みんなみすべくきたすべく

牛乳屋テヴィエ

                        バルコニーjj
(「みんな鵞鳥の足をしている」から続き)
(承前) イディッシュ文学、もう一つ。
「牛乳屋テヴィエ」
(ショレム・アレイヘム 西成彦訳 岩波文庫 表紙カバーは、シャガール)

 牛乳屋のテヴィエが作者にエピソードを打明ける形、つまり、話し言葉で物語は進みます。シンガーの作品も口語が多く、テンポが速いのですが、さらに口語のみで、話が進むので、時には落語のような掛けあいもあります。彼のとぼけた味は、ユダヤ人の持つ処世術なのか。テヴィエは、可笑しい人、いえ、懐の大きい人です。

 この「牛乳屋のテヴィエ」は、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の原作ですが、私は、舞台を見たことがなく、どの部分が舞台になったのかも、知りません。舞台の先入観がない分、原作の「行きなさい」の章は、感銘を受けました。異教徒と結婚した娘が戻って来た章が「行きなさい」で、舞台ではハッピーエンディングのようです。が、実際は、違う・・・「いまどきのこどもたち」という章が表すように、いまどきの子どもたち(娘たち)の結婚事情からユダヤを考える、というのが原作の中心にあります。思想・宗教・金銭・差別など、テヴィエの面白おかしい口調で話を進めながらも、深い深い淵を見ることができるのが原作でした。

 訳者後書きでは、「牛乳屋」が「屋根の上のバイオリン弾き」になっていく経緯、なにゆえ、表紙にシャガールかという経緯、そして、イディッシュ語についても、簡明に説明されています。なにより、テヴィエが目の前で喋っている様な臨場感、それらは、先のシンガー傑作選「不浄の血」の訳者でもある西成彦氏の力に負うところが大きいものだと思います。

 シンガーの話にも、なるほどと思う箇所が多々ありますが、この話にも、ありました。その中の一つ。
「・・・知恵も後悔も、いざというときには役に立たず、後からやってくるもんだ。・・・」

☆写真は、我が家のバルコニー、5月の薔薇。

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みんな鵞鳥の足をしている

          かいじゅうくんj
(「ティシュフツェの物語」から続き)
(承前) 
 ところで、小難しく考える前に、このお話「ティシュフツェの物語」に、特に惹かれた箇所があります。
 悪魔とラビの駆け引きのクライマックスです。
≪・・・・・
―後生だが、もうひとつだけ、証を示してほしいのだが。
―どうして欲しい?太陽の動きを止めろとでも?
―足を見せてもらいたいのだ。
ラビがこの言葉を口にしたとき、おれは、万事休すと思った。おれたちは、からだならどこでも他の形に変えることができるが、足だけはそれができない。一番ちびの小鬼から、ケテヴ・メリリにいたるまで、おれたちはみな鵞鳥の足をしている。≫

 おお!!!「かいじゅうたちのいるところ」(神宮輝夫訳 冨山房)のあの子!!!あの子は悪魔だったんだ!
 センダックの絵が浮かびました。
 センダックの両親もポーランドからアメリカに渡ったユダヤ人です。
 センダックは、シンガーの「やぎと少年」 (工藤幸雄訳 岩波)に、挿絵を書いています。
 (「牛乳屋テヴィエ」に続く)

☆写真、ロージーが手で示すかいじゅうの足は鵞鳥(のような鳥)の足。改めて、絵本を見てみると、意外とこの子の出番は少ない。(いつも、おいおい・・・と、困ったような顔をしてます。)かいじゅうたちには、人の足をしている子も一人いますが、その子は、センダック自身に顔が似ている気がします。二枚の絵は、1994年のカレンダー。

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ティシュフツェの物語

東京美術館中庭j
 (「ちびの靴屋」から続き)
(承前)
 シンガー傑作選「不浄の血」*の中には、こんな話も入っています。

「おれは悪魔だ。そのおれさまが言うんだから嘘じゃない。もうこの世に悪魔は存在しないのだ。今や人間が悪魔そのものなんだから、悪魔の出る幕じゃない。相手がやる気満々でいるのに、今さら何のためにそそのかす必要があるだろう?・・・・物語本なんて、アヒルの乳をまぜた離乳食みたいなものだが、ユダヤの文字を軽視してはならない。何と書いてあるかだって?文字はひとを利口にする だ。・・・・」
 で、始まる「ティシュフツェの物語」は、悪魔と人間のラビとのかけひきの話です。そこには、ユダヤの文字への想い・敬意が満ちています。
 
 お話の最後は「・・・おれは赤んぼが乳を求めるように文字を舐めまわし、文字だけが命だと考える。単語の数を数え、語呂あわせにふけりながら、海千山千の物語をそこに読みこんでいく。・・・・・・・そうだとも、ひとつでもユダヤの言葉が残っているかぎり、おれは生きながらえる。紙魚の野郎が最後の1ページを喰らい尽くすまで、遊ぶのに困ったりはしない。あとは野となれ山となれだ。そのときは口をつぐもう。もしもユダヤの文字がこの世から消えたら、そのときはユダヤの悪魔もこの世からおさらばだ。。。。」

 イディッシュ語で話を紡ぎ続けたシンガーは、そのノーベル賞受賞講演の中でイディッシュ語の特質を「故郷喪失者の言語」であり、「国土も国境も持たず、いかなる政府の支援もなく、武器や弾丸や軍事演習や作戦をあらわす言語もない」、「異教徒からも同化解放ユダヤ人からもさげすまれた言語」だと述べました。(「不浄の血」解題より)

 そして、もうひとつのイディッシュ文学「牛乳屋テヴィエ」(ショレム・アレイヘム 西成彦訳 岩波文庫:「屋根の上のバイオリン弾き」の原作)の作者は、ウクライナのユダヤ人で、シンガーはポーランドのユダヤ人。イディッシュ語もまた少々違うらしい。ふーむ。

 わかるのは、ユダヤ人が第二次世界大戦だけでなく、もっとずっと以前から、流浪してきた歴史。
 1904年ポーランド生まれのアイザック・B・シンガーが、1935年にアメリカに移り住んだ事実。

 ノーベル文学賞が、時として人種や地域の偏りを加味することがあると囁かれる中、お話作りの名手ナフタリ アイザック・B・シンガーの受賞(1978年)は、当然のことだったと思います。        
(「みんな鵞鳥の足をしている」に続く)

*「不浄の血」(アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選  西成彦訳 河出書房新社)
*「牛乳屋テヴィエ」(ショレム・アレイヘム 西成彦訳 岩波文庫)

☆写真は、東京都美術館中庭。

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ちびの靴屋

ぐみj
 (「アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選」から続き)
(承前) 
 好みから言うと、シンガー傑作選「不浄の血」*の中では、「ちびの靴屋」の話が好きです。大体、題名からして、子どもの本に近そうで、書きだしからも、シンガーの他の子どもの話に近そうで、親近感を持ちました。

