みんなみすべくきたすべく

ハナミズキ通り

57モッコウバラと金魚草j58はなみずきj
59白つつじj60芝桜j
61ふじj62ランタナj

 近くに、白・ピンク・濃いピンクのハナミズキが植わっている通りがあって、桜が終わっても、通る人々を楽しませています。桜と違って、風にも強い。また、近場の散歩も、この前のビビッドカラーの木の花は、終わり、家々の塀をあふれ出る花々が綺麗です。
 
 あ!今、ウグイスが、マンションの谷間で鳴いてます。

☆写真は、上左はモッコウバラと金魚草、上右はハナミズキ
 中左はつつじ、中右はシバザクラ、下左は公園のフジ、下右はランタナ。

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「書くこと」についてとおなじくらい「読むこと」についての本

54新大英博物館j

≪「琥珀捕り」から続き≫
(承前)
 百科事典みたいな、打ち出の小槌みたいな本「琥珀捕り」の作者あとがきに、こんなことが書いていました。
≪・・・『琥珀捕り』は「書くこと」についてとおなじくらい「読むこと」についての本である・・・≫

 そうなんです。こんなちっぽけな雑文ブログでも、ちょっと書くために、ずいぶん読まないと書けないし、検索して確認しないといけない・・・・
 つまり、「琥珀捕り」のようなエピソード満載、縦横無尽、変幻自在のお話だと、空前絶後の読書量と下調べが要ると思われます。そして、同じ作者キアラン・カーソンは、続編?の 「シャムロック・ティー」  (栩木伸明訳 東京創元社)を「書く」ときも、同様に「読んだ」と思われます。(「シャムロック・ティー」に続く)

☆写真は、ロンドンの大英博物館

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子どもの本でちょっとお散歩(川 その7)

 52ベルンアーレ川j
 「ラインの黄金―ニーベルンゲンの指環」 
(リヒャルト・ワーグナー作 寺山修司訳 アーサー・ラッカム絵 新書館)
ライン河の水面に青い水輪をゆらめかせながら、髪の長い少女ヴォークリンデが泳いでいる。
『この世の果ての揺り籠へ 
流れてお行き、ちぎれ雲
流れてお行き、水すまし』
歌う声はいつの間にか小鳥の囀りにかわり、峡谷(たに)から峡谷(たに)へとこだまする。

 ワーグナーの楽劇「ニーベルンゲンの指環」(4部作)の第一話が、この「ラインの黄金」です。北欧神話やローレライ伝説などのドイツ伝説をもとに作られ、一つの指環をめぐって繰り広げられるこの物語は、寺山修司の訳で臨場感溢れ、オペラの鑑賞とは縁遠い者にも、その面白さが伝わります。オペラの実際は、素晴らしいのでしょうねぇ。全部楽しむには、4夜15時間かかるらしい・・・
 そして、この新書館の「ラインの黄金―ニーベルンゲンの指環」の魅力は、もちろん、アーサー・ラッカムの挿絵!不思議で妖しい世界に近づくことができます。アーサー・ラッカムの描く髭のアルベリッヒは、「黄金の川の王さま」*でリチャード・ドイル描く黄金の王さまにちょっと似ています。かたや、黄金を盗み出し、かたや黄金を生み出すという違いがあるものの、妖しい世界に生きる向こうの世界の人という点では一致しています。もちろん、キーワードは「川」。

*「黄金の川の王さま」(ジョン・ラスキン文 リチャード・ドイル他絵 富岡太佳夫・芳子編 青土社)

☆写真は、スイスの首都ベルンを流れるアーレ川。ライン河にそそぐ支流の一つだそう。ドイツに行ったことがないので、ラインの写真のデータがありません。が、検索していたら、ん?ライン河はスイスから流れ込んでいる?もしかしたら?と調べると、アーレ川という川が、スイス中部を源としベルンを流れ、北上。結果、ライン河にそそぐということがわかったのです。で、ベルン(Bern)の語源ともなった熊(Bär)の像のあるアーレ川の写真です。

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生誕100年 彫刻家 佐藤忠良展

55佐川美術館j
楽しみにしていた琵琶湖の景色。
黄砂のせいで、比叡山も琵琶湖も、全然見えません。
電車とバスを乗り継いで、着いたのは「佐川美術館」。

ほとんど入館者も居なくて、ゆっくり鑑賞できました。
朝早く行ってよかった。
彫刻を見て、涙が出そうになったのは、どうしてでしょう。
本物に会えたからでしょうか。
そこには、生きた人間が居ました。
どの人も、語りかけてくれます。
「奇をてらう」とは縁のない自然な世界。
じかに触れることのできる作品もたくさんあります。
彫刻家 佐藤忠良に、より近づける気がします。
大好きな絵本「木」*の原画もありました。
木を見る温かくて優しい目。
絵本「おおきなかぶ」*の原画の連なりの前では、小さな声を出して、歩きました。
「おじいさんが かぶを うえました。
『あまい あまい かぶになれ。おおきな おおきな かぶになれ。』」
歩くリズムは、
「うんとこしょ どっこいしょ ところが かぶは ぬけません。」
穏やかで豊かな時が流れました。

*「木」(木島始文 佐藤忠良画 福音館)
*「おおきなかぶ」(A.トルストイ文 内田 莉莎子訳 佐藤忠良画 福音館)

蛇足ながら、平日の午前早くは、ゆったり鑑賞できましたが、11時を過ぎる頃には、団体のおじちゃんおばちゃん、少人数のグループ等、少々賑わってきました。もし、足を運ばれるのであれば、空いている日時をお選びになることをお薦めします。

