図書館で借りたばかりなのに、さっさと古書店から購入したのが、 「やんごとなき読者」(アラン・ベネット 市川恵理訳 白水社)です。昨年読んだ中で一番面白かった。
最初の2ページでノックダウン。読み進むのをやめました。「この本、ぜったい面白い」と家族に宣言して、本を置きました。読み終えるのがもったいない一冊に決まっています。
・・・・と文を書いて、本を横に置いて、幾歳月。
え? 面白かったか? 面白いに決まっているじゃありませんか!特に、最後は、しゃれてますねぇ。
え?どんな話かって? 現役のエリザベス女王が本好きになる話です。まず、バッキンガム宮殿に、移動図書館が来て、エリザベス女王が本を借りる話です。宮殿に働く若者が、読書案内をし、エリザベス女王が読書にのめり込んでいく話です。そして、女王が、知的に成長し・・・
もちろん、話は、「ボートの三人男」と並ぶ英国ユーモア(?)小説なのですが、ボートの3人男がテムズ川観光案内になっているように、この「やんごとなき読者」は、読書案内にも、なっているのです。子どもの本では、「ぞうのババール」も出てきましたよ!
それにしても、“The Uncommon Reader”を「やんごとなき読者」と訳せる日本語って、凄いと思います。他の日本語見当たらないもの。
☆写真は、ロンドン・テンプル駅近く、川向うテムズ川沿いのビル一面に垂れ下がった即位60周年記念の若き日のエリザベス女王たちの写真。
ニューヨーク図書館前のライオンは、やっぱり愛されているのだと思うのが、もう一冊のライオンの絵本
「としょかんライオン」*です。こちらは、まさに図書館が舞台です。
おはなしの時間が好きなライオン。
図書館のルールを守るライオン。
図書館とライオンが好きな子どもたち。
そして、図書館を運営し、図書館を愛する大人たち。しかも、ライオンも好きな図書館長。
図書館に出入りできるようになったライオンは、いろんな仕事が与えられ、その持ち場で、はりきっています。そんなとき、一大事が起こり、大変!ということで、ルール違反の大声を出してしまいます。
絵本に描かれた図書館の入り口は、ニューヨーク図書館ほど、いかめしくなく、もっと親しみやすい戸口と2匹のライオンが描かれています。図書館が、子どもたちにより近い感じが嬉しい一冊です。
*「としょかんライオン」ミシェル・ヌードセン作 ケビン・ホークス絵 福本友美子訳 岩崎書店
☆写真は、ニューヨーク図書館のバッグ2色
絵本「ヒラリーとライオン」*で、ニューヨーク図書館前のライオン二匹は、ニューヨークで迷子になったヒラリーという女の子を背中に載せて、真夜中、ニューヨークの街を走ります。セントラル・パークに行ったり、ブルックリン橋を眺めたり・・・
ライオンが、カッコよく描けていて、一時期、車のCMに出演していたハンサムなライオンを思い出します。愛されている図書館前のライオンなら、この話もあり得ると思わせるファンタジーです。
が、しかし、初めは、両親と手をつなぐ小さな女の子だった彼女が、途中から、なんだか、もう少し大きい少女のように描かれていて、ん? 特に、最後の、イエローキャブで、ライオンを見ながら、ニューヨークを後にする絵は、思春期の少女のようにも見えます。また、話の内容が、必ずしも絵に表現されていないので、絵本を楽しむ小さい子には、絵と文のバランスが悪いような気がします。
つまり、この絵本の対象年齢は、おもちゃのウィンドーに見とれていて迷子になるような幼い女の子でなく、もっと大きい子なのかもしれません。
それは、両親のもとに帰り、ありのままに話したシーンが描かれず、ライオンと別れるシーンの方が重く描かれているところからも感じます。幼い読者は、冒険もライオンも好きだけれど、何があっても両親の元に戻れたのが一番の喜びのはずです。
*「ヒラリーとライオン」フランク・ディサイクス文 デビー・デューランド ディサイクス絵 たかはしけいすけ訳 セーラー出版
☆写真は、ニューヨーク図書館正面のライオン(撮影:&Co.T)
「ごきげんなライオン」シリーズのことを書きながら、アメリカ絵本のライオンで忘れられなかったのが、ニューヨーク図書館前の二頭のライオン像のことです。
二頭のライオンのことを知ったのは絵本「アンディとらいおん」*です。図書館の前に鎮座するライオンにこの絵本は捧げられています。二匹のライオンの名前は、レノックスとアスターといい、2つの図書館だったものを一つのニューヨーク図書館にしたときにその名前がライオンにつけられたようです。(ただし、福音館の絵本では、レノックス氏とアスター夫人となっていて、前々から、二匹ともたてがみのある雄ライオンなのに、夫人?と思っていたら、1911年に設置されたこのライオンたちには名前の変遷があることが、ニューヨーク公共図書館HPにありました。)
子どもたちに覚えてもらいやすく、人気のある動物、もちろん、知の殿堂としての威厳と誇り。ライオンは最も適役です。
さあ、「アンディとらいおん」は、楽しい絵本です。
図書館でライオンの本を借りたアンディは、夢中になって読みふけります。
翌朝、学校に行く途中で出会ったのが、足に太いとげのささったライオン!
