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みんなみすべくきたすべく

石井桃子についての本三冊の続きで読んだ本3冊 (その3)

             百合j
(承前)
『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か 』(米原万里 新潮文庫)
 この本も、『石井桃子の翻訳はなぜ子どもをひきつけるのか――「声を訳す」文体の秘密』(ミネルヴァ書房)の参考文献に掲載されていました。ロシア語の通訳者であった米原万里の通訳にまつわることを中心に書いたエッセイです。

 ところで、そもそも私は、電車用、パソコンそば用、ソファー用、枕そば用、いろんな本を並行して読むことが多いです。そりゃ、熟読精読できへんはずや・・・という声も聞こえそうですが、このスタイルは昔からでした。
 ところが、夫は、1冊の本を、たとえそれが重くても、電車に持ち込み、出張に持ち込み、もちろん、それが枕と化しても、読み通します。また、気に入れば、その作家を、しばらく読み続けます。そんな中、彼が今、はまっていたのが、米原万里さんだったのです。
 滅多に、同じ本を読むことなどない我々ですから、「米原万里の『不実な美女か貞淑な醜女か』持ってない?」と問うた日には、まあ、親切なこと!・・・歳経た夫婦は歩み寄りが肝心です。

閑話休題。
 さて、どこが、かの論文の参考になったか定かでないものの、『不実な美女か貞淑な醜女か」』中でこんな文に出会いました。
≪・・・さらに、言葉を聞き取る能力というのは、聴力を完全に失ってしまった人が、相手の口元や、顔の表情、その時の状況などから驚くほど正確に言われたことを理解することからも分かるように、聴力のみに頼って成り立つものではない。それは、基本的には言葉を聞くという営みが、その意味をとらえるということを最終目的にしているからで、・・・・(中略)・・・・意味と言うものは、どうやら、前後関係や、その場の状況、その時点での聞き手の知識、教養などが総動員されて把握されるものらしい。≫

 なるほど。
 このエッセイは、通訳者が書いた文で、子どもの聞き取りのことを書いたものではありません。
 が、しかし、言葉を聞こうとするということが聴力のみに頼らないということは、よくわかります。子どもたちは、機械音ではなく、目の前に居る人の声、その人の雰囲気や癖、周りの空気など、全身で、お話で聞こうとしているということです。これこそが、石井桃子の言う≪子どものころに生活の中に埋め込まれた記憶≫(「石井桃子のことば」新潮社)となって、子どもたちを支え、励ますものとなるということなのですね。

☆写真は、大阪 舞洲 ユリ園(撮影:&Co.A)

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