この時期、京都はどこもここも人が溢れています。確かに、どこで、紅葉を見ても一緒とはいえ、京都は、紅葉のそばに、歴史ある建造物があり、紅葉と歴史を一時に味わえるので、人気があるのでしょう。それでも、多い・・・
昔から京都に住む人は(かつての碁盤の目の中に住む人)、宇治や山科、ましてや石清水八幡を、京都とみなしませんが、その京都とみなされないところは、今や紅葉の穴場となっていると思います。今年の紅葉狩りは、石清水八幡宮周辺でした。(今も、充分、綺麗でしたが、来週あたり、最高かと思います。)
仁和寺の法師が、水路で行けばいいものを、思い立って歩いて行ったら、ずいぶん遠い、石清水八幡宮。山頂の本殿まで上がらずに帰った話は、古文で習ったとおり。≪徒然草 第五十二段「仁和寺にある法師」≫
今でも、「石清水八幡に行く」、あるいは「行った」、と言ったら、口々に「上まで上がってきた?」と言われました。こんなちょっとした会話ができるのも京都およびその周辺の歴史に裏付けられたお楽しみで、いとをかし。
☆写真は、石清水八幡宮

(承前)
森鷗外研究本は読んだのに、読み返したのは、「山椒大夫」など短編。
「山椒大夫」は、昔、昔、講談社絵本で読んでもらった「安寿と厨子王」の元の話。
絵はおぼろげながらなんとなく覚えているだけですが、はっきり覚えている文章が・・・
ほら、そのままあった!このフレーズ。
目が見えなくなった母親が、歌のような調子でつぶやく「安寿恋しや ほうやれほ。 厨子王恋しや ほうやれほ。」
ま、講談社絵本で覚えているのは、この「安寿と厨子王」と「鉢かつぎ姫」。
「浦島太郎」「牛若丸」「花咲か爺さん」もあったかなぁ・・・
そして、一番記憶の奥に残るのは、「安寿 こいしや ほうやれほ」と読んでくれた今は亡き母の声。
*検索すると、講談社の絵本は「新 講談社の絵本」として再版され、「安寿と厨子王」は「安寿姫と厨子王丸」「花咲か爺さん」は「花咲か爺」でした。表紙絵を画像で見ましたが、こんなにけばけばしい色だったの???
**「山椒大夫・高瀬舟 他四篇」(森鷗外作 岩波文庫)
☆写真は、京都府 石清水八幡 男山
(承前)
「それからのエリス――いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影」 (六草いちか 講談社)
二冊の著書で、鷗外研究に転機をもたらしたと言われる六草いちか氏ですが、
≪この作品に秘められた真実を知らなかったあのころは、『舞姫』は女性である私にとってたんなる「むかつく小説」であり・・・≫としています。(ほんと、そう思います。)
それが、「舞姫」のモデルを特定し、舞姫のその後を追跡し、その晩年を知ることにより、あるいは、また、「舞姫」がドイツ語で連載された貿易・産業月刊誌に出会うことにより、「舞姫」に秘められた森鷗外、否、森林太郎のエリーゼ・ヴィーゲルトへの想い、そして二人の純愛を確かめています。
新聞にも出た写真のエリーゼは、「舞姫」という美しい日本語のイメージとはちょっと異なる、立派な体型の中年女性です。が、しかし、写真の裏を利用して書かれたメッセージの明るい口調に比べ、なんと、寂しげな表情でしょう。「それからのエリス」には、その表情のアップ写真も掲載されていますが、その瞳の、なんと暗いこと。
忍びよる第一次世界大戦のせいだけではないでしょう。(写真撮影推定1908~1918)彼女の命がけの恋(なにせ、そんな時代に、一人で日本に来たんですから!)の末路を見るようで哀しい。間違いなく、彼女は気丈で理知的な女性だったに違いないのですから。
そして、六草氏がいうように、鷗外はベルリン地元新聞「ベルリナー・ターゲブラット」を定期購読し続け、その新聞にのみエリーゼが「書状にかえて」と夫の死亡広告を掲載していた事実に、時代に阻まれた遠距離純愛を見ました。
☆写真は、東京日比谷公園
(承前)
「それからのエリス――いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影」(六草いちか 講談社)