で、なんと!都合のいいことに、アンディは、ずぼんのポケットにくぎ抜きを入れて歩いていました。・・・・・
この絵本は、日常の中で、出会うかもしれない偶然が、繋がっていくのが、面白い。アンディとライオンが、次第に結びついていくのです。で、多くの猛獣もののお話の終わり方でなく―――動物園に行くとか、山に帰るとか―――、ライオンはアンディと共に歩みます。アンディは、夢中でライオンの本を読みふけっていたし、ライオンはアンディを信頼したのですから。で、二人で、ライオンの本を図書館に返しに行きます。
絵本「アンディとらいおん」は、生き生きと描かれた絵も、大きな魅力です。
*「アンディとらいおん―しんせつをわすれなかったおはなし」ジェームズ・ド―ハーティ作 むらおかはなこ訳 福音館
☆写真は、ニューヨーク図書館正門、緑の木陰、2頭のライオン見えますか?(撮影&Co.T)
(「塀の中のジュリアス・シーザー」から続き)
(承前)
さて、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」*です。
題名は、「ジュリアス・シーザー」なのに、途中でシーザーが死んでしまいます。シーザーより、はるかに出番も台詞も多いのがブルータスです。これじゃ、「マーカス・ブルータス」と言うタイトルでもよさそうですが、歴史上「ブルータス、おまえもか・・・」という知名度のブルータスとしては、タイトルは引き下がざるを得なかった?
この前のシェイクスピア「リチャード三世」*のクライマックスにも、エリザベスとリチャード三世が言葉を応酬し、言葉のみで変化していく人の心の面白さがありました。この「ジュリアス・シーザー」にも、同じようにアントニーとブルータスが、広場のシーザーの遺体の前で、両者が群衆に訴える場面があります。
まず、「シーザーは何故、殺されなければならなかったか」を、ブルータスが、滔々と述べます。すると、群衆は、「そうだ、そうだ、ブルータス、よくやった!」
そして、退場したブルータスの代わりに出てくるのが、シーザーの腹心だったアントニーです。初めは、ブルータスをたてているかのようですが、次第にシーザーをたて、シーザーの功績を讃えていきます。すると、今度は、群衆が「そうだ、そうだ、ブルータスなんか、やっつけろ!」群衆の心が180度変わるのです。
ここは、一対一の言葉の応酬ではなく、一人の演説をじっくり聞かせ、群衆の心を捉えて行く場面です。解説によると、ブルータスの演説は散文、アントニーの演説は韻文と、シェイクスピアは書き分けているとあります。哀悼を兼ねる演説に、人の耳に余韻を残す韻文という手法が、適しているのは間違いありません。
やっぱり、恐るべし、シェイクスピア。
*「ジュリアス・シーザー」(シェイクスピア 小田島雄志訳 白水社Uブックス)
*「リチャード三世」(シェイクスピア 小田島雄志訳 白水社Uブックス)
☆写真は、英国 バース。ローマ時代の浴場
ドキュメンタリー映画「塀の中のジュリアス・シーザー」を見ました。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」*を、イタリアの刑務所の囚人たちが演じます。終身刑の人、まだまだ刑の残る人、最近入って来たばかりの人。殺人、累犯、麻薬売買、組織犯罪・・・
毎年、オーディションをし、配役を決め、100人以上もの服役囚たちが参加する刑務所内での演劇実習のドキュメンタリーです。囚人たちは、半年間、練習し、最後は、一般の観客に、刑務所の劇場に来てもらいます。
劇場改修のため、練習は、刑務所内の、あちらこちらで行われます。屋上だったり、図書室のようなところだったり、空き部屋だったり、廊下だったり、それが、余計に、稽古の臨場感を伝えます。シェイクスピア劇なのに、もともとの設定がローマと言うこともあって、古代ローマの野外劇を見ているような感じです。
また、粗野で荒々しい兵士や、群衆の雰囲気も生々しく、舞台稽古を見ているのでなく、実際のローマ時代に引き込まれていくような錯覚が生まれます。どの人も目の力が半端じゃありません。迫真の演技。
ローマの兵士に、ぴったりの役者揃いとは言え、結局は、人間が演じる人間の劇。
実際、台詞稽古している途中で、口げんかになったり、過去を思い出したり、面会の後では、ふさぎこみ、稽古にならなかったり・・・
主役のブルータス役の人は、2000年から14年の刑期を減刑され、今は、現役の俳優となって、活躍中。この映画のために刑務所に数週間戻って来たといいます。
また、殺人を犯し終身刑のキャシアス役の人は、「終身刑囚の自伝」を出版。その彼が、映画の最後で穏やかに言うのです。「芸術を知ってから、この監獄が牢獄になった。」(マーカス・ブルータスに続く)
*「ジュリアス・シーザー」(シェイクスピア作 小田島雄志訳 白水社Uブックス)
☆写真は、パリ クリュニー中世美術館敷地内にある、ローマ時代の浴場。像は、いつの時代か未確認。
ハリウッド映画より、英国映画が好きなのは、ブラピやジョニデが出てなくても、英国の風景が写るからです。
