(承前)
「書斎」(アンドルー・ラング 生田耕作訳 白水社)は、確かに面白い本なのですが、一つ、はっきり時代を感じるところがあります。
「相手が相手だけに気兼ねするところだが」と断りつつも、書物の敵の一つを挙げています。それは「女性」。大方の女性は不倶戴天の敵である。とさ!
≪・・・・だが、おおざっぱに言って、蒐集家の憧れの的である書物に対して女性は激しい憎しみを抱いている。第一に、女性は書物を理解できない。第二に、女性には書物の持つ神秘的魅力が妬ましい。第三に、書物は金がかかる。古ぼけたむさくるしい装本や、読みづらい字が並んでいるだけの黄ばんだただの紙切れとしか思えないものに大切な金がきえていくのを見るのは、婦人にとって耐えがたい。かくして・・・・≫
ふーむ、この際、昔のことだから、大目に見てあげよう。
というか、この「書物」という言葉を、それぞれの家庭の旦那の「趣味」や「蒐集品」という言葉に置き換えても、理解できる気がします。
ま、逆も真なりという声が、旦那衆から聞こえてきますがね。ははは(続く)
☆写真左は、ロンドンの古本屋さんの目録写真。トーマス・ハーディ全集のようです。きれいな背表紙ですねぇ。右は、W.アービングの「Old Christmas」(コルデコット絵 1875)
「愛書狂」(G.フローベールほか 生田耕作訳 平凡社 挿絵は、O.ユザンヌ『巴里の猟書家』から)を読んで、訳者生田耕作の名前を知ってから、読んだ本には、うーん、私の趣味じゃない・・・というのもありましたが、この「地下鉄のザジ」(レーモン・クノー 生田耕作訳 中公文庫)は、映画「アメリ」とよく似たテンポの話でした。映画もあるようですが、見ていません。
たぶん、フランス文学の先生だけが翻訳できるのだったら、このタイプの本の訳をしなかっただろうと思える、いわば、奥行きのない(本当は奥が深い?)、軽いタッチ、されど、そのテンポがおかしい一冊でした。
「ボートの三人男」(ジェローム・K. ジェローム 丸谷 才一訳 中公文庫)のユーモアとも違う、「動物農場」(オーウェル・川端康雄訳・岩波文庫)ともまったく違う、パリ仕込のユーモア。ブラックとも取れる、シニカルな笑い。
今のアートは、国境を超え、どこの国のアーティストなのか、よくわからないし、わからずともいいのでしょう。
かつては、絵画でも、それぞれのお国柄が反映されてきた時代があったように、文学もその流れがあるように思います。 文学を学問として学んだわけではありませんが、最近になって、やっと英国文学の流れとフランス文学の流れが、ちょっと違うように感じられるようになりました。(続く)
☆写真は、パリ オルセー美術館。この角度から撮ったら、元駅舎だったことがわかります。
(承前)
懲りずに、今度は、夫と見に行きました。映画「ジャージー・ボーイズ」。(実は、映画「アンコール」も一人で一回、夫ともう一回見に行っています。)
いまでも、口をついて出てくる「シェリー」や「君の瞳に恋してる」という曲の他に、アメリカが明るく輝いていた頃の愛だの恋だのベイビーだの、軽い軽いタッチの歌が何曲も映画で披露されます。そんななか、しっとり歌い上げられた歌がありました。
それは、忙しくて不在がちな父親フランキー・ヴァリが、眠りにつく娘とベッドで話すシーンに歌われます。
仕事と家庭の両立がうまくいかずとも、あるいは、それだからこそ、子を想って歌います。そして、そこで歌うのは、ほんのさわりだけ。もう少し聞きたいと思っている内、映画後半、さらに印象的なシーンで、もう一度、バックに流れます。今度はしっかり。
歌詞全体を見ると、ラブソングのようですから(「My Eyes Adored You」)、ビリー・ジョエルの「ララバイ」やジョン・レノンの「ビュティフルボーイ」のような子守歌とは言えないかもしれません。それに、ラブソングなので、「ララバイ」と違い、すごく接近してます。ダイレクトに、So Close と言ってますからね。
≪You couldn't see how I adored you
So close, so close and yet so far
(どんなに僕が君を想っているか君にはわからないんだ。