さて、「鷗外の恋――舞姫の真実」の後も、舞姫エリスのモデルのエリーゼが、どう生きたのかを検証していった著者の第二弾。
前作同様、またもや、著者は、綿密な調査を続けます。教会、墓地、当時の新聞など。そこには、結婚出産、葬儀、宗教の背景、繋がりを見るだけでなく、ドイツという国の犯した大きな波も含みます。古地図だけでなく、実際に住んでいた建物の設計図の復元など、専門の学者ではない著者だからこそできた広い視野。
特に、第二次世界大戦前後の、ベルリンの様子など、一本の論文が書けそうな勢いです。
ただ、論文と違うのは、著者が、いつもエリーゼに寄り添っていることです。
そして、話題になったエリーゼの写真と遭遇。
地道で丁寧な研究についたご褒美ともいえます。
また、論証の厚みを加えるように、ドイツ語訳された「舞姫」(当時、日本人がドイツ語に訳した)からも迫っているところなどは、執念みたいなものを感じます。多分、学会や本来の研究者からの風当たりや反論を避ける手立て、実証は、いくらでも必要でしょうから。・・・・奥が深い。
それにしても、まだ、100%謎が解明されたわけではなく、六草氏は「終章」としているけれど、この著者、この研究から足を洗えるのかなぁ・・・(続く)
☆写真は、英国 ケンブリッジ トリニティレーン
(承前)
「鷗外の恋 舞姫エリスの真実」(六草いちか 講談社)で、女性の視点を感じるのは、エリスの名誉を守ろうとしているだけでなく、「恋」というデータや文献で計り知れないものに迫っていく点でした。
鷗外は、別の名前をつけようとした妻の反対を押し切って、二女の名前「杏奴」を勝手に役所に届け出ます。それは、鷗外の恋心の延長だと著者はみなします。長女は作家の森茉莉(まり)二女は小堀杏奴(あんぬ)です。そして、著者が苦労の末、特定したエリーゼは、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィートゲルトといい、母親も、マリー。妹は、アンナ、祖母は、アンネなのです。(ただし、後著「それからのエリス」では、少し違う見解も披露しています。)
そして、鷗外は本名森林太郎といいますが、鷗外の「鷗」は、空を飛び交う「かもめ」です。ドイツでも日本でも見かける「かもめ」です。カモメに託す鷗外の深い部分。
また、鷗外の遺品にモノグラム(イニシャル二文字を絡めたデザイン)型金(RとM 鷗外の本名:森林太郎)があって、これはかつてのドイツの婚礼の際、花嫁が新郎の身の回りや家庭の布製品にイニシャルを施すときに使う伝統があったと言い、後著でも、さらに論証を続けています。
そして、著者は、鷗外の妹 喜美子の回想にこんな記述を見つけます。
≪(エリスは、)大変手芸が上手で、洋行帰りの手荷物の中に空色の繻子とリボンを巧みにつかって、金糸でエムとアアルのモノグラムを刺繍した半ケチ入れがありました。≫(1936年『文学』)
鷗外の想いと、エリスの想い。
「恋」という形にならない心を名前や刺繍に見出す視点。(続く)
☆写真は、北欧のイニシャル刺繍の入ったリネンシーツ中古品。北欧の嫁入り道具のひとつかもしれない。左のスタンプは、ロンドン アンティークフェアーで購入。右の封蠟スタンプは、イタリア土産。
(承前)
森鷗外の子どもたちの名前の付け方はなかなか独創的です。というか、ドイツ風。いまどきの「きらきらネーム」どころではありません。筋金入りです。
「晩年の父」の作者の杏奴(あんぬ)、お姉さんの作家の茉莉(まり)、弟は類(るい)、兄は於菟(おと)夭折の弟は不律(ふりつ)。また森鷗外の孫には、真章(まくす)富(とむ)礼於(れお)樊須(はんす)常治(じょうじ)𣝣(じゃく)と続きます。
小堀杏奴は言います。≪こんな妙な名前をつけられて実に長い間困ったが、この頃になって父がそれほどまでに熱心につけたがっていた名前であるし、字としても好い字だなと思って今では大好きになっている。≫
また、ここでいう、「それほどまでに熱心に」というのが、後に母親から聞いた話として書かれています。
