(承前)
今やコンクリートの記念館となった観潮楼は、小堀杏奴が、「晩年の父」(小堀杏奴著 岩波文庫)で、こんな風に紹介しています。
≪・・・「見晴し」のいい高い崖の上にあって、昔の武家屋敷のような大きな開き門の、所々に簾のおろしてある窓のついた長い土塀を囲らせてあった。部屋の中に座っていても簾を通してぼんやりではあるが道を行く人の姿が見える。私は三畳の自分の部屋に座って、その窓を通る父の姿を幾度待ったろう。・・・≫
また、上記写真の森鷗外記念館(観潮楼跡)外壁の説明板には、「増築した2階部分から東京湾が眺められたとされたことにより観潮楼と名付けた」とありますが、「晩年の父」に、こんな記述があって、ちょっと面白い。
≪…東から南にかけて折れ曲がった廊下の向うは庭の木々の枝を通してあらゆる人家の屋根屋根が連なり、ずっと向うは上野谷中の五重塔がうっすらと見えていた。 春になるとぼうっと薄白く桜の咲いているのが見える。 はっきり白いのは木蓮であった。 この楼からは海が見えるそうである。 しかしそれは長年の間毎日のようにいる父だけが、極く晴れた日などに空とも水とも解らぬながら微かにそれと認める程度で、馴れない人などは絶対に見る事が出来ないものだそうだ。 結婚して間もなく父は母を連れてこの二階に登り、「おい、海が見えないか」と聞いたそうだ。 母は長い間見ていたが、「どうしても私には見えません」といったら父は笑いながら、「お前は正直だ。俺がそういうと、ああなるほど見えます見えますなんて言う人がいるが、どんな人にだって見えるはずがないんだよ」といったそうである。・・・・≫
(続く)
(承前)
江戸東京博物館にしても、文京区立森鷗外記念館にしても、コンクリートむき出しの建物です。予算やメンテナンスや、耐震性や、いろんなことから、このような建造物になったのでしょう。が、ロンドンやパリの美術館に行くと、その歴史的建造物の無駄な造り、例えば、曲がりくねって装飾過剰な階段。重すぎるドア等にも、心は向かいます。
関西でも、京都国立博物館や京都市立美術館等 他 歴史的建造物の美術・博物館もあり、江戸東京博物館にもっと江戸の風情や両国の粋を感じたいと思うのは、お上りさんの我がままでしょうか。
あるいは、森鷗外記念館に明治の空気、鷗外の家(観潮楼)の匂いを感じたいのは、文化財保護のノウハウを知らない者の戯言なのでしょうか。
この記念館は、実際に鷗外一家が住み「観潮楼」と名付けられた家の跡地に建っているのですから、往時をしのぶ写真の展示だけでは、ちょっと寂しい。とはいっても、300円の入館料で、ちょっと賢くなれた森鷗外記念館は文京区立なので、文京区が頑張っているのがわかりました。(続く)
東京での部屋探しには、ほとほと疲れたものの、ただでは転ばないのが関西の根性?で、きっちり、文化探訪もしてきました。
両国国技館隣の江戸東京博物館「大浮世絵展」(~2014年3月2日)に行ってきました。関西でも何回か、同じような展覧会を見たことがありましたが、これは、浮世絵の時代変遷を示した展示でした。
最後の展示は川瀬巴水(1883~1957)の「日本橋」。これなど、日本の浮世絵の流れの最後にあるより、モネ(1840~1926)のチャリングクロス橋やウォータルー橋の連作、ホイッスラー(1834~1903)「オールド・バターシーブリッジ」を想起させるものでした。とはいえ、この頃の西洋絵画が、日本の浮世絵から影響を受けているのを考えると、この展示にモネやゴッホが並んだら面白いだろうと思います。(そしたら、もっと凄い人出になるだろうけれど。)。
と、言う意味では2005年にロンドンテートミュージアムで見た「ターナー・ホイッスラー・モネ展」に、浮世絵が並んでいても全然おかしくなかったってこと?ふーむ。
展示作品は、保存状態もよく、細かい刷りもよく見えます。美人画も風俗画もそれなりに見応えがあるのですが、葛飾北斎のところに来ると、急に空気が変わるような気がするのは、ひいきでしょうか。北斎の作品は自由で楽しく、いつ見ても新鮮です。浮世絵だけでなく、展示されていた北斎漫画や物語絵の挿絵(「近世怪談 霜夜月」)など、もっとページを繰ってみたかったです。
この「大浮世絵展」、江戸東京博物館では、期間を限って、小出しに展示されています。巡回する名古屋や山口では、ほとんどが一堂に会すらしいので、もし、機会があるなら、東京以外の二開催地で鑑賞するのがいいかも。
私が生まれ育ったところは、以前に書いたように、いわゆる下町です。だから、娘の部屋探しのときも、下町についつい安心感を覚えてしまいました。ディープすぎない庶民的な町。