 先祖代々、ちびの靴屋として生きて来た一族の話です。時は流れ、現代の子孫が国を離れアメリカで成功し、一人残った父のところには、ヒットラーの影が迫り、逃げ、そして、成功した息子たちのところに逃げ伸びる・・・という波乱万丈の一生の話と言えばそうですが、時々挿入される、ユダヤの古歌によって、彼らの厳しい人生にほっと一息の風が流れ込みます。また、その昔話の様な語り口に、次へ次へと引き込まれ、一気に読んでしまいます。

≪お母さんがおりました
 子どもを十人産みました
 なんてこったい、十人もの子・・・・
 一番目はアヴロム
 二番目はベイル
 三番目はギンプル
 四番目はドヴィド
 五番目はヘルシュ  (ユダヤのアルファベット順) 
       ここで子どもたちは一斉に合いの手を入れる。
おっとどっこい、ヘルシュちゃん!・・・・

 お母さんがおりました
 子どもを十人産みました
 なんてこったい、十人もの子・・・・
 六番目はヴェルヴル
 七番目はザインヴル
 八番目はハナ
 九番目はテヴィエ
 十番目はイドル (ヘブライ文字の六番から十番まで)        
         そして、息子が声を揃えて最後の部分を合唱するのだった。
おっとどっこい、イドルちゃん!・・・≫
(「ティシュフツェの物語」に続く)

*「不浄の血」アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選  西成彦訳 河出書房新社
**この「ちびの靴屋」は「ばかものギンぺルと10の物語」(アイザック・B・シンガー 村川武彦訳 彩流社2011)の中に「小柄な靴屋たち」として入っていますが、上記歌の訳し方が調子のよい西成彦訳が好みです。

☆写真は、散歩途中のビックリグミ。

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アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選

                    地獄の門j
 シンガー(1904~1991)は、「よろこびの日―ワルシャワの少年時代」(工藤幸雄訳 岩波少年文庫)「やぎと少年」(センダック絵 工藤幸雄訳 岩波)「お話を運んだ馬」「まぬけなワルシャワ旅行」(M.ツェマック絵 岩波少年文庫)や、絵本の「メイゼルとシュリメイゼル」(M.ツェマック絵 木庭茂夫訳 冨山房)などを子ども向きに書いています。と、ともに、イディッシュ語で書いた小説で、ノーベル文学賞を受賞したユダヤ人の作家という方が、なじみのある人もいるでしょう。子ども向きに書かれた話も、大人を対象にして書かれた話も、どれもお話の運び方が上手く、ぐいぐいと引き込まれて行きます。シンガーは、「お話を運んだ馬」のお話の名手ナフタリそのものだと思います。

「不浄の血」
(アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選  西成彦訳 河出書房新社) 
 シンガー傑作選という大人向きの短篇集が河出書房新社から出ました。
 シンガーの大人向きの小説は、これまでも何冊か邦訳されています。そこには、人間の闇の部分、おどろおどろしい欲望を描いたものも多く、信仰という一本の柱、もちろんそれはユダヤのアイデンティティでもありますが、そこから広がる人間模様を書いた作品が主です。重いテーマの話にも、ちょっとした笑いが隠され、沈み込む内容を、時として救い出してくれます。ともかく、お話の運び方が上手い。また、口語性が強いとされるイディッシュ語が、より、お話に引き込む力を持つのだろうと考えます。

 この短篇集のタイトルにもなっている「不浄の血」等は、題名通りの、言わば、「えぐい」とも言える話で、暗い欲望の世界です。反対に最後に掲載されている「老いらくの恋」という話は、どろどろしたものがないスマートな展開で、ちょっとハリウッド映画の一シーンを見る様な明るい光を一瞬感じ、他とはちがった表現でユダヤの重さを表現しています。
(「ちびの靴屋」に続く)

☆写真は、東京 上野 国立西洋美術館 ロダン 地獄の門。

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オーラのたび

           ドウレア夫妻j
 ドウレア夫妻(イングリ&エドガー)の描く「オーラのたび」(吉田新一訳 福音館)が福音館の図書館員アンケートの結果、復刊されました。

 北欧の、そのまた遠い雪深い地域、ノルウェーのお話です。ノルウェーには、トロール巨人や赤ぼうしノームやいろんな妖精がたくさん住んでいるので、人が住めるところはほとんどわずかしかない、とあります。
 そんな国のオーラという男の子が、スキーでうさぎを追いかけたり、村の結婚式に出たり、ラップランドに行ったり、漁に出たり・・・不思議な体験をします。お話の展開自体は、しっかりした起承転結があるわけはありませんが、石版画の絵は、とても美しい絵です。北国の冷やかさというより、そこにある人の心の温かさや暮らしの温かさが感じられる優しい絵です。また、そこに描かれている北の国の風景は、あまり見たことのない建物や、家具、独特の紋様などが描かれ、絵だけ見るのも楽しみの一つです。

 「オーラのたび」は、ノルウェー出身の妻イングリの経験や思いが詰まった1冊で、他、何冊もの北欧関連の絵本を夫妻で残しました。

☆写真は、手持ちのドウレア夫妻の絵本です。見返しの部分や表紙等が写っています。その半分には、北欧テイストが見えます。
 左上隅・「トロールのばけものどり」本文(いつじあけみ訳 福音館)、左上から2番目「トロールものがたり」表紙(へんみまさなお訳 ほるぷ)、左上から3番目NORTH GODS and GIANTS表紙カバー 、左下「ひよこのかずはかぞえるな」見返し(瀬田貞二訳 福音館)、中上 CHILDREN of the NORTHLIGHTS 見返し、中中 オーラのたび見返し(吉田新一訳 福音館)、中下 TOO BIG見返し、右上 THE TWO CARS見返し、右下「まいごのフォクシー」見返し(うらべちえこ訳 岩波)

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もののあはれ展

      もののあはれj
 (「百花繚乱展」から続き)
(承前)
 山種美術館の「百花繚乱展」の次にサントリー美術館の「『もののあはれ」日本の美展」(~2013年6月16日)に行ったら、どちらも花が多くて、区別がつかなくなるような錯覚が・・・
 「もののあはれ展」は、「花鳥風月」「雪月花」として、とらえる場面もあって、鳥の絵も月の絵もありますが、どの画にも、花や樹木は、描かれています。
 もちろん、書もあります。
 私自身の平安仮名のお稽古の積み重ねは、いまだ効果なく、読める文字探しの域をでないのが、なさけない。
 そんな中、川端康成の書「雪月花」もありました。川端康成の書は初見でしたが、書家川端康成の一面を見たような気がしました。型にはまらず、重く深い力を感じさせる書でした。

 展示全体の構成は、「もののあはれの源流 貴族の生活と雅の心」「言葉 本居宣長を中心に」「古典 源氏物語をめぐって」「和歌の伝統 歌仙たちの世界」「月光の表現 新月から有明の月まで」「花鳥風月 移り変わる日本の四季」「秋草 抒情のリズムと調和の美」「暮らし 近世から近現代へ」。