こんなに こんなに そばに居るのに)≫
≪adore≫は、崇拝するとか、熱愛するという意味なのですが、口語で≪大好きだと≫いう意味もあり、子どもに歌ったときは後者の感じでしょうか。(参考:研究社:リーダーズ英和辞典 新クラウン英語熟語辞典)
☆写真は、英国バスコットパーク
(承前)
ビリー・ジョエルの「ララバイ Lullabye (Goodnight、My Angel)」の歌い始めは、
「Goodnight my angel,
Time to close your eyes・・・」なのですが、
これって、
ジョン・レノンの「Beatiful Boy」思い出しますねぇ。
始まりは
「Close your eyes
Have no fear
The monster's gone・・・」
これも、心のこもった優しい曲。
二曲とも、映画のクライマックスに、しみじみと使われてた。
片や「アンコール」片や「陽の当たる教室」
どちらの映画も、涙うるうる。
子を想い、毎夜、母親は子守歌を歌う。
子を想い、心を込めて、父親は子守歌を書く。
子どもを想う人たちは、美しいものを子どもたちに残す。
そういえば、最近見た映画にも、子守歌に使われていたいい曲がありました。(続く)
☆写真は、ウィリアム・ブレイクの「子守歌(ゆりかごの歌)」にセンダックの絵。ブレイク「The Tyger」あるいは「無垢の歌」へのオマージュだと思うのですが・・・
この本は、「Lullabies and Night Songs」(Music by Alec Wilder Pictures by Maurice Sendak edited by William Engvick Harpper & Row)
ウィリアム・ブレイクの「子守歌」の一連目はこうです。
≪かわゆい夢よ かげをつくれ
うちの坊やの 頭のうえに
満ち足り しずかに 月のひかる
たのしい流れの かわゆい夢よ・・・・≫(「ブレイク詩集 壽岳文章訳 岩波文庫)
(承前)
ビリー・ジョエルの「ララバイ」という曲は、愛する娘を励ます、メッセージソングです。子どもにとって、一番大事な言葉が続きます。
≪いつも これだけは 覚えておいて、
どこに きみが 行こうとも、
どんなところに 居ようとも、
僕は 決して 遠く 離れていないから。≫
この最後のところ、
I never will be far away・・・・この言い方、いいなぁ。far awayという言葉に深いものを感じます。
日本人なら、「そばにいるよ」、という表現になるだろうと思います。
いくら、≪遠く離れない≫と訳しても、「そばにいるよ」と歌っているように聞こえるから不思議です。
添い寝をして大きくなる日本、親とは別の部屋で眠る欧米。その違いが、引っ付き過ぎず、遠く離れず・・・の表現になるのかな?と思ったり。
ともあれ、丁寧な歌い方です。アメリカの唄にありがちな、アイワナ (I want to ~)等というようなこともなく、リスニング能力の低い者にも、単語がよくわかります。will be とかfar away と優しく歌われたら、ぐっと響きます。心を込めて、歌ったのがわかります。
昔は、メロディに惹かれて聞いた歌の数々を、もう一度聞きなおしてみようかなぁ。(続く)
☆写真は、英国 バスコットパーク
先日、夫の音楽データがアットランダムにスピーカーで流れてくる中、家事をしていたら、優しい歌が耳に入りました。・・・「それ、だれの歌?いい曲やね。」
「うーん、どれどれ、ビリー・ジョエル・・・ 曲名は、ララバイ」
「ふーん、子守歌やから、優しいんや。心がこもってる。もともと、ビリー・ジョエルって言葉を丁寧に歌ってるけど、さらに、丁寧でわかりやすい英語。こんなんも歌ってたんや。『オネスティ』も『ピアノマン』も、これも、いいなぁ。」
と、そのあとも、何回かリピートして楽しんでいると、ん?もしかして、これ、どこかで聞いたことあるよ。
調べたら、映画「アンコール」の中で、妻に先立たれた頑固な爺さんアーサーが、最後、ソロで歌っていたあれやん!涙なくして見られなかったあの映画。
後日、WEBで、その歌うシーンを見ていたら、映画を思い出したと、横で泣いている我が夫!