商品を自ら包んでくれるような商店があって、お年寄りがゆったり歩いていて、高校生が学校の帰り道コロッケ食べながら歩いていて、小学生がふざけながら下校すると、ランドセルがかちゃかちゃ鳴って、おばちゃんが長い時間立ち話している様な町。
もっと、自然に恵まれているところで生まれ育った人なら、こんな下町さえ、疲れを感じるかもしれません。
あるいは、高層階で育った人なら、高層階から眺める景色に安らぎを覚えるのかもしれません。
そして、我々は、阪神大震災を経験したので、特に、父親は耐震性にこだわり、地盤はもちろんのこと、建築されたのがいつかとか、何階建てかとか、どこが建てたのか等など、うるさいことでした。
そんな両親の思いを背負い、見つけた物件は、狭い部屋。駅に近くて便利。日当たりも眺めもいいんだから、それくらい我慢しましょう。
☆写真は、ウィーン。
東京で娘の部屋探しをして、伊丹空港に着き、いつものように空港バスに乗って帰宅しました。
空港バスから眺める阪神間の景色に、ほっとしたのは初めてです。今まで、海外から帰って来たときも、東京から帰って来たときも、感じたことのない安堵感でした。
「ああ、関西は、まだまだ大都市圏でなくてよかった。」・・・・景色の中に高層ビルが林立していないのです。大阪の中心には、まとまってあるにはあるのですが、それにしても、東京のそれとは、まったく違う。
ともかく、関西の田舎者には、威圧的にしか見えなかった高層ビル。家探しをしたような地域には、高層ビルが少ないとはいえ、都内全域にあるビルたち。コンクリートの塊たち。
高層部から見るような綺麗な夜景、実は、道路沿いは暗いのですね。一階部分は、シャッターであったり、門だけであったり・・・自販機の明かりやコンビニの明かりだけが明るい。
直線的な風景の中で空が見えにくい。空が鋭利に切り取られている。なだらかな丘や続く緑、丸みを帯びたものが恋しい。走り回る子どもたちの声が聞こえたらいいなぁ・・・
いつもは、観光客の目で東京を見て来たのが、住民なら という目だったのでしょう。
高村光太郎が「あどけない話」という詩で
≪智恵子は東京に空が無いといふ、 ほんとの空が見たいといふ・・・・≫(「智恵子抄」(新潮文庫)と書いたのは昭和3年のこと。深い意味では、違うのだろうけど、思い出してしまいました。
☆写真は、東京 両国国技館横。
富田砕花という詩人のことは、よく知りません。
与謝野鉄幹・晶子主宰の新詩社に参加、エッセイや歌集などを出版し、ホイットマンを日本に初めて紹介した人でもあるらしい。
知っているのは、市内に旧居が保存され、文化財となっていることだけでした。
先日、役所に置いてあった文学サロンのちらしを見て、興味が湧きました。
「富田砕花 校歌祭」とあります。講演や座談会とともに、校歌の合唱などもあるらしい。で、校歌作詞一覧とされた中に、おお、我が母校の名前が・・・
しかしながら、思い出そうとするも、すぐに出て来ない・・・で、高校のHPを見ると、おお!こんな歌♪こんな歌♪
「木々の秀枝と匂いたち(きぎのほつえと においたち)」・・・ほつえって、秀枝って書くんや!【*ほつえ:上の方の枝】
「頂をさすみちの崎嶇」(いただきをさすみちのきく)・・・きくって、崎嶇って書くんや!
【*きく:険しいこと、容易でないこと】
なーんにも 知らんかった若者に向けて、校歌の最後はこう続いていました。
♪~星に到らむ のぞみもて
掲げつとむる 学灯の
光がてらす あこがれの
夢多きみの われらかな~♪
☆写真は、富田砕花記念館の塀にある歌碑。この家の富田砕花の前の住民は谷崎潤一郎と松子でした。
そこで、「細雪源氏の君のかかわりをわが庭に遺す擬春日燈籠」とあります。
児童文学、特に英国のそれが好きなのは、事細かく、目に見えるように書いている作品が多いからです。
「ここから先は、自分自分でイメージしなさい」と、著者が独自の世界を紹介してくれるよりも、「この世界を一緒に分かち合いましょう」という著者の姿勢が、読む楽しみを増やしてくれます。
例えば、昨日のファージョンの「棟の木かざり」(「年とったばあやのお話かご」)の中に
≪・・・つぎの日、わたしたちは、みんな、いちばんのよそゆきをきました。管理人さんは、皮のふちどりをした、みどりの服をき、帽子にはワシのはねをつけました。わたしは、こい赤のウールのドレスに、はでな色のスカーフを肩にまき、黒いきぬのエプロンを腰にまきました。そして、リーゼルは、白いひだひだのあるブラウスに、青いスカート、黒いビロードの胸あてをつけ、ししゅうのあるカラーのまわりには、チリンチリンとなる銀のくさりをかけて、まるで絵のようにかわいく見えましたよ。・・・≫
スイスの民族衣装に身を包んだ3人が、絵のようにかわいく見えてきませんか?
