じぶんのために火をもやしつづけてくれるのをかんがえていました。……≫

夜が明けて、アルハは山を下り、アジス・アベバの町に帰り報告しますが・・・・

*「山の上の火」(クーランダ―、レスロー文 渡辺茂男訳 土方久功絵 岩波)

☆写真は、スイス ルチェルン ピラトゥス山 月の右下に夏の大三角見えますか?元の写真には、綺麗に写って見えるのですが・・・

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エレキギター

     ヴァイオリン23j
(承前)
・・・・と、歌だけでなく会場の雰囲気までも、楽しませてもらったのですが、一番感動したのは、久しぶりに聴く、エレキギターのサウンド!

昔、我々が若い頃、年寄りたちは、エレキギターの音に、顔をしかめたものでした。
「騒々しいだけで、どこがいいの?」と。
が、今、年寄りになった昔の若者は、そのソロ・サウンドに、拍手喝さい。
耳に響くエレクトリックなサウンド。シャウトする音。
エレキサウンドは、若い頃の叫びとともにあるのかと思っていましたが、
なんの、なんの、こんな年寄りにでも、響く、響く。
ちなみに、その曲は、「落陽」。

それに、ピアノも力強くていい感じ。何より、楽しそうに弾いている。

そこで、夢想は広がります。
レディー・ガガの歌もいいけど、ピアノもいいなぁ・・・・
フレディ・マーキュリーのBohemian Rhapsodyは、彼のピアノで始まるんだった・・・
ビリー・ジョエルのLiveコンサートに行ったなら、元気をたくさんもらえるんだろうなぁ・・・
あの頃のBruce SpringsteenのBorn in the U.S.A.のLiveに行けたならなぁ・・・
そして、キャロル・キング、何度も聴いて、何度も聴いて、何度も聴いていたよなぁ・・・・
I feel the earth move under my feet
I feel the sky tumbling down,
Tumbling down, tumbling down...

IT´S TOO LATE なんてことはないはず、だけど、足元は 気をつけなくちゃ・・・・Tumbling down, tumbling down...

☆写真は、スイス ヴェヴェイ バイオリン制作工房のショーウィンドー

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コンサート会場

     朝市15j
何故か、BOX席チケットが回ってきて、久しぶりにコンサート会場に。
その男性歌手45周年のコンサートでした。
昔、彼は、ラジオのパーソナリティをつとめ、結構な下ネタトークも多く、もちろん、歌もうまく、若者の人気を集めていました。あくまでも、大阪方面で。
「チャチャヤング」「ヤングタウン」・・・といえば、思い出す人もいるかもしれません。

 学生の頃、彼がソロになるまで3人で活動していたとき、それも、まだメジャーになっていないようなときのコンサートに、行ったことがあります。神戸で行くことのできる数少ないコンサートだったからのような記憶です。そして、それは、ラジオで喋る、芸能人を見られるという感覚だったと思います。

 45年の間に、大阪から東京、そしてアジア圏へも、シフトした彼には、ヒット曲も多く、イヴェントなどのテーマソングも多い。そこで、秋からメディアに流れるらしい美術館のイメージソングも披露。

 彼と同じ1948年生まれのヒットメーカーは、たくさんいるようなのですが、なんにしても、その年齢で、美声と声量を保っていることにびっくり。

会場に眼を転じると、満席の会場には、彼と同じような年齢で、カ・リ・リ・ロより、さらに年長の人たち。
杖をついて、真ん中辺りの席に着くのは、なかなか大変そう。
が、指笛も健在、乗りも健在、それに、多くの皆さんがペンライト持参。
さぞや歌手も、気持ちよく歌える、適材適所のペンライトの揺れ。
しかも、アンコールのそのまた最後はスタンディングオベーション(少々、よろよろ)。(続く)

☆写真は、スイス ルチェルン 朝市の花束

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子どもの心の育て方

子どもへのまなざし
(承前)
 もう一冊、児童精神科医佐々木正美氏の本を。
「子どもの心の育て方」(河出書房新社)
 この本は、子ども、家庭、育児、保育をめぐる環境が、時代とともに随分変化はしていても、氏が精神科医として人生を始めたときから現在まで、変わらない事実・・・≪子どもの成長や発達について考える中核的なことになると、「そのことは、時代が変わっても、決して変わるものではない」と考えている大切なこと≫を、書いた本です。
 また、成長のあらゆる季節に、手元に置いてほしいという著者の願いもあって、乳幼児や、子育てのことだけでなく、もっと大きくなった子どもや共働きの家庭のことなどにもに言及しています。