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琥珀捕り

       51琥珀ペンダントj
クレー・フェルメール・ピカソ≫から続き
(承前)
 フェルメールは、何年か前「青いターバンの少女・真珠の耳飾りの少女」が来日して以来、ときめいています。
 この展示には、フェルメールの作品と同時代の他の人の作品もあったのですが、一目散に「青いターバンの少女・真珠の耳飾りの少女」のある最後の部屋に行きました。会期初めに行ったので、「後戻りしないでくださーい」というアナウンスもなく、かの絵をみてから、他も、鑑賞しました。
 が、「青いターバンの少女・真珠の耳飾りの少女」は、じっと見て、ずっと見て、もう一回離れて見て、帰ろうとして、もう一回見て、それでも、「ねぇ」と、呼びかけるものだから、もう一回見て。帰れなーい。こんなに、後ろ髪をひかれたのは、この絵が、一番じゃないかと思います。

 フェルメールのことは、たくさんの文化人や作家が紹介しています。アイルランドの作家、キアラン・カーソン「琥珀捕り」 (栩木伸明訳 東京創元社)の中でも、何度も登場します。
 フェルメールの作品―特に、「デルフトの眺め」を熱く語るだけでなく、贋作者のことまで書いてあります。もっとも、この「琥珀捕り」という百科事典のような文章は、チューリップの投機話あり、アイルランドの昔話あり、ギリシャ神話あり、紅茶の紹介あり、マルメロのゼリーの作り方あり・・・のイメージの広がりとそのつながりを堪能する1冊ですが、オランダという一本の柱が立っています。もう一本の柱は、題名にもなっている「琥珀」。琥珀にまつわるエピソードも随所に出てきます。
 この「琥珀捕り」という本は、琥珀が生きたままの虫を閉じ込めたように、「生きたまま」の話を閉じ込めているってこと?
(≪『書くこと』についてとおなじくらい『読むこと』についての本≫に続く)

☆写真は、英国アンティークの琥珀のペンダント、中に虫とその羽根が入っています。

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クレー・フェルメール・ピカソ

50ポールクレー前j
 おばちゃんになって大学院に行っていた頃、フランス文化論という授業がありました。学期途中で、突然、先生がお亡くなりになったので(うーん、残念!)、新しい先生に変わりました。自己紹介を兼ねて、誰の絵が好きか?と問われました。それで、クレー、フェルメール、ピカソというと、バラバラやね。みたいなことを指摘されました。そうかなぁ、クレーは、どう言っても、一番好きだし、フェルメールは心惹かれるし、ピカソの多くの作品からは元気をもらえるんだけどなぁ・・・何度眺めても、飽きない絵とか、いつ見ても、新しい発見がある絵とか、部屋に飾るに、いい絵とか、優しい気持ちになる絵とか、えぇー?と思う絵とか、いろいろあるから絵画は、面白い。一枚の絵を見に、はるばる極東から西欧まで行くこともあるわけだし。あるいは、やっと日本に来た展覧会に並ぶわけだし。ともかくも、一枚の絵の見方など、本当に個人的なものですね。
 とはいえ、混んでいる展覧会は、避けています。どうしても、このときしか見られないという絵画も、混雑していると知ったら、あきらめるか、せいぜいその一枚を見るだけに絞って、時間を考え、突入します。
 以前、ロンドンでフェルメールがまとまって展示されたことがありました。たまたま、英国に行っていたので、予約して入場しました。人の頭しか見えないような展覧会でなく、日本だと、えらいことになるに決まっているフェルメールを心おきなく鑑賞しました。予約という手間をかけた人、あるいは、当日に割り当てられている券を、早朝等に入手した人しか、入場していませんから、雰囲気も落ち着いていて絵画鑑賞にぴったりなのです。どこかの国で、「無料券もらったから」、「みんな行ってるから」、「とにかくわいわいがやがや行ってみよう。」と、人が集まるのと、ちょっと違います。日本も大きな企画展は、予約制にしてほしい・・・(「琥珀捕り」に続く)
☆写真は、スイス、ベルン、パウル・クレー美術館前のPのオブジェ。

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ねこのオーランドー

         53オーランドーj
 古書店Fabulous OLD BOOK主催の絵本講習会に参加しました。講師は矢野有先生で、「子どもの本」のエキスパートです。たくさんの絵本(古書)を実際に手にとって見せていただけるのが、講習会の大きな魅力でした。
 今回のテーマは、「ペール・カストールの絵本シリーズについて」で、フランスのこのシリーズの果たした役割の大きさをお話くださいました。「子どもたちの興味や可能性に本を合わせ、新しい本作りに取り組む」というポール・フォーシェが創刊したこのシリーズには、お話だけでなく、図鑑的なものや、工作や切り絵・塗り絵ができるもの、青や赤の眼鏡で見えるものが異なるものなどもありました。多くは、ずいぶん洗練され、オシャレで、さすがフランスという感じがし、子どもたちのために質の高いものを提供していたのがよくわかりました。「川はながれる」のロジャンコフスキーも、「りすのパナシ」「野うさぎのフルー」「かわせみのマルタン」「かものプルッフ」「くまのプウル」*等で参画し、シリーズの質を高めました。
  また、「ペール・カストールの絵本シリーズ」は、見栄えより内容を重視するため、ペーパーバック絵本でしたが、これは、当時、旧ソ連のぺらぺらした絵本が影響を与えたということでした。そして、ギフトブックという豪華な絵本が主流だった英国の絵本にも影響を与えました。
 そこで、先日、古本海ねこさんの目録で購入した英国のペーパーバック絵本「オーランドーの動物園」**が、その影響を受けた石版刷りのものだと判明し、嬉しくなりました。