さらに、その横で、「ララバイ Lullabye (Goodnight、My Angel)」の歌詞を検索し、泣いている我が娘!
この歌は、ビリー・ジョエルが、幼い娘のために作った子守歌。
その日、婚約したうちの娘の心に去来する思い。(続く)
☆写真は、英国 バスコットパーク
11月の半ばって、こんなに寒かった?寒暖の差が大きくて風邪をひきそうですね。
≪・・・・都の人の寒さに弱き歩みは早くも火を追ひ、
去りて跡なき荘園のしづけき小径(こみち)、
風の嘆きのさびしさに、薄らぐもりの空を見て、
この花ひとり安らかに咲きぞみだるゝ。・・・・・≫
・・・・の「この花」は「菊の花」のこと。(永井荷風訳 「菊花の歌」シャアル・グランムウラン:『珊瑚集 仏蘭西近代抒情詩選』)
ついでにもう一つ『珊瑚集 仏蘭西近代抒情詩選』 (アンリイ・ド・レニェエ 永井荷風訳 岩波文庫)から、
≪・・・緑より黄に、黄よりして紅(くれない)に
又黄金色(こがねいろ)より黄金のいろに
木々の梢(こずえ)の老い行けば、われは
秋より秋に散りて行くわが「過去」を思ふ。・・・・・≫
☆写真上の菊も、下のほおずきも、ご近所散歩で撮りました。

(承前)
この際、 「悪童日記」の三部作、自伝「文盲」以外のアゴタ・クリストフの文庫本2冊も読んでみました。
「昨日」「どちらでもいい」という二冊は、題名からして前向きな積極性が見えません。
それもそのはず、戦争によって、母語と敵語の狭間で苦しんだ作者の作品ですから。
「どちらでもいい」は、ショートショート部門かと思える、短い話が入っています。この小さな話のあとに続く、たくさんの話があったかもしれないと予感させるものの、作者は、寡作のまま生涯を終えています。
深いところに暗いものを抱え、悲惨な状況を淡々と描くのは、彼女の作品の本質でしょう。長編でも短くても。
ほとんどの作品、うーん、とうなりながら読むのですが、ちょっとだけ、ほっとした文章がありました。その最後のところです。
≪…秋の到来に気づくのは毎年、教会の庭にいて、紅くなった木々の葉が突然頭上から落下してくるのに出会い、はっとするときだった。まだ美しい夏の最中だと思っているのに、そんなことが起こるのだった。 それからは、どこにこれだけの葉っぱがあったのかと思うくらい、紅葉が絶え間もなく、ほんとうに絶え間もなく舞い落ちた。地面の上に落ち葉がどんどん積もって、分厚い層を成し、わたしたちは裸足でその上を歩いた。落ち葉にはまだ温かみがあった。わたしたちははしゃいだ。時の予感に怯えながら、それがまた楽しくて、笑い転げていた。≫
*「昨日」「どちらでもいい」(アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳 ハヤカワepi 文庫)
☆写真は、京都 東福寺(撮影:&Co.A)

「もんもう」と打っても、漢字に変換されないのは、この言葉の使用頻度の問題だけ?
