みんなみすべくきたすべく

文壇風俗とははなはだしく対立してゐた。

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(承前)
 「日本の鶯 堀口大學聞書き」 (関 容子 岩波現代文庫)の、興味深い15章について紹介するのは、なかなかなので、ここでは、岩波現代文庫版の「解説」、丸谷才一の文について。

  というか、この「日本の鶯」のタイトルを名付けたのは丸谷才一で、関容子の文章修行の恩人だとあります。(岩波現代文庫版あとがき*この「あとがき」も洒落てて面白い) それにまた、講談社文庫版の解説は河盛好蔵で、都合、二人の大物の解説者がつくということになった「日本の鶯」は、堀口大學という魅力あふれる人に近づきたいと思う読者には、満足度の高いものとなっています。

 岩波現代文庫版の丸谷才一の解説の前半は、関容子の仕事への賛辞なのですが、後半は、堀口大學の長い詩人生活での大きな影について触れています。
≪彼の詩がエロスを歌ふとなるといささかの遠慮もなく、奔放を極めるのに(しかし小説の翻訳はともかく詩作は官憲に咎められたことはなかったやうな気がする)、実生活における彼が礼儀のかたまりのやうな生き方をしてゐるのは、文壇風俗とははなはだしく対立してゐた。     わが文壇は、世間凡俗の道徳に逆らふことを信条としたり、罵詈雑言の応酬である論争をもって批評の最も花々しい部分としたりゐながら、一方では儒教的な戒律にきびしく従ってエロチックな表現を嫌ひ、排撃した。・・・・・(中略)・・・・堀口大學が日夏耿之介と衝突した事件の底を流れるものは、この儒教的=文壇的戒律と、それから無内容な罵りあひを率直な文学的意見の表明と取り違へてきた文学風土である。・・・・(後略)…≫
 
 と、丸谷才一は、そのあと、日本の平安以来の文学史を語り、さらに日夏耿之介の儒教的体質に触れ、長谷川郁夫「堀口大學ーー詩は一生の長い道」(河出書房新社)に至ります。そこで、この大著に感銘を受けたものの、日夏耿之介と堀口大學との確執について長谷川郁夫と見解の相違があることについて述べるのです。

 そうなのです。このブログで「日本の鶯」(関容子)「堀口大學ーー詩は一生の長い道」(長谷川郁夫 河出書房新社)を書き滞っているのは、特に、後者が、あまりにも深く、カ・リ・リ・ロ自身の力量では、ここで紹介しきれないからなのです。
 が、こうやって、細々と、「堀口大學ーー詩は一生の長い道」(長谷川郁夫 河出書房新社)に近づいていくのも、一つの方法かな。(いつか、後日、続くはず)
☆写真は、スイスレマン湖畔 モルジュ

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桃色と白とのお前

まりー1j
(承前) 
 第一次世界時期に、スペインで出会った日本の青年とフランスのミューズの関係やいかに?と下世話な思いは、知る人はみな心に引っかかっていたようなのですが、聞き取り上手、関口容子は「日本の鶯」(岩波現代文庫)の中で、示唆します。

 堀口大學から、詩集「月光とピエロ」を借りた関口容子は、その中の詩「遠き恋人」から、自ずと、日本の鶯とフランスのミューズの真実を見出したのです。

≪・・・お前はまた思ひ出さぬか?
その頃私たち二人の云った事を?
「神さまは二人の愛のために
戦争をお望みになったのだ」と。
こんな風にすべてのものが
ーーカイゼルの始めた戦争までがーー
二人の愛の為めに都合がよかったのだ。
お前は思ひ出さぬか?
・・・・・≫

 蛇足ながら、「月光とピエロ」の中で「遠き恋人」の前に掲載されている「朝のスペクトル」という詩で、カ・リ・リ・ロなりに、ん?と思ったので、書き添えます。
 その詩の始まりは、こうです。
≪これもその頃のことなんです。
(私は今さびしくそれを思ひだす。)・・・・
・・・・(中略)・・・・・
・・・・私の片頬にからみついた
絹糸の様にやはらかなお前の髪の毛を
そっと払ひのける、
・・・・・・・(中略)・・・・・
”BON JOUR ; AMOURE!"
・・・・・(後略)・・・・・≫
(続く)
☆写真は、堀口大學「月光とピエロ(装丁:長谷川潔)絵葉書は、マリー・ローランサン「読書する女」

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忘れられた女

     まりー2j
(承前)
 「マリー・ローランサン展」の 「フォン・ヴェッチェン男爵との結婚 1910後半-1920年」のコーナーには、カーテン越しに憂いに満ちた表情の女性がたたずむ、小さな絵「囚われの女Ⅱ La prisonnière」とマリー・ローランサンの詩「鎮静剤」が展示されていました。

「鎮静剤」(堀口大學訳)
退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

 この詩を訳し、「訳詩集 月下の一群」(岩波文庫)に掲載したのは、堀口大學です。

 その堀口大學は、駐スペイン公使でマドリッドに居た父親の堀口九萬一とともに異母弟の肖像画を依頼に行った画家の紹介でマリー・ローランサンと出会います。そのマリー・ローランサンはフランスの詩人アポリネールと別れ、ドイツ人画家のオットー・フォン・ヴェッチェン男爵と結婚。第一次世界大戦の亡命先のマドリッドで堀口大學と出会います。堀口大學は23歳の青年、マリー・ローランサンは7歳上。大學は、マリー・ローランサンから絵を習い、マリー・ローランサンはかつてアポリネールと恋人関係にあったことから、大學にフランス詩の話も伝え、その後、大學は、アポリネールなどの詩を訳すことになるのです。(続く)
☆写真は、上から「家具付の貸家」右「シャルリー・デルマス夫人」左「子供のシェヘラザード」の絵葉書