 実は、この講習会を紹介してもらったのは、海ねこさんが2月にひらいた「絵本みせびらかし対決」に、参加できなかったことに端を発しています。今回、きちんと書肆整理なさっている謹厳な矢野先生に、恐れ多くて冗談でも「絵本見せびらかしの会ですね」とは言えませんが、参加者に見てもらって、啓蒙すると言う点では、「絵本見せびらかし対決」も、私の少しばかりの蔵書を見せびらかして、手にとって楽しんでもらう小さな集まりも、ちょっと似ている気がします。

*「りすのパナシ」「野うさぎのフルー」「かわせみのマルタン」「かものプルッフ」「くまのブウル」(リダ・フォシェ文 石井桃子訳 フェードル・ロジャンコフスキー絵 童話館)
**「ねこのオーランドー」キャスリーン・ヘイル(脇明子訳 福音館書店)
**「ねこのオーランドー 農場をかう」キャスリーン・ヘイル(脇明子訳 童話館)
**「ねこのオーランドー 海へ いく」キャスリーン・ヘイル(小沢正訳 童話館)

☆写真、一番手前、開いているのが、石版刷り(リトグラフ)の“Orlando’s Zoo”です。紙質がざらっとしていて、なにより、絵の具が上に載っている質感があります。奥付には、出版社名とは別に、刷った人の名前(会社)が書いてあります。今、刷ったかのように、綺麗な本です。他のもすべて未邦訳の古書ですが、オリジナルリトグラフをオフセット印刷したものだと断りが書いてあります。

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自然で生活感に富んだ言葉

44ミュージアム前j
(日本経済新聞2012年4月13日夕刊「こころの玉手箱」5 福音館書店相談役 松居直)
 「石井さんは自宅に設けた私設図書館『かつら文庫』*でよく子供に絵本の読み語りをしていた。英語の本を即興で訳して読むこともあったが、その日本語は母が子に語りかけるように、自然で生活感に富んだ言葉だった。子供の本はそうした言葉で書かなければならないのだ。」と、松居直は、石井桃子(1907~2008)から教わった大切なこととして記しています。

 石井桃子さんの訳した自然な日本語は、遠い国々や見知らぬ世界に、読者をすっと連れて行ってくれます。プーやヒキガエルやピーターやけぃてぃやしんせつな地主さん・・・他、たくさんのあの人たちに出会ったのも石井桃子訳だったのです。
 石井桃子、佐藤忠良、両氏とも、100歳前後というご高齢で亡くなられました。何事も一つずつ丁寧に、そして最後まで穏やかに、お二人は世に在られたのだと思います。

*「こどもの図書館」(石井桃子 岩波新書)
☆写真は、英国ヘンリー・オン・テムズにあるRiver and Rowing Museumの前。
館内に「たのしい川べ」のアトラクションがあります。看板にヒキガエル描いています。

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子どもの本でちょっとお散歩(川 その6)

13屋久島j
 「川はながれる」 
(アン ランド文 掛川 恭子訳 フョードル・ロジャンコフスキー絵 岩波書店)
 最初に「川はどんなふうに、どこにながれていくのか しりたいと思っている 子どもたちみんなに」と、書かれています。原題はThe Little River
 遠い北の森で、雪がとけ、氷がとけて小さな川が生まれるところから始まります。
初めは、くねくね きらきら 青いヘビのようにはいまわり、森の動物たちを喜ばせます。そして、元気いっぱい流れはじめ「どこに行けばいいんだろう」「川はどこかにむかって、ながれていくものなんだ。でも、それがどこだか わからない」
・・・・で、いろんなところに流れていきいろんな動物や人に出会い、挫折したり、楽しかったり、迷ったりしながらも、「一人前の川なら、海を見つけなくてはならない」と、理解します。
 ところが、実際に海にでても、新米の川は、まだ、悩みます。「あんなに いっぱい水がある。ぼくは いったい どうなってしまうのだろう」  でも、カモメの言葉で、やっと自分がわかるのでした。
 そうなのです。「川はどんなふうに、どこにながれていくのか しりたいと思っている 子どもたちみんなに」という最初の言葉は、「川」と言う言葉を「人生」とか「生きる」という言葉にも置きかえられるのです。この本を読んだ子どもたちは、そんなこと決して置き替えたりしません。川の流れが知りたいのですから、きれいな絵を見て、川の流れを楽しみます。動物たちが集まってるよ。へぇ、川も迷ったりするんだ。こんなところに流れていくんだ。そうか、おもしろそうだなぁ・・・
 シンプルな言葉で、きれいな絵*で、人生を語る1冊に出会える喜びは、絵本の大きな愉しみです。難解な言葉だけが、重要ではないと思います。平易な言葉の中にある大切なもの。子ども心を失わず、しかも、経験を積み、大人の姿勢を持つ大人によって生み出された優れた絵本や児童文学は、本当に奥が深い。
 子育てをするといいながら、絵本をたくさん読み、楽しんできたのは母親の私でした。絵本の中で教えてもらった数々のこと。それなのに、ちっとも成長しなかった母親でした。
 「ちいさい川にも やっとわかった、これまで旅してきたところ どこにでも、自分が居るということが―――」
 そうですね、これまで生きてきたところ、どこにでも自分が居るのです。一瞬一瞬、自分が居たのですね。これからも。