「文盲 ―アゴタ・クリストフ自伝」 (アゴタ・クリストフ著 堀茂樹訳 白水社Uブックス)
「悪童日記」三部作のアゴタ・クリストフ自伝のタイトルです。4歳で本が読めた、ハンガリー語で読めた彼女が、移り住まねばならなかった国の言葉を学ぶために、26歳にして、大学の夏期講座、外国人学生を対象とするフランス語講座に行きます。彼女の娘はもうじき6歳で学校に通い始める時期でした。
≪ 何回かの授業のあと、先生がわたしに言う。
「フランス語、とてもよく話せるじゃないか。なぜ初心者のクラスにいるのかな?」
わたしは彼に言う。
「わたしは読むことも、書くこともできません。文盲なんです。」≫
そして、自伝は、こう書いて閉じられます。
≪・・・・この言語を、わたしは自分で選んだのではない。たまたま、運命により、成り行きにより、この言語がわたしに課せられたのだ。フランス語で書くことを、わたしは引き受けざるを得ない。これは挑戦だと思う。そう、ひとりの文盲者の挑戦なのだ。≫
時系列で書かれた自伝ではありません。自伝の中では最短の文量かもしれません。しかしながら、「悪童日記」のあの冷ややかで深い空気は、この自伝にも流れています。
書くことと、読むこと、この二つが彼女の核にあるのですが、そのことは、14歳ころの寄宿舎の消灯後の文と詩に表現されています。
≪ 寄宿舎の消灯は夜十時。舎監が寝室を見回りに来る。わたしはそれでも、何か読むものが手元にあるかぎり、街灯の明かりを頼りに読み続ける。そして涙にくれながら眠りに落ちる頃、いつくかのフレーズが闇の中に生まれる。それらがわたしの周りを飛び回り、囁きかけ、律動(リズム)を生み、韻を踏む。歌い出す。詩になる。
『昨日は、すべてがもっと美しかった、
木々の間に音楽
ぼくの髪に風
そして、きみが伸ばした手には
太陽。』 ≫
・・・・そして、この詩は、彼女の数少ない作品の一つ「昨日」の巻頭を飾ることになります。
残してきたものへの切ない思いが、この短い言葉の中に凝縮され、私は好きです。(続く)
*「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」 (アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳 ハヤカワepi文庫)
*「昨日」(アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳 ハヤカワepi文庫)
☆写真は、大阪 岩湧山(撮影:&Co.A)
「いえでをしたくなったので」 (リーゼル・モーク・スコーペン文 ドリス・バーン絵 松井るり子訳 ほるぷ出版)
「いえで」の絵本には、「フランシスのいえで」*がありますが、フランシスの「いえで」の動機に比べ、「いえでがしたくなったので」の動機に、説得力が弱いような。
確かに,1ページ目で、家を散らかし、両親がおかんむりの絵が描かれてはいます。けれど、まだ、直接怒られた風情でもない。それなのに、次のページでは、もう荷物を詰めて家出の準備。
とはいえ、この最初の押さえ以外は、どの展開も愉快です。
絵も白黒で、かえって、いろんな色が想像できます。
声に出して読む語調がよく、言葉の繰り返しとともに、お話の世界を楽しめます。
≪いえでを したくなったので
きょうだい みんなで にもつを つめた
セーター くつした
マフラー てぶくろ ふゆぼうし
それから そろって ひっこした
ぼくたちの すきな あの き まで
えだを わたってゆく かぜが
はっぱの やねを ざわめかす
2わの ことりが すを かけて
ひがな いちにち うたってた
あきには あかと きんに なる
この きの いえが すきだった・・・・≫
*****上記の言葉は、4シーン分です。
*「フランシスのいえで」(ラッセル・ホーバン文 リリアン・ホーバン絵 松岡享子訳 好学社)
☆写真は、京都 山科 毘沙門堂境内と、その近く。(2014年11月12日撮影)
「高慢と偏見,そして殺人」 (Death comes to Pembary)(P.D.ジェイムズ作 羽田詩津子訳 早川書房)
ミステリ―小説や探偵ものをたくさん読んでるわけではないのですが、この「高慢と偏見、そして殺人」は、本篇「高慢と偏見」の読者として、気になるところでした。愛読者の多い本にはよく、続編が出版されます。これも、あのゆったり流れた「高慢と偏見」に、殺人事件?という興味がありました。
初めの頃、オースティンが書き続けたかと思うほど、情景描写が、そのままで、読みやすかったです。ただ、元の「高慢と偏見」を未読の人には、どうなんだろうか・・・
もともと、緩やかな展開と人物描写を楽しむ「高慢と偏見」ですが、「・・・、そして殺人」の方は、ダーシー・エリザベス夫妻、姉夫婦だけでなく、またもや、ウィッカムがお騒がせの中心にいて、ペンバリー屋敷の使用人や森のことや・・・ま、殺人事件が起こるのですから、その動機を読者が推理しないといけませんからね。
ところが、「高慢と偏見」の最大の魅力である、生き生きとしたエリザベスが、少々影が薄い。それに比べ、ダーシーは、高慢なまま、中心にいます。ほんとは、いい人やったんちがうん?と思っていたダーシーの屋敷の主人としての動きを読んでいると、なーんか、私が思い描いていたダーシーと違ってきたような・・・。もしかして、俳優コリン・ファースのイメージが強すぎ?