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マリー・ローランサン展

マリローランサンj
 (承前)
 京都駅の美術館「えき」の「マリー・ローランサン展」(~2016年11月27日)に行きました。

 昨年の堀口大學以来、(と、いっても、まだ書きかけ・・・・)、マリー・ローランサンの絵をゆっくり見たいと思っていたのです。
 それまでも、何点か、見たことがありますが、堀口大學というフィルターなしで見ていたものですから、今度はその眼鏡をかけてみてみました。
 
 画学生の頃の作品から晩年まで展示されているので、マリー・ローランサンが、一般によく知られた柔らかい画風とは違う時期もあったとよくわかりました。初めのピカソやブラックなどとの交流時期の画、いわゆるキュビズムの頃から見ると、ずいぶん異なるわけですから、あの優し気な画に至るには、葛藤やプライドに裏付けられた、日々があったと想像できます。

 会場は「最初期 1904-1906」「アポリネールとの出合い 1907-1910年前半」「フォン・ヴェッチェン男爵との結婚 1910後半-1920年」「成熟~晩年 1921-1956」の構成でした。

 その中で「フォン・ヴェッチェン男爵との結婚 1910後半-1920年」をちょっと丁寧に見ました。堀口大學の影が少しでも見えないかと鑑賞しました。
 結婚してスペインに亡命していたマリー・ローランサンと堀口大學は、この頃交流があったからです。(続く)

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日本の鶯

 でんきj
およそ1年前の「バッカスにミューズが刺激される」から続き
(承前)
 重大な過誤ほどのスキャンダルな匂いはないものの、堀口大學が家庭人となるまでには、さぞや、色々、ときめく時間があったのだろうと予想されます。実際、堀口大學には、かなり大胆な表現の詩もあって、若き日の詩人を感じることができます。下品な感じはしないのですが、あーあ、そうかぁ・・・という感じのものがある、とだけ、ここでは書いておこう。
 
 で、 「日本の鶯 堀口大學聞書き」(関容子 岩波現代文庫)です。
 「日本の鶯」という題名、どこか落ち着きがないと思いませんか。鳥類図鑑でもあるまいし、どこそこの鶯?例えば、梅に鶯なら違和感がないのに、日本の鶯というと、なんだか日本代表の鶯みたい・・・
 そうなのです。ここには、日本代表、いえ、「貴方が、日本人なら一番の鶯よ」の思いが入っているのです。
 
 堀口大學が、スペインに居た頃に知り合った、大學より、少々お姉さんのマリー・ローランサンが、堀口大學に手渡した詩の題名が「日本の鶯」
≪彼は御飯を食べる 彼は歌を歌ふ 彼は鳥です 彼は勝手な気まぐれから わざとさびしい歌を歌ふ≫
で、この昔の訳を、関容子 聞書きの途中で 堀口大學自身が改訳します。
≪この鶯 餌はお米です 歌好きは生まれつきです でもやはり小鳥です わがままな気紛れから わざとさびしく歌います≫

 実は、この「日本の鶯」のブログは、一年前に書いておりましたが、マリー・ローランサンの絵を見てから、続けて書きたいという気持ちが強く、ずっと下書き保存してきました。
 それで、やっと、マリー・ローランサン展を見る機会があったので、UPしました。(続く)
☆写真は、スイス ホテルの電灯

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厚塗り

ゴッホ3j
(承前)
 ゴッホと言えば、絵の具の厚塗りのイメージが強いものの、今回並んでいたアドルフ=ジョセフ=トマ・モンティセリの「井戸端の女」には、負けそうです。ですが、かなりの影響を受けています。

 それは、「ファン・ゴッホ書簡全集」(二見史郎訳 みすず書房)を引用する、清水正和「フランス近代芸術ーー絵画と文学の対話」(小沢書店)にありました。
≪昨日、日没に石のごろごろしたヒースの荒地に居た。曲がりくねった小さな柏が生え、背景には丘の上の廃墟、谷間には麦畑があった。願ってもないモンティセリ風でロマンチックだった。太陽は灌木とやぶと真っ黄の光をそそぎ、まるで金の雨そのものだった。線という線がいずれも美しく、すべてのものに可憐な高貴さがあった。(・・・・)不意に老いたプロヴァンスの吟遊詩人の声がきこえても何のふしぎもなかったろう。地面は紫に見え、遠方は青かった。(508信)≫

≪最近の習作はほんとに絵の具を厚塗りにして流しこんだようなものだ。しらずしらずモンティセリのように厚塗りをしているのだ。ぼくはじっさい彼の仕事をつづけているんだとおもうことがよくある。(541信)≫

≪モンティセリは、黄色とオレンジと硫黄色を縦横に駆使して南仏を描いた画家だ。大部分の画家は、本来の意味では、色彩画家ではないために南仏にこういう色があるのを見ず、かれらと違った眼で見ると、その画家を気狂いだと呼ぶ。もちろんこんなことはとっくに予見できることだ。だからぼく自身もすでに黄色をふんだんに使って、ヒマワリの絵を一点描き上げた。(黄色い背景で、黄色い瓶に入った14本のひまわりの絵で、青緑の背景に1,2本描いた前の絵とは全く違ったものだ。(W8信:妹ウィレミーン宛)≫

 おお、かの「ひまわり」に行きついたぞ!手紙にある14本じゃなくて15本描かれているけど・・・ それに、この黄色は同じオランダ人フェルメールにもつながると、後段に書いてある。
  (後日「ゴッホとモーパッサン」に続く)

☆写真は、ゴッホ「少尉ミリエ」(1888 クレラー・ミュラー美術館 画集「ゴッホ」岩波)の厚塗り部分の上に、ゴッホ1889年作の「ひまわり」(ファン・ゴッホ美術館)の絵葉書置いてます。11月23日ブログに使ったゴッホ「ひまわり」の絵はロンドン・ナショナルギャラリーのもので、1888年ゴーギャンとの暮らしを待ちわびている頃に描かれ、上記手紙にある作品のようです。1888年末にはゴーギャンと決別し耳を切る事件を起こしますから、このひまわりの絵、似てるけど、ちょっと違う。

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ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏

ゴッホ風景j
(承前)
 ゴッホの絵の中に「モンマルトル、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏」(写真右下)というのがありました。
 ムーラン・ド・ラ・ギャレットやモンマルトルの絵は、ルノアールやユトリロ、ロートレックほかたくさんの人の作品になり、ゴッホ自身にもありますが、その「裏」という一枚も、どうよ?