同じくファージョン「西ノ森」(「ムギと王さま」)のこの箇所はどうです。
≪・・・木だちのずっとむこうには、金色の海岸が見えました。それは、きらめく砂、輝く貝、色とりどりの小石のある入り江でした。ガラスのようにすきとおる、青くエメラルド色の海は、その入り江の右の岸から左の岸までいっぱいにさざなみをたて、その一ばんはては、ほの白く光るがけのある岬になっていて、がけには、雪花石のほら穴やくぼみがありました。・・・≫
このファージョンの文を読めば、上の写真(オーストラリア、メルボルン)のような景色を思い浮かべられます。(撮影:&Co.A)
*「年とったばあやのお話かご」 (ファージョン作 アーディゾーニ挿絵 石井桃子訳 岩波)
*「ムギと王さま」 (ファージョン作 アーディゾーニ挿絵 石井桃子訳 岩波)
昨年、スイスに行った時、「ああ、あれ!」と、叫んだら、夫は「????」。私の指さす方にあったのが、写真に写る、小さなモミの木。
興奮状態の私が「棟の木かざりよ!」「はあ????」
「スイスの棟上げのときに、飾るモミの木よ!」「・・・・・」
大満足で、
「ああ、これが、ファージョンが『棟の木かざり』といったモミの木ね」
ところが、次の日も、同じ席で、その木を眺めていたら、
「ん?棟の木かざりっていうのは、こんな途中の屋根じゃなくて、屋根のてっぺん?・・・・なーんだ、ベランダに植えているモミの木が大きくなっているだけ?」
・・・一気にシュン・・・
家に帰って「年とったばあやのお話かご」の中の「棟の木かざり」を読み返してみると、≪・・・棟あげをするときには、その家が、どんどん大きく繁盛して、しあわせになっていくというしるしに、切りづまのてっぺんに、小さい木を立てるしきたりがあるんです。・・・≫とありました。
このお話の舞台がスイスで、小さなモミの木で・・・ということで、思い込んでいただけだったようです。
とはいえ、もしかして、もしかして だけど、その棟の木飾りに使ったモミの木を、今も育ててたんじゃないのと、思うのです。
*「年とったばあやのお話かご」(ファージョン作 アーディゾーニ挿絵 石井桃子訳 岩波)
☆写真は、スイス ヴェンゲン
(承前)
残り少ない英国滞在の娘と「小さな仕立屋さん」の話をスカイプでしていたら、「ムギと王さま」の他の話にもなりました。「『西ノ森』もよかったけど、お母さんは『ガラスのクジャク』が好きやったよね?でも、なんといっても、『しんせつな地主さん』。あれが、一番、よかったわぁ。」
・・・・「はい、その通り」・・・
昔も書いたことがありますが、この話を3人の子に読む時は、雑音に邪魔されたくなかったので、留守番電話にして読みました。(今なら、携帯の電源を切るのですね。)
しみじみと、深々と沁み入るように、お話が心に届く。幸せなのに涙が出る。・・・難しい表現を使わなくても、込み入った人物設定をしなくても、まして、奇をてらった大事件がなくても、伝わる大事なこと。
人の親切・・・それは、心の通い合い。いい話に出会えた喜びで、話が終わっても、誰もしばらく口をきかなかったのを覚えています。
子どもたちと、こんな時間を持てて、なんと有難いことよと、当時思っていましたが、今、こうやって、遠く離れた英国と日本で、その小さな話について、語り合えるのも、有難いこと。
ファージョンと訳者の石井桃子氏に感謝します。
*「ムギと王さま」(エリナー・ファージョン文 エドワード・アーディゾーニ挿絵 石井桃子訳 岩波)
☆写真は、地主のチャ―ドンが、6月のバラのような笑顔のジェイン・フラワーを得るために買った牛の花子ではなく、英国ヘミングフォード村の牧草地で元気に草を食べる牛。
ヤドリギ特派員便りも、この2014年1月中旬の写真でおしまいになろうかと、思います。
英国に行っていた娘が、当初の目的を終え、帰国します。
彼女の次なる修業は、東京で一人暮らしをしながら、働くことです。過保護な親は、住まい探しに、権力を発揮し、安全を第一に考え、うるさいこと。
彼女の作品は、このブログの写真でも、何度かちらっと登場しておりますし、また登場することもあろうかと思います。英国などで身につけた技術を生かし、「小さな仕立屋さん」(お針子さん)になります。
ファージョンの「ムギと王さま」の中の「小さな仕立屋さん」の話は、子どもたちが小学生の頃、よく楽しんだお話の一つです。