 さて、「もののあはれ」という言葉・・・調べると、情趣や情緒 優美や繊細、美や調和といった抽象的な単語が並びます。
 粗忽で粗雑な毎日を送っている私と正反対な世界と考えればいいでしょうか。
 サントリー美術館の解説によると、≪「もののあはれ」という言葉の意味は「あはれ」をめぐり解釈に広がりがある。「あはれ」は、「哀れ」という漢字を当てると、その語感は何か物悲しく儚いイメージに偏るが、本来は、賛嘆や愛情を含めて、深く心をひかれる感じを意味していたとされる。この「もののあはれ」を知ることを18世紀において考察したのが本居宣長(1730~1801)その人に他ならない。彼の著作によれば、「もののあはれ」を知ることこそが、人生を深く享受することにつながると指摘されている。≫
 
 そして、この展覧会で、記憶に残ったこと二つ。
 一つは、絵に描かれている小鳥たちの声をテープで流していて、それが会場に響いて、さながら、実際の自然の中に居るような錯覚が・・・
 もう一つは、照明を落とした月光表現の部屋で、月の満ち欠けを順に説明する写真が裏からライトで照らされて大きく展示されていました。それが、その真正面にある「日月屏風(六曲一双)」の展示ガラスに照り映り、さながら、屏風本体に月の満ち欠けが順を追って描かれているような錯覚が・・・
 どちらも、音響や映像など現代の楽しみ方が加味され、それはそれで興味深い「もののあはれ」鑑賞のひと時でした。

 このあと、東京藝術大学美術館の「夏目漱石の美術世界展」(~2013年7月7日)に行きましたが、報告は、少々、あとに。

☆写真は、サントリー美術館特製サクマのドロップの缶。左上、狩野永納「春夏花鳥図屏風 六曲一双左隻(部分)」、下左右、伝尾形光琳「秋草図屏風 二曲一双」、下中、「源氏物語図屏風 須磨・橋姫 六曲一双(部分)」。

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百花繚乱展

          山種J

 先日、京都地蔵院の散椿に失礼なことをしたお詫びに、速水御舟の「散椿」を見に行きました。
 「百花繚乱-花言葉・花図鑑」展(~2013年6月2日)を開催中の山種美術館には、初めて行きましたが、こじんまりと落ち着いた美術館でした。とはいえ、さすが都心、平日午前中一番、けっこうな入りでした。

 誰が描いたとか、いつの時代とかという並びでなく、大きくは花の種類で並び、ともかく、花、花、花の…百花繚乱!の展覧会です。花の見方も、表現の仕方も千差万別、時代に大きく隔たりがあっても、やっぱり花は美しく人のそばにあったのがわかります。

 そして、重要文化財「名樹 散椿」の速水御舟の屏風は、奥の少々狭い閲覧室にありました。確かに、作品自体は美しく絢爛豪華ですが、京都地蔵院の見事な本物の散椿を見たときのあの魔法の時間は、そこにはありませんでした。

 圧倒的な存在感で、見る者を魅了した満開の散椿。
 満開なのに、やがて散る・・・

 それで、その足でサントリー美術館「『もののあはれ』と日本の美展」(~2013年6月16日)に行きました。(「もののあはれ展」に続く)

☆写真は、上から「百花繚乱-花言葉・花図鑑」展の案内。中左、小林小径「菖蒲」中右小倉遊亀「憶昔」。下、速水御舟「名樹 散椿」。

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アンジェロとロザリーヌ

クリブデン像j
(「フランチェスコとフランチェスカ」から続き)
(承前)
 一口に絵本と言っても、すごく小さい子ども向きのもあるし、大人の鑑賞を目的にしているようなものもあります。
 
 そんななか、ベッティーナの 「アンジェロとロザリーヌ」は、一体、どれくらいの年齢の子どもたちが中心になって楽しめるのかなと考えます。大きく言えば、ロマンティックな恋物語です。が、三つの不思議な卵のおかげで展開するのは、ファンタジックな昔話風です。宗教的な匂いや訓諭がないこともない・・・
 お話は絵本にしては長いものの、納得のいくお話展開とともに、伝えたいことが絵に描けているので、小さい子どもたちにもよくわかるものとなっています。シャガール風な場面もあれば、アーディゾーニに似ている場面もあり、また美しい風景や美しい状況の絵など、多くの絵は、読者の年齢を選ばないとも言えます。
 
 ということで、特に、小さすぎる子どもでなければ、いろんな年齢層の人が楽しめる絵本なのかもしれません。が、もしかしたら、ロマンティック志向の強い小学生の女の子が、この絵本に出会ったら、はまってしまうかもしれません。昨日の写真左下の「アンジェロとロザリーヌ」には、新しい像の向こう、大人になった二人が、しっかり抱き合い、キスしているところが描かれています。

*「アンジェロとロザリーヌ」(ベッティーナ作・絵 矢川澄子訳 文化出版局)
☆写真は、英国クリブデン宮殿庭。

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フランチェスコとフランチェスカ

      ベッティーナj
 福音館が図書館員にアンケートをして復刊したフランチェスコとフランチェスカ」は、小学校低学年に楽しんでほしい一冊です。

 「どういうわけかしらないが フランチェスコには くつがなかった」という始まりには、下唇を突き出し、目を伏せ、力なく歩むフランチェスコの姿が描かれています。おお・・・
 ところが、くつやのショーウィンドーをのぞきこみ、ガラスに映った可愛いフランチェスカを見染めたときから、一気に表情が明るくなり、話の展開も、いい方向に転がり始めます。どきりとする場面もありますが、二人は、結婚の約束までするハッピーエンド。

 絵は、ラフなタッチながら、お話を伝える大事なことは、ちゃんと描かれているので、絵を見るだけもお話がたどれるという絵本の基本もクリアしています。また、冒頭こそ、暗い始まりですが、全体は明るく伸び伸びと描かれています。「げんきなマドレーヌ」のベーメルマンスの絵にも、どこか似ています。

 貧しい暮らしもプラスに変えて、生き生きと楽しむフランチェスコとフランチェスコには、読んでいる者も元気をもらえます。(「アンジェロとロザリーヌ」に続く)

*「フランチェスコとフランチェスカ」(ベッティーナ作・絵 わたなべしげお訳 福音館)
*「げんきなマドレーヌ」(ベーメルマンス作・絵 瀬田貞二訳 福音館)

☆写真は、すべてベッティーナ絵。右上For the Leg of a Chicken 右下The Goat Boy 中上The Magic Christmas Tree by Lee Kingman 中Paolo and Panetto 左フランチェスコとフランチェスカ 左下アンジェロとロザリーヌ

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ルピナスさん

        ルピナスj

 ルピナスの花を見かけると、「ルピナスさん」とさんづけをするのは、絵本 「ルピナスさん―小さなおばあさんのお話―」 (バーバラ・クーニー作 かけがわやすこ訳 ほるぷ)の影響です。