が、イギリスの有名俳優・女優陣が出演する映画「マリーゴールドホテルで会いましょう」は、ほんの一瞬しかイギリスの風景が写らず、ほとんど全編インドの風景でした。(わかってたんだけど・・・)
老後をインドのホテルでゆったり過ごすという謳い文句に誘われて集まった7人のシニアの男女。看板に偽りありで、なかなかシビアなマリーゴールドホテル。7人それぞれの異文化体験、それに、未熟だけれど、一生懸命なインド人の青年支配人がからみ、・・・といった、老後の生き方指南みたいな映画でした。
インド人の青年支配人は、映画「スラムドッグ$ミリオネア」のジャマール役のデーヴ・パテール。そして、映画の中心になったジュディ・デンチは、「至上の愛」のビクトリア女王のときも、「アイリス」でアイリス・マードックというアルツハイマーになった作家・哲学者を演じたときも、よかったけれど、この普通のおばさんも、なかなか素敵に味わい深い。しわも、おなかも、隠さなくても魅力的。同じくマギー・スミスもしわだらけなのに、チャーミング。二人は同じ年。映画の登場人物より、この女優さんたちの生き方に興味があるかも。
そういえば、ヴァイオリン演奏の美しかった「ラヴェンダーの咲く庭で」という映画では、このお二人、共演していました。あの映画なら、英国コンウォールの海辺が、写っていたんだけど・・・
☆写真は、スイス レマン湖畔ホテル ウェルカムフルーツ。
「フィンランド語は猫の言葉」 (稲垣美晴著 講談社文庫 猫の言葉社)
(「フィンランドの小人たち」から続き)
絵本「フィンランドの小人たち トントゥ」は、以前、文化出版局から出版されていたのですが、今は、「猫の言葉社」から出ています。加えて、訳者、自らが書いた留学記「フィンランド語は猫の言葉」も以前は、講談社文庫だったのが、今は「猫の言葉社」から出版されています。ん?この短い文章に「猫の言葉」が何度登場?
例えば、「オックスフォードで学ぶということ」が「静」の留学体験記なら、この「フィンランド語は猫の言葉」は「動」の留学体験記です。で、著者は翻訳家になり、ついには、自分の本を出版・再版する出版社「猫の言葉社」なるものまで作ってしまいます。
ともかく、凄い行動力。筆の勢いも勇ましく、思わず、笑ってしまう個所も多々あり、東京芸大の卒論で、フィンランドの画家アクセル・ガレン=カレラの「カレワラ」を書き、その後、ヘルシンキ大学で、フィンランド語を勉強した著者ならではの文章かと思います。ともかくマルチな才能とバイタリティ溢れる方のようです。
そして、そのひたむきに打ち込むエネルギーと、フィンランドを愛する気持ちが高じ「出版社」を興したといえましょう。
あとがきで著者は言います。
≪・・・ことばって、とても不思議です。どんな角度から取り組んでも興味の種は尽きません。すべてのエネルギーを費やしても惜しくないほど、ことばには魅力があるのです。だから、この本は、私の『エネルギー白書』でもあります。『エネルギー白書』と呼ぶのが勇ましすぎるなら、美しいフィンランドに宛てたラブレターとでも呼ぶことにしましょうか。夏も冬も、いつも美しい姿で私を魅了し続けた国なのですから。・・・≫
*「英国 オックスフォードで 学ぶということ―今もなお時が豊かに積もる街」(小川百合 講談社)
☆写真は、英国 ヘミングフォード村の茅葺屋根で 考え事をしている猫
「フィンランドの小人たち トントゥ」
(マウリス・クンナス作 いながきみはる訳 猫の言葉社 偕成社)
(「彫刻家の娘」から続き)
(承前)
フィンランドの絵本は、ムーミンだけではありません。
「フィンランドの小人たち トントゥ」は、マウリ・クンナスの絵と文による、14話のトントゥの話です。
トントゥは、家や納屋のどこかに住んでいる守り神の妖精です。大切に扱ってくれるところには、それなりのお返しを、粗末に扱うところには、それなりの見返りを。
姿かたちもスェーデンの「トムテ」やノルウェーの「ニッセ」とよく似ています。個人的には、この絵本の絵の描き方より、ハラルド・ウィーベリ描く絵本「トムテ」「きつねとトムテ」*、シェル・E. ミットゥンの挿絵「スクルッル谷のニッセ」*のような絵が好みです。とはいえ、14の短いお話は、それぞれ楽しく、軽妙な絵は、短いお話と共に愉快なものです。
その中の一つ、「こくもつトントゥとぼたん」
穀物小屋の屋根が雪でつぶれ、だれかが泣いていました。迷子と思ったペッカは、そりに乗るように言いますが、誰もいません。ところが、ペッカのサウナ小屋までくると、そりががたんと揺れ、誰かが降りたようでした。でたらめ言葉をいうのが好きなペッカは、「いったい、なんてこった。ぼたんのぼろぽろろ。トントゥがいたわけでもないだろうに。」・・・・すると、不思議なことに、サウナ小屋には、いろいろな物が増えて行きます。あるとき、荷物を背負ったトントゥにぶつかりそうになったペッカは驚いて「きゃあー、100万個のぼたんがぼんたったー。」と叫びます。朝になると、小屋中、ぴかぴかのボタンでいっぱいになっていて、ペッカはボタンを市場に売りにいき、お金をもうけたと言うお話。