「従僕は従僕だったのですもの。」のところが、みんなのお気に入りでした。多くの昔話は、王子様と結ばれ、めでたしめでたし。それが、あろうことか、昔話とは異なり、結ばれる相手は「従僕は従僕だった」という、話の締め方。え?そうなの?でも、ほんとはそうよね。小さな幸せが、大きな幸せなんだから・・・
我が子が、大きくなって、小さなお針子さんになるとは、思いもよりませんでした。
そして、小さい頃、自分は外国の貴族と結婚するんだなどと言っていた彼女ですが、実際には、「従僕は従僕だったのですもの。」という結末は、いつ?(続く)
*「ムギと王さま」(エリナー・ファージョン文 エドワード・アーディゾーニ挿絵 石井桃子訳 岩波)
☆写真は、英国、ロンドン郊外。ヤドリギと、娘の通っていた教室のある宮殿。(撮影:&CO.H)
昨日の「わるい火曜日」で、不機嫌だったマイケルは、メアリー・ポピンズの不思議な力とその世界の中で、いつしかいい子になっています。
そして、 「メアリー・ポピンズA-Z」 の「I」の項では、メアリー・ポピンズは、こんな方法で、不機嫌虫退治をするのです。
≪Iはうちの中、入口(イン)のI。うちがわ、家の中、ごたごたのなか。不機嫌虫は腹の中。その虫きょうは子供たちの中。なぜって外は雨ふりだから。もうみんな待ちきれなくて、イライラしてて、なにしてよいかわからない。「まねしてごらんなさい。」と、メアリー・ポピンズ。アイリッシュ・リネンのエプロンにアイロンかけ。「インクを持っていらっしゃい。島の絵をかいて、ツタをかき・・・・≫
と、「I」のつく単語が続き、ついには、アイスクリーム売りのおじさんの登場で≪アイスクリームだって!すごいなあ!≫(Ice cream! What a good Idea!)で、終わります。(上記引用で、Iがいくつわかりましたか?)
この「メアリー・ポピンズA-Z」は、メアリー・ポピンズワールドのファンならわかるお楽しみ満載のABCの本です。とはいえ、「ABCの本」は、日本語にするのは、至難の業かと思います。だから、この本をABCの本と捉えずに、メアリー・ポピンズシリーズのおさらいの本と捉えて楽しみます。それに、邦訳の巻末には英語もそのまま載っていているので、本来のリズミカルな英語の言葉遊びも楽しむことが出来ます。
*「風にのってきたメアリー・ポピンズ」(P.L.トラヴァース文 メアリー・シェパード挿絵 林容吉訳 岩波)
*「メアリー・ポピンズA-Z」(P.L.トラヴァース作 荒このみ訳 篠崎書林)
☆写真は、いちごが いっぱい いいでしょう。
大寒。この時期、朝、お蒲団から出るのが一番いやな時期。
早起きは得意だし、目ざまし時計に負けるのは嫌いだし、夜は苦手だし、朝早くても、すぐにトップギアに入るし・・・が、やっぱり、この時期は、お蒲団から出たくない・・・いやだぁ・・・と、ぐずぐず、ぬくぬく。
「風にのってきたメアリー・ポピンズ」の「わるい火曜日」の中に出てくる場面に、こんな個所があります。
≪・・・朝から機嫌の悪いマイケル。午後の散歩に公園に行く時も、まだ、「いい子なんて、いやだ。」と、言っていました。
メアリー・ポピンズは、マイケルに向き合い「けさは、ベッドのわるいほうのがわから起きたのですよ。」と、いいました。
「ちがうよ。ぼくのベッドには、わるいほうなんてないよ。」と、マイケル。
「どんなベッドにも、いいほうのがわと、わるいほうのがわがあります。」と、メアリー・ポピンズは、切り口上。≫
この箇所は、うちの子たちにも何回か使ったような気がします。特に、早起きなのに、朝は機嫌の悪いあの子に。
が、今は、お布団から抜ける勇気のでない自分自身に、「こっちがわから出たら、わるい日になるから、やっぱり、もう少し入っておこう」という言い訳に使っています。
*「風にのってきたメアリー・ポピンズ」(P.L.トラヴァース文 メアリー・シェパード挿絵 林容吉訳 岩波)
☆写真は、ロンドンのホテル。ちょっと大きいシングルベッド。(撮影:&Co.H)
(承前)
「ちょうちょう」 (コヴァリ文 中村千春訳 マーヴリナ絵 新読書社) タチアナ・マーヴリナが絵を描き、ユーリー・コヴァリの文の絵本が「ちょうちょう」ですが、この二人は一緒に、6冊の本を出していて、そのうちの十篇のお話が、この「ちょうちょう」の中に入っています。
この絵本は、自然を通して見たちょっとした随筆です。平易な言葉で書かれているものの、特に子ども向きに書かれた文という感じがしないのは訳のせいかもしれません。