 絵本「ルピナスさん」の最後のシーン、ルピナスが一帯に咲き広がる絵に憧れて、以前の庭のある家で植え育てたものの、申し訳程度のルピナスの一画となり、昇り藤(ノボリフジ)という和名とちょっと違うなぁという花の密度でした。もともと、ルピナスというのが、どんな土地でも育つたくましさがオオカミを連想させ、ラテン語のオオカミを意味するループスから名前が来ているようですから、これはもしかしたら、我が花壇より肥沃でない土地の方がかえって育つ種なのかもしれないなどと、勝手に解釈しておりました。が、写真上に写るルピナスの自信ありげに昇る花の姿を見ていると、単に、世話が足りなかっただけでした。写真上は、絵本に描かれているパステルカラーのイメージとは違うルピナスですが、園芸種もたくさん生まれているようです。
リージェントパークルピナスj

 ルピナスさん(アリス)が大きくなったらすることの一つは、遠い国々に行く、一つは、おばあさんになったら海のそばの町に住む、最後の一つが、おじいさんと約束した「世の中を美しくするために何かする」でした。で、いろんな国々に出掛け、海のそばに住んで、村中にルピナスの種をまいたのでした。

 以前、作者バーバラ・クーニーのアトリエの映像を見たことがあります。そこは米国、メイン州 海が見え、木々に囲まれ、また、たくさんのルピナスが咲く、素敵なアトリエでした。

☆写真上は、5月のご近所の花壇。写真中は、ロンドン リージェントパーク。写真下は、英国、ヒドコットマナーハウスの庭園。
            ヒドコットマナールピナスJ
                    

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上を見たり、下を見たり、もちろん前を見たり、じっと見たり、

松の花j
 5月の散歩も忙しい。
 松の花は綺麗だし、
 ユリの木は、しっかり見上げないと、花が見えない。ゆりのきj
 ご近所さんも花盛り。みなさん朝からお手入れに余念がありません。     
                    ばらフェンスjバラ一部j
実になるかJ
 ↑この小さな花は何でしょう?10粒ほども収穫できたら、また写真に撮ります。
 それにしても、あのサクランボ、誰のお口に入ったのでしょう?

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おおきくなったら

      深紅のバラj
 「おおきくなったら およめさんになるの おひゃくしょうさんちの およめさんに なるの・・・」と、リズミカルな言葉が続く絵本「おおきくなったら」は、我が家の宝物の一冊です。3人が3人ともこの絵本が好きで、何度も何度も読みました。おかげで、今もなお、文が、すらすらと出てきます。多分、私の読み方のリズムで、彼らも覚えていると思います。この絵本も、子育ての支えの一つ、楽しい思い出をありがとう。

 で、私自身は、おおきくなったら、剪定係になるの。バラ園の 剪定係になるの。はしごに上って ちょっきん ちょっきん。とげには負けない ちょっきん ちょっきん。おおきくなったら、生まれ変わったら、ね。

*「おおきくなったら」(チェコのわらべうた)ヨゼフ・ラダ絵 内田 莉莎子訳 福音館
☆写真は、大阪中之島バラ園のバラ。

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中之島のバラ園

バラ園j
 東洋陶磁美術館や中央公会堂のある 大阪 中之島。バラ園もあります。
 大川沿いの桜並木、今は、緑が続きます。次回は、遊覧船に乗って、八百八橋をくぐってみようかなぁ。毛馬閘門(LOCK)も面白そう・・・
                    バラ椅子j
 お笑いやB級グルメもいいけれど、もとはと言えば、お江戸より歴史はあるんだぜ。実は、大阪発祥の企業も多いしね。本社を東京に移すのは勝手やけど、美術品まで東京にもっていくことなかったんちゃうの? 大阪 長堀の出光美術館にあった「伴大納言絵巻」!
 「可笑しかった!なんか変。」「やっぱり大阪のおばちゃんは・・・」と、茶化しに来るような観光客だけを頼りにしないで、大阪の歴史や文化にもっと自信を持って次につないで欲しい。もちろん、誇りを持てるような街作りをする人が、文化に興味のない人や歴史を学んでない人、ましてや、痛みを思いやれない人では、あきまへん。
                     バラ園子どもたちj

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最高の書き手

              ヒドコットマナー噴水j
(「清水をふつふつと」から続き)
(承前)
『デ・ラ・メアは、今世紀前半の英国抒情詩(とりわけ児童向け)の最高の書き手である。』とL・クラークは「デ・ラ・メア論」で言います。そして、この「デ・ラ・メア論」では、L.クラーク以外の人が論じた文等を引用することによって、デ・ラ・メアが、いかにして最高の書き手となったのかにアプローチしていきます。

 まず、エリノア・ファージョンが、デ・ラ・メアと二人で児童図書館を訪ねたときのことを書いています。デ・ラ・メアが自作詩を朗読、彼女自身は自作の童謡を歌うために、出掛けています。ここでわかるのは、デ・ラ・メアも、誘われたファージョンも、生きた子ども前で詩を披露しているという事実です。机上の詩人ではなく、子どもたちと詩を分かち合っていたのです。

 また、『タイムズ文芸付録』批評家の「子どもと詩」というエッセーも紹介しています。≪デ・ラ・メア氏の詩は、音楽的リズムに豊かで風変わりな空想が相俟って、彼ら(子どもたちのこと)を魔法にかけてしまう。その特質のうちで、もっとも重要なのはおそらく音楽的リズムだろう。デ・ラ・メア氏ほど微妙かつ巧みな韻律に精通している人はいない。韻律は優美な母音の旋律をかもしだし、そこに使われている言葉の半分も分からぬような子どもの耳をも魅了する。≫
 ここでは、詩は、声に出してこそ、伝わるというのがよくわかります。特に子どもには、「耳を魅了する」という要素が大切なことだというのは、日々、絵本やお話を子どもたちに読んでいる大人なら、理解できることです。

 そして、デ・ラ・メア自身の言葉≪じっさい詩は、人間がつくったもののうちで最高にすばらしいだけでなく、最高に不思議なものである。歳月が経ったからといって魅力が減ずるものではなく、何度読んだからといって、計り知れない多様性が薄れるわけでもないが、ひたすら記憶されるかどうかにかかっている。・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・ただ子どもたちのなかに入って、静かに見ていればよい・・・・≫
☆写真は、英国コッツウォルズ ヒドコットマナーの庭園

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清水をふつふつと

                クリブデン水j
(「さすらうもの」から続き)
(承前)
 「ヘンリー・ブロッケン」の冒頭に、デ・ラ・メアの好きな詩を見つけたときは、とてもうれしかったのですが、世界幻想文学大系36「ヘンリー・ブロッケン」には、このお話以外にL.クラーク(1905-1981)という詩人で詩選編集者の「デ・ラ・メア論」と訳者鈴木耀之介の「デ・ラ・メア論」、それに年譜・書誌・文献目録が収録されていたのも収穫でした。