 どうみても、華やかなパリ、有象無象のパリ、モンマルトルを描いたものと思えない、ただの田舎の家の裏の畑の様に見えます。実際、この展示には、「収穫」(写真左下)も来ていて、構図こそ違えど、似ている空気を感じます。時期も同じようなときなので、並べても面白かっただろうに・・・と思っていたら。

 清水正和(➡➡)「フランス近代芸術 絵画と文学の対話」(小沢書店)のゴッホの章にこんなことが書かれていました。
≪…パリという大都会は、所詮、かれ(ゴッホ)の渇望を充足させるにはほど遠い場であった。  パリの市中を描いた絵がほとんど皆無に近いのはなによりの証拠だろう。・・・・(中略)・・・わずかに、われわれの目にするモンマルトルの丘の風景画の数点、それらは市中画というより田舎の風景画である。・・・・(中略)・・・ゴッホのめざしたのは、やはり「農村のミレー」であり、パリ滞在での関心は、ひとえに色彩研究だけが目的だったといえよう。  とにかくゴッホの求める場は、都会ではなく、バルビゾン派画家たちの好んだ「大地」であり、「田舎の自然」であった。・・・・≫(続く)

☆写真上は、「桃の花咲くクロー,」(1889 ロンドン・コートールド:::岩波「ゴッホ」画集)右下「モンマルトル、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏」(1887 ファン・ゴッホ美術館:::コピー)左下「収穫」(1888 ファン・ゴッホ美術館:::絵葉書) 

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ゴッホとゴーギャン展

       ゴッホj
(承前)
 東京都美術館の「ゴッホとゴーギャン」展(~2016年12月18日)の企画は、素人には、わかりやすく面白いものでした。
 二人の画風の違いを、それまで影響を受けた画家たちの作品と並べながら紹介していきます。したがって、ミレー、コロー、ルソー、セザンヌ、ピサロ、モネ、ロートレック・・・・・なども、展示されています。
 で、ゴッホだけでなくセザンヌにも影響を与えたというアドルフ=ジョセフ=トマ・モンティセリの「井戸端の女」も並んでいて、おお、納得!厚塗り油絵です。(この項、後日に続く)

 案内紙には、
≪ゴッホは現実の世界から着想を得て、力強い筆致と鮮やかな色彩による作品を生み出し、ゴーギャンは、装飾的な線と色面を用いて、目には見えない世界をも絵画に表現しようとしました≫とありました。

 ふーん、そうなのかと思うものの、ゴッホが、自分の椅子とゴーギャンの椅子を描いたのは、目に見えない心の世界を表現したものだと思うし、ゴッホ亡き後、ひまわりの種をタヒチに取り寄せ、ひまわりの絵を描いたゴーギャンの絵は、現実のひまわりから着想を得ようとしたものだと考えると、表現の世界では、意外と彼らは離れた位置にいなかったのだろうと思ってみたりもするのです。 (続く)

☆写真上は、ロンドンナショナルギャラリーにあるゴッホ「ひまわり」と、今回来ていた、ゴーギャンの描いた「肘掛け椅子のひまわり」の絵葉書
写真下は、ロンドン・ナショナルギャラリーのゴッホ「フィンセントの椅子」と、今回来ていたゴッホ「ゴーギャンの椅子」の絵葉書。いずれも画集は「ゴッホ」(岩波)
***ひまわり→椅子のひまわり→椅子  しりとりじゃないけど、つながっています。

ゴッホ2j
 

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東京都美術館

建物j
 東京 上野の東京都美術館に行きました。
 暗くなるのが早いので、夕方行くと、出てきたときには、すっかり、ライトアップの世界。
 以前も、この建物の周りに設置されている彫刻の類(➡➡)が面白いと思っていましたが、ライトアップされたときに目に映る建物内の壁や椅子のコントラストも美しい。
椅子j
 見てきたのは「ゴッホとゴーギャン」展でした。(~2016年12月18日)
 ずいぶん前、映画「ゴッホ」を見たことがあります。原題は「テオとヴィンセント」(テオはゴッホの弟でヴィンセントは画家ゴッホの名前)ひまわり畑の美しい映像が印象的でした。
 そこには、ゴーギャンとの共同生活を喜び、破たんする映像があったと思います。
 オランダの牧師の家庭育ちのゴッホと南米ペルーで幼年期を過ごしたゴーギャン。生まれも育ちも絵画表現方法も大きく異なる彼らの共同生活が長く続かなかったのは、よく知られていることですが、その短期間があればこそ、その後があるのではないかと思っていました。(続く)

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根津美術館

       根津j
(承前)
 目白の紅葉もきれいでしたが、根津美術館庭園も、なかなか見事でした。

 ここでは、「円山応挙--写生を超えて」展(~2016年12月18日)が開催されていました。
屏風は以前に見た国宝「雪松図屏風」(➡➡)(六曲一双)も展示されていました。
 今までに何点か応挙(➡➡)を見ましたが、根津美術館開館75周年ということで、いつにもましてたくさんの応挙が集められていました。
 目玉であろう「藤花図屏風」(六曲一双)は、先の「雪松屏風絵」や「穂津川屏風絵」のようなダイナミックこそはありませんが、琳派を思わせるような装飾性豊かな大画面でした。清楚な藤の様子が画面から伝わってきます。
藤の花

