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みんなみすべくきたすべく

若い頃に書いたものは、絶対に再版するな

コートールド3j
「アントニー・ブラント伝」(ミランダ・カーター 桑子利男訳 中央公論社)
(承前)
  「アントニー・ブラント伝」のような600ページ二段組の本のことは、拙欄にちょこっと書くような代物ではありません。【同じく600ページ余の大著堀口大學の伝記「詩は一生の長い道」(長谷川郁夫 河出書房新社)もまだ書けてない・・・】

 さて、当時の英国の美術事情を知る上でも、この「アントニー・ブラント伝」は興味深いものでした。
 が、一番、彼の生きざまを反映していていると思え、面白かったのは、1937年にピカソの「ゲルニカ」を批判・一蹴していたブラントが、1951年、1953年、1961年に「ゲルニカ」論を書き直し、書き加え、また1962年には共著ではあるものの『ピカソ―その形成期』という本まで表し、かつての論考の誤りを素直に認めたところでした。

 当初、ブラントは≪この作品には大いに心を動かされた。だが、理論的見地からは、あきれ返るほかなかった。≫≪この絵には人を現実に引き戻す力がある。基本的にはピカソの闘牛の場面を描いた作品と同列にある。公の追悼を表現したものではない。そこに表現されているのは、ピカソ個人の激しい感情からくる錯乱状態で、彼がゲルニカの政治的意味合いを理解していた証拠にはならない。≫などとし、その後も「フランコの夢と嘘」をテーマにしながら言及していきます。個人的なものと政治的なものがいっしょくたにされていると言って、非難したのです。どうみても、感情的、ヒステリックな感じは否めません。

 ところが、 1951年(初めの「ゲルニカ論」から14年後)にブラントは≪ピカソが人間的な諸問題を敏感に感じ取っていたことを明らかにしている。ピカソがそうした問題から目をそらしたことは一度たりともなかった。≫とし、1953年には≪20世紀の悲劇を最も鮮烈に説明してくれる画家≫と呼び、1961年には≪『ゲルニカ』をピカソの創作活動の頂点と位置づけ「少なくとも、私から見れば、この作品の中にこそ、彼の卓越した技量のすべてが表れている。想像力、知的抑制力双方に関わる技量だ。≫そして、『ゲルニカ』を≪ヨーロッパの伝統の中で最後の偉大な絵画≫とします。1969年出版の共著「ピカソのゲルニカ」の中で≪ピカソはスペイン内戦から刺激を受け、それらの象徴を段違いに高度な水準にまで引き上げることができた。それらを通して、宇宙大の悲劇に対するみずからの反応を表現することができたのである。≫
・・・と、ゲルニカをめぐる以前の判断はすべて誤りだったと認め、手放しで、絶賛しています。
 そして、後輩にいうのです。≪若い頃に書いたものは、絶対に再版するな。≫

 スパイであったからには、イデオロギーの転向は容易ではなかったと思えますが、この美術観の転向、変節こそ、彼の深いところでの吐露ではなかったかと思うのです。
☆写真は『ゲルニカ』(岩波 世界の巨匠「ピカソ」)

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