 特に、L.クラークの「デ・ラ・メア論」には、深い洞察に基づく論評もさることながら、今まで邦訳されていなかった(と思われる)デ・ラ・メアの詩がたくさん引用されているのが、とても嬉しい発見でした。

 クラークは言います。≪デ・ラ・メアは亡くなるまで、魅力的な英語の清水をふつふつと湧きださせつづけた。その泉の清水をごくごくと、あるいはちょっとだけ口をつけて飲んだ者は数多くおり、しかも、その泉の力強さと魅力に多少なりとも動かされなかった者はほとんどいなかった。≫

 英語圏に生まれていないので、その清水をごくごくとやるわけには行きませんでしたが、まだまだ新しい詩に出会えるのは、嬉しいことでした。ここに書き付けて備忘したい詩がたくさん・・・

 で、デ・ラ・メアが晩年に書いた『肖像画』という詩の一部です。

≪年はとったが相変わらず――――今もくだくだとつまらぬ考えごと
 いまだに本や雑誌に熱中している
 堅苦しい束縛や 義務に責められることも少なくなったが
 それでもなお空論に没頭している

 いまだに子どもみたいで インク壺や細々としたものの上に
 小さな玩具があればごきげん―――――
 人生とは 骨の折れるはかなくて純粋な喜び
 その魅力はなくなるどころか―――――増してゆく!
 ・・・・・≫ (「最高の書き手」に続く)

*「ヘンリー・ブロッケン」(W・デ・ラ・メア 鈴木耀之介訳 国書刊行会 世界幻想文学大系36)
☆写真は、英国 クリブデン宮殿庭園

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さすらうもの

Jチッピンカムデン
(「アーモンドの木」から続き)
(承前)
 「なぞ物語」のあとがきを読んでいたら、デ・ラ・メア(1873~1956)が一番好きな詩を、訳者野上彰氏自身も好きで、折りに触れ、励まされるということを書いておられました。  

荒れくるうまぼろしの軍隊をひきつれて
おれはその指揮官だ。
火ともえる槍をかざし、
風の馬にまたがって
おれは荒野を流浪する

 さて、この詩の題名は?翻訳されているデ・ラ・メア自身の「孔雀のパイ」「妖精詩集」には、ありません。
 誰の作品でしょう?デ・ラ・メア初めての長編「ヘンリー・ブロッケン」 (1904)に見つけました。目次より前、巻頭に載せている、作者不詳「癲狂院のトム」≪—ANON. (Tom o' Bedlam)≫でした。主人公ヘンリー・ブロッケンが、書物の世界を放浪するというファンタジー作品の冒頭にふさわしいものです。

 閑話休題。ヘンリー・ブロッケンが、入り込んだ世界は、ジェイン・エアから始まり、シェイクスピア、ワーズワース、バニヤン、ポーやキーツ・・・・。ちょっと散漫な気もしますが、元の書物を読んだ人には後日譚のような雰囲気があり、ファンタジックな世界が各章ごとに楽しめます。

 さて、デ・ラ・メアお気に入りの作者不詳「癲狂院のトム」 は、かのエルガーの男声合唱曲“The Wanderer”(1932)として歌われていることも判明。ユーチューブ等で聴くと、秘めた力強さ、信念のようなものを感じる曲でした。(5行連詩すべてが“The Wanderer” の歌詞となっていると思われます。ちなみに上記、野上彰訳は、5行連詩“The Wanderer”の4番目です。)そして、デ・ラ・メアの詩集「孔雀のパイ」にも「さすらうものたち(The Wanderers)」という詩があって、“さすらうもの(The Wanderer)”とイメージが似ているのも興味深いことです。

With a heart of furious fancies,
Whereof I am commander:
With a burning spear,
And a horse of air,
To the wilderness I wander.
                    (「清水をふつふつと」に続く)
*「ヘンリー・ブロッケン」(W・デ・ラ・メア 鈴木耀之介訳 国書刊行会 世界幻想文学大系36)
*「なぞ物語」(W.デ・ラ・メア 野上彰訳 フレア文庫)
*「孔雀のパイ 」(ウォルター・デ・ラ・メア詩 エドワード・アーディゾーニ絵 まさきるりこ訳 瑞雲舎)
*「妖精詩集」(ウォルター・デ・ラ・メア詩 荒俣 宏訳 ちくま文庫)

☆写真は、英国コッツウォルズ チッピンカムデン丘。

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アーモンドの木

       キフツゲートj
 (「孔雀のパイ」から続き)
(承前) 
 以前に、アーモンドの花の写真を紹介したら、ウォルター・デ・ラ・メアの「アーモンドの木」を思い出したとメールをいただきました。
 え?デ・ラ・メアに、そんなんあった?
で、教えてもらうと、 「なぞ物語」 (野上彰訳 フレア文庫)にありました。
読み返すと、思い出しました。なんだか切ないお話だったことを。

 すっかり、この話の題名が「アーモンドの木」というのを忘れていました。
 今回、読んでみると、確かに「アーモンドの木」が出てきました。ほんの一行です。読みとばしても話の流れに支障がないかのようです。でも、もう一回、丁寧に文字を追いました。何故、題名が「アーモンドの木」なのか。
≪・・・また、この日、アーモンドの木の枝に、かたくとじたつぼみをはじめてみつけたことも覚えている。≫と物語の行く末を暗示しているではありませんか。・・・ほんと、「読み」が足りませんでした。
 
 そして、この小さな作品には、目に見えるように描かれた表現がたくさんあって、ウォルター・デ・ラ・メアの妖しくも美しい世界へ誘い込まれます。
≪・・・その家はヒースがおいしげっている広い荒野のはずれにあって、小さな緑のくぼ地につづいていた。五つある二階の窓は、丘の急な斜面にそってだらだらと下につづいている村、その村の風見の塔を、東に遠く見はるかしていた。緑の古い庭を歩きまわると――ああ、リチャード、クロッカスやにおいあらせいとうやすみれの花が、なんて美しかったろう。夕がたなら、まだ刈り入れのすまない畑、夕空にまたたく星が影を落としている暗いあぜのみぞが見える。その少し南にある丘の上には、もみの林やしだのやぶがうねうねとつづいているのも見えるんだ。・・・≫     (「さすらうもの」に続く)

*「なぞ物語」(野上彰訳 フレア文庫)

☆写真は、英国コッツウォルズ キフツゲート・コートガーデンから見晴らす

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孔雀のパイ

くじゃくいますj
 「孔雀のパイ 」 (ウォルター・デ・ラ・メア詩 エドワード・アーディゾーニ絵 まさきるりこ訳 瑞雲舎)
(「Come Hither」から続き)
(承前)
 ウォルター・デ・ラ・メアの邦訳された詩集の中でも、『詩集 孔雀のパイ』は、挿絵が、「オタバリの少年探偵たち」のエドワード・アーディゾーニです。それが、また、ぴったり。