ま、「高慢と偏見」の方は、また読みますが、「・・・、そして殺人」の方は、もう読みました。
ただ、この作品、著者91歳の作品というから、それだけでびっくり!
☆写真は、英国ハンプトンコートパレス
「枕を高くして寝る」ではなく、「枕を低くして寝る」ことにしました。
年々、肩こりがひどくなり、眠りの質も良くないのは、もしかしたら、枕が高い、しかも硬い?からかと思い当たりました。
プールに行けば、1500M以上泳ぎ、しかも、肩甲骨にはよさそうな背泳ぎを、その半分泳いでいるのに、肩がかちんこちん。背泳が下手で、肩甲骨のためになっていないかもしれないと、腕の回し方を自分なりに改良したのですが、一向に良くならず、かちんこちん。
水泳後のストレッチも、肩のところで、思わず苦笑。ゴキンゴキンと音がする。
こうやって、パソコンに向かうのも、首筋によくないと、パソコンの位置を離し、座布団敷いて姿勢よくなるように意識しても、かちんこちん。
するうち、目覚めのよいはずの起き掛けも、肩がかちんこちんのパンパン。
あれ?泳いだ後の方が、まだましやん!
もしかしたら、枕?
実は、私の枕は、40年近く前、嫁入り道具の一つにあった客用の枕を、使わず置いていたのを、2-3年前から、自分用に使っていました。そば殻とはいえ、中身が硬いくらい十分に入っていて、高さもそこそこありました。
周囲の人に聞いてみると、はやりのエアー系の枕から、羽根枕などお使いでしたが、総じて、みんな薄い、低い枕で快適だということでした。ちなみに、安眠型の夫のは、檜チップスの入る、加齢臭と共存できる枕です。寝ているときは、フレキシブルに可動しています。で、私も、同じものにすることにしました。中身を調節し、低くしました。
そしたら、なんと!なんと!
長年のかちんこちんパンパンがっちがちだった肩が、かちこちかっちん・・・くらいになったじゃないですか。
うーん、枕の高さだったのか・・・・ 野生に戻り、危険を察知するために、地面に耳をつけて寝るのが、いいのだろうか・・・・と、考えると、つい肩に力が、はいってしまいます。
☆写真は、スイス クライネシャイデック付近の観光用と思われるセント・バーナード犬(撮影:&Co.A)
春から夏の散歩は、花が次々咲くのが楽しかったのですが、今は、河口の鳥を見たり、赤い実にもいろいろあるなぁと見てみたり・・・という散歩です。
散歩や遠足のときは、カメラ持参です。
ところが、最近、人の写真を撮る機会があったとき、風景や、食べものや何か、動かないものを撮る癖が、ついつい出てしまいました。
動かないものを撮るときは、欲張って全部入れてしまわないことを心掛けているのです。
それが、人物撮影にも、いつもの癖が出て、人物を丸まま写さず、全部入れてしまわないことを実行してしまいました。
つまり、頭を切って写してしまいました。あーあ。
そういえば、近年、人を撮ること、人だけを撮ることを、やっていなかったしなぁ。
それにまた、老眼は言い訳にならないし・・・・。あーあ。
以後、気を付けます。
☆写真上は、近所の河口のかもめ。下は河口から海を見たら、大きな船が見えました。

(承前)
「6ペンスの唄をうたおう―イギリス絵本の伝統とコールデコット」(ブライアン・アンダーソン著 吉田新一訳 日本エディタースクール出版部)にも、『線』についてウィルイアム・ブレイクの言葉から引いてきています。(「色彩に関するメモ」の章)
≪・・・・色彩には人を惑わせる性質があります。ごまかしに敏感な目をもっていたウィリアム・ブレイクは、色彩が突出すれば、イラストレーターが線で表現できることや、あるいは、できないことから人々の注意をそらす。と言って、色の本質的危険性をよくみていました。彼ははっきり言っています。「絵画作品で要求されるのは美しい色合いではなく美しい形である。美しい形をともなわない美しい色合いはつねに無能者のごまかしである。」(ベントリィ編『ブレイク著作集』)≫