(「フィンランド語は猫の言葉」に続く)
*「トムテ」ヴィクトール・リードベリ(詩)ハラルド・ウィーベリ(絵)山内 清子訳 偕成社
*「きつねとトムテ」カール・エリック・フォーシュルンド(文)ハラルド・ウィーベリ(絵)山内 清子訳 偕成社
*「スクルッル谷のニッセ」オーヴェ ロスバック(文)、シェル・E. ミットゥン(絵) 山内清子訳 金の星社
☆写真は、刺繍ボタン(撮影:&Co.H)
「北の魔女 ロウヒ」
(トニ・デ・ゲレツ原文 さくまゆみこ編訳 バーバラ・クーニー絵 あすなろ書房)
(「軟膏と鉄」から続き)
(承前)
「カレワラ」の主要登場人物のロウヒの視点で描かれた絵本です。
本来なら、ロウヒは、ポポヨラに住む邪な女主人なので、もっと厳しく描かれてもいいのですが、この絵本は、ロウヒの視点で描かれていますから、醜いというより、ちょっと意地悪婆さんという感じです。暗い世界、明るい世界が描き分けられていて綺麗な絵本になっています。
絵本の大筋はこうです。
ワイナモイネンがカンテレという楽器を奏で歌うと、森のけものたちだけでなく、月や太陽もロウヒまでもやってきます。ロウヒは「いたずら心」から、月と太陽を持ち去り、山に閉じ込めてしまい、辺り一面真っ暗で寒くしてしまいます。ところが、鍛冶屋が、ロウヒをひっとらえるために鉄の首輪と鉄の鎖を作っているのを知ると、あわてて月と太陽を返し、ふたたび、昼と夜にわかれ、季節もめぐってくるようになります。
この辺り、岩波文庫の「カレワラ」*では、三章分あります。その始まりはこうです。
≪強固な老ワイナミョイネンは 長らくカンテレを奏でていた、奏でそして歌っていた、まことに喜び溢れるように。 音曲は月の家まで聞こえ、歓喜は太陽の窓辺に達した。月はその家から出てきて、白樺の曲がり目に座った。太陽はその城より抜けて、松の木の頂きにおりた カンテレに聞き入るために、歓喜の調べを賛美した。 ロウヒ、ポポヨラの女主人(あるじ)は、ポポヤの歯抜け婆は、そこで太陽をしかと捕らえた、美しい月を手に摑んだ、月を白樺の曲がり目から、太陽を松の頂きから。彼らをすぐに家に連れ帰った。暗いポポヨラへ。 月を照らさないように隠した 縞目のある石の中へ、太陽を光らないように歌い込めた 鋼(はがね)の山の中へ。・・・・・・・≫
絵本でロウヒと出逢った子どもたちが、いつか「カレワラ」に出会ったら、どんな世界をイメージするでしょう。
(「彫刻家の娘」に続く)
*「カレワラ フィンランド叙事詩 (上)(下)」 (リョンロット編 小泉保訳 岩波文庫)
☆写真は、京都府美山町(撮影*&Co.A)
「カレワラ フィンランド叙事詩 (上)(下)」 (リョンロット編 小泉保訳 岩波文庫)
(「カレワラの国」から続き)
(承前)
「カレワラ」は、神話に近い伝承物ですから、つじつまの合わないようなところもありますが、そこは、この壮大な世界を楽しむのに、さほど支障にならないと思います。それに、科学とは程遠そうな物語、軟膏や包帯の呪文、疫病の起源、等など、実は、科学的根拠と繋がっていて、とても面白いです。
例えば、殺菌・抗菌効果のある蜂蜜を、傷に塗る軟膏として手に入れた経緯は、こうです。
≪ 軽快な者、蜜蜂は、再び軽く飛び立った 九つの海を越え、十番目の海半ば。 一日飛び、二日飛び、なお三日目も飛んだ、足で座ることもなく、葉に休むこともなく、海原の島へ、蜜の陣地へと、凄まじい急流(ながれ)の傍らへ、聖なる川の渦巻きへ。 そこで蜜が煮たてられ、塗り薬が作られた 親指くらいの大きさの、指先が入るほどの、小さな素焼きの壺の中で、綺麗な鍋の中で。 軽快な者、蜜蜂は、この軟膏を手に入れた。 ≫
また、鉄の起源は、とても興味深く、「カレワラ」の最初の方で出てくるのは、それ以降、作り出されるものの「元」となるからです。特に、鉄が「武器」としての「力」を持つところは、納得してしまいます。
鉄は、燃え立つ炎の中で、この苦痛から出してくれ、人を傷つけることはしないから、と誓いをたてます。鉄を鋼(はがね)として固める水に灰汁を用意するも、何か足りない。そこで蜜蜂に水に入れる蜂蜜を運ぶよういいます。
ところが、邪悪なスズメバチが、水の中に入れたのは、
≪・・・羽音をたてて飛んで、ヒーシ(*スズメバチ)の恐怖を投げつけ、蛇の毒を運んだ、蛇の黒い毒液を、蟻の痒い(かゆい)汁を、蛙の秘密の苦汁を 鋼を作る液の中へ 鉄を固める水の中へ。≫
≪・・・・そこで、鋼は悪くなり、鉄(くろがね)は怒りを発した、哀れな鉄は誓いを破り、犬のように名誉をさげすみ、哀れな兄弟に切りつけた、その身内を口にくわえ、血をば流させた、血潮を迸らせた。≫(「北の魔女 ロウヒ」に続く)
☆写真は、京都府 美山町(撮影:&Co.A)
「カレワラ物語―フィンランドの神々」 (小泉保編訳 岩波少年文庫)
「カレワラ フィンランド叙事詩 (上)(下)」 (リョンロット編 小泉保訳 岩波文庫)
(「フィンランドのくらしとデザイン展」から続き)
(承前)