*翻訳されて岩波子どもの本として出版されているものより、原書はもう少し大判で、自然の流れのおおらかさが伝わり、紙質からも印刷からも、温かいものが感じられます。
☆写真は、屋久島(撮影:&Co.A)

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紅花常磐満作花蘇芳花海棠紫木蓮

47ベニときわまんさくj48ハナズオウj
45かいどうj46ムラサキモクレンj
 先日、京都国立博物館「王朝文化の華 陽明文庫名宝展 宮廷貴族近衛家の一千年」に行ってきました。くにゃくにゃのかな文字は、やっぱりほとんど読めず、熱心に鑑賞したのは、もっぱら、書や絵を表装している古裂の美しさでした。
 多くは、落ち着いた色合いのグラデーション、時には、反対色の差し色使い。刺繍のもの、織りのもの、染めのもの。その書や絵の書かれた時代のもので表装したり、修復したりしているはずなのですが、今も魅力を失わない模様、紋様。季節感あり、さりげないテーマあり。西洋絵画の額も興味深いですが、日本の表具の「粋」も面白い。

  今、青空に差し色するようかのように、ビビッドカラーの花が咲いています。紫木蓮は、白木蓮が終わった後に咲くのですね。

写真上左;ベニバナトキワマンサク右ハナズオウ
写真下左;ハナカイドウ右シモクレン

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源平桃

         33源平咲きの桃2j
 週一回仕事に通い出した春、「ん?一本の木に、ピンクと白の桜が、咲いてる!?」次の週には、見頃は済んでいました。
 そこで、ある年の新学期、カメラを携えていきました。よく見ると、花の下に花枝がない!桜じゃない。梅には遅すぎ、じゃあ、桃。
 この赤(濃いピンク)と白、混じり合う花のことを源平といい、これは源平桃でありました。源氏の旗色が白、平家の旗色が赤というところから来ているようですが、源平仲良く一本の木にあるようにも見えるし、満開のときは、赤白、競い合っているようにも見えます。

 が、しかし、今年の写真を撮ろうと2週続けてカメラを持参したものの、その木には、花が咲いていません。あろうことか、新芽すらでていません。枯れているのでしょうか?そのご近所の若い源平桃は、今週が満開でしたから、その地域の気候の問題ではないようです。どうしたんだろう?

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ほんまもん

49マーロー桜散り積もるj
(日本経済新聞2012年4月12日夕刊「こころの玉手箱」4 福音館書店相談役 松居直)
 「写実ではなく、真実を子どもに伝えたいのです。そのためには『ほんまもん』の絵が必要なんです」と、松居直は、彫刻家佐藤忠良に絵本「おおきなかぶ」*の絵の依頼をしたとあります。
 佐藤忠良(1912~2011)は、昨年亡くなりましたが、生誕100年でもあり、2012年4月14日~6月24日まで、佐川美術館(滋賀県守山市)で、『彫刻家佐藤忠良展』をやっています。うちから少々行きにくい場所にある美術館とはいえ、語りかける『ほんまもん』に会いに行きたいです。

 以下、彼の記した教育論のほんの一文です。他にも大きくうなずくところが多い文章です。
「子どもたちが危ない―彫刻家の教育論」(佐藤忠良著 岩波ブックレット1985)
≪・・・・「あれはほんものだ」とか「ほんものじゃない」などとよく言われますが、私はほんものと言うのは、作品を見た人に人間としての感動や感慨をもたらすもの、それがほんものだと思います。そうしたものがあったとき、初めて作品が「格調」とか「品位」に結びついてくるはずです。・・・≫

*「おおきなかぶ」(A.トルストイ文 内田 莉莎子訳 佐藤忠良絵 福音館)
☆ 写真は、英国マーロー、教会の桜散り積もる。

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写真

43メルボルンしだれ桜j
 写真をよく撮るのは、亡くなった父の影響です。
 私が生まれた家には、二階の隅っこに小さな暗室がありました。3畳の半分くらいだったかもしれません。凝り性の父は、写真を撮るのが好きで、カメラも好きで、ついには、自分で現像していました。撮った写真を新聞社などに投稿し、表彰されたこともありました。
 それで、私も、小さい頃からカメラを触らせてもらうことができ、頭が切れた写真や、ブレた写真を経て、大きな失敗をすることのない写真を撮るようになりました。が、父のように一歩踏み込んだ写真好き、カメラ好きとはなりませんでした。
 ところが、父の孫、つまり私の娘の一人は、一歩踏み込み、デジカメ教室に一時期通い、三脚も用意しました。撮影会と称する年配の方々に囲まれた、小遠足は、彼女のアウトドア志向に結びつきました。
 先日、いつもは早起きできない彼女と二人、近所の桜を撮る早朝散歩をしました。気温が上がると、青空にもやがかかってくるので、早朝です。娘と撮り合った写真を見せ合ったり、「ここから撮るといいよ」と声を掛け合うのも楽しい散歩でした。
 こんな小さな思い出を積み重ねて、この辺りの桜も終盤です。