なかなか厳しい考えです。
また、オルダーソンは、「ピーター・ラビットのおはなし」(福音館)などの作者ビアトリクス・ポターの仕事について、≪自分の本がストーリィと線描の統一体であり、色彩は装飾ないしは雰囲気のためにあるのだ、という事実を見失うことはありませんでした。≫とし、続けて、その章の最後にコールデコットをあげ、
≪・・・重要なのは、ドローイングの明暗のコントラストと活力、すなわち、コールデコットの試金石「音楽と踊りの感覚」です。これこそ、250年以上にわたり、今日なお正当な、イギリス絵画の伝統の一部をなすものなのです。≫としています。
そうかぁ。鳥獣戯画は、平安時代からやからね。イギリス絵画の伝統の一部とは、歴史が違うわ。・・・・と、何の関与もしてないけれど、急に日本人としての誇りに目覚めます。
ともあれ、個人的には、年々歳々、線で勝負している絵画に惹かれます。
写真左下、伊藤若冲(1716~1800)の鹿苑寺大書院障壁画 松鶴図襖絵
左中、パウル・クレー(1879~1940)、「忘れっぽい天使」
左上、鳥獣戯画(平安期12世紀)
右下、ウィリアム・ブレイク(1757~1827)の「妖精たちと躍るオベロン、ティータニア、パック」
右上、コールデコット(1846~1886)「6ペンスの唄をうたおう」表紙
絵本「さんびきのやぎのがらがらどん」(マーシャ・ブラウン 北欧民話 瀬田貞二訳 福音館)の画家 マーシャ・ブラウンの「絵本を語る」(上條由美子訳 ブック・グローブ社)にこんな言葉が引用されています。
ローレンス・ビニョンというイギリスの大英博物館の美術史家で、詩人、アジアの美術研究家の『アジアの美術に見る人間の心』という本に述べられている「充実した心、豊かな心は、生き生きと描かれたほんの二、三本の線にも現れ出る、空虚な心、貧しい心は、もっとも精巧な構図をもってしても、かくしおおすことができない。」という言葉です。
思い起こせば、子どものときのお習字のお稽古、失敗した文字を少しだけ、こっちにはねようと、そっと二度書きしたら、あれあれ、乾くと、ごまかしたことがばれちゃった・・・墨は嘘をつけへんわ。参った・・・と、思ったことがありましたねぇ。
子どものお習字と次元が違うものの、水墨画の潔さ。無駄なものを取り去った線の美しさ。線で描かれたものの勢い。伸びやかさ。その自由さ。重ね塗りできない分、緊張感を持って、臨んだ一筆、その一枚。興味は尽きません。
先日、見に行った鳥獣戯画もそうでした。今回、見に行った仙厓もそうでした。(続く)
☆写真は、大阪府 岩湧山(撮影:&Co.A)
京都細見美術館の「仙厓と鍋島展」(~2014年12月4日)に行きました。神尾勇治氏という個人のコレクター所蔵のものでした。東京の皇居前 出光美術館でも、仙厓は見ましたが、こんなにたくさんの仙厓が並んでいるのは初めてでした。
日本の墨絵は、一気呵成に描き、伸び伸びとした息吹が感じられるものが多くあって、見ていて、楽しい。伊藤若冲の鶏の図にも伸び伸びとした尾の鶏が描かれていますが、この仙厓も、突き抜けた画風が、観ているものの心も解放してくれそうです。
無駄を省き、色でごまかさない。色を重ねて行く西洋画より、もしかしたら、余白とともに明るくも暗くもできる。先日の鳥獣戯画は平安から鎌倉のものでしたが、最後の丁巻の描き方は、江戸の仙厓の描き方と似ていなくもない。
一番気に入った「仙厓」は、もはや、「鍋島」のコーナーにありました。
「鍋島きれい!」とか言いながら進んでいくと、美しい「色絵桜花籠文小皿」の上に飾られていた仙厓「吉野花見画賛」。
そこには、「吉野でも 花の下より 鼻の下」と書かれ、女人とともに、花を楽しむ男衆が・・・ふふふ。
そんなところに、一枚だけ、仙厓を展示したのは、読みやすく堅苦しくない解説を書いた気の利いた学芸員さん?