「フィンランドのくらしとデザイン展」の目玉の一つは、フィンランドの画家アクセル・ガレン=カレラ(1865-1931)の絵画と彼の民族叙事詩「カレワラ」の挿絵原画でした。アクセル・ガレン=カレラのことはよく知りませんでしたが、「カレワラ」の挿絵原画にとても興味がありました。写真は、アクセル・ガレン=カレラの絵ハガキ3葉。左から「死と花」「音楽祭ポスター」「七人兄弟新刊ポスター」
カレワラは、フィンランドの伝承・説話をリョンロットがまとめ、天地創造から始まる壮大な民族叙事詩となっています。フィンランドと、かつてのロシア帝国、小さな国が大きな国に飲まれそうな時にその支柱としてあったのが、「カレワラ」だと言います。音楽家シベリウスの作品も、「カレワラ」に基づいたものが多いようです。
岩波少年文庫の「カレワラ物語」は、児童向きに、お話仕立てにし、カレワラのおおよその流れがわかるようになっていますが、この岩波少年文庫が読めるのなら、同じ訳者の岩波文庫「カレワラ―フィンランド叙事詩」*に、出会ってもいいのではないかと思います。
「カレワラ」は、もともと歌い継がれてきたものですから、繰り返しが多く、その流れ、そのリズムは、耳に心地よいものです。したがって、声に出して読んだり、大人に声に出して読んでもらうという方法も、「カレワラ」という世界に近づく一つの方法だと思います。
また、「カレワラ」では、呪文や復讐や課題や逃走や炸裂が連なり、巷で流行るゲームにちょっと似ているようにも思いますが、ゲームをしたことがないので、よくわかりません。何にせよ、どこからでも、この文学に近づくなら喜ばしいことです。(「軟膏と鉄」に続く)
☆蛇足ながら、「フィンランドのくらしとデザイン展」にあったアクセル・ガレン=カレラの老ワイナミョイネンが描く乙女アイノに求婚する絵は、どうも、乙女アイノが溺れる悲壮感より、乙女がふざけてからかっているようにしか見えなかったのは、この目が節穴なのか。ふーむ。
「フィンランドのくらしとデザイン展―ムーミンが住む森の生活」(~2013年3月10日まで兵庫県立美術館)
フィンランドの美術・建築・デザインの100年を紹介しています。カレワラの国フィンランド、マリメッコらオシャレですっきりしたデザインのフィンランド。
フィンランドの画家の作品、トーベ・ヤンソンのムーミンの原画や自画像等も出ていますが、美術展ではなく、「くらしとデザイン展」なので、ちょっと商品見本市みたいな雰囲気もあります。広く浅くフィンランドの暮らしを紹介していた展覧会でした。
さて、遠い国フィンランドというイメージですが、意外と、我が家では、お世話になっています。おもに、機能的な台所用品です。
写真左の茶色いポット、重いけど、さめにくい。我が家では、ほうじ茶を入れて、常時テーブルの上にあります。
カップ&ソーサーは、ソーサーが大きめで、カップとともにお菓子も載せられるので、ケーキ皿が要らない。
写真右は、展覧会にも並んでいたカップの別バージョン。カップを持つと、指がひっかかるので、持ちやすい。
奥の塩入れの蓋は木で出来ていて、意外と塩が湿気ません。木が湿気を吸収してくれるからでしょうか。砂糖も胡椒等も、同じような木の蓋のものを使っています。
写真に写るのは、すべて、フィンランドのものです。なんだか、北欧ビンテージSHOPのページみたいになりました。(「カレワラの国」に続く)
先日、映画「アルバート氏の人生」を見ました。舞台は、19世紀のダブリン。主人公は、アルバート氏と呼ばれるホテルのウェイター、男装の女性。この時代、女が生きて働くには、多くの職種がない時代でした。(現代でさえ、ままならない国々が多い。)
アルバート氏は、ささやかな夢のために、慎ましく、ささやかに暮らしていました。そして、下品な生き方はしたくないアルバート氏の仕事は誇り高いものでした。
19世紀のアイルランドの飢饉、イギリスによる支配。貧困が貧困を生み、多くの哀しみを生む。新天地アメリカへ!という夢。そこから生まれる力や傷み。映画は、苦く、思わぬ結末なのに、何故か、一縷の光。
上の写真は、1998年アイルランド首都、ダブリン。フィルムカメラの現像写真を接写しました。
写真に写る緑の二階建てバス。右端に写る緑のポスト。あと、公衆電話も緑でした。
緑多き国の緑、国のカラ―の緑。
同じ形の二階建てバス、ポスト、公衆電話、イギリスでは赤です。
アイルランドの緑のポストをよく見ると、イギリスのロイヤルポストマークは、削られ、その上に緑色で塗装しています。そうです。イギリス支配時代のものを塗り替え使用しているのです。
国によっては、支配者、支配勢力が変わると、一切合財、壊してしまうということも、ままあります。アイルランドは、壊さず、そのまま、色を変え、使っています。財政難という理由もあるかもしれませんが、支配されていた苦しみを忘れない、静かなこぶしのように見えます。
どこの国も、隣の国は選べない・・・。核実験、大気汚染、民族支配。
鶯の鳴き方は、ホーホケキョばかりではありません。
鶯が、チャッチャッチャッと鳴いていると、どこ?どこ?と探します。春先の葉っぱの落ちた木なので、ホーホケキョのときより見つけやすい。