 その、繊細な藤の花は、応挙の写生の確実さから生み出されたものだとわかります。それは、第二展示場に置かれた、応挙の写生画(➡➡)の数々、あるいは、また、以前京都文化博物館で見た写生画など、それら膨大な数のスケッチから、真摯にその事物を見る絵師の姿がうかがえます。

 突き抜けて、適当に描いているように見える仙厓を見た後、応挙を見ると、その生真面目さが際立ち、表現とは何ぞや?と、少し考えた次第です。(続く)
☆真ん中の写真上は、「藤花図屏風」の絵の案内紙。下は、同じく案内紙に載っている応挙の写生図。
              応挙j

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仙厓ワールド

仙厓j
(承前)
 東京 目白の丘には、永青文庫もあります。今、「仙厓ワールド」(~2017年1月29日:会期4回に分けて展示)をやっています。
 先月、出光美術館で「大仙厓展」の時は行けなかったので、今回は行ってみました。

 4回に分けての展示なので、出光美術館の時の様に、堪能して、おなか一杯という感じではありませんが、やっぱり、仙厓の描く禅画は楽しい。見ているものの肩の力が抜けていきます。
 ほかでも見た「鍾馗図」や「寒山拾得図」も「絶筆の碑図」もありました。何枚も描いているのですね。
 あんまり描くことが多くて、絶筆宣言したら、この際だからと依頼が増え、結局、88歳で遷化するまで書画を書き続けたのも、ちょっと愉快な話です。

 作品につけられた一言の解説はなじみやすく楽しく鑑賞できるものでしたが、購入した「永青文庫NO96」という図録の代用の冊子には、各作品の題名などしか表記されていなかったので、画賛の読み方がわからないものが多く、ちょっと残念。(続く)

永青文庫j

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公園の紅葉

江戸川公園紅葉j
 (承前)
今年は一気に秋が進み、紅葉も早い。

 椿山荘の 庭を出て神田沿いに歩いていくと、隣は、関口芭蕉庵、その隣には新江戸川公園。そして坂を上ると、永青文庫、また、講談社野間文庫もあります。
 それらの住居、庭から見下ろせるのは、素人目にわかる地形、神田川の反対側に広がる田園風景だったところ。(いわゆる早稲田)
  関口芭蕉庵にも講談社野間文庫にも寄ることができませんでしたが、秋を感じる散歩ができました。神田川沿いに植わった桜の頃も、いいでしょうねぇ。
 そして今は、椿山荘でも、新江戸川公園でも「つわぶき」の花が真っ盛り。(続く)
つわぶきj
池紅葉j

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こんなところに羅漢さん

椿山荘
 山縣有朋の有する三名園は、京都の無隣庵(➡➡)、小田原の古稀庵、東京目白にある椿山荘らしい。
 その椿山荘のお庭に行きました。

 東京とは思えない静かな空間がありました。
 大体、椿の山,と言われたところを全部自分の庭にするのですから、いつの世も、どこの国も、お金のある人の考えることは、我々にはよくわからない規模です。
 しかも、そのあとの藤田男爵は、広島県で傷んでいた三重塔を移築し、その庭に持ってくるという発想。 三重塔は、室町時代のものと推定されているようです。そこいらの灯篭や石の類を持ってくるのではないのです。 
 それで、平成になって改修し、本尊を観世音菩薩にしたとのこと。
 三重塔j
三重塔2j

 それに京都石峰寺の(➡➡)若冲の羅漢さんが、こんなところに。
 へぇー。お寺では写真に撮れなかった羅漢さんたち。(続く)
羅漢さん2j
     羅漢さん1j

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おみやげ という詩

ばらj
(承前)
 およそ4年前、このブログにも書いたまどみちおの「おみやげ」という詩。
 昨日の「幸せのおすそ分け」で、実感を持って思い出しました。
 
 世の中で、幸せそうな様子は、いろんな場面で見ることができます。
 が、しかし、心から「幸せです」という言葉を聞けるなんて、そんなにありません。清々しい気持ちになりました。

 にこにこして、電車に乗り、誰かに、この喜びを伝えたいと思うものの、長いメールは打てないし・・・・
 その「幸せです」という響きを、反芻しながら帰宅しました。
 そして、夜、食卓を囲むとき、開口一番、「今日、いいことあってん」
 
「おみやげ」 (まどみちお詩)
≪なんだか 足が軽いと思ったら
さっき電車の中で
知らないよその赤ちゃんが
笑いかけたのだった
わたしを見て嬉しくてたまらないように

その笑い顔を
いつのまにか 胸にかかえていて
それで 夜道の足もとを
てらすようにしながら
わたしは急いでいるのだった

父がいなくなった家で
ひっそり 待っている母に
そのおみやげを
はやく見せてあげたくて≫

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幸せの おすそ分け

あさひふんすいj
(承前)
 泣き言を書きためている間に、些細な泣き言なんか、一気に吹き飛ぶひとときがありました。
 
 その日、授業が終わると、数年前の専門学校卒業生が、赤ちゃんと一緒に来ていました。
 当時の同級生と結婚した彼は、彼女が仕事が終わるまでのちょっとした時間つぶしに、やってきていたようでした。
 よちよち歩くその子の月齢を、ぴったり当てると、「すごい!」とお褒めの言葉。
 「かわいい子やねぇ」というと「そうなんです。ほんと、かわいい。」
 「親に似ず、賢い子やね」と言うと、「はい、ありがとうございます。」

 かつて、彼から、何度か、社会に対するふらつく気持ちを聞いた覚えがありました。
 メールも直接来ていました。
 それこそ、泣き言のいくつか…だったと思います。
 彼が、しっかりものの同級生の彼女に、叱咤激励されていたのも覚えています。

 そんな彼が、その彼女と結婚。
 今、赤ちゃんは、穏やかに彼に抱かれています。
 彼から、その子を育てている自負が、溢れていました。
 落ち着いた父親の顔でした。
 よかった。