☆写真は、メルボルン 聖パトリック教会のしだれ桜

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桜と尖塔

22マーロー教会と八重桜j
「イギリス名詩選」 (平井正穂編訳 岩波文庫)
(はしがきより)
「もっと、西欧の人々の心について知りたいと思う人は・・・(中略)・・・・日本や東洋の文化や人間性についての理念を、単なる教えられた知識としてではなく、体験化された生けるものとして知る、自分の内側にとりこんで身につける、身につけようとすることである。そういった「しん」の強さを身につけようと絶えず努力することである。・・・・(中略)・・・・・イギリス人が愛読し、賛美している詩だからといって、われわれまでが賛美する必要は毛頭ない。理解しがたいからといって、直ちに自らを責めるのは愚かである。分からない場合に分からないと言うことは、分かったふりをするより、遥かに誠実な行為であり、心の中に「しん」を持っていることを証明している。しかし、このような違和感、抵抗感から、少しずつ、より高次の理解と共感がにじみ出てくる。少しずつ展望が開けてくる。イギリスと日本――遥かな西にある小さな島国と遥かな東にある島国日本。」
 
以下、この詩選に載っている、ウィリアム・コリンズ(1721~59)の「夕べの賦」という長い詩のほんの一部です。
「夕べの賦」
≪・・・・私は我が家から荒野を眺め、水嵩をました川を眺め、
陰々と煙る村々を眺め、朧に霞む教会の尖塔を眺め、
その尖塔からかすかに伝わってくる鐘の音を聞き、そして、
お前の手が暮れなずむヴェイルをゆっくりと引き、
すべてのものを闇にかくしてゆくのを眺めていたい。・・・・・・≫

ほら、ここには、高野辰之の「朧月夜」と、よく似た空気が流れている(と、私は思う)。
☆写真は、英国テムズ川上流マーロー ホテルの窓から撮影

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子どもの本でちょっとお散歩(川 その5)

            40桃j
「ももたろう」 (松居直文 赤羽末吉絵 福音館書店)
「むかし、あるところに、おじいさんあとおばあさんがすんでいました。おじいさんは山へ しばかりに、おばあさんは川へ せんたくに ゆきました。あるひ、おばあさんが川で せんたくをしていると、かわかみから、ももが つんぶく かんぶく つんぶく かんぶくと ながれてきました。おばあさんが ひろってたべてみると、なんともかとも おいしい ももでした。・・・」 

 日本の「川」の話で、一番に思いだすのが、昔話「ももたろう」です。
 なにを隠そう。私は、「桃」が好きです。白桃も黄金桃も、スモモの類も。種が大きくまん中にあって、外に甘い(あるいは、甘酸っぱい)果肉の付いているフレッシュな果実。梅干しという、もはや果物から距離を置く、夏場の友、整腸の友も好みです。
 ただ、うぶ毛が生え、優しく扱わないといけない繊細な乙女の白桃らは、実は美しく食べるのが難しい。誰かに皮をむいてもらって、食べやすい大きさにしてもらって食すのは上品とはいえ、あのおいしい果汁の滴りは、いったいどうなる?嗚呼。それに誰が種のまわりの果肉を食べる?
 確かに、皮をしゅるしゅるとむいて、大きなお皿の上、もしくは、果汁がぽとぽと落ちても構わない流しのところで、ガブリといくのは、桃を愛する者の食べ方です。ただ、エレガントとは程遠い。それに、桃は、冷蔵庫で冷やしすぎると、おいしくないし、とはいえ、室温が髙すぎるようなところに置いたままだと、ぬるい。むいたら、すぐ食べないと変色するし・・・ともかく扱いの難しい果物の中でも筆頭なのが桃なのです。
 しかも、おいしい桃を店頭で見つけるのは、難しい。結構な値段で購入したのに、「皮がすっとむけない!」「実がじゃりっと、硬い!」といった経験は、数知れず。選びたいにも、触っちゃいけないし、よく見たくても薄い紙で覆われて・・・・

 が、しかし、もし、「川」から、桃がうまい具合に流れてきたなら、冷え具合も食べ頃だろうし、川に張り出した枝から落ちたなら熟して食べ頃だろうし、まさか、食べ頃を誰かが冷やしていたのが流れてきたとしても、やっぱり食べ頃だろうけれど、現在、実際の川から流れてきたのは、いくら「桃」好きでも食べない・・・・桃の品質の問題じゃなく、川の水質。やっぱり、「ももたろう」は昔話でした。とっぴんぱらりのぷう。
☆写真は、京都御所外苑 桃の花

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桜満開

                4120124芦屋川桜j
                 町中どこもここも、満開。写真撮影2012年4月12日&CO.A

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桜襲(さくらがさね)

          39桜かさねj
「光源氏の桜襲(さくらがさね)」
(吉岡幸雄 JAL「アゴラ」2012年4月号「男達の色彩」)
≪やや透ける白の唐織ふうの織り地を、赤地の布にかさねた襲衣装で、下の赤が上の白から透けて、淡い桜色に映り華やかな襲色となる。光源氏20歳の時の「桜の襲」である。≫
 筆者は続けて「今は男が桜色を着て、花見に出かけるのは、いささか勇気がいる」というが、20歳の美青年なら今でも、ぜったい似合うぞ。しかも、藤の花宴に呼ばれたのに、まだ遅咲きの桜が二本残っているからと桜襲(さくらがさね)で洒落ているのも、素敵。
 (この文章の基になっている『「源氏物語」の色辞典』(吉岡幸雄著 紫紅社)は、高価な本ですが、色の辞典だけあって、きれいな写真!源氏物語に少しは近づけるかも。)