≪私を生む時母は夜明けからずっと苦しんでいて、いよいよ生み落としてほっとした時は夜もすっかりあけはなれ、雨戸を開けさせて庭を眺めていると恰度百合の花が一つ開いた。それで、母は百合という名前を私につけさせたかったのだが、父が長い間杏奴(あんぬ)という名前にするつもりで楽しみにしていて、私が生まれると母の反対を恐れ、一人でこっそり区役所へ行って届出をしてしまったというから、よほど好きな名前であったに違いない。≫
さて、なにゆえ、鷗外は「それほどまでに熱心に」二女に杏奴(あんぬ)と名付け、初めての女の子に茉莉(まり)とつけたのか・・・
「鷗外の恋―舞姫エリスの真実」 (六草いちか 講談社)に、その疑問への、身内の発想ではないアプローチがありました。この著者は、最近、実在していたエリスの写真を見つけ出し、発表なさった方です。(続く)
*「晩年の父」(小堀杏奴 岩波文庫)
☆写真は、スイス レマン湖のユリカモメ。鷗外の「鷗」はカモメ。
いつもなら、とっくの昔に片づけていた扇風機。先日、やっとこさっとこ、片づけました。いつまでも暑かったといいつつも、秋らしくなって1か月以上経っている!
早め早めにし過ぎて、まだ寒いのに、ちゃっちゃと、コート類をクリーニングに出すのは、例年のこと。まだ暑いのに、さっさと、クーラー本体のコンセントを抜くのも例年のこと。それに、扇風機も網戸も、とっとと、掃除していました。(今は、マンション暮らしなので、網戸を外して片づけておくことができなくなりました。)
とはいえ、元々、整理整頓が苦手な上に、寄る年波なのか、片づけるのが、より億劫。広々とした収納場所でもあれば、楽だろうと勝手なことを言いつつも、あれをこうして、こう詰めて、これをその場所に入れる・・・など考えると、面倒が勝ってきた。・・・そのうち、一年中、扇風機を出しておくという生活になるんだろうか。
子どもの頃を思い出すと、母が、茶の間とそれにつながる部屋の襖を、夏用の風通しの良い竹(?)と、冬用の障子紙のものに、ちゃっちゃと、替えていました。
夏の夕方には、玄関前に、ぱっぱと、打ち水をしていた母。
台風の前には、雨戸に筋交をし、大きな釘で打ちつけていた父。
冬は冬で、火鉢の縁に腰かけては、叱られていた私。等など、
季節とともに、いろんな情景がありましたが、今や、打ち水も雨戸も、ましてや、襖替えなど、縁遠い暮らしになりました。
以前、夏場にイギリス人のおうちに伺った時、玄関ホールに、コートも、ブーツや長靴も置いてあって、夏場でも肌寒い日の多い、かの国の事情を理解したのですが、一応、四季折々メリハリのきいた日本の、この住宅事情じゃ、片づけなくちゃね。はい。(撮影:&Co.A)
気温はもはや冬。なので、遠目からみたら、ヤブツバキ?と思って近づくと、葉っぱが違う!アオイ系の葉っぱに似てる。花はハイビスカスにも似てる・・・便利な機器で調べてもらうと、「アブチロン」と言う花。

でも、こんなところに咲いているんだから、きっと茶花にもできる、由緒ただしい日本名もあるでしょう?と、帰宅して調べても、結局、いろんな園芸種のアブチロンが出てくるだけで、しかもブラジル産、熱帯・亜熱帯出身とな。結構、寒おすけど・・・
ま、思い込みというもんですね。京都 祇園の軒下に可憐に咲いていたものですから。
(承前)
「聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇」 (ヨーゼフ・ロート作 池内紀訳 岩波文庫)に入っている、とっかかりが読みにくく、後回しにしていた巻頭の「蜘蛛の巣」は、作者ヨーゼフ・ロートのデビュー作で新聞連載されたものでもあるようです。
そんなことを全く知らずに、「この短編集も『蜘蛛の巣』を読んだら、終わるな・・・だから、読もう」みたいな気持ちで、もう一度読み始めました。やはり、初めは読みにくいなぁ・・・がしかし、いつの頃からか、話に流れが出てきて、後半は一気に読み終えました。
で、解説には、≪紀行やエッセイは手なれていたが小説は初めての作者が手さぐりで書きだしたようであり、連載がすすむにつれて、作者は急速に自分の文体を見つけて行った。≫と、ありました。なるほど!
