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みんなみすべくきたすべく

わがいとしき一人のひとに

        チューリップとわすれな草j
 (「大阪に 貴婦人と一角獣が やってきた」から続き)
(承前)
リルケの「マルテの手記」に出てくる、「貴婦人と一角獣」の見方は、ちょっと現代の視点と違うのが興味深いです。
 現代の視点では、「我が唯一ののぞみ」と書かれたテントのある絵を最後に評することが多く、また、この絵は、宝石をつけようとしているのか、しまおうとしているか等と、謎めいた視点で語られることが多い一枚です。例えば、芸術新潮2013年5月号「貴婦人と一角獣」特集でも、「五感主題説はほんとうなのか」としながら、「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」の絵を順に載せ、最後に「我が唯一の望み」の銘文の謎解きにページを割いています。

 ところが、これは現代の≪・・・・・(五感の中で)最も下位な身体的感覚である「触覚」から始まり、最も上位の精神的な感覚である「視覚」に至る段階的上昇を示すよう配列され、6点目のタペストリーが最終的な到達点として位置づけられている。≫(木俣元一文 芸術新潮より)という配列から 思考されるもので、どうも、リルケの見たのは、この配列じゃなかったみたい・・・

 リルケは「味覚」「嗅覚」「聴覚」「わがいとしき一人のひとに」「触覚」「視覚」と順に見ているようなのです。これは、貴婦人のおよそ年齢順で見たものかもしれません。

 「マルテの手記」で、最後に解説される「視覚」の貴婦人は、事実、かなりやつれ、唯一、座りこんでいます。侍女もいません。鏡は用意されているものの、貴婦人は自らをみることなく、一角獣を映しています。マルテが最後から二番目に解説する「触覚」も、「視覚」ほどではないものの、貴婦人は他より老けています。そしてまた侍女もいない。一角獣を恋人の象徴と捉え、結果、侍女もいなくなるとも考えられているようです。が、それにしたら、最後の「視覚」の貴婦人は、いつにもまして哀しい顔です。
 この二枚は「味覚」「嗅覚」「聴覚」の頃のはつらつとした若々しい貴婦人と少々年齢が違うようです。また、現代ではいつも別扱いの「わがいとしき一人のひとに」の貴婦人は、特別若くもなく、かといって老けこんでいず、人生の華やかなクライマックスとも見えます。侍女までも美しい。

 「マルテの手記」で、「我が唯一の望み」が「わがいとしき一人のひとに」となっているのは、リルケは、この6枚を愛するアベローネという女性と一緒に鑑賞していると想像しているところから来ています。
 ≪アベローネ、僕はおまえと今いっしょに立っているような気がする。アベローネ、おまえはこの気持がわかってくれるだろうか。僕はぜひこれがわかってくれなければならぬと思うのだ。≫とあるように、「我が愛しき一人の人」と共に在る時間こそが、マルテには重要な時間だと表現しているのだと思います。マルテの語る6枚のタペストリーの解説は、客観的なタペストリーの解説であり、アベローネへの直接の思いを読み取ることはできません。が、この美しい6枚のタペストリーを愛する女性と共に鑑賞したいという思いは、伝わって来るのです。

 いずれにしても、芸術の鑑賞は面白いものです。貴婦人と侍女のコスチュームに注目したり、生き生きと描かれた小さな動物や花を見るだけでも、楽しい。図版では味わえない、タペストリーの質感。せっかく、パリから来てくれたんだから、本物を見に行かなくちゃ。(「マルテの手記」に続く)

*「マルテの手記」 (リルケ 大山定一訳 新潮文庫 他)

☆写真は、英国の花壇。日本の感覚とちょっと違う・・・ミルフルール(撮影:&Co.H)

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