 この本にも信頼感のことは何度も出てきます。
≪子どもの求めに何でも応じる、つまり「泣いたら飛んでいって抱く」といったことをできるかぎり繰り返すことで子どもは自他に対して「絶対的な信頼感」を知ります。それがなければ「自律心」は育ちません。そして「自律」がなければ自発性、主体性も生まれてこないのです。≫

 そして、心強いのは、最後の章題が≪乳幼児期にやり忘れたから「手遅れ」などということはありません。何歳からでもやり直すことはできますし、またそうしなければなりません。≫です。

 本の「おわりに」にこうあります。
≪子どもの言うことを、じゅうぶんに聞いてください。
 子どもののぞむことを、惜しみなく与えてください。
 それだけで、子どもの心は育ちます。≫

☆写真右下は、「子どもの心の育て方」(佐々木正美著 河出書房新社)のなかにある岡田千晶絵。いつ、うちの子どもたちをスケッチしたの?いつ、うちの孫をスケッチしたの?という絵ばかりでした。きっと、皆さんの身近な子どもたちが描かれています。
 他、三冊は、「子どものへのまなざし 正 続 完」(佐々木正美著 山脇百合子絵 福音館)

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子どもへのまなざし

 ハスj
パディントンの作者、マイケル・ポンド氏の訃報の翌日は、児童精神科医 佐々木正美氏の訃報でした。

 学生たちが使う教科書に、佐々木正美氏の言葉が、いくつか引用されていて、関連付けて授業で紹介しているのが、氏の「子どものへのまなざし」「続 子どもへのまなざし」「完 子どもへのまなざし」(福音館 山脇百合子カット絵)の三冊です。

 その時の紹介の仕方は、まず、「ぐりとぐら」(なかがわりえこ文 おおむらゆりこ絵 福音館)を、学生たちに読み、そのあと、同じ画家(山脇百合子の旧姓が大村百合子)がカットを描く、この3冊の本を紹介するという形です。
 カットが、なじみやすい優しい絵なので、きっと「子どもへのまなざし」も手に取りやすいことだろうと考えました。もちろん、三冊の内容は、学術的専門的な分野も多いとはいえ、全般的に、平易な書き方で、若い親たちを励まし、育てる内容となっています。

 学生の使う教科書では、基本的信頼感のところでの引用文ですが、三冊の「完」第二章「人間関係の発達と課題」の乳児期のところに、≪基本的信頼感が豊かに育つ時期≫≪基本的信頼感が育てる、人を信じる力≫という項が設けられ、佐々木正美氏が一貫して伝えている基本的信頼感の基盤の、重要さを知ることができます。

 何も難しいことはありません。
 あつこち自分勝手に動きたい幼い子どもが、たえず振り返りながら、はぐれないように後ろを確認しているとき、
≪・・・いつもはお母さん、あるいはお母さんの代わりの人が、かならず「見守ってあげるから心配しなくていいよ。そっちへ行っちゃだめ。ママが抱っこしてあげるからこっちへいらっしゃい」といってあげる。ふつうは、こういう環境のなかで幼い子どもは育てられます。そうしますと、子どもは心のなかにお母さんから見捨てられることがない、あるいは、お母さんを失うことはないという安心感が育てられるのです。基本的信頼感の基盤といってもいいかもしれません。・・・≫

 また、教科書でも、この三冊の中でもアメリカの発達心理学者エリク・ホーンブルガー・エリクソンの言葉をよく引用しています。
≪エリクソンは「人間というのは、人生のはじまりにおいて、自分が望んだように育てられれば育てられるほど、生きる希望がわいてくる。基本的信頼の中身は希望です」といいました≫(続く)

☆写真は、京都 宇治 三室戸寺(➡➡)のハス

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原題

ギリビーチ
 (承前)
 先日「その歌声は天にあふれる」➡➡の原題が、「CoramBoy」で、個人的には、邦題の方がわかりやすくて好みだと書きました。意訳過ぎるかもしれませんが、訳者が本文をきちんととらえたからこそ、できた邦題だったと思います。