  さて、本が重いので、いつもよりゆっくりと歩いて駅にたどり着くと、駅ホーム向こうの金網のほうから「先生!」と呼ぶ声が・・・
 金網の向こうには、彼と赤ちゃん。
 「バイバイ!」と手を振ると、その子も、小さな手を振って「バイバイ」
 抱っこしている彼があんまりにこにこして嬉しそうなものですから、
「幸せでしょう?」と聞くと、
「はい、幸せです」と、大きな声で返ってきました。(続く)

☆写真は、スイス レマン湖畔 モルジュ。
 

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泣き言を いいたい

葡萄かおj
(承前)
 泣き言を、まだ言いたい。
 この歳にして、荷物が多いのは、やっぱり、しんどい。
 実は、どの科目でも、絵本を読んでいます。その日の授業に関係のある絵本なども持参し、二つの学校を掛け持ちするので、結構な荷物。自室のない非常勤ゆえの、つらいところ。
 絵本を授業に使うような学校なら、絵本がちゃんとあるから、それを使えばいいはず。

 ところがです!
 三校行っているうち、一校は、かなり充実しているものの、他二校は、かなり、情けない蔵書。
 学生の貸し出しもないのか、不充実極まりない。大学の図書館といえるのか???
  ・・・・というわけで、持参する羽目に。

 重くて、めげそうになるけれど・・・・

 絵本がよく見えるからと、一番前に座りに来る女子学生たち。
 カ・リ・リ・ロがゆっくりページを繰っていると、次のページをのぞき込み「次どうなるの?」という顔が、かわいい女子学生。
 それにまた、いまどきのヘアスタイルの男子学生も、前列に座り、毎回、いい質問をしてくるし・・・
 あるいは、「ああ。それ知ってる!おおきなおいもの話!終わったら見せて」と、まったく、幼児と同じように、終わるとすぐに手を出した女子学生。

 体力の衰えがあるにはあっても、信じる種まきを、もう一頑張り致しましょう。(続く)
☆写真は、スイス ヴェヴェイ

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泣き言をいう

がーごいるj
  この歳にして、新しい仕事場が増えるのは、やっぱりしんどかった。
 9月末から、非常勤の仕事が2コマ増えました。授業内容は、絵本に近づき、ありがたかった依頼でした。
 が、当然のことながら、今までやっていた科目と少々違いますから、新規に準備が必要です。
 学生の数は予想より多く、男子学生の私語も予想より多く・・・・
 
 するうち、パソコンの具合が悪くなり、思うように作動しなくなり、ストレスは増加。
 特に、このブログのページと相性が悪く、すっきり書けずに、すぐに終了しますの表示。大変やったんです。はい。
 そして、現在、新しいパソコンと、未だ情報を移せないでいる古いパソコンを二つ使うのも、なかなかしんどい。

 とはいえ、怪我の功名も。
 パソコンは、タッチパネルとマウスの不具合だったので、タッチペンで、自力で文字を書き、入力していたら、今まで、読めるけど、書けなかったあの字が書けるようになった!やっぱり手で書かなきゃ、あかんねぇ。
 その漢字は、語いの「い」。
 ☆写真は、スイス モルジュ。

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1729

トリニティレーンjj
「心は孤独な数学者」(藤原正彦 新潮文庫)
(承前)
 新田次郎の息子の藤原正彦は、数学者でありながら、すぐれた文を書ける人なのだと改めて思いました。同じ新潮文庫の「遥かなるケンブリッジ」「若き数学者のアメリカ」しか読んだことがありませんでした。
 
 ラマヌジャンの話「インドの事務員からの手紙」でも、その天才ぶりとその不遇な暮らしぶりをたどるために、足を運んだご苦労ぶりが伝わるし、そのかいあって、我々にも、そのヒンドゥー教の生活が手に取るようにわかるし・・・
 
 誰もがその名を知っているニュートンのことも、たぶん伝記など多々書き古されているでしょうが、藤原正彦は、さながら心理学者のような目で、その天才ぶりとその気質、その暮らしを示してくれました。「神の声を求めて」

 個人的に、さっぱり親近感がわかなかったアイルランドのハミルトンに関しても、アイルランドの生んだ詩人たちやアイルランドの悲劇を重ねながら読み、興味深いものでした。「アイルランドの悲劇と栄光」

 とはいえ、一番、おかしかったのは、映画でも出てきましたが、
 ≪ラマヌジャンと顔を合わせるなりハーディが、「天気がひどいうえ、タクシーの番号も1729というつまらないものだった」と冗談のつもりで言った。とラマヌジャンが間髪を入れずに「とても面白い数字ですよ。三乗の和として二通りに書き表せる数のうち、最小のものです。」≫・・・・・・・・
 比べるべくもありませんが、カ・リ・リ・ロが運転していた助手席で、いつも前の車のナンバーで計算したり、素数だとつぶやいたりしている夫の姿と、ほんの少し重なるからです。
☆写真は、英国 ケンブリッジ トリニティレーン

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心は孤独な数学者

キングスカレッジj
 (承前)
「心は孤独な数学者」(藤原正彦 新潮文庫)には、3人の天才をたどる文が載っています。ニュートン、ハミルトン、そして、映画になったラマヌジャンです。しかしながら、ラマヌジャンだけに割かれたページはその本の3分の2くらいにもなっています。

 ラマヌジャンの天才ぶりは、数学嫌いのカ・リ・リ・ロには、ほぉ、そうなのですね・・・という感想しか持てませんが、彼が、英国のみならず、母国でも、苦労した話なら、読み取れました。

 英国での差別や苦労は、ある程度予測のできるものでしたが、バラモンに生まれたラマヌジャンが、母国インドでも、なかなか日の目を見ない暮らしをし続けていたことは、映画では描き切れていませんでした。

 ヒンドゥー教の階級制度については、教科書やその他の知識で分かっているつもりでおりました。
 が、しかし、藤原正彦が踏み込んでいく、ラマヌジャンの暮らす世界は、知っているつもりの世界とはかけ離れたものでした。
 