先の「メルヘン・アルファベット」の絵本とはちょっと違うタッチで描かれた絵は、マチスやブラマンクにも似た描き方です。そして、「メルヘン・アルファベット」にも「おかしのくに」にも、この「ちょうちょう」にも、ひょうきんで、楽しげな様子の猫が登場します。(「おかしのくに」では、表紙にもなっています。)
コヴァリとマヴリナの仕事ぶりについて、あとがきにこうありました。
≪・・・画家であるタチヤーナ・マーヴリナさんは、色と線、という彼女の言葉でえがき物がたり、一方、作者のユーリ・コヴァリさんは、絵を思い浮かべながらも、自分の見たこと、体験したことを語っている。・・・(中略)・・・ひとつの本の中でいっしょに読んでいただければ、いっそう楽しいものになるでしょう。≫
☆写真は、さなぎから出たばかりのちょうちょう。西表島。(撮影・&Co.A)
(承前)
タチアナ・マーヴリナの絵は、大胆でユーモラスです。そして、色彩豊か。1976年に国際アンデルセン賞の評価も受けています。邦訳されている絵本に、「おかしのくに」 (マヴリナ文絵 みやかわやすえ訳 福音館)があります。
「おかしのくに」では、いろんビスケットの型からできた、人や動物が中心になって、昔話風にお話が展開されます。 ≪・・・ねこは、おかしをみんなペチカのなかにならべて、ひをつけました。さあ、こねこたち あつまっておいで、おいしいビスケットが できるよ。ペチカが、ひのようにまっかになりました。ビスケットが、やけました。ねこが、てをのばしてもあつくて、つかめません。そのうちにビスケットは、あっちっち!と、いって、みんなにげました!≫
・・・と、ビスケットたちが、森や原っぱや小川や山に。王様や汽船や汽車も出てきます。
3人の羊飼いたちは、同じ型からできているので、名前は、3人ともエゴールカ。可愛い3人の女の子たちも、名前はみんなカチェリンカ。
動きのないビスケットたちなのに、マヴ―リナのダイナミックな描き方で、どの人物(動物)も生き生きと。
解説に、博物館にあるビスケット型押し板から、この本のイメージをふくらませたと書いてありました。そういえば、京都の老舗のお菓子屋さんの壁 上方に、お菓子の木型が並べられていて、その使いこなされ、黒光りしたような昔のお品に見とれたことがありました。(続く)
☆写真は、干支の生菓子と干菓子。どちらも12年毎に登場の型で作ったのでしょう。谷崎潤一郎と縁のあるお菓子屋さん謹製。右に写る金銀の飴は、京都地方の老舗のもの。写真より実物の方が金銀に光ってます。中にきなこが入っている金。中に黒ゴマ粉が入っているのが銀。どちらも、ちゃんと、その風味がします。
「メルヘン・アルファベット ロシア昔話」という絵本は、いわゆるABCの絵本なのですが、画集のように美しい絵本です。
アルファベット一文字一文字に、お話が隠れていて、そのお話を知っている子どもには、一文字でお話を思い出せる仕組みになっています。ロシアの子どもでない私でさえ、いくつかのお話はわかります。一文字が一枚絵のような感じなのです。しかも、邦訳巻末には、親切にも、解説と共に、各昔話の「あらすじ」が載っています。タイトルだけでは思い出せなかった話も、あらすじのおかげで、ああ、あれね。と、楽しめます。
ちなみに、写真左に写る太陽は、ピカソやジャン・コクトーを思い出させますが、これは、「おてんとうさま」とキャプションが付いています。
「エリセイ王子」(死んだ王女と7人の勇士)の話の中で、エリセイ王子が、燃えるおてんとうさま、夜空のお月さま、吹き荒れる風に、王女の居場所を尋ね歩くという箇所の「おてんとうさま」です。
また、写真右に写るのは、「魔法の馬 お姫さまの窓までひとっ跳び」というキャプションです。魔法の馬に乗った王子が、塔のてっぺんにいる姫の手から指輪を抜き取る場面です。下で、見上げている、王様たちの逆さまになっている顔が可愛い。(続く)
*「メルヘン・アルファベット―ロシア昔話」 タチヤーナ・マーヴリナ絵 田中知子訳 ネット武蔵野)
*「ロシアの昔話」(ターチアナ・A・マヴリナ絵 内田 莉莎子訳 福音館)
*岩波おはなしの本「まほうの馬 ロシアのたのしいおはなし」(A.トルストイ, M.ブラートフ, E・ラチョフ, 高杉 一郎, 田中 泰子訳 岩波)
ロウバイと入力したら、狼狽とまず出てきます。昔は、老梅かと思っていました。蝋梅です。
先日のカニの旅は、前夜に兵庫県中北部で雪が少し降り積もった中、出掛けた日本海でした。その宿の庭で、写真に写る黄色い蝋梅(素心蝋梅)の蕾が、寒々とした中、少し膨らんでいるのを見たとき、ほっと暖かな気もちになって、シャッターをきりました。