メジロかと思うものの、色もウグイス色じゃなく、目の周りが、白くないから、ウグイスさん。鳴き方だけでも、春以降の高鳴き(いわゆるホーホケキョ)、谷渡り(いわゆるケキョ、ケキョ、ケキョ)、それに目立たず春まで笹鳴き(チャッチャッチャッ)。
もうすぐ、ホーホケキョと鳴くでしょう。
春はそこまで。雨水(うすい)も、近い。
雨水のその日は、末っ子の誕生日。前日まで降っていた雪が雨にかわって、彼女が生まれた頃には、雪が溶けていた・・・暦通りで、ちょっと感激したこと覚えています。
クリスマスから帰国していた末っ子も、ようやく、英国の下宿へ戻りました。
(留学先で、同じ敷地内の転部希望を出したら、再度、新しいビザの発行が必要で、その手続きのため、帰国していました。)
☆写真は、六甲山 七曲滝。(撮影&:Co.A)

「王子と乞食」
(マーク・トウェイン作 大久保博訳 F.T.メリル J.J.ハーリ L.S.イプスン絵 角川書店)
(「王子と乞食 1」から続き)
(承前)
岩波文庫の「王子と乞食」の挿絵が、ロバート・ローソンでよかったものの、絵が少ないような気がします。
ところが、角川書店 大久保博訳の「王子と乞食」は、初版(1882年)予約本の時の挿絵を、ふんだんに掲載しています。何故にこんなに多いのか。それは、当時のアメリカの出版事情を訳者あとがきから、知らなければなりません。
≪…今日のように、現物を書店に置くのではなく、注文取りが挿絵入りの内容見本を持って一般家庭を一軒一軒まわりながら、予約注文を取り、その注文に応じて出版社が必要な部数を印刷し、出版するのです。挿絵があるかないか、その挿絵がすぐれたものであるか否かで、注文の数に大きな差が出ます。ですから、トウェインは挿絵の利用にはずいぶんと気を遣い、多額の経費を自分で負担してまで立派な挿絵を収録しようとしました。≫
そうかぁ!だからかぁ。
また、あとがきには、こうも書かれています。≪トウェインは、挿絵に描かれた登場人物の服装や、室内装飾、建築物、背景などの出来栄えを見て感心し、特にこの物語の舞台となっているチューダー王朝の正確な描写にことのほか満足しました。≫
訳者は、初版本を所蔵し、新訳・完全版だと胸を張ります。
確かに、絵を見るだけでお話がわかるくらい、たくさんの挿絵がついてます。それに各章の小見出しの素敵な事。
装丁や挿絵だけ見ていると、アメリカの本ではなく、「王子と乞食」の舞台、イギリスの本のように思えます。
☆写真は、ロンドン、チープサイド付近の通りからセント・ポール寺院を見る。この辺りは、「王子と乞食」のトム・カンティの生活圏だったところ。(撮影:&Co.H)
新聞等に「リチャード三世の遺骨確認」(2013年2月5日日経朝刊)とありました。
英国のリチャード三世(1452~1485)が埋葬されていたとみられる教会自体が取り壊され(1530年代)、不明だったらしいのですが、近年になって、今は駐車場となっていた場所を掘り起こすと、教会の遺跡と共に、リチャード三世の遺骨も出土、そしてこの度、鑑定後、確認。遺骨は、歴史の記述どおり、背骨が著しく湾曲している特徴を持ち、矢が刺さり、頭蓋骨には刀による損傷(殴打痕)があって、戦闘で死亡、とのこと。
ふむ、ふむ、そうなんだ。
映画「もう一人のシェイクスピア」で、ロンドン・グローブ座の俳優、Mark Rylanceが、背中の曲がったリチャード三世を演じていましたが、この「リチャード三世」の戯曲は、当時、市民から嫌われていたロバート・セシル(1563~1613)というエリザベス一世時代の宰相が、リチャード三世と同じような体つきだったところからも、大衆劇として、深い意味を持つようです。
シェイクスピア描くところの「リチャード三世」はともかく、悪人です。
エドワードや、ヘンリーや、同じ名前や同じようなカタカナ名前のつく、人物が複数出てきて、日本人には、なかなかなじみにくい人間関係ではありますが、やっぱり、面白い。
特に、エリザベス(あのエリザベス1世ではなく、ヘンリー六世の未亡人)と、リチャード三世が、言葉の応酬をする場面は、圧巻です。罵詈雑言、奸智術数。言葉のみで変化していく人の心。かなりの長丁場です。生の舞台でこの場面を見たら、まちがいなく、ぞくぞくすると思います。
リチャード三世の最大の悪事は、まだ幼い二人の王子をロンドン塔に幽閉し、殺害したことだと言われていますが、
シェイクスピアは、「リチャード三世」で、幼いエドワード王子に、こう言わせます。
「ほんとうのことは、子々孫々に語り伝えられ、時代を越えて生き続けるものでしょう、最後の審判の日にいたるまで?」
恐るべし、シェイクスピア。(「倫敦塔」に続く)
*「リチャード三世」(シェイクスピア 小田島雄志訳 白水社Uブックス)
☆写真は、シェイクスピア「リチャード三世」の舞台の一つ、英国ロンドン塔。(撮影:&CO.H)
(「おきなさい、農場! 」から続き)
