FC2ブログ
 

みんなみすべくきたすべく

桜の花の満開の下

34近衛邸しだれ桜j
  「桜の森の満開の下」 (坂口安吾 講談社学芸文庫)
 山賊にさらわれてきた美しい女が、都の生活で、新しい首を所望し、渇え、弄ぶ。 ところが、山賊は、山の暮らしに戻りたい。そして、桜の満開の森を通って、山に戻るとき・・・
 坂口安吾の、この話を初めて読んだのは、10代の後半だと思います。一度読んだら忘れられない、どろどろした妖しい世界に、どきどきしながら読んだ記憶があるものの、後味よくないなぁ・・・。しかも、桜が満開の木の下に立って、ウキウキこそすれど、山賊が感じたようなゾワゾワした気分を味わったことがない鈍感な身としては、ずっと、「桜の森の満開の下」を「桜の花の満開の下」と思い込んでいました。勝手に、森を一本のとてもとても大きな桜の木と解釈していました。いつのまにか、梶井基次郎の「桜の樹の下には」*と混ざってしまっていたのかもしれません。
 その間違いに、この歳になってやっと気付きました。以前書いた「春を待つ日のアドベントエッセイ」の「若ジェラード」 (ファージョン)の項でも、きっちり間違っております。今頃、誤記に気付きました。誤記は、わが身のいい加減さを露呈していますが、今、再び、この2冊を読み返しても、「若ジェラード」は、春に一押しのサクラの話に変わりありません。これは、好みの問題です。
 「若ジェラード」のサクラは、一本の継穂から枝を伸ばし、二人が結ばれたときに、初めて花を咲かせます。散ることは書いてありません。完全なハッピーエンディングです。咲いてこそ、美しい。
 ところが、「桜の森の満開の下」のクライマックスは、散り染めであり、満開の桜が、散る美しさというものと、醜さを対比させています。散り際の美しさを際立たせるには森の暗さも要るし、心の闇にも森の深さは通じます。だから、勝手に一本の大きな満開の桜をイメージしていたのは、明らかに読解力不足ということだったのです。日本人の美意識。狂気への道。死への道。散ってこそ、美しい。
 この二つの作品の「桜」の捉え方を、深く論じる力はありません。しかしながら、同じ美しい花でも、なかなか散らず、長い間咲いているように見える英国の桜と、開花情報を収集し、季節のあいさつに「桜」を用いる日本人の桜、象徴するものに、ずいぶん違いがあって、それがまた面白いと思います。

*「檸檬」梶井基次郎 新潮文庫
*「リンゴ畑のマーティン・ピピン」
(エリナー・ファージョン作 石井桃子訳 リチャード・ケネディ挿絵 岩波書店)

☆写真は、京都御所一般公開中(4月4日~8日)の外苑、旧近衛邸しだれ桜。2012年4月4日撮影

PageTop