これは、重い重い、おもーい話です。時代の空気を敏感に読み、しかも時代を予告するかのように書かれた作者29歳の作品です。ユダヤ系の人が書いた、反ユダヤ系の人の話なのです。そして、ユダヤ系の人だから書けたともいえる話です。
・・・・と、するうち、ユダヤ系の人だからこそ、描けた絵に会いました。(後日に続く。外国から無事届くはずのものを待ってます。)
☆写真は、パリ ルーブル 入口入ってすぐ。
(承前)
「聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇」 (ヨーゼフ・ロート作 池内紀訳 岩波文庫)
この文庫本には、5つのお話が入っています。
読みやすそうな表題の「聖なる酔っぱらいの伝説」から読みました。このお話運びが秀逸なのです。・・・と、今頃知ったのですが、とっくに映画化されるくらい有名な話だったよう。
岩波文庫表紙絵の聖女テレーズに借りを返そうと努めるも、日々、煩悩に負けてしまう弱い人間の性(さが)が描かれています。立場や時代が違っても、人間の弱さは普遍的なものですから、感情移入しやすい。
それに、話運びがうまい。リズミカルなのです。ほとんど、酩酊気分になったことがない私すら、ついふらふらと読み進みます。
この「聖なる酔っぱらいの伝説」は、作者45歳の死後3カ月で刊行されたものだとあります。軽いタッチで重いテーマをさりげなく描いた遺作です。
解説には、デビュー作の「蜘蛛の巣」から、中期の作品、最後の作品「聖なる酔っぱらいの伝説」までを入れることによって、作家としての全貌がわかるようにしている、とありました。個人的には、結末に満足いかない話があるものの、どの話も、話運びがうまい。
とはいえ、巻頭のデビュー作「蜘蛛の巣」は最後まで読みにくかった。(続く)
☆写真は、吉野杉のコースターに朴葉(ほおば)を敷いた上に、ウィスキーと柿のジェルと大和茶のカクテル、緑は大葉。お酒というより、甘い飲み物って感じです。
「聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇」(ヨーゼフ・ロート作 池内紀訳 岩波文庫)
表紙の愛らしい聖女の絵に惹かれて購入していたものの、相変わらず、積んでおいた岩波文庫でした。が、読み出すと面白い。
ユダヤ系作家の作品って、どうしてこんなに、お話運びが、うまいんでしょう?