(承前)「がちょうのペチューニア」シリーズのデュボアザンは、夫人のルィーズ・ファティオの文と組んだ絵本が数多くあります。夫婦で一時期住んだフランスの動物園が舞台の「ごきげんなライオン」*は、シリーズとなっていきました。以前は、佑学社から出ていましたが、今は、新訳になって、BL出版から出ています。
最近、シリーズ最後の1冊が新訳で出版されました。「ごきげんなライオン おくさんにんきものになる」*です。この絵本は、アメリカで1980年に出版されました。デュボアザンは、その年に亡くなります。夫婦で歩んできた「ごきげんのライオン」シリーズの最後の主人公が、「おくさん」であるというのもなかなか味があります。
二人(二匹)は、今まで通り、いたわりあって、仲がよい。ごきげんなライオン(画家)が、おくさんに惚れたのは、きっと、彼女の謙虚さであり、その愛情深さなのだとわかります。もちろん、絵本を読んでもらう子どもたちは、こんなこと、まったく関係なく、おくさんのファンシーなたてがみ客寄せ作戦を楽しむことでしょう。で、無事に戻ってきたライオンくんを喜び、尻尾をからませ、身体をすり寄せる二人(二匹)に、にっこり。
*「ごきげんならいおん」
ルイーズ・ファティオ文 ロジャー・デュボアザン絵 村岡花子訳 福音館
*「ごきげんなライオン おくさんにんきものになる」(ルイーズ・ファティオ文 ロジャー・デュボアザン絵 今江祥智、遠藤育枝訳 BL出版)
*「三びきのごきげんなライオン」
ルィーズ・ファティオ文 ロジャー・デュボアザン絵 晴海耕平訳 童話館
*「ごきげんなライオン アフリカでびっくり」「ごきげんなライオン しっぽがふたつ」
ルィーズ・ファティオ文 ロジャー・デュボアザン絵 今江祥智訳 BL出版
*「ごきげんならいおん ともだちさがしに」「ごきげんなライオン ともだちはくまくん」「ごきげんなライオン たのしい空のたび」「ごきげんなライオン すてきなたからもの」ルィーズ・ファティオ文 ロジャー・デュボアザン絵 今江祥智・遠藤育枝訳 BL出版
☆写真は、旭山動物園ライオン 寝てます。(撮影&Co.A)
(「おばかさんのペチューニア」から続き)
(承前)
ペチューニアのシリーズを、それぞれ、手に取ってみますと、彼女の悩み多き姿が見えてきます。
「ペチューニアのうた」では、自分の声がしゃがれているので、ため息をつき、≪うたが上手になりたいなぁ・・・≫
「ペチューニアのたからもの」では、まだ見ぬ宝箱の中に金貨が詰まっていると妄想し、
「ペチューニアごようじん」では、となりの草の方がおいしそうに見えるので、どんどん行くが行くのですが・・・
そして、「ペチューニアのだいりょこう」では、なんと、飛ぶためにどうしたらいいか→痩せて、筋力UP→美容体操だ!(ほら!どこか身近でも意識することでしょう。)
・・・・と、煩悩まみれの日々を暮らすペチューニアなのです。もちろん、最後は、ちょっと賢くなって、また明るい農場生活。
とはいえ、こんなペチューニアもいつしか落ち着き、本当に賢くなりました。
ペチューニアシリーズではありませんが、 「めうしのジャスミン」で、一風変わったジャスミンが、みんなから非難される場面の最後に、進言し、場を収めたのは、誰あろう、ペチューニアその人なのです。
ペチューニアは言います。
≪めうしでも、だれでも、自分のすきなかっこうを してはいけないってことはないとおもうわ≫
ペチューニアは、モウ、おばかさんではありませんでした。(「おきなさい、農場! 」に続く)
*がちょうのペチューニア(ロジャー・デュボアザン作 松岡享子訳 冨山房)
*ペチューニアのうた(ロジャー・デュボアザン作 ふしみみさお訳 復刊どっとコム)
*ペチューニアのクリスマス(ロジャー・デュボアザン作 ふしみみさお訳 復刊どっとコム)
*ペチューニアのだいりょこう(ロジャー・デュボアザン作 松岡享子訳 童話館)
*ペチューニアごようじん(ロジャー・デュボアザン作 松岡享子訳 富山房)
*ペチューニアのたからもの(ロジャー・デュボアザン作 乾侑美子訳 童話館)
*めうしのジャスミン(ロジャー・デュボアザン作 乾侑美子訳 童話館)
☆写真は、英国 湖水地方 イースワイク付近 仲良く木蔭を分けあって雨宿り中の牛さん。(撮影:&Co.I)
「がちょうのペチューニア」 (冨山房)は、以前「おばかさんのペチューニア」(佑学社)という題名で出版されていました。現在の題より、前の「おばかさんの・・・」の方が、彼女の憎めない人生を端的に表わしていて、好みです。
「がちょうのペチューニア」は、シリーズで出ています。
どれも、ペチューニアの発想に親近感を覚え、楽しいです。
まず、「がちょうのペチューニア」では、『本を持ち、これに親しむ者は、賢くなる』と小耳にはさんだことを実践するペチューニア。本と一緒に眠り、本と一緒に泳ぎ、本を持ち歩き、本を持っただけで「うんと賢い」と思い込み、どんどん どんどん 首が伸びます。鼻高々でなく、首高々。
そう!本を買っただけで、読んだような気になっている誰かには、少々、耳が痛い。それで、ペチューニアは、とんちんかんな悩み相談を続けるも、最後は、花火の「きけん」という字が読めなくて・・・バーン!