 詩は、何歳向きとか、大人のものとか限定する方がおかしいのですが、この『孔雀のパイ 』は、幅広い人に、支持されると思います。小さい子なら、「戸棚」が好きかもしれません。夢見る乙女なら「古びたちいさなキューピッド」、大人なら「馬でゆく人」かもしれません。もしかしたら、まったく、その逆かもしれません。
 
 詩は、その人の心にぴったり来た時が、その人の大事なものになるのだと思います。
 詩集一冊、まるごと、好きになることもあるでしょう。
 すべて好きにならずとも、一つでも、すっと心に入ってくるということもあるでしょう。(「アーモンドの木」に続く)

☆写真は、英国ヘミングフォード村の大きなお屋敷のお庭で、放し飼いの孔雀のつがい。

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Come Hither

        乙女椿じゃないみやこj
(「詩を読む若き人々のために」から続き)
(承前)
 「詩を読む若き人々のために」の最後の章「Ⅹ詩の味わい方」で、C・D・ルイスは、若い人々にこんな本を紹介しています。
≪・・・・みなさんの年頃に向いた、一番いい本は―私の考えでは―ウォルター・デ・ラ・メアの『こちらへおいでCome Hither』だと思います。・・・・≫

  この“Come Hither”は、かなりの大書です。ウォルター・デ・ラ・メア自身の詩だけでなく、彼が編んだ詩集です。(未邦訳ですが、WEBのOpen Libraryで読めます。)しかも、473ページまでは詩。その後300ページは、デ・ラ・メアの解説です。それに加え、索引などが20ページ以上あって、一行目インデックスも、作者インデックスも、イメージの中心となるキーワードインデックスもあります。例えば、猫とか、キューピッドとか、一番多いのが名前という項です。
  それで、一行目インデックスと言うのは、「ええっと、あの詩、ほら、出だしは・・・・」と思いだせるのに、全体が思い出せないときに、とても助かる索引です。(残念ながら、英語に堪能ではない私には、関係ありません。)そして、うちにある子どものための英語詩集のどれにも、一行目インデックスが載っているところを見ると、重宝かつ、重要なのでしょう。

  確かに、C.D.ルイスが推奨するように、隅々まで充実した本にちがいないのが、この“Come Hither”なのです。きっと素晴らしい本なのです。が、しかし、こんな分厚く重い英語の本、とてもとても手に負えません。残念ながら。(「孔雀のパイ」に続く)

*“Come Hither  a Collection of Rhyme & Poems for the Young of All Ages”made by Walter de la Mare ,Wood-engraving by Diana Bloomfield, London Constable & CO.LTD

☆写真は、乙女椿ではなく「みやこ」という名の薔薇。昨日の写真右の鉢植えです。

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詩を読む若き人々のために

       誕生日花束j
(「オタバリの少年探偵たち」から続き)
(承前)
 セシル・ディ・ルイス(1904~1972)の書いた、詩の入門書ともいうべき「詩を読む若き人々のために」の冒頭近く、≪・・詩は世間ふつうの男女にはなんのゆかりもないというのはまったくまとはずれの考えなのです。それにいやしくもイギリス人ならばけっしてバカにしてはならないものの第一が詩というものです。歴史の本には書いてないかもしれませんが、詩こそわが英国の最大の誇りなのです・・・・≫と、大きく出ます。
 この本は、「そうか、ふむふむ」と引き込まれ、線をひいたり、付箋を貼ったり、が多い一冊です。
 
 で、書き残したい文が多すぎるので、目次だけ写してみます。
 それだけでも、十分、読んでみたくなるでしょう。
 
Ⅰ詩はなんの役にたつのだろう
Ⅱ詩のはじまり
Ⅲ詩の七つ道具
Ⅳ一ぺんの詩はどうしてできるか
Ⅴ物語をうたった詩
Ⅵ心情・幻想・春夏秋冬
Ⅶ目的をもった詩
Ⅷ昨日の詩と今日の詩
Ⅸどういうときに詩は詩にならないか
Ⅹ詩の味わい方
           (「Come Hither」に続く)

「詩を読む若き人々のために」 (C・D・ルイス 深瀬基寛訳 筑摩叢書・ちくま文庫)

☆写真は、窓辺に置いた花束と向こうに鉢植えの満開の薔薇。

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オタバリの少年探偵たち

ハムステッド路地j

  2013年アカデミー男優賞を取ったのは、映画『リンカーン』のダニエル・ディ・ルイス(1957~)ですが、彼の父親はセシル・ディ・ルイス(1904~1972)と言う、英国では有名な詩人です。
 彼は、桂冠詩人に任命され(1967~72)、王家の慶弔の詩をよむ人でした。また、ニコラス・ブレイクと言う名前で推理・探偵小説もたくさん書いています。この人の作品を多く知っているわけではありませんが、「詩を読む若き人々のために」(1944)と「オタバリの少年探偵たち」(1948)は、若い人や子どもたちに向けて書かれた優れた本です。

 「オタバリの少年探偵たち」は、エドワード・アーディゾーニの挿絵、瀬田貞二の訳で、下町の男の子たちの生き生きとした動きが伝わってくる一冊です。(現在は、脇明子訳)
 やんちゃが仕事の男の子たち、どの子もいい子で、ほっとします。そりゃ、事件が起こるのですから、ちょっとした行き違いもありますが、子ども時代を、思う存分楽しむ幸せな子どもたち。ハラハラしながら、一気に読めます。
 奇をてらう展開等なくても、人と人とのつながり、その善意を信じる前向きな力を感じ、読み進むことができる「オタバリの少年探偵たち」です。

 それに、アーディゾーニの挿絵!
 訳者瀬田貞二は「絵本論」(福音館)の中で、テッド少年の退場の場面≪・・・テッドの通る道を、むちの刑を受ける時のように開けたありさまだ。そのむちは、ぬれたタオルやなんかでなく、沈黙とうたぐりの小路だった。テッドはそこを通らねばならなかった。少年たちは身をひいて通したのだ、テッドがよごれきった身であるように。ぼくは決して忘れまい、このおしだまったとがめの砲火をくぐっていくテッドの顔の表情を。詩の一行が頭に浮かんだ。・・・≫の挿絵を、こう評します。
「・・・生存的というか、暗示的というか、とにかく物語の気分を十分にくゆらして事件を解き明かす意味では、これこそ挿絵的というほかはない。」
(「詩を読む若き人々のために」に続く)

*「詩を読む若き人々のために」(セシル・ディ・ルイス 深瀬基寛訳 筑摩叢書)
*「オタバリの少年探偵たち」(C.D.ルイス 瀬田貞二訳 脇明子訳 岩波少年文庫)
*「絵本論」(瀬田貞二 福音館)
☆写真は、ロンドン ハムステッド路地