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桜の掛け軸と象嵌の香炉

36さくら掛軸j
 「古筆」を、月2回祇園に行って習っています。「平安かな」をお習字するのですが、何より先生の源氏物語と古今和歌集などのレクチャーがあって、書く時間は少しです。しかもお菓子つき。わざわざ、そんな遠いところに行かなくてもよさそうですが、元お茶屋の二階で、ほんの数人で学べるチャンスもそう多くないはず。東京や横浜などからも、たまに参加されています。
 いまさら、習字が上達なんて、滅相もありません。書が書きたいと言うより、なにより、古美術に添えられている「くにゃくにゃ」のあの字が読みたかったのです。美術展に行って、その掛け軸のその字、読んだら、もっと、作品に近づけるだろうと、なんど悔しい思いをしてきたことか。全然よめなーい。1年余習っていますが、まだまだ どす。
 高校以来の古文のお勉強は、時として眠く、あるいは、頑として眠くもありますが、入試が控えているでもなし、まったり楽しんでいきますぇ。この眠さについては、言い訳があるんどす。先生がとてもいいお声。狂言師でもあられるので、おなかからいいお声が出ていて、またそのリズムも・・・
 それで、お稽古のお部屋に入るとき、ふすまを開けるんどすが、坐って、そっと開け、「こんにちはぁ」・・・長いこと、いいぇぇ、もしかしたら、坐ってふすまを開けるなんてしたことありまへん。
 床の間には、季節の掛け軸に、置物。待望のお菓子は、季節に合った塗りのお皿にのっておいでです。口にするもの、手にするもの、見るもの、匂い、部屋の中に、春。ただ、花見小路は、観光客でかなり賑やかなんどす。歌舞練場で都踊りやってはりますしぃ・・。
 通りの賑やかさを耳にするのも祇園の春の風物詩やと思うんぇ。

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桜を見上げる人

38宮川j
桜が満開です。川べりには桜を求めてたくさんの人が集まってきます。そんなとき、桜とともに、桜を見上げている人を見るのも好きです。

「上を向く」というのは、上に顔を向けると言う状況を示すだけでなく、上を向くという意思も含まれています。普段は、前を向いているものが、意識して上を向く。
上を向いている顔は、どれも、晴れ晴れとしているように見えます。特に、桜の下で見上げると、表情がよりいっそう明るく輝いて見えます。桜を見上げる人。見上げて写真を撮る人。わざわざ、自転車をとめて、見上げる人。同じ桜を見上げていると、目が合って、お互いにっこり。

満開の桜を見上げている人の顔を見ると、自分までが、明るい気持ちになります。

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ひつじを数えるかわりに

             37こひつじj
4月の初めは、桜だけじゃありません。入学式や入社式。それぞれの新しいスタートです。入学式、特に小学校一年生になるのは、大きなハードル越えの一つです。学校ってどんなところだろう?給食食べられるかな?先生怖いかな?友だちできるかな?
一年生になる不安と喜びを描いた絵本は何冊かあります。その中で、下記の絵本は、ほんの一か月前、日本で翻訳出版されました。

「あたしって、しあわせ」 
(R.ラーゲルクランツ作 菱木晃子訳 E.エリクソン絵 岩波書店)
この絵本は、もうすぐ一年生のドゥンネが、眠れないところから始まります。ドゥンネが眠れないときは、ひつじを数えるかわりに、あたしって、しあわせ!とかんじたときのことを、ひとつずつ思い出すのです。
友だちができるのか心配だったドゥンネに、親友ができます。学校では隣に坐り、合わせると一つになるハートのペンダントをそれぞれが首にかけ、お泊まり会をし・・・・でも、その親友が引っ越してしまい・・・ドゥンネは、怪我をします。泣きます。喧嘩をします。・・・・・が、最後は、「幸せすぎて眠れない」ドゥンネが、どうやって眠ったかというと・・・

挿絵も、一年生の楽しい生活を描いてぴったりです。と思っていたら、作家のラーゲルクランツは、あとがきでこう書いています。「(画家の)エヴァが挿絵をかきたいと思ってくれるような、おはなしを書こう、と心にきめるの。すると、それは、たちまちにして楽しいことになるわ。・・・・エヴァの絵は、いつもわたしが想像していた以上に、すばらしいものになっているのよ。それで、わたしはとても幸せな気持ちになるの!」読者は、作家と画家の幸せのおすそわけをもらうのですね。

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桜 おちこち

35業平碑j

≪世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし≫
(在原業平825年~880年)  
(世の中にまったく桜というものがなかったなら、春をのんびり楽しめるだろうに。)

 「まだ咲かないの?」「遅いなぁ」「蕾かたいわ。」「もうすぐやね」「おお、満開!」「雨降るな、散ってしまう。」「風吹くな、せっかく咲いたのに。」
 メディアの伝える開花情報やライブ映像、人づてに耳にしたスポット、ふーむ、行ってみたいところ多し。ご近所だって、たくさん咲いてる・・・。うーん、桜 おちこち みんなみすべく きたすべく。
・・・・等と、3月中下旬から遅咲きの桜まで、そわそわ、うきうき、きょろきょろ・・・

 「花冷え」とはよく言ったもので、今年は桜のこの時期よく冷えました。そのぶん、長く桜が楽しめるかな。例の低気圧が大荒れしなければ・・・。

☆写真は、芦屋市にある業平歌碑(左横のしだれ桜は、まだつぼみ)

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子どもの本でちょっとお散歩(川 その4)