アイザック・バシェヴィス・シンガー然り、「牛乳屋テヴィエ」のショレム・アレイヘム然り。絵本の世界のセンダックだってツェマックだって、そして、ファージョンだって。
大昔から、身一つで移動するとき、荷物にならないものを、たくさん身につけるという技が、ユダヤの民のDNAの中にあるのでしょう。学問でも、芸術でも。そして、最たるものが、お話。誰でも、手ぶらで、移動できます。
荷物になる本を持って移動しない以上、お話を聴き、お話を伝え、お話を身体にたくさん持って、大人になるということでしょう。もちろん、どうしても伝えなければならないことも、歴史の中で増えていったわけですから、お話を身に着ける能力の進化ということは考えられます。さらにいうならば、学問も芸術でも、優れた業績・作品を残した人は、その根っこにお話を持っている。
アメリカを中心とした国々で著名となるユダヤ系だけでなく、ミドルクラスのユダヤ系の普通のおうちでも、複数の楽器がありリビングには譜面台があり、その親戚には、ちょっとした画家や演奏家が居たりするのを知っています。そして、その家の子どもたちは、一人はケンブリッジに行き、一人はアーティストになりました。
・・・と、書いている間に、肝心の「聖なる酔っ払いの伝説」の感想を書いていないことに気づきました。(続く)
☆写真は、1922年ユダヤ人アインシュタイン博士が奈良ホテルに宿泊した際に弾いたピアノとその写真。ピアノは1992年に発見。写真原版は2008年に原版発見ということで、新聞などで報道されていましたね。学者だった彼も、ピアノが弾けたのね。
この映画(原題:Everyday)は、ドキュメンタリー映画ではないのです。が、4人の子どもたちは、実際の姉兄弟妹で、5年にわたって、撮影したそう・・・だからでしょうか、フィクションなのに、子どもたちの成長、大人たちの年月が、手に取るようにわかります。
刑務所に入った父親の居ない家庭を孤軍奮闘、支える母親と、4人の子どもたちのなにげない日常。大きな事件などありません。ドラマチックな展開も、お涙ちょうだいも、問題提起もありません。ちょっとした子どもの喧嘩や出来心、それに、大人にも弱いところがある、そんな年月が、淡々と進んでいきます。実際に5年。
画面いっぱいに広がる、イギリス東部ノーフォークの海辺、広がる麦畑、続くラッパズイセン、霧のかかる森・・・特別の場所じゃない風景なのに、どれも詩情豊かで、素敵にぴったり合っていた音楽とともに、美しい。
そこには、煩雑な日常との対比があります。いえ、毎日を包み込む大きさが在ります。
ところで、子どもたちの自然な動きや会話、映画として、どうやって撮ったんだろう?特に二人の男の子たちの成長を、おばちゃんは、楽しみました。そして、この映画の感想を一言でいうなら、「そうよねぇ」って、感じかな???
☆写真は、スイス レマン湖の朝。
観光地 奈良なのですが、正倉院展をやっていた国立博物館の立派な外壁は少々、傷みが見えたし、何より、東大寺南大門の運慶たちの作だと言われる仁王像二体がほこりまみれで、外の金網もほこりまみれなので、写真にもうまく写らない・・・それに、南大門も中門も、かなり塗装がはげてるから、さらに傷みが進むんじゃないかなぁ。確かに、今様に極彩色に塗っていくのもどうかと思うけれど、木造だけに、スーパー異常気象が、奈良を直撃する可能性だってあるわけで、ちゃんと、管理しておかないと、えらいことになってからでは、大変。
その点、京都は、国宝がほこりまみれっていうのを見たことないなぁ・・・
富士山が今年、世界遺産に登録される時、大騒ぎになったけれど、東大寺も含め、奈良の文化財は、世界遺産なわけで、もうちょっと保全に努める必要があるのではないかと思います。また、奈良だけの力ではなく国も文化財保護に、もっと力を入れなければならないのでは?新しいものの力を信じ、そこに未来を見るのも大事ですが、古いものは、まったく同じものを二度と作れない・・・
☆写真上は、奈良興福寺 五重塔。下は、傷みが激しいのが見えますか?東大寺南大門。

(承前)
東大寺戒壇堂の四天王。
「おお、みなさんりりしい。厳しいお顔。」