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得浄明院 

       イチハツjj
アヤメの類で一番初めに咲くから一初(イチハツ)。
小さくても、りりしい一初。

  京都 得浄明院の一初の鑑賞とお戒壇巡りが、春の特別公開でできました。(~2013年5月13日)
 お戒壇巡りは初めてでした。
 本堂下に作られた真闇の通路を、右手で壁を伝いながら進み、阿弥陀如来の下の錠前に触れて、戻って来るという体験です。案内によると「現代では見ることも稀な真の闇が体験できます」そうです。真っ暗!途中で目をつぶって歩いてみましたが、同じでした。真っ暗!本当は、静かに、闇を体感することが大事なのでしょうが、「くらーい」とか「あ、ここで曲がる」「わ、また曲がる」「まだかな」等と、静かにできません。最後の角を曲がって、入って来た階段の光がうっすらと見えたとき、「おお!」
 友人曰く、信州善光寺のお戒壇巡りより、小規模らしいのですが、私には、充分、闇の世界を堪能した時間でした。

 そして、薫風香る5月のお庭で、いただいたのは、ひんやりおいしい「お大根シャーベット」。お大根の味のする、白蜜味?の優しいお味。
この小さな尼寺は公開時でもひっそりと静かでした。
尼寺には、穏やかな空気が流れていて、ゆっくりできました。
得浄明院イチハツJ
☆写真左上に、三人の和服姿女性の足元が写っています。京都、特に東山界隈、レンタル着物で歩く観光客も多いのですが、このお三人は、きちんと美しくお召しで、赤い毛氈にお座りの姿が絵になっていました。

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花はどれも似ていたけれど

サクランボj
 今年こそは、向かいのマンション敷地のサクランボを取ろう撮ろうと思っていたら、おっと!管理人さんが収穫しているじゃありませんか。いつも、きれいさっぱりなくなるので、そうじゃないかとおもっていましたが、やっぱり。その後、今度はヒヨドリがついばんでいました!ぎゃあ。 元のサクランボの花の写真は(→)
 写真中は、アーモンド。元のアーモンドの花の写真は(→)
             あーもんどj
写真下は、梅。
どれも、これも、うちの実ではないけれど・・・
                     梅j

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居ながらにして

2013年5月薔薇j
 連休は、散歩やプール以外、家に居ました。
 が、幸せそうな結婚式の写真が添付されて来たのを皮切りに、英国ドーバー海峡から美しい写真が添付され、東京 国立新美術館の貴婦人と一角獣(~7月15日)(大阪 国立国際美術館7月27日~10月20日)の感動メールは複数、東京 山種美術館での散椿(~6月2日)以外の楽しみ発見メール、京都細見美術館の しむらの色展(終了)や、鎌倉建長寺の金澤翔子書展(終了)での感動メール、散歩途中の美しい花の写真添付・・・・・・居ながらにして、各地の喜びを共有することができました。ありがとうございました。
 加えて、娘の一人は、ロンドン ヴィクトリア&アルバートミュージアムの「デビッド・ボウイ展 サイコー!」と言ってくるし、沖縄の梅雨入りを心配しながら出掛けているもう一人の娘も、大丈夫そうだし、息子夫婦の引っ越しも決まったようだし、バルコニー育ちのバラも、こんなにいい匂いで次々咲くし・・・
 初老夫婦二人で、ニュースを見ながら、悪態ついたり、突っ込み入れたり、うたた寝したり・・・だけの連休に終わったわけではありませんでした。


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モッコウバラ

    モッコウバラレンガ塀j
 「ことり」 (小川洋子 朝日新聞社出版)
 
 現代作家の小説は、あまり読みませんが、この作家は近隣在住でもあって、以前「ミーナの行進」を読んで、地元の様子が手に取るように書かれていたのが単純に嬉しいという動機で、読むようになりました。今回も、「ミーナの行進」(中央公論新社 2006年谷崎潤一郎賞)と同じような図書館の分館が出てきます。私には、この街の重厚な分館、ちょっと暗くてひやっとした分館が思い出されます。

 小鳥の小父さんと呼ばれた主人公が、幼稚園の小鳥の世話をし続け、耳を澄まし続けた話です。そして、小鳥の鳴き声の高音と対照をなすかのように、低く静かな存在感で彼を理解する少しの人が登場します。
 静かに淡々と進行していく人生やその内面の描き方は、この作家の得意とするところでしょう。そして、タイトルの「ことり」は「小鳥」と表すのではなく、ひらがなであるというところに、深い意味が凝縮されていると思います。

 この本は、図書館で予約し、50人以上待って、読んだ1冊ですが、たまたま、街にたくさん咲くモッコウバラの季節に読んだので、個人的に、より印象深かった箇所があります。
 が、個人的に印象に残った以下の箇所は、もしかしたら、この話の重要な部分なのかもしれないと、読了後、思ったりもします。
 この場に居合わせるのが、小父さんと図書館の司書の女性という設定も大事ですが、話のキーワードともなる「メジロ」の登場、もう一つのキーワードの「カナリア」の色、レモンイエローは、モッコウバラの黄色と重なる、そんな場面だからです。ちなみに本の見返し部分は、レモンイエローの装丁です。写真に写るモッコウバラと同じ色。
                  モッコウバラアップj1
≪モッコウバラは枝も見えないほどの勢いで盛り上がるようにして咲き、濃い黄色の塊を連ねて空にアーチを形作っていた。地面にはまだ一枚の花弁も落ちておらず、順番を待つ蕾が葉の間から無数にのぞいていた。・・・・「あ、メジロです」塀に沿って茂る樹木の間から、数羽小鳥が飛び立ち、長く続くチュルチュルというさえずりが聞こえてくるのと同時に、小父さんはつぶやいた。≫

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濃霧 鳶色 快晴 青色

ハンプトンコート5月j
 「自転車に乗る漱石―百年前のロンドン」 (清水一嘉著 朝日選書)に、こんなことが書いてありました。
≪・・・この霧(スモッグ)が人々の健康によくないことは確かだし(かれらはハンカチを口に当てて戸外を歩いた)、それのみか濃霧の日は昼間でも辺りは暗くなり、商店や民家はあかりを灯し、夜ともなれば漆黒はさらに度を増す。鉄道線路のフォッグ・シグナルは爆発音をひびかせ、子供も大人も松明をたよりに手探りで道を歩く。・・・≫
 
 ひぇー!!! ディケンズ(1812-70)が、ロンドン名物と言っていた昔のロンドンの霧って、こんなに濃いかったの?
 それが、今やどう?この写真の空の青さ!(2013年5月1日 ロンドンから鉄道で30分余のハンプトンコート。撮影&Co.H)この写真を送って来た娘への返信には、「英国の隣国がアイルランドでよかったね。」と書きました。最近、日本も風向きが変わったのか、少しは青空も増えたけど、4月は、かすんだり、濁ったり、白かったり、青くなかった・・・