秋の楽しみの一つに「栗」があります。
今や季節感のないマロングラッセは高価なので、秋しか口に入らないけれど、渋皮煮は、人様からのお相伴にあずかることも多い。栗ごはんなら、家族も大好き。
栗の甘煮や栗ようかん、栗ぜんざいなら少々甘くても大丈夫なのに、ケーキのモンブランは、年配者にはヘビーになってきた・・・残念!
とはいえ、栗きんとんは、栗本来の甘みが上品な一品。
☆写真は、京都 神宮道にあるお店の栗きんとん。美味しい!!!中には、もちろん大きな栗。
ちなみに、栗とは関係ないものの、このお店の粟田焼も美味しい!栗田焼ではありません。
(承前)
「十二磅の目つき(他二篇)」 (バリ作 長沢英一郎訳 岩波文庫)の三篇目「忘れえぬ聲」も解説によると、≪1918年に上演の戦争劇である。≫ええっ!そうなんだ。確かに背景に戦争があり、上演された時期もそうではあるけど、それに、戦争で子弟を失った人が多く、当時のイギリスで、流行っていた「降神術」という設定があるけれど・・・・
うーん、これも、違うなぁ。結末を書くと、今から読む人に悪いから書かないけど、三篇のなかで、これが、一番よかった。
悲劇といえるかもしれないけど、私が電車で読んでいてウルウルしたのは、悲しくてではなかったのです。心の奥をぎゅっとつかまれるあの感じ、その温かさ・・・に、うっ。
しみじみした人間劇。
舞台の上は暗い設定です。ほとんど、人にしか光の当たらない設定。ああ、それなのに、そこに光を見つけられる。そこにぬくもりを感じられる。心の交流の声まで聞えそう・・・・・・・という意味では、静かに戦争の犯した罪を描いているので。戦争劇ということなんだろうか?ふむ。
家に帰って、他翻訳作品はないのかと検索したけれども、この本と、ピーターパン以外は、大学などの図書館にも見つけられない。他にも、面白いのがあるかもしれないのに、主にピーターパンでしか研究・翻訳されていないのは、片手落ちの気がするなぁ。
☆写真は、ロンドン ケンジントンガーデンズの元管理人の住居(Buckhill Lodge)壁にはめられた石板には1858年の文字とビクトリア女王時代という印のV&R。ただし、2012年に屋根の白い飾りなど、外側がリフォームされたようです。

今年読んだ本を、勝手にノンフィクション部門、短編部門、中編部門、長編部門、短文部門(ただし翻訳)フィクション部門などと、区分けして、面白かったものを備忘記録してきました。
今回は、戯曲部門、「十二磅の目つき(他二篇)」 (バリ作 長沢英一郎訳 岩波文庫)です。
日本では、ピーターパンの作者として有名なジェイムズ・バリですが、実は、劇作家として有名だったのです。もちろん、ピーターパンの劇が上演されているのですから、劇作家だとわかりますが、大人の劇、つまりピーターパン以外には恥ずかしながら知らなかった。
で、この本は、書店の「今は手に入らない岩波文庫フェア(?)」の棚に、ひっそりとありました。作者「バリ」とあったことより、本の薄さで購入。
が、この薄っぺらい本、3篇の話が入っているのですが、三つとも、面白い。舞台が見えるようです。
それぞれ、登場人物が少ないのが特徴です。
カタカナで書かれた、日本人には似たように思える登場人物の名前に四苦八苦しながら読み進む長い脚本ではないのも幸いし、読みやすかった。
まず、表題の「十二磅(ポンド)の目つき」1910年3月に初演らしく、今や時代劇ともいえる設定ではありますが、ちょっと小道具を変えれば、現代と同じ人間ドラマ。それも一幕もの。粋な流れは、おしゃれです。
ただ、時代の女性観が本文導入にも描かれていて「ハリの場合では禍のもとは婦人です。」という文言。うーん、禍のもとは、だれが捲いた種?