 つまり、理屈や理論ではなく、そこに生きる人々がいる事実が、本には、事細かく描かれているのです。藤原正彦が訪れたのは、ラマヌジャン(1887-1920)の時代から、時間が経ったにしても、あるいは、現在は、その時よりさらに時間が経ったにしても、たぶん、ほとんど変わっていないそのヒンドゥー教の世界と、インドの地方での暮らし。
 そこに生まれた天才ラマヌジャン。
 どこにも、天才はいるものですね・・・と思うより、そのヒンドゥー教の強烈さに圧倒された読後でした。(続く)
☆写真は、英国 ケンブリッジ キングスカレッジ チャーチ

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映画「奇蹟がくれた数式」

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 単に、イギリス映画だったし、ケンブリッジが映る、しかもトリニティカレッジの話。となれば、見なくちゃ・・・で、映画「奇蹟がくれた数式」に行きました。何故か、夫と。
 
 この映画に行くんだ!と話すと、その主人公の天才インド人の話、知ってる・・・と、夫は一冊の文庫本を出してきました。「心は孤独な数学者」(藤原正彦 新潮文庫)

 昔、何かに書きましたが、我が伴侶は、結婚してしばらくは、枕元に紙と鉛筆を置き、数式を解くのが趣味でした。(今は、昔・・・)今でも、数字の話になると、俄然、声に勢いが出るタイプの人なのですが、ご存じのように、美術館や文学書や果ては映画まで、なかなか接点がないのも現実のこと。(最近は、少し歩み寄りの気配が・・・)

 というわけで、インド人の数学の天才ラマヌジャンと、その当時のケンブリッジの映画を見に行きました。
 が、期待していたほどケンブリッジ風景は写らず、少々残念。
 スラムドック・ミリオネアのあの男の子がいつの間にか、立派な青年になり、主人公の天才役を勤め上げているには、感心しました。「マリー・ゴールドホテルで会いましょう。」にも出ていましたね。

 で、映画を楽しんだというより、映画の原本ではないものの、先に読んでしまっていた「心は孤独な数学者」のほうが、ずっと面白かったような気がしました。(続く)
☆写真は、英国 ケンブリッジ ニユーコート

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鍋焼きうどん

ふみやなべ25
 ひと月前は、いつまでも暑いねぇなどと言っていたのが噓のよう。
 もはや寒い寒いと言ってしまう11月。冷えますね。

 こんな寒い日に京都 錦市場に行ったら、やっぱり、鍋焼きうどんでしょう。
  リーズナブルなのに、大きなシイタケと中身の小さいエビの入った衣がほとんどの天ぷら、麩とたくさんのおネギにお餅が二つ。真ん中には割りたて卵。
 カ・リ・リ・ロは卵をすぐにかき混ぜて卵とじうどんみたいにしましたが、友人は、大事にそっとそのままにしていましたから、おいしそうな半熟卵のまま。いずれにしても、心底、温まりました。

 カ・リ・リ・ロは、おうどん屋さんに入るとほとんどの場合、「きつねうどん」を注文します。甘い大きなお揚げさんが好きだからです。
 が、この錦のおうどん屋さんに限っては、このお鍋です。
 お客のほとんどの人がこの鍋焼きうどんを注文しています。
☆写真下は、錦市場でお休みの店のシャッター。それぞれ違う若冲の絵が描かれています。
トラズjjj

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翻訳は無上の精読

鍵j
 「大人に贈る子どもの文学」(猪熊葉子 岩波書店)
(承前)
 さて、猪熊葉子の翻訳考はまだ続きます。
≪翻訳者は、その世界に入り込み、子どもの登場人物だけに目を向けるのではなくて、大人の登場人物たちを見ることなく素通りしてはなりません。そうしなければ作品の構造が明らかに見えてこないでしょう。これが堀口*のいう「翻訳は無上の精読」の結果という意味でしょう。精読というと、一見ただ言語上の問題であるかのように理解されるかもしれず、誤訳がなければよいと思われるかもしれませんが、実は作品自体の構造分析を含んでいることを知っていなくてはならないと思います。そしてその上、翻訳者には自国の言葉を自在に正確に使う能力と、訳そうと試みる作品の要求する的確な言葉を選んで使える能力が必要です。このような難しさを達成できたなら、はじめて読者を強い力で作品のなかに引き込む翻訳が誕生するのでしょう。優れた翻訳がしばしば創作であると評されるのは、そういうときなのではないでしょうか。≫

 そうでした。この高い意識に裏付けされた猪熊葉子訳で、ゴッデンもピアスもノートンもボストンもエイケンもネスビットも・・・・・そして、サトクリフ!にも出会ったのでした。

 カ・リ・リ・ロにとって、岩波から出ている猪熊葉子訳のサトクリフの歴史小説「第九軍団のワシ」「ともしびをかかげて」「太陽の戦士」「王のしるし」そして、「運命の騎士」!の5冊**に出会ったことは、それまでの読書体験をひっくり返すくらいの勢いで、心に響いたのを思い出します。

 確かに、ピーター・ラビットやプーに会いたくて、あるいは、真夜中の庭やハヤ号、グリーンノウに触れたくて、そしてまた、ファージョンの世界をたどりたくて、何度も、英国に足を運びました。
 が、一番底にあったのは、猪熊葉子訳で出会うことのできたローズマリー・サトクリフの描くブリテンの風を感じたかったと、今にして、思うのです。

*堀口大學
**のちに、「銀の枝」と「辺境のオオカミ」が加わりました。
☆写真は、サトクリフ「ケルトの白馬」のホワイトホースカントリーにあった塀の鍵

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然も隅から隅まで歩き廻る

オックスフォードハートフォードブリッジ
「大人に贈る子どもの文学」 (猪熊葉子 岩波書店)
(承前)
 翻訳について興味深いことが書かれていました。しかも、堀口大學の言葉が引用されています。
≪原書は翻訳者にとっては、一面の陥穽(かんせい)以外の何ものでもない。彼はその中を抜き足、さし足、然も隅から隅まで歩き廻らねばならないのだ。≫
 