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  「おもしろ荘のこどもたち」 
(リンドグレーン作 石井登志子訳 イロン・ヴィークランド絵 岩波書店)
 マディケンは、「豚がまばたきするぐらいのすばやさで、いろんなことを思いつく」女の子です。お父さんお母さん、妹のリサベット、黒い犬のサッソー、ねこのゴーサン、お手伝いのお姉さんのアルバと、川のほとりのおもしろ荘に住んでいます。
 ある日、葦の中のモーゼ遊びを思いついたマディケンは、川をナイル川に見立てます。リサベットは赤ちゃんモーゼ役で洗濯用たらいに入って浮かび、マディケンが赤ちゃんモーゼを拾うエジプトの王女役をやりました。マディケンは、自分の木綿の服がエジプトの王女らしくないことに気付きます。
 「・・・・マディケンは、ひとりでエジプトの王女さまらしい服を探すことにしました。なにかぴったりしたのはないかとうろうろしていると・・・・ありました。寝室に、お母さんのガウンがかけてあるのが目につきました。うすい水色の絹のガウンです。はおってみると、おおっ、なんとすばらしい!きっと、大昔ナイル川のほとりを王女さまは、こんな姿で散歩していたのでしょう。たぶん頭にはベールをかぶっていたでしょう。・・・・マディケンは戸棚に頭をつっこんで、台所用のうすい白いカーテンをひっぱりだしました。頭にのせて、寝室の鏡にうつしてみると、しめしめ、あんまりきれいなのでおもわず身震いするほどです。きっとエジプトの王女様はこんな姿だったにちがいありません。・・・・」

 で、結局、モーゼを救い出す作業は、マディケンの思い通りにいかず、赤ちゃんモーゼは、騒ぎたて、あげくにエジプトの王女は、飛び跳ね始め、結果、川へドブン。そして、桟橋で見ていた隣の家のアッベに助けられるのです。

 ここで、ちょっと「ごっこ遊び」について。
 子どもは、生後9・10カ月頃から、大人の「真似」をし始め、1歳頃から、空のコップでごくごく飲む「ふり」をしだし、何かを「見たて」て遊び始め、3歳頃になると、成りきって「ごっこ遊び」をします。そして、もうすぐ一年生のマディケンともなると、ストーリーやシナリオのあるごっこ遊びをします。ところが、まだごっこ遊び初期段階のリサベットは、さしたるシナリオもなく、成り切っているのを楽しんでいるため、二人の気持ちがすれ違い始め、争いになるのです。それで、ごっこ遊びは、とうの昔にすんだ15歳のアッベが、冷静に二人を見守り、二人を救います。

 閑話休題。リンドグレーンは、こんな子どもの発達段階のこと等、まったく念頭になかったはずです。子どもをよく観る、あるいは子どもの時のことをよく覚えている作家の筆にかかれば、子どもの姿が真実味をおび、読み手に、生ききとした世界を提示してくれるのだと思います。
☆写真は、5月上旬英国テムズ川上流マーローの桜 

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桜の花の満開の下

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  「桜の森の満開の下」 (坂口安吾 講談社学芸文庫)
 山賊にさらわれてきた美しい女が、都の生活で、新しい首を所望し、渇え、弄ぶ。 ところが、山賊は、山の暮らしに戻りたい。そして、桜の満開の森を通って、山に戻るとき・・・
 坂口安吾の、この話を初めて読んだのは、10代の後半だと思います。一度読んだら忘れられない、どろどろした妖しい世界に、どきどきしながら読んだ記憶があるものの、後味よくないなぁ・・・。しかも、桜が満開の木の下に立って、ウキウキこそすれど、山賊が感じたようなゾワゾワした気分を味わったことがない鈍感な身としては、ずっと、「桜の森の満開の下」を「桜の花の満開の下」と思い込んでいました。勝手に、森を一本のとてもとても大きな桜の木と解釈していました。いつのまにか、梶井基次郎の「桜の樹の下には」*と混ざってしまっていたのかもしれません。
 その間違いに、この歳になってやっと気付きました。以前書いた「春を待つ日のアドベントエッセイ」の「若ジェラード」 (ファージョン)の項でも、きっちり間違っております。今頃、誤記に気付きました。誤記は、わが身のいい加減さを露呈していますが、今、再び、この2冊を読み返しても、「若ジェラード」は、春に一押しのサクラの話に変わりありません。これは、好みの問題です。
 「若ジェラード」のサクラは、一本の継穂から枝を伸ばし、二人が結ばれたときに、初めて花を咲かせます。散ることは書いてありません。完全なハッピーエンディングです。咲いてこそ、美しい。
 ところが、「桜の森の満開の下」のクライマックスは、散り染めであり、満開の桜が、散る美しさというものと、醜さを対比させています。散り際の美しさを際立たせるには森の暗さも要るし、心の闇にも森の深さは通じます。だから、勝手に一本の大きな満開の桜をイメージしていたのは、明らかに読解力不足ということだったのです。日本人の美意識。狂気への道。死への道。散ってこそ、美しい。
 この二つの作品の「桜」の捉え方を、深く論じる力はありません。しかしながら、同じ美しい花でも、なかなか散らず、長い間咲いているように見える英国の桜と、開花情報を収集し、季節のあいさつに「桜」を用いる日本人の桜、象徴するものに、ずいぶん違いがあって、それがまた面白いと思います。

*「檸檬」梶井基次郎 新潮文庫
*「リンゴ畑のマーティン・ピピン」
(エリナー・ファージョン作 石井桃子訳 リチャード・ケネディ挿絵 岩波書店)