ペチューニアの得意も、賢さも、花火と一緒に吹き飛んだあと、彼女が考えて、考えて、考え抜いたのが、
≪本はつばさの下にはさんで、もちあるくだけじゃだめなんだわ。本のなかみを 頭や心にいれなくちゃいけないのよ。そして、そのためには、字をおぼえなくちゃね。≫(「煩悩まみれの日々」に続く)
*がちょうのペチューニア(ロジャー・デュボアザン作 松岡享子訳 冨山房)
☆写真は、英国マーロー付近 テムズ川
節分には、豆まきをするのですが、以前の一軒家だと、心おきなく「鬼は外!」と豆を外に投げることができました。今は、マンションなので、道路に歩く人が居ても困る、ベランダやバルコニーの溝に詰まっても困る・・・などという制約のもと、それでも、一人少量を手に持ち、一つだけ鬼は外!と、豆まきします。残りは、福は内!か、口に福!
朝になってマンションの前を歩くと、多分、子どもがあまり大きくない世帯から投げられたと思われる豆の、車に轢かれた残骸をみることできます。
50年も昔の神戸の子どもは、豆まきがせいぜいでしたが、最近は、恵方巻きと言って、巻きずしを丸かぶりする風習が広まっています。巻きずし協会の、地道な努力でしょうか。巻き寿司の予約とか、あるいは、節分当日の巻きずしコーナーの長蛇の列とか。
バレンタインデーのチョコレートといい、恵方巻きといい、もともとは、行事の少ない、一番寒い時期の2月ならではの新しい商戦といえましょう。
それにしても、お正月1月3日、コンビニに「予約受付中…今年の恵方巻き」というのを見たときは、ビックリしました。まだお正月3日だったのですから。お商売というのは、先手必勝、「まめ」でないとだめなのです。節分だけに。
☆写真は、巻き寿司に似せた節分限定の和菓子!求肥や羊羹入ってます。
いくら、朝が得意だと言っても、この時期、お布団からでる勇気がなかなか湧いてきません。油断したら、おっとっと・・・
目ざまし時計に負けてしまい、「ごめーん、寝過ごした」ということは、滅多になく、ほとんどは、目ざまし時計が鳴る前に、眼が覚める性分。
目覚めると、すぐにトップギアに。午前中は、快調で、誤字脱字も「ここですよ、☆ピカッ☆」と、眼に飛び込んでくるものの、午後も遅くなり、特に家人の夕飯以降は、口数少なく、一気に減速。誤字脱字を生産し続けるだけでなく、ほとんど、眠った状態。もちろん、本を読んでも、すぐに、パタン。
そう言えば、大学受験のときも、ラジオ講座の始まる心地よいテーマ音楽で眠り、終わりを知らせる音楽か、全然違う番組の声で眼が覚め、「やっぱり、寝よっ」と、あきらめたことを思い出すなぁ・・・
閑話休題。あのラジオ講座の音楽が、ブラームスの「大学祝典序曲」の一部と知ったのは、ラジオ講座以外で、聴いた時でした。お、あのメロディ~♪♪大学受験に誘う名曲も、当時の私には、睡眠誘導のメロディ。
さて、「お母さん、お風呂湧いたから、先に入って」という声に促され、ぼーっとしたまま、お風呂に入り、「そうそう、あれ、しておかなきゃ」と、思い出し、パジャマに着替えて、パソコンの前に坐るも、やっぱり、無理。
☆写真は、京都府 美山町(撮影:&Co.A)
新年明けて、もう2月。
たまたま、暖かい、2月の始まり。
我が家の冬場乗り切り法の一つは、
毎朝のお味噌汁に、生姜をすって入れること。
もう一つは、無農薬野菜の配達を20年以上してもらっていますが、
この時期は、レモンが大量に手に入るので、
定番のホットレモンに始まり、
白菜のレモン漬け(塩と胡椒味)。
この底に溜まったレモン汁を、「ひゃー」とか言いながら、すごい顔で飲み干すと、
これで、風邪はひきません(ような気がする)。
まだ、長男が家に居た頃、これを飲み干したら必ず眼鏡が曇っていたので、
今も「お兄ちゃんの眼鏡が曇った白菜の酸っぱいのん」という名前のおかずです。
多分、レモンの酸っぱさより、多めの胡椒に反応したもののと思われます。
それから、最近、私だけ、寝る前にレモンを絞った炭酸水を、
これまたすごい顔で飲み干すと、
これで、足もつりません(ような気がする)。
さて、もう一息、体調を崩さないよう、お互い気をつけましょう。
☆写真は、スイス グリンデルワルト 氷河のそばに咲いたカルタ・パルストリス(撮影;&Co.A)