私の住む兵庫県南部地方なら、いずれ近い内に、たくさんの蝋梅が咲き始めるでしょう。が、日本海に面したところだと、まだまだ寒い時期が続くかと思うと、フライング気味の、この蕾が、いとおしくなりました。
ところが、家に帰って、調べてみると、英語でもwinter sweet 、属名もギリシャ語の冬と花に由来し、中国では椿、梅、水仙とこの蝋梅を「雪中四花」と呼ぶらしい。
つまり、写真の黄色い小さな蝋梅の花は、フライングでもなんでもなく、厳寒期に、ちゃんと咲こうとしていたというわけです。世界中で、冬のさなか、人々をほっとさせてきたこの可愛い花の花言葉「先導、先見」は、新年にちょっと嬉しいものでした。
エチオピアの「山の上の火」の話も面白いけれど、寒い時は、ロシアやウクライナの寒い地方の話がぴったりです。
クマや、オオカミ、キツネ、ウサギなど、毛皮系の動物の登場や、ロシア式 暖炉兼オーブンのペーチカが口をきいたり、飛んだりするなど、温かさには、事欠きません。
ロシアの昔話「カマスのめいれい」にも、重要な役回りでペーチカが登場します。
りこうものではない末っ子のエメーリャ、一日中、ペーチカの上に寝っ転がっているような、めんどくさがり屋のエメーリャ・・・なのに、カマスを逃がしてやったことによって、何でも望みが叶う言葉、「カマスのめいれいにより、ぼくののぞみにより・・・・」を手に入れます。
≪・・・・「エメーリャ、エメーリャ。なんでペーチカの上などにねてるのだね?王さまのところにいこうじゃないか。」
「ぼくは、ここがあったかくて、いいよ。」
「エメーリャ、エメーリャ。王さまのところへゆけば、なんでもすきなものを、のみくいさせてもらえるぞ。おねがいだから、ゆこうじゃないか。」
「ぼく、めんどうくさいや。」≫
・・・・とはいいうものの、エメーリャは、カマスに教わった「カマスのめいれいにより、ぼくののぞみにより・・・・」を唱え、王さまのところへ一飛び、そして、マリア姫を連れ帰り・・・最後はお姫様と結婚し王国を治めることに。
ああ、温かいところで、ごろん。寒い時の、人々の夢?
が、しかし、床暖房じゃあるまいし、ストーブの上に寝そべることはできないし、火鉢も火傷します。いわゆる西欧の暖炉そのものも、上に寝そべったり、火のある時はもぐりこめない。ペーチカなら、低温火傷もしないのだろうか・・・
*岩波おはなしの本「山の上の火 エチオピアのたのしいおはなし」(クーランダー、レスロー文 土方久功絵 渡辺茂男訳 岩波)
*岩波おはなしの本「まほうの馬 ロシアのたのしいおはなし」(A.トルストイ, M.ブラートフ, E・ラチョフ, 高杉 一郎, 田中 泰子訳 岩波)
「かぶ」のおいしい季節です。炊いたり、スープにしたり、サラダにしたり・・・やさしい味です。
「大きなかぶ」の話は、福音館から出版されている「おおきなかぶ」(A.トルストイ文 内田 莉莎子訳 佐藤忠良画 福音館)が、日本の子どもたちに、なじみ深い1冊だと思います。
以前、うちの娘が英国で知り合ったロシアの女の子と、バーバ・ヤガーやてぶくろの話を共通の話題にして楽しんだことを書きました。その後、娘がその子の家に行くと、ロシア昔話絵本があって、「おおきなかぶ」「マーシャとくま」等がでていて、写真を送ってくれました。
なかなか豪華本のようです。日本訳には出て来ない、オオカミも登場するの?と思ったら、強面の犬のようでした。それに、蕪が黄色い。
(撮影:&Co.H)
兵庫県の日本海側に、カニを食べに家族で行きました。子どもが小さい頃、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に、何回か、一緒に行ったことがあり、おなじみの地域ですが、今回は、8年ぶりでした。
ここは、城崎温泉のように、特急停車駅ではなく、旅館というより民宿といった感じの宿が多いので、リーズナブルだと思います。が、漁港なので、実は、カニは、ここのが本場とも言えます。
何年に一度しかカニを食べられない我が家では、大騒ぎのカニの旅です。
もちろん、夕食はカニすき、カニしゃぶと、焼き蟹と刺身のカニ、蟹みそは甘く、朝食はカニの味噌汁に蟹ご飯、加えて、「帰りの電車でお食べ」と持たせてくれた蟹ご飯のおにぎり・・・と蟹三昧。
今回、初めて番ガニというのを食べました。そのカニを取ってきた漁船の名前が、写真にちょっと写るピンクのタグそれぞれに書かれておりました。
最後には、満腹で、喉までカニが詰まって、「ごちそうさま」を言うのも大変。う、うっぷ!