 さて、その次に読んだ「アントニー・ブラント伝」➡➡ の原題は、「Anthony Blunt His lives」です。この最後のlivesが複数になっていて、LIFEという単数、つまり人生が一つでなかったことを表現していて、こちらは、原題の方が、面白い。伝記ですから、意訳というわけにはいかないでしょうが、副題に「一つじゃなっかった彼の人生」の示唆をしてもよかったのではないかと思ったりしました。

 その次に続いた「片隅の人生」➡➡ の原題は、「The Narrow Corner 」です。Narrow は、「狭い」の意が中心なので、どこと較べて狭い片隅のことを言ってるんだろうと、考えたり、言葉のイメージが卑屈な感じがするなぁなどと思っていました。
 が、「 Corner 」をひいてみると、人目につかない場所とか辺鄙な場所という意味もありました。と、すると、イギリスから遠く離れたオランダ領東インド諸島(現在インドネシア)であること、オーストラリアから身を隠していた若者、デンマークから移り住んでいた男性などなど、西洋から離れた辺鄙な場所で、起こった出来事の数々という意味が見えてきます。ということは、確かに地球の片隅で・・・という意味なので、この邦題なのかと理解できたわけです。

*「その歌声は天にあふれる」(ジャミラ・ガヴィン 野の水生訳 徳間書店)
*「アントニー・ブラント伝」(ミランダ・カーター 桑子利男訳 中央公論社)
*「片隅の人生」(サマセット・モーム 天野隆司訳 ちくま文庫)

☆写真は、インドネシア諸島のギリ島(撮影:&Co.Ak)

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イングリッシュブレックファスト

ブレックファストj
(承前)
 「片隅の人生」(サマセット・モーム 天野隆司訳 ちくま文庫)
 この話では、日本人のイメージも興味深いものでしたが、オランダ領東インド諸島の小さなホテルの朝食の描写に、興味深いものがありました。
≪・・・どこのホテルに泊まっても、出てくる朝食は変わらない。パパイヤ、冷肉、エダム・チーズ、そして時間通りに早起きしてもいつも冷たい目玉焼き。・・・(中略)・・・コーヒーは濃縮した液体で、これにネスレのスイス・ミルクとお湯を適当にそそいで出来あがる。トーストはバターもジャムもなく、しけていて、焦げている。これがまたカンダ島のホテルでお客に提供される朝食である。食堂にはオランダ人商館員が何人かいて、これからオフィスに出かけるために、そそくさと黙々と、くだんの料理を食っている。≫
 
 おお、ネスレのインスタントコーヒーの普及は、東インド諸島まで!日本人がからころ下駄履いてお参りしていると思われている頃かぁ。
 が、イギリス人のサマセット・モーム。
 この後に続く、自分自身の召使がベランダに運んできた朝食というのが・・・

≪パパイヤはうまかった。目玉焼きも、フライパンから移したてで、温かくてうまそうだった。芳香のただようお茶をゆっくり味わい、生きていることは楽しくなければならない・・・・≫と対比するのです。

 確かに、イギリスの食事の中で、朝食は美味しい・・・が、最近は、ビュッフェタイプが増えているようです。というのも、過日のロンドン行きのホテル探しの時、イングリッシュブレックファストと銘打っているところより、ブッフェかコンチネンタルと明記しているところが多くて、残念だったことを思い出すからです。

 サマセット・モームがこだわるように、温かい卵料理と温野菜は、イングリッシュブッレクファストの神髄って感じがするけれど・・・それは、単に暖かい食べ物だから?(続く)

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こいつら日本人ときたら

ししおどしj
(承前)
 「片隅の人生」(サマセット・モーム 天野隆司訳 ちくま文庫)

 この話は、眼科医サンダースを通して見た、南洋での人間模様が描かれていて、移動の船内が舞台のこともあります。
 話の始まりと、終盤は面白く読めるのですが、どうも、中盤は、ぴりっとしない気がして、途中で読むのをやめそうになっていました。
 そんな中、イギリス人の船で日本人の潜水夫が死ぬという箇所があって、へぇー、ステレオタイプの日本人像というのは、こういうことなのかと思った次第です。