彼らの人間的で、力強い様子に、つい芸術品として見てしまう。つまり、参拝というより鑑賞。この天平時代のりりしい4人に、惚れぼれ。
とはいえ、見に行ったのか、こちらが睨まれているのか・・・だんだんわからなくなってくる。
下敷きになっている邪鬼も、なかなかの出来で、ユーモラスではありますが、ついつい、四天王たちの表情に釘付けになってしまいます。
広目天は、目をかっと見開くのではなく、眉間に皺を寄せ、目を細め、遠くを見据えてるのが、こわーい。(写真左上、中央下)が、なかなかのイケメン。筆を持ってるから、悪事を書き留めるのでしょうか。
多聞天は、口をへの字にし小鼻をふくらませ、静かに静かににらんでいるのが、こわーい。(写真右下、中央上)
持国天は、目を見開き、にらみをきかせ、剣をもって、兜をかぶり、下敷きになっている邪鬼も一番苦しそうで、こわーい。(写真右上)
増長天は目を見開き、怒りをあらわに、なんか声を発してる。邪鬼のお腹、踏んでるし・・・こわーい。(写真左下)
この時代に、内面の怒りをこんなに表現できるなんて、それも、すごーい。
他にも例えば、戒壇堂にほど近い興福寺東金堂にも四天王さんは、おってですが、やっぱりこの戒壇堂の四天王さんには勝たれへんわ。勝ち負け違うけど。
それに、ほら、ここまできたら、あの人。あの人のこと忘れてやしません。
もしかしたら、あの人に会いたいために 奈良に行く。(続く)
高校の遠足で、奈良 東大寺 正倉院に行きました。
「おお、これが校倉造りというものか」
日本の風土を考えると、この倉なのか・・・先人の知恵とはいかなるものか・・・などと、小難しいことを考えることもなく、「わぁ、教科書と一緒!」と、ミーハーのノリで外から見学したと思います。
で、今回、当時を懐かしみ、東大寺の奥に位置する正倉院に行ってみたら、「うぇーん、工事中!」
外からも全然見えない・・・
じゃあ、中学の遠足ってどこに行ったんだろう?うーん、思いだせない。富士河口湖から東京に修学旅行に行った事しか覚えてないなぁ・・・
が、小学校の遠足で奈良に行ったのは覚えています。5年生でした。ただ、みんなと列をなして歩いていただけなのに、私は、鹿に襲われそうになった・・・。うぇーん。その時の服の色はピンク。鹿の嫌いな色だったのか、はたまた、その当時の顔つきが気に入らんかったのか・・・最近は、奈良に行っても大丈夫なので、鹿に受け入れてもらったと思っています。
それで、その遠足の思い出は、若草山でお弁当を食べたとか、東大寺大仏殿の大きさにびっくりしたことより「鹿」の一件が大きく、今回、東大寺の大仏殿の大仏さんに懐かしさを覚えず、お目もじもせず、大仏殿隣の戒壇堂に行きました。厳しいお顔の四天王さんに会いに。(つづく)
☆写真上は、奈良 東大寺大仏殿。下は東大寺の銘の入った石のそばで、鎖好きな鹿さん。 
(承前)
正倉院展では、小さい小刀、刀子(とうす)にも心惹かれました。斑犀把紅牙撥鏤鞘刀子(はんさいのつかこうげばちるのさやのとうす)斑犀把金銀鞘刀子(はんさいのつかきんぎんのさやのとうす)
毎年、違う刀子が出品されているからでしょうか。広報では大きく取り上げられていませんが、実用品とはいうものの、細かい細工は美しく、ついには、飾りに帯刀(?)していたという工芸品の域のものです。刀自体にも細工、刀袋の意匠、さらにその組紐・・・小さいだけに、より可愛らしい。
それに、白牙把水角鞘小三合刀子(はくげのつかすいかくのさやのしょうさんごうとうす)という3本組の刀子を見ていると、うーん、実用的、と、天平の人達に親近感を覚えるのです。で、この刀子は前回出陳1956年とあります。ということは、このペースで行くと、私は、もう二度と見られない・・・とはいえ、また次なる人達を魅了していく。
さて、今回の出陳品で、北倉から出陳された鹿草木夾纈屛風(しかくさききょうけちのびょうぶ)。その意匠の門帳は、現在の興福寺 東金堂等で見られます。(写真上) 
(承前)
正倉院展の漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)も華麗なものですが、平螺鈿背円鏡 (へいらでんはいのえんきょう)という鏡も、美しい細工のものでした。貝の螺鈿(らでん)や琥珀(こはく)、トルコ石やラピスラズリの砕片が敷き詰められているらしい。明治に修復されたものや、破損されたものも合わせると3点の出品でした。