その言葉をついで、猪熊葉子は続けます。
≪不注意な透明人間はたちまち陥穽に落ち込みます。これが読むことのはじまりですが、翻訳者にはさらに読者よりも大切なことが要求されるのです。それは翻訳者が自分のもっている好奇心、想像力、空想力、五感や知性、感情などを働かせてその世界に「生きられる」かどうかです。翻訳者が「読み」得たものを日本語によって過不足なく表現することが可能になるかどうかは、それが実行できるか否かにかかっているといえるでしょう。・・・・(中略)・・・・子どものための作品の翻訳者は、子ども=大人としての二重性をもって作中世界を探索する必要があるのです。自分は子どもが好きだからと、大人の部分を棚上げにして、子ども還りをしていてはだめでしょう。≫

 この翻訳考は、まだ続くのですが、
 最後のところ、「大人を棚上げにして」という言葉は、絵本という分野にも見られます。
大人を棚上げにした、子どもに媚びた絵本も多く、あるいは、子どもは、甘いもの、カラフルなものだけが好きなはずという大人の勝手な目線の絵本も少なくありません。大人が、子ども心を具えることと、大人でありながら、子どもっぽい子ども還りは別だということだと思います。(続く)

☆猪熊葉子さんが留学していたのは、オックスフォード マートンカレッジですが、写真は、オックスフォード ハートフォードブリッジ

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大人に贈る子どもの文学

      グリーン・ノウj
「大人に贈る子どもの文学」(猪熊葉子 岩波書店)
  児童文学という分野を支えてきたお一人の猪熊葉子さんの最新刊です。
文中にはたくさんの児童文学、あるいは、未邦訳のものも含めてたくさんの書名が出てきますが、ここでは、後半に書かれていた、その書名を見るだけで、ただ、それだけで、わくわくするリストを、書き写します。
 
≪大人にすすめたい物語  
*ファンタジー*
風にのってきたメアリー・ポピンズ/ホビットのぼうけん/指輪物語/ゲド戦記/ピーター・ラビットの絵本/たのしい川べ/ドリトル先生物語/シャーロットのおくりもの/クマのプーさん/人形の家/マリアンヌの夢/グリーン・ノウ物語/海のたまご/トムは真夜中の庭で/時をさまようタック/星に叫ぶ岩ナルガン
*リアリズム
トム・ソーヤ―の冒険/ハックルベリー・フィンの冒険/宝島/若草物語/クローディアの秘密/秘密の花園/エーミールと探偵たち/まぼろしの小さい犬/ぼくはレース場の持主だ!/ランサム・サーガ≫

 そうでした。カ・リ・リ・ロ自身は、これらの本のほとんどを、大人になってから読んだのでした。これらの本のおかげで、どれだけ、楽しい時間を過ごしたことか。そして、どれだけ楽しい出会いを経験したことか。(続く)

☆写真は、グリーン・ノウ物語の舞台になったマナーハウスと庭 

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ジムの成長

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(承前)
 今回、読んだ中に「宝島」(スティーヴンスン作 阿部知二訳 岩波文庫 1963)がありますが、巻末には、スティーヴンスン自身の書いた「私の第一作――宝島」【「アイドラー」誌1894年8月所蔵)】も、掲載されています。

 そこには、どうやって、宝島の話の構想が生まれたか、いかに話が進行していったか、その作品を、最初に楽しんでいたのは誰か・・・など、「宝島」誕生秘話が書かれています。

 「宝島」の魅力の一つに、登場人物の個性が際立っていて、わかりやすいという点があるとおもいます。特に、片足のジョン・シルバーの言動には、ハラハラドキドキさせられます。
 それには、作者が、ジョン・シルバーから一切の善美な性質や高雅な情操をうばい取り、≪ただ彼の力強さ、豪胆さ、敏捷さ、そしてその堂々たる太っ腹、それらのものだけを付与しおき、それらを荒くれた船乗り稼業の言葉によって表現することにしよう。・・・≫と、ありました。

 つまり、スティーヴンソンは、初めから、ジョン・シルバーの荒くれた言葉を意識し、物語を作ったということです。と、いうことは、翻訳するにあたっても、そのがらの悪い言葉が、流れるように出てくる「宝島」の翻訳が、作者の思いに即しているということだと思います。

☆写真左は、ジム少年が・ジョン・シルバーと居るところ。右は、ジムがイズレイル・ハンズと向かい合っているところです。この緊迫したシーンのあと、どうなるかは、おわかりでしょうが、この時のジムは、すでに大人に成長しているということが、左の絵と比べると、よくわかります。ハンズとの一件は、ジムを大きく成長させた一件だからです。
(左は「宝島」N.C.ワイエス画の原書。 右は『アメリカン・ヴィジョン』というワイエス三代にわたる画家の画集です。リブロポート刊)

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少しずつ変わっている

ワイエス4j
 先日、「宝島」の翻訳を、何冊か比べてみましたら、翻訳した年代によって、少しずつ日本語に変化があるのがわかりました。
 1951~2008年までの7冊でしたが、最後のものには、カタカナ語が増え、1951年のものには、難しい漢字が・・・
きっと、もっと古い訳なら、擬古文のようになって、四苦八苦しながら読んだかもしれませんが、今回のは一番古くて1951年、昭和ですから、概ね、2008年訳と大差があるわけではありませんでした。
 しかしながら、この少しずつの日本語の変化は、もしかしたら、さらなる日本語の変化につながっていくのではないかと感じました。
 