昨年も「てぶくろ」 (ウクライナ民話)のことを書きましたが、今年も同様に、学生たちに読みました。
読み終わった時、一人の女子学生が、ぼそっと、言いました。「これ、弟に読んでやったことあるで・・・」
この子は、幼稚園に入っても、ほとんどしゃべらず過ごしていたので、親が心配し、周りが心配し、各所相談にいったとか・・・が、彼女いわく、言っていることは理解していたし、喋らなくても、事足りていたから、喋らなかっただけだとか・・・。で、小学生になり、字が読めるようになり、弟に絵本を読んであげるお姉ちゃんに。
そして、18歳の今は、友人たちと楽しくおしゃべりしています。
もし、この文を読んでくださっている方の中に、しゃべるのが遅い小さなお子さんをお持ちの方が居たら、こんなにゆっくりの成長もあるんだよ、と一言伝えたくて、今日は書きました。
弟に絵本を読んであげたその女子学生は、いつも、食い入るように、私が紹介する絵本を見て楽しんでくれているようです。
*「てぶくろ」(ウクライナ民話 うちだりさこ訳 エウゲーニ・M・ラチョフ絵 福音館)
☆写真は、ウクライナのような寒い地方の「きばもちいのしし」ではなく、南国、西表島のきばのないイノシシ。(撮影:&CO.A)
(承前)
ノーベル文学賞といっても、なんだか、大陸毎だとか、人種のことだとか、翻訳の問題とか、データで判断する功績と違って、判断基準がよくわかりません。
そんなノーベル文学賞候補作家 村上春樹の2013年の新作「色彩を持たない多崎つくるの巡礼の年」(文藝春秋)を図書館で予約したのが、昨年4月。12月に順番が回ってきました。
かなり個性的なタイトルのわりに、読んでみるとすぐ、わかりやすいタイトルだと判明。
はじめ、人物たちの設定や前半の進め方は、他にも、こんな書き方の話題作なら、読んだなぁ・・・と思いながら読んでいました。流行作家とノーベル文学賞候補作家の違いはどこ? 音楽を盛り込みながら進めて行く書き方が、作品に深みを加えるとされるんだろうか?
・・・などなどと、斜に構えながら、読んでいたら、後半、推理小説にも似て、一気に読了。
実際には、推理小説ではないし、結末が、私の求めているものではなかったとはいえ、今まで読んだ村上春樹の何冊かより、読みやすかった。小難しくない。
加えていうなら、小説の背景が、『男女共学の高校時代』。これが一番親しみやすかった因子かもしれません。
実は、私の卒業した高校と学区こそ違え、村上春樹も、神戸の高校出身なので、この背景が手に取るようにわかるのです。その後のそれぞれの人生の描き方も、フィクションとノンフィクションがないまぜになり、一種ノスタルジックな気もちになりました。
と、同時に、あの頃の心情が作家の手により表現されていくのは、興味深いものでした。
「青春の光と影」が、テーマの小説ながら、そんなありきたりなタイトルをつけなかったところが、ノーベル文学賞候補作家なのかも?
☆写真は、2014年1月1日初日の出。近くの海。
新年の新聞(日経2014年1月4日)に「三島由紀夫がノーベル文学賞候補だった」と出ていました。
同時に、川端康成や谷崎潤一郎、西脇順三郎も推薦されていたと書かれていました。
三島由紀夫はその「技巧的な才能」を注目されたとありました。結局、最終3人には残らず、その前段階の6人に残ったようです。翻訳の問題が大きいでしょうから、1963年当時、「技巧的な才能」が翻訳で伝わるかどうかは、困難なことだったのでは?