解説には、この鏡、聖武天皇のご遺愛のものとなっています。光明皇后のものじゃないの?それとも、ご一緒に使った?2キロ以上の重さもあるから、携帯品じゃないし、複数あるということは、お住まいの各所に置いていて、使った?・・・・など、現代の庶民感覚とはずいぶん違う生活だったことだけは想像できます。
今や、細工の美しいものや華美なものは女の人のもののような感覚がありますが、男の人が美しいものを身につけたり、周りに置いたりしたのは、平和な証拠であるとも言えます。
奈良、平安時代のあと、武士文化の鎌倉時代になると、質実剛健。男の人には、螺鈿の鏡なんか、必要ないのですから。
現代の日本の若い男性が、美容に気遣い、襟にピンバッチをつけ、スカーフのようなマフラーを首に巻きするのも、平和だからなのだと、わかります。(続く)
☆写真は、奈良興福寺近くの荒池。自然の鏡に映る秋の風情。逆さに見ても秋の風情。
奈良、正倉院展。毎年秋に公開されるものの、出品のお品が毎年違い、会期も2週間と短い。もちろん、全国巡回もない・・・となれば、混雑承知で行くしかないと思いつつも、やっぱり混んでるのはいや・・・と、行ってませんでした。
が、今年は、チケットももらったし、駅でよく見かける美しいポスターにも魅了されたし、ええぃとばかりに、夕方遅くに入館しました。入場待ち時間は短かったものの、会場内は、やはり混雑。
お目当ての美しい漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)に至っては、間近で見ることが出来る人の列と遠巻きに見る人の列が違い、間近で見られる列は、30分待ち。ともかくも私は、これを近くで見たい。背も低いので遠巻きは見えない。ということで、延々と並び、やっとガラス越し間近に。
そりゃあ、並んだ甲斐あって、その細かく描かれた美しいものを堪能しました。
蓮のイメージから出来ている「お香」の台座ですが、思いのほか大きく堂々としています。仏具とはいえ、豪華絢爛。隣には、その台座と対だったという香をたく黒漆塗平盆(ひらぼん)もあるのですが、香の世界をよく知らないものですから、説明を読んでも、なかなか、その使われ方がよくわかりません。とはいえ、その漆黒の盆や台座が1200年以上も、美しくあることに感動してしまいます。
もちろん、他にも美しい天平文化がありました。(続く)
☆写真のポスターに写るのが漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)
一年前、プールの後、サウナに入ることにしたと、書きました。もともと、ほとんど汗をかかない人だったので、新陳代謝を高めようと思ったからでした。
初めは、10分入っても、乾く感じの方が大きく、15分過ぎると、やっと汗ばむという具合でした。
ところが、いつの頃からか、5分くらいで、じっとりし始め、今やなんと、10分以内に、あの憧れの汗がたら~。
で、一時は20分も入っていたサウナも、今は12分(12分時計なのです)にしました。やっと、顔や首、胸元から汗を流せるようになったのです。いずれ、もっと、素早く反応し、全身から汗が出たら、等と思っています。汗かきの人には、縁遠い話でした。
☆写真は、スイス ベルンの水飲み場。
(承前)
シュタイデル社のゲルハルトは、本の匂いにまでこだわっています。
今や技術の進歩で、新刊の匂いが消されているとゲルハルトはいい、どの本がいい匂いか、などをレクチャーします。ただ、その匂いの出し方は企業秘密だと微笑むのです。
確かに、ずいぶん昔、私が子どもの頃は、新しい本を手にすると「さらの本の匂い」がして、嬉しかったのを覚えています。
センダックはヴァージニア・ハヴィランドとの対話の中で、初めて本物の本(お姉さんが買ってくれた『王子と乞食』)を手にしたときのことを、こう言います。