次の「遺言書」。
解説によると≪1913年初演で脚光を浴びた劇で、バリのものとしては珍しく悲劇である。≫え?これって、悲劇なの?ふーん、読みが足りないのか、私には悲劇には思えなかった。想像しうる展開が、喜劇的なんだけど…(続く)
☆写真は、ロンドン ケンジントンガーデンズのピーターパン像が向うに小さく見えます。
(承前)
他にもセンダックの没後翻訳出版されたものがあります。「そんなときどうする?」 (セシル・ジョスリン文 こみやゆう訳 センダック絵 岩波)も、昨年出ています。
また、原題を「Bears」という、 「くま!くま!くまだらけ」 (ルース・クラウス文 石津ちひろ訳 センダック絵 徳間書房)の日本語のタイトルは、よくわかります。「ベアーズ」もしくは、「くまたち」などとしなかったのがGOOD!
それにもう一冊「ぼくはきみで きみはぼく」 (ルース・クラウス文 江國香織訳 センダック絵 偕成社)です。この原書をもう30年以上も前に手にしたとき、こんな子どものつぶやきのような言葉を訳すのは大変だろうなと思って居たら、案の定、なかなか翻訳がでず、今回やっと登場。
≪・・・・あいしていたら
しょうがクッキーぼうやの あしを あげちゃう
りょうあしとも
それにあたまも!
(おさとうで できた
ボタンだけで いいよ。)≫
☆写真は、ロンドン ナショナルギャラリーカフェの我が夫婦のランチ。しょうがクッキーぼうやの横には、エルダーフラワー水(微炭酸)、その横には、日本では全く食べないポテトチップスなのに、イギリスに行けば必ず食べ比べるソルト&ヴィネガー味のポテトチップス。
もちろん、≪あいしているから、しょうがクッキーぼうやの あしを あげちゃいました!≫
「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」 (アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳 ハヤカワepi文庫)
(承前)
映画の前に読んでおこうと軽い気持ちで「悪童日記」を読んだら、その冷めた書き方に引き込まれ、エグイ描写に、ドキドキひやひやしながら、一気に読了。続けて、「ふたりの証拠」「第三の嘘」も手元に。
続くとは書いていないのに、「悪童日記」の読後は、「この後どうなるんだろう?」
二冊目の「ふたりの証拠」の最後は、ん?あれ??
・・・と、一気に三冊、読了。
三冊目の「第三の嘘」の読後は、「そうだったのか・・・・?」
一冊目と二冊目、三冊目の書き方は、それぞれ違います。
「悪童日記」は、強烈な磁力を持ちます。≪事実だけを、思い入れや価値判断やいっさいの解釈を抜きにして記す≫(「悪童日記」訳者解説)アゴタ・クリストフの筆力。
二冊目の「ふたりの証拠」は、打って変わって、名前のついた人たちが登場し、多くの小説に見られる展開、表現に一番近いと思います。
三冊目の「第三の嘘」は、その時系列のシュールさに、初めは戸惑いながらも、核心に迫るはずだという確信が、ページを繰らせます。で、「そうだったのか・・・・?」
作家アゴタ・クリストフは、この三部作を当初は、考えていなかったようです。
≪「悪童日記を」書いたときには必ずしも、続編は予定していませんでした。ただもし続きを書きたくなったら書けるように、その余地は残しておいたのです。≫と、二冊目の発表のあと答えています。(「第三の嘘」訳者解説)
それぞれに、心に残った言葉や動きは多々あって、書き記したい気持ちは山々ながら、そんな細かいことより、アゴタ・クリストフの創り上げた大きな虚構の世界に圧倒されたことだけ記します。
それにしても、三冊目が、「第三の嘘」かぁ・・・そうだったのか・・・?
☆写真は、英国オックスフォード ウィンドー。