☆写真は、京都御所一般公開中(4月4日~8日)の外苑、旧近衛邸しだれ桜。2012年4月4日撮影

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春の嵐

42桜草j
 昨日の春の嵐というのは、かなりの強面でした。
 春の嵐という言葉の持つ、ある種、ロマンチックなイメージ、多分、春という言葉に含まれる長閑さや、柔らかさとは、程遠い嵐でした。途中で、メディアが爆弾低気圧等と言い方を変えていましたが・・・。
 この町の市木は、クロマツです。川沿いの桜も綺麗なのですが、河口の松林は風情があります。ですが、昨日のような嵐や台風の後は、舗装された道に、古い松葉が大量に落下し、散らかって滑りやすくなります。ところが、嵐や台風の去った後、早々に、清掃の造園業者のトラックがやってきて、松葉や折れた枝を片づけてくださるのです。夜中にやってきた台風のときは、早朝、昨日のように日中の嵐のときは、夜早い時間、ともかく、風雨が止んだら、迅速に掃除が始まっているのです。知らないだけで、他の街もこんな様子でしょうか。小さい町だからできることでしょうか。それとも、松葉に限り、片づけている?まあ、いずれにしても、素早い対応で、車を安全に運転できます。感謝です。
 いよいよ桜です。

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桜雪柳辛夷白木蓮

29高校横j32ゆきやなぎj
30こぶしj31モクレンj
 やっと暖かくなった!と思ったら、もう台風?
 写真は、どれも昨日2012年4月2日、わが町のもの。
 コブシも、ハクモクレンも、今年は、ちょっと遅くまで咲いています。
 白木蓮の花盛りのときは、その辺りが、ぱっと明るくなりますが、段々、傷みが目立ってきて、哀しい姿になって、桜に主役を譲ります。多分、写真のハクモクレンもコブシも、もうおしまい。この二つはよく似ています。ぽってり大ぶりな方が、ハクモクレン。小さめでたくさん咲いているのがコブシ。桜はまだつぼみが多いので、春の嵐に負けないけれど、ユキヤナギはどうだろう。             上段左桜、ユキヤナギ、下段左コブシ、ハクモクレン

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長靴にするように顔にクリームを擦り込みました。

石の顔j
  「またの名をグレイス 上・下」                                                    (マーガレット・アトウッド著・佐藤アヤ子訳・岩波書店)

 カナダで、1843年、実際に起きた殺人事件を、小説仕立てにしています。このとき、主人公のグレイスは16歳でした。アイルランドから、命からがら、カナダに移民として移り住んだ美少女が、奉公先の主人と、はぶりのよい女中頭の殺人に絡み、刑に服している間、精神科医に語る話の中に下記、表現がでてきます。

≪・・・ベッドに入る前にナンシーは長靴にするように顔にクリームを擦り込みました。・・・≫

 えっ!そうか。印象に残るくらい珍しいことだったんだ。顔に毎晩、クリームを擦り込むようなことは、近年のこと?それとも、クリームを顔に擦り込むのは、使用人のような下層部ではせず、お金持ちは、やっていた?あるいは、ナンシーが26歳で、グレイスが、少女だったから知らなかった?グレイスのお母さんは、ずっと妊娠していて体調悪く、しかも、貧乏暮らしだったから、知らなかった?
 顔に塗るではなく、擦り込むかぁ。

 さてさて、寝る前には、顔にクリームを擦り込んでおかなくちゃ。

☆写真は、英国コッツウォルズ 石工屋さん(多分)のドア前の石像。

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みしのたくかにと

18リージェントパークj
4月になりました。週1回の仕事も始まります。たとえ、週1回とはいえ、下準備にも時間を割くので、ブログも、毎日のように更新できるかなぁ・・・とか、この勢いで書いていけば、すぐに枯渇してしまうなぁ・・・とか、言い訳を考えるも、見てますよ等と言われると、つい、うれしくなって、パソコンに向かいます。
ひらがなの並んだブログ名「みんなみすべく きたすべく」に戸惑われて、「みしのたくかにと」みたいに、思わず後ろから読んだと、メールをくださったのも、嬉しいことでした。ほんとうは、「みんなみすべく きたすべく ひんがしすべく にしすべく」にしようとしたのですが、長過ぎるので、今の形に。

書き綴るのは好きです。以前から、たくさん書いて、ストックも作って、結局、削って行くという文章の書き方です。単に、まとめるのが下手なだけともいいます。それなのに、ブラインドタッチでキーボードが打てず、右手中指が大活躍(ときどき、人差し指も)。しかも、右手にマウス。したがって、右肩甲骨?が疲れます。
よくわかっていないブログ作りも、最近やっと、その文字をクリックしたら、そのページに飛んでいけるようになり、「古本 海ねこ」さんの以前のエッセイとつながりました。ほっ。いずれにしても、パソコンの大きな画面ではなく、スマホの小さな画面でインターネットとつないでいる人が多い昨今、やっぱり、字の多いのは嫌われるだろうなぁ・・・

 実際に、ブログを書き進めてみて、チャールズ・ラムの言う「過ぎこし方(往きし昔)の回想」だと、再認識しました。絵本や子どもの本を開くと、立ち上がるたくさんの思い出に、やっぱり、書くこといっぱいあるやん・・・と、思うのです。とりあえず、今のところ書くのが、「みしのたくかにと」

☆写真は、ロンドン・リージェントパーク 

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