≪まず最初にやったのは、それをテーブルの上に立てて、まじまじと見つめることでした。マーク・トウェインに感銘を受けたからではありません。ただただ、ものとしてとても美しかったからです。それから匂いを嗅ぎました。・・・いい匂いがしたというだけでなく表紙もつやつやしていました。ラミネート加工をしてあったのです。私はそれをはじいてみました。すると、とてもがっちりとしているのがわかりました。私はそれを噛んでみたことを覚えています。・・・・本はただ読むという以外にも、たくさんの意味があるのです。私は子どもたちが本で遊び、本を抱き締め、本の匂いを嗅いでいるのを見てきましたが、それを見れば本作りに心をこめなくてはならないのは明らかです。≫『センダックの絵本論』(脇明子・島多代訳 岩波)
センダックとシュタイデル社が組んだら最強?の本ができたでしょう。見ているだけでため息が出そうな本。いえいえ、触ったらぞくぞくする本。見果てぬ夢ながら、想像するとわくわく。
*「王子と乞食」 (マーク・トウェーン 村岡花子訳 ロバート・ローソン絵 岩波文庫)(マーク・トウェイン作 大久保博訳 F.T.メリル J.J.ハーリ L.S.イプスン絵 角川書店)
☆写真は、「王子と乞食」の最後の舞台となったウェストミンスター寺院をはじめ、国家議事堂など、テムズの近くの建物が写るロンドン。(撮影*&Co.T)
(承前)
美術展に行って、ついつい買ってしまう絵葉書。
昔はもっと、あちこちに出していたのですが、こちらもメール、先方もメールで済ましてしまうことが多くなってしまいました。
が、しかし、時々、絵葉書をいただいた時なんかは、ポストからエレベーターで自宅に行く道のりの楽しみが増えます。ちょっとしたプレゼントをもらった気分です。
そんなプレゼント、日本の美術展の絵葉書と、元の美術館の絵葉書を比べると、レイアウトだけでなく、色合いも、どうも違うことがあります。
また、実物の素晴らしさを印刷による絵葉書に求めるのは酷だとはいえ、せめて、もう少し実物に近づいてもいいんじゃないか、と思えるのもあって、印刷の色の出し方の難しさや、センスを考えます。
シュタイデル社のような丁寧な仕事をせずに、やっつけ仕事の場合もあるのかもしれません。 ま、昔の観光地の絵葉書より格段に技術が進歩して、よくなったとはいえ、シュタイデル社のように「商品ではなく作品を作るつもりで臨む」という姿勢があればなぁ・・・(続く)
☆写真は、"Birthday Greetings---Bringers of Good Tidings"(Ruth Artmonsky)の表紙(アーディゾーニ画)の上に、新進絵本画家 山本暁子氏の二人展礼状おいもの絵葉書。
ドキュメンタリー映画「世界一美しい本を作る男――シュタイデルとの旅」を見ました。小さな出版社が、作者と直接会って打ち合わせを重ね、印刷から製本まで、その一社で作り上げます。今や、印刷はこの国、レイアウトはこの国、製本はこの国、という分業で成り立つような印刷業界らしいのですが、このシュタイデル社は、すべて請け負い、しかも、作者に助言、というより、進言し、美しい本造りにこだわり続けます。経営者のゲルハルトは、ニューヨーク、ロンドン、パリ、カタール・・・・世界を飛び回り(東アジアは来てなかったなぁ)顧客と打ち合わせて行きます。人と人とがつながって行く面白さがそこに見られます。
写真の色合い、紙質、インクの色、表紙、レイアウト、マーケティングの動向・・・等、作者と打ち合わせる工程を見ていると、一冊の本が出来上がる有難味がより増します。
先日参加した「印刷から読み解く絵本」の会の印刷屋さんのこだわりを実際の現場で見ている様な感じです。こんな人たちが居るから、美しい本が生まれるんだ・・・。ありがとうございます。
文字が生まれ、印刷技術が生まれ、本が造られ・・・今や、本のない生活は考えられないものの、電子図書が生まれ、それが増えていくなら、遠い(?)将来、造本による書籍が減り・・・
とすると、希少になったあの美しい古き時代の本たちのように、また、本自体が美しく芸術作品のようになって行くのではないかと予感する映画でした。(続く)
☆写真は、世界一美しい富士山と気持ちよさそうなパラグライダー。夏。(撮影:&Co.A)