 サンダース医師は、日本人潜水夫が悪性の赤痢に罹っていると診断します。すると、船長が「ちくしょう、こいつら日本人ときたら、まったく体力に欠けていやがる。・・・」

 結果、日本人潜水夫は亡くなり、イギリス式の葬式を船上で執り行います。そのとき、サンダース医師が思い描いたのが、
≪・・・この潜水夫も昔は小さい子どもだったと思った。黄色い顔に黒玉の眼を光らせて、日本のどこかの町の通りで遊んでいただろう。きれいな着物を着て、母親に手をひかれて、桜の花を見に行ったり、神社やお寺へお参りに行ったりしただろう。そんなときの母親は晴れ姿が美しく、入念にゆった髷にかんざしが刺され、からころ下駄の音をたてて歩いただろう。お参りの神社やお寺ではお祝いの餅をもらったことだろう。真っ白い着物に身をつつみ、灰色の杖をついて、家族とともに巡礼の旅に出て霊峰富士の頂から昇りくる朝日の姿をながめたかもしれない。≫
 作品は1932年。その頃、日本は、昭和7年。
 この作品がフランス語や他英語以外に翻訳されているとしたら、この箇所、どんなふうに訳されているか、興味のあるところです。(続く)
☆写真は、京都 詩仙堂の鹿威し(鹿威し 発祥の地)

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片隅の人生

バリj
 「片隅の人生」(サマセット・モーム 天野隆司訳 ちくま文庫)
 サマセット・モームの長編です。「アントニー・ブラント伝」の次に読んだのは、偶然です。
 かつて、サマセット・モームを読んだとき、ほとんど気にならなかった同性愛者の視点が、よくわかるところがあり、先の「アントニー・ブラント」の同性愛者としての生き方と重なるのが、興味深かったです。
 両者、スパイという共通点があるものの、片や伝記、片や小説ということで、スパイという点については、先の視点のようにはわかりませんでした。(そんなに簡単に読み取られるようじゃ、スパイとはいえないものね)

 ただ、アントニー・ブラントは、女性を差別して見ていたような様子は、伝記ではわからなかったのに比べ、サマセット・モームは、この本の中で女性を悪者に仕立てているように思いました。
 ハンサムすぎる若い男性に、惹かれてしまった若い女性と年配の婦人の描き方には、手厳しいものがありました。

 それで、事件の中心になる若者フレッドには、「その美しい顔にちょっぴり硫酸でもたらしたどうかね。・・・いまのきみの顔ではどこへ行っても、危険人物になってしまうよ。」という言葉を投げます。
 彼がどんなに美しいかは、≪穏やかな光につつまれて、カーキ色のズボンと袖なしシャツ一枚の姿で、フレッドはすわっていた。帽子を脱いでいたから、黒いカールした髪の毛が現れている。その姿を眺めながら、彼がおどろくほどハンサムな青年であることに、医師は改めておどろいた。心に突き刺さるような美しさを感じさせられた。先刻まで頭のにぶい若者くらいに思っていたから、医師はフレッドに突然親しみの感情を感じた。それはたぶん彼の男ぶりに眼がくらんだためだろう。・・・・≫と表現されています。

 この最後の「男ぶり」という訳ですが、かつて、ディケンズ講読聴講の末席にいたとき、教授がhandsomeを一気に「男ぶり」と訳されて、思わず、ふーむ、ぴったりと思ったことがありました。ただし、このときは中年の紳士に充てていたと思います。この度は、原文を読んでいませんが、handosome をハンサムと訳すか、「男ぶり」と訳すかでずいぶん違います。(続く)

☆写真は、バリ島沖の虹(撮影:&Co.Ak) 「片隅の人生」の舞台は、旧オランダ領東インド諸島。つまり今のインドネシア辺り。バリ島は、インドネシアです。

*「アントニー・ブラント伝」(ミランダ・カーター 桑子利男訳 中央公論社)

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パディントン駅

パディントンjjj
「くまのパディントン」(マイケル・ボンド作 ペギー・フォートナム画 松岡享子訳 福音館)
パディントンシリーズの作者マイケル・ボンド氏の訃報ニュースをメールで知らせてくれたのは、意外にも、3人の子どもの中で、一番、本を読まない真ん中の娘でした。