  綺麗な表現の日本語、難しい漢字ではあるけれど、よく見れば、その文字が、その雰囲気すら伝えている・・・など、日本語の深さを日々感じるものの、絵文字で片づけ、「り」と打てば、「了解」と済んでしまう。小さな画面で打てるコミュニケ―ションは、「うーん」と唸りながら、文を書くことにつながっていません。ましてや、ゲームに費やす時間はあっても、1冊の本を読む時間を取る人は減っていると思えるし・・・・
 言葉は、時代と共に、変化していことは理解できても、美しい言葉や、深みのある言葉が、減っていくのは、残念。(続く)
☆写真は、N.C.ワイエス挿絵の「宝島」原書.。

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無駄な心配

       ダリあとj
思えば、もう半年以上も前のこと。
 初めての孫の誕生では、かなりバタバタと過ごし、ブログを書きつづる余裕をなくしたのは、ご存知の通り。
 そのあと、孫と娘夫婦は自分たちの暮らしに戻っていったのですが、その時に、娘がくれたのが、ランチ付きエステのチケットでした。
 以前にも、彼女からもらったことがあったのですが、今度は時間も長くもっと本格的。
 で、やっと、そのチケットを使う日が・・・
 ドキドキ。これ以上、きれいになったらどうしよう?
 ・・・・という無駄な心配も関係なく、快適に過ごせた時間でした。途中、すっかり眠っておりました。ついたての向こうで同じく施術してもらっていた末娘には、その寝息が聞こえていたといいますから、熟睡ともいえます。
☆写真は、スイス モルジュのダリア

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俳人蕪村

龍安寺春もみじj
(承前)
 「俳諧大要」(正岡子規 岩波文庫)の「俳人蕪村」を読んで、驚いたのは、当時明治三十年頃においては、蕪村は画家として名が出ていたというのです。

≪蕪村の名は一般に知られざりしに非ず。されど一般に知られたるは俳人としての蕪村に非ず、画家としての蕪村なり。≫

  先日の京都国立博物館の蕪村の展示も陳列と称した小規模のものだったし、いくら、カ・リ・リ・ロが物知らずといえど、現代においては俳人蕪村の名が高いと思います。それは、当時散在してしまった俳人蕪村の蕪村集を作ったものには賞を与えると触れた人が居たりして、「蕪村句集」ができ、俳人蕪村は再評価されていったということでした。
また、正岡子規は、芭蕉に匹敵する蕪村というスタンスを取り、蕪村の俳句の魅力を、角度を変えながら説いているのです。
 
 それにしても、
≪蕪村は自ら画を造りしこと多く、南宋の画家として大雅と並称せられる・・・≫という表現を目にすると、明治時代とは反対に、もっと画家としての蕪村の掘り起こしも必要ではないか?
☆写真は、実は春に撮った龍安寺庭の紅葉。

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積極的美と消極的美

     山種j
  9月に復刊された岩波文庫の中に、「俳諧大要」(正岡子規)というのがありました。
 中には「俳諧大要」「俳人蕪村」「古池の句の弁」「俳句の初歩」「俳句上の京と江戸」の5編が入っています。
 その中でも「俳人蕪村」は全体の3分の1ほどのページを割き、正岡子規の蕪村愛が書き綴られています。

 いろいろ、印象に残る言葉がありましたが、ここでは、「積極的美」について書いている箇所について記します。
≪美に積極的と消極的とあり、積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、勁健、艶麗、活撥、奇警なる者をいひ、消極的美とはその意匠の古雅、幽玄、悲惨、鎮静、平易なるものをいふ。概して言えば、東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。もし時代を以って言へば国の東西を問はず、上世には消極的美多く後世には積極的美多し。(但し壮大雄渾なる者に至りてはかへつて上世に多きを見る)・・・・・・積極的美と消極的美とを比較して優劣を判ぜんことは到底出来得べきにあらず。されども両者共に美の要素なることは俟たず。・・・・・・≫

 そうなのかぁ・・・最近、東洋(日本)の美術に惹かれるのは、消極的美ということに安寧を見出しているのだろうか。いや、いや、まだまだ西洋文学は面白くて、次々、手を出しているなぁ。
☆写真は、山種美術館ロビー、地下の展示会場につながる加山又造陶板壁画《千羽鶴》。
 

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禅画

仙厓4j
(承前)
 いつものことながら、何も知らないので,出光美術館、「大仙厓展」(~2016年11月3日)で、こんな記述をみたときは、ふーん、そうだったのか・・・
≪1956年アメリカ、カリフォルニア州オークランドの市立美術館で開催された日本文化祭に二本を代表する美術として仙厓作品を二十二点出品している。・・・この展覧会は、当時欧米を席巻した禅ブームの中で大きな話題となり、規模を拡大してヨーロッパを巡回した、通称「仙厓西欧展」へと繋がっていく。この展覧会はヨーロッパ十一か国、十四の美術館を巡回し、各国語で図録が翻訳されるという画期的なものであった。・・・≫(「大仙厓展図録」)

 ここでも、欧米が先だったのか・・・

 今でこそ、行列のできる伊藤若冲ですが、大規模な展覧会は、2000年に京都国立博物館の「若冲展」が初めてというくらいのもので、内容もアメリカ人の収集家のものが多かったし、また、その後もボストン美術館所蔵の日本絵画で、何度も、美術展が開かれているのは,知っているとおり。
さかのぼれば、浮世絵や北斎も、欧米、特にパリでの日本ブームを引き起こしたくらい。

 そして、今、日本で「大仙厓展」。出光の一番初めの蒐集の「指月布袋画賛」から最後のコレクション「双鶴画賛」までが出品されていました。

☆写真に写る図録、上から「一円相画賛」「円相図」「円相図」
それぞれの画賛 「これくふて 茶のめ」「これくふて 御茶まひれ」「れくふて 茶のむされ」≪れの上の字の こ乃字大鼡く ひもち行けり誰 もこの字そへて よみてみよ≫
・・・・「これは円相にあらず。餅のような丸い菓子である。あるいは、そのように思ってお茶と一緒に楽しんでほしい」

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