とはいえ、そのとき、「時期尚早」とされた川端康成が1986年にノーベル文学賞をとったことを考えると、翻訳の力も20年以上かかって、賞に近づいて行ったのだと思います。そのあと、大江健三郎、そして、今は、村上春樹が近いらしい。
が、しかし、1963年に4人が候補としてあがっているなら、今も村上春樹以外にも誰か候補者がいるってことですね?誰だろう?川端康成みたいに時期尚早な人?
選考資料は50年間非公開のようです。
(続く)
お正月、ウィーン楽友会館での、バレンボイム指揮によるヨハン・シュトラウスなどの楽曲がLIVEで、演奏されていました。バレンボイムも随分と歳を重ねたことですねぇと、見ていました。指揮者の力量という専門的なことは、ちっともわかりませんが、バレンボイムによる華やかな楽曲を聴きながら、ジャクリーヌ・デュプレのチェロ協奏曲を思い出しているのも不思議な感じでした。
映像では、曲に合わせて、バレエも見ることができました。きらびやかなシャンデリアのもと、踊る人たち、当時の栄華もイメージできそうです。場所は、ウィーンのリヒテンシュタイン宮殿とあります。
数年前、ウィーンに行ったときには、訪れていませんでした。それもそのはず、2013年春に、修理改修されたリヒテンシュタイン侯爵家のウィーンでの別荘らしい。かつて、エリザベートのシェーンブルン宮殿の豪華さにおどろいたものの、テレビに映るリヒテンシュタイン宮殿も、コンパクトながら、絢爛豪華。金色に輝くのは、両者よく似ています。また、バレエと関係なく映し出される、図書室も凄いなぁ・・・
そういえば、2013年にリヒテンシュタインの至宝展が日本で開催され、ルーベンスなどの所蔵品の多さを誇っていましたね。(残念ながら、行っていません)
ウィーンと言えば、金に彩られたイメージのクリムトやエリザベートが、浮かびます。が、結局は、きらびやかではないエゴン・シーレ、ウィーンとはほとんどつながっていないジャクリーヌ・デュプレをイメージするというへそ曲がりな、お正月のテレビ鑑賞でした。
☆写真は、ウィーン市内 ヨハン・シュトラウス像
午年生まれの我々夫婦は、今年、還暦。
50歳を超えた頃から、高校時代の先生たちを思い浮かべ、あの頃の先生と同じような歳だとか、あの先生より、もはや年上だとか、いいながら、我が年齢を思い出すようにしてきました。でないと、つい、自分が、あの学年主任より年上で、あのように人の目には映っているのだということを、忘れがちになるからです。そして、もはや、先生たちより年長になる。
12歳の頃のことは、いろんなシーンを思い出せるし、
24歳の頃のことも、すでに結婚し、勤めていたので、思い出すことが多いです。
また、48歳の頃のことは、大学院に行ったので、思い出すことも様々。
が、しかし、36歳の頃のことで、思い出せるのは自分のことではなく、3人の子どもたちとバタバタしていたということと、夫が、とても忙しそうだったこと。
さて、12年後は72歳なのですが、父が、その歳に亡くなったことを考えると、これ以降の一年一年を大切に過ごしたいと思います。
穏やかなお正月でした。
いつもより長いお正月休みでした。
食べ盛りの子もいないのに、用意したおせち料理(我が家流)が、さっさと片付くのは、作った人間にとっては、嬉しいことです。
ということは、今より昔、母の時代の三が日は、人の出入りもあり、お店も開いていなかったのに、一体、どれくらい用意していたんだろうと思います。お餅で、満腹になっていた?
それに、家じゅう、ぴかぴかに磨き上げていたし・・・今や、こんな小さなマンションでも、まあ、いいやの場所を残したお正月だったのに・・・今更ながら、母が頑張っていたことを再確認。
お正月で、覚えているのは、いつもより上等のお菓子が用意されていたこと。
かまぼこだけを食べ過ぎ、新年早々、お腹が痛くなって、お医者さんに行ったこと。
大人の男の人が、昼間っから、赤い顔で大きな声になって、嫌だったこと。
日頃は、ほとんど見かけなかった 母の着物姿と父の着物姿、といっても普段の着物。それが、二人が仲良しの証しのような気がして、ちょっと嬉しかったこと。
いつもより、おいしいものの食べ過ぎというのは、今も昔も変わらぬことのようで、今朝は、七草粥。
☆写真の海老餅は、香ばしく、焼いただけで、お海苔を巻いて食べました。もちろん、丸餅もヨモギもおいしい。
今年もよろしくお願いします。☆写真は、2013年8月撮影:&Co.A