 子どもたちとは、パディントンシリーズをずいぶん、楽しみました。➡➡  ⇒⇒
 家族で実際のロンドン パディントン駅に立った時、あるいは、子どもが大きくなって、それぞれの一人でパディントン駅に立った時、子どもたちの心には、あのとぼけたパディントンが現れる気がしたのではないかと思います。
 カ・リ・リ・ロでさえ、先般、ロンドン パディントン駅に行って、ここ何年か、いつもあった場所にパディントンの像がなかったので、わざわざ、インフォメーションに聞きに行き、西端のホームの壁沿いに見つけたときは、「やあ!」。

≪・・・「ぼくは、ほんとのところ、名前がないんです。ペルー語のならあるんですけど、だれにもわかりっこないような名前ですから。」「じゃあ、英語の名前をつけてあげなくちゃね。」と、ブラウンさんの奥さんはいいました。「そのほうが、何かにつけて便利ですもの。」奥さんは、何かいい名前を思いつかないかしらと、駅の中をぐるっと見まわしました。「何か特別のでなくちゃ・・・」奥さんは、じっと考えながらいいました。奥さんがそういったとたん、近くにとまっていた機関車が、大きく汽笛を鳴らし、もうもうと蒸気をはきました。「そうだ、いいことを考えたわ!」と、奥さんはさけびました。「わたしたち、パディントン駅であなたを見つけたでしょう。だから、あなたのこと、パディントンって呼ぶことにしましょう!」「パディントン!」クマは、たしかめるように、パディントン、パディントンと何度もくり返しました。「ずいぶん長い名前のようですけど。」「なかなか堂々といた名だよ。」と、ブラウンさんはいいました。「うむ、気に入った。パディントンっていうのは、いい名前だよ。よし、パディントンにしよう。」≫

           パディントンjj

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わっしょい わっしょい

わっしょいj
(承前)
 「蚊」も「蟻」もと書いたのに、「蚊」のお話だけ紹介するのも、片手落ちのような気がして、今日は「蟻」のおはなし。
 といっても、「ありこのおつかい」(いしいももこ文 なかがわそうや絵 福音館)ではなく、もっと、小さい子ども向けの絵本です。

 「わっしょい わっしょい」(福地伸夫さく 福音館)は、小さい子向けの絵本なので、絵がはっきりくっきり、見やすく、しかも「いっぽ にほ ありさん」、「わっしょい わっしょい」の繰り返し。
 登場するのも、さくらんぼ、イチゴ、ビスケット。それに、少々、傷みが来て、甘い匂いが漂って、皮がふにゃふにゃしてそうなバナナ。
 甘いもの・・・子どもの大好きなもののオンパレード。

 で、最後のページは、集めてきた甘いものが全員集合。
 「わっしょい、 まっかしょい」

 小さい子と、声に出して楽しまなくちゃね。
 「わっしょい、 まっかしょい」

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しーつ!ぼうやが おひるねしているの

ぼうやj
(承前)
 次も、「蚊」の出てくる絵本です。

 「しーつ!ぼうやが おひるねしているの」(ミンフォン・ホ作 ホリー・ミード絵 安井清子訳 偕成社)

 この絵本は、タイの農村の様子が描かれています。
 住まいの様子も、身近な動物たちも、日本とは、少々異なります。
 が、なかなか寝なくて、ごそごそ 動き回る 坊やは 万国共通。
 「みんな 静かにして。 ぼうやが お昼寝しているから」・・・と、動物たちに訴えて回る母心も、万国共通。

 一番小さな蚊から始まり、猫にねずみ、蛙に豚、あひるにテナガザル、水牛に象に「しーっ!」と、お母さん。
 最後の象に「しーっ!」というときの お母さんの、眠そうな目。
そして、この絵本を見る楽しみは、お母さんが、それぞれの動物たちに言って廻っている時の、ご坊やの動き。

 やっと あたりが すっかりしずかになった頃、
≪おかあさんは まどべで こっくり こっくり   月は 木の上に そうっと のぼり   風も ふくのをやめました   もうなんの音も きこえません   みんな ぐっすり ねています≫

 さて、≪たったひとり ぱっちり まあるく 目をあけて おきているのは だあれ?≫
という最後のページ、どこかでみたような 坊やが描かれています。

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