 美文を旨とする夏目漱石は、1900年にロンドンに着き、後に、こう書いています。
≪・・・倫敦に固有なる濃霧は殊に岸辺に多い。余が桜の杖に頤を支えて真正面を見ていると、遙かに対岸の往来を這い回る霧の影は次第に濃くなって、五階立の町続きの下から漸々この揺曳く(たなびく)ものの裏に薄れ去って来る。仕舞には遠き未来の世を眼前に引き出だしたる様に窈然たる空の中に取り留のつかぬ鳶色(とびいろ)の影が残る。その時、この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが滴る様に見え初める。三層四層五層共に瓦斯(ガス)を点じたのである。・・・≫「倫敦塔・幻影の盾」〈カーライル博物館〉(夏目漱石 新潮文庫)

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みどりの日

チューリップjjj
 いつのまにか、「みどりの日」が5月4日になっていて、もとの「みどりの日」が、なんか、別の祝日になっていて、あれあれ、こんな調子で、いろんなものが細々と静かに、書き替えられていったら、あかんやんか・・・と、気掛かりな今日この頃。

 例年なら、ゴールデンウィークに入ると、春が一気に加速し、初夏のように汗ばむような日がありますが、今年はまだ肌寒い。とはいえ、梅の頃から、春よ来い来いと言い続け、桜だ桜だ、わっしょいわっしょいと出歩いて、気がついたら、花々が溢れる、今日この頃。

 今年は、娘が英国に居るものですから、かの国の春の写真を送ってくれます。春の始まりも日本より少々遅かったのではありますが、一気に芽吹き、花開いて行きました。その後が、ゆるゆる、おっとりとしていて、春が長いような気がします。下の写真の風景など、日本でも見かけそうですが、日本のように、桜もぱっと散るわけではないし・・・上の写真の花壇の発想など、日本ではあまり見かけない。いずれも、英国4月末の写真です。(撮影:&Co.H)

 いろんな春の進み方があり、いろんな花壇の色があると、認めた上での、大人な対応が、何事にも必要なのだと思います。物事は、けんか腰じゃ、進まない。偏っていたら、うまく進めない。歴史認識というのは、祝日の名前を替えることから、じわじわスタートしていたん?最近の報道、少々調整していない?そんなことしてたん?と、後からWEBで知ることが多いような気がする今日この頃。
ハンプトンコート桜とラッパズイセンj

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くまなんか いない いるはずない

                マーモットj
(承前)
 福音館が復刊した童話8冊の中には、「くまのテディ・ロビンソン」の2冊のほか、 「ヘムロック山のくま」も入っていました。

 これも我が家では、年季の入った本ですが、うちの子どもたちが楽しむ頃、すでに品切れとなっていました。その頃は、WEBで探す等と便利な方法もありませんでしたから、偶然、古本屋さんで見つけたときは、とてもうれしかったのを思い出します。奥付は1976年第一版となっています。

 山越えのおつかいに出掛けるジョナサン。不安と緊張が手にとるようにわかります。
「ヘム ロック 山 には、クマ なんか いな い。いな いったら、いな い、いる  はず ない。」
「ヘムロック山には、クマなんかいない。クマなんかいない。ヘムロック山には、クマなんかいない。いない、いない、いない、いない、クマなんかいない。」
 他にも、ちょっとリズムの変わるヘムロック山の呪文(?)を何度、子どもたちと唱えたことか。
 
 この本の造りは、絵本ではなく、いわゆる挿絵の本ですから、小学校低学年向きと思いがちですが、たとえ、字が読めるようになった小学生でも、「ヘムロック山のくま」は、読んでもらってこそ、その楽しさが伝わります。大人も一緒になって、声に出して読んでみませんか。

「ヘム・・・・・ロック・・・・・山・・・・・には、クマ・・・・・いな・・・・・い いな・・・・・いったら いな・・・・・い。」

*「ヘムロック山のくま」(アリス・デルグレーシュ作 松岡享子・藤森和子共訳 太田大八画 福音館)

☆写真は、スイスのマーモット。 「『ヘムロック山のくま』には マーモットなんか出てない。出てるはずない。」(撮影:&Co.A)

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ズマトリーコバー 絵

           りんごの花j

 福音館書店が60周年を記念して、図書館員にアンケートを実施し、その結果を踏まえて絵本11冊、童話8冊が復刊されました。

 その中の一冊に「かあさんねずみがおかゆをつくった チェコのわらべうた」 があります。
 一冊で一つのお話と言うのではなく、いくつかのチェコのわらべうたが入っています。リズミカルで楽しい訳を、子どもたちと何度も何度も楽しみました。手元にあるのは、ずいぶん年季の入った一冊です。また、ヘレン・ズマトリーコバーによる絵は、単純なラインながらも、明るい雰囲気の伝わる楽しい絵です。

 この絵本を発端に、ズマトリーコバー絵の「りんごのき」「マルチンとナイフ」「ぼくだってできるさ!」「ふしぎな森の人形たち」と、年齢が上がっていくにつれて、楽しむ本が増えて行きました。特に、「ふしぎな森の人形たち」は、表紙の絵を見ただけで、「うちのと一緒や」と、娘が見つけ出した本ですが、この本がいたく気に入り、ひいきにしていたその娘の話は、海ねこさんにも書きました。(2月12日)

 さて、「りんごのき」「マルチンとナイフ」の主人公は、マルチンという小さな男の子です。親しみやすい絵とともに、わかりやすいお話は、小さな子も楽しめる小さな絵本です。

 冬、庭が雪で一面真っ白になったとき、マルチンは、お母さんにいいます。
≪「あっ、あそこに おもしろいぼうが たっているよ」マルチンはゆびさしました。「あれは、りんごのきなのよ。はっぱが ついていないから ぼうみたいね。」おかあさんがいいました。・・・「おーい、りんごのき、りんご いつなるの?」≫
春になって花が咲き、夏が来て、実が二つなり、嵐がきて、実が一つになってしまいますが、秋になって、赤くなった一つのリンゴの実を、マルチンは、収穫します。≪「ら、ら、ら、ら!」マルチンは、うたいながら、まっかなりんごをもって うちへ はいりました。≫

*「かあさんねずみがおかゆをつくった」(チェコのわらべうた ヘレナ・ズマトリーコーバー絵 いでひろこ約福音館)
*「りんごのき」(エドアルド・ペチシカ作 ヘレナ・ズマトリーコーバー絵 うちだりさこ訳 福音館)
*「マルチンとナイフ」(エドアルド・ペチシカ作 ヘレナ・ズマトリーコーバー絵 うちだりさこ訳 福音館)
*「ぼくだってできるさ!」(エドアルド・ペチシカ作 ヘレナ・ズマトリーコーバー絵 むらかみけんた訳 富山房インターナショナル)
*「ふしぎな森の人形たち」(エドアルド・ペチシカ作 ヘレナ・ズマトリーコーバー絵 いでひろこ訳 童心社)

☆写真は、散歩コースにある、リンゴの花。震災復興のシンボルとして平成9年に植えられた特殊暖地りんご「希望りんご」という品種。(2013年4月29日撮影)

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