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みんなみすべくきたすべく

オノマトペ

ベッドjjj
(承前)
ジェイムズ・ドーハーティ画の翻訳された絵本が3冊だったように、➡➡   ➡➡ 「おしろのばん人とガレスピー」(小宮由訳 大日本図書) ➡➡ の作者ベンジャミン・エルキンの翻訳された絵本も3冊。

「ねむれない おうさま」(ベンジャミン・エルキン ザ・キャビンカンパニー絵 こみやゆう訳 瑞雲舎)は、≪むかし、ひろい うみと たかいやまをいくつもこえたところに、カールおうという おうさま≫の話です。
≪このごろ、カールおうは、ちっとも ねむれません。ひとばんじゅう ベッドの中で、もぞもぞしたり、ふとんを けとばしたりしていました。≫

 そこで、お城の大臣たちは「周りがうるさいから眠れないんじゃないか」と話し合い、
ブルブルやかましい飛行機、ガタゴトさわがしい汽車 ブンブン飛ぶ蜂、、ザワザワなるはっぱを静めるものの、キーキーきすむドアに油をさし、カツカツ響く廊下にカーペットをひき、ブーブーせわしいくるまを止め、クチャクチャうっとうしいチョコレートをとりあげ、ザーザーなる川をせき止め、ピーピーさえずることりを巣から追い出し、チクタクつぶやく時計を止め、ガラガラくずれる積み木を取り上げ・・・・

 が、カール王は、眠れません。
 そのとき、聞こえてきたのは・・・・
 で、カール王は眠るのでしたが、はてさて、カール王というのは?ヒントは、今日の写真。(スイス シャトーデー 「切り紙博物館」)

 このオノマトペ(擬音語 擬態語)を楽しむお話「ねむれないうさま」は、絵本でなく、お話を聴くだけでも楽しめるのではないかと思います。(続く)

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アンディとライオン

マウス一家4
(承前)
 ジェームズ・ドーハーティの翻訳されている絵本で、文も絵もドーハティなのは、さきの「マウスさん一家とライオン」(安藤紀子訳 ロクリン社)➡➡とこの「アンディとライオン」(村岡花子訳 福音館)です。この絵本については、以前ここでも書いています。➡➡

 「アンディとらいおん」は村岡花子に翻訳されたのが1961年(原作は1938年)という、ロングセラーの1冊です。いわゆるカラフルな絵本ではありませんが、らいおんの本を借りてきて読みふけったアンディが、本当にらいおんと出会うシーンは、生き生きと楽しい。そして、らいおんのとげを抜いてあげたアンディは、らいおんとともだちに。その後、サーカスに戻った らいおんとアンディは再会。旧交を温め、町の行列の先頭を誇らしげに歩くアンディ、うれしそうならいおん・・・という絵本です。

 らいおんとアンディが再会を喜び合って、抱き合って喜んでいるシーンは、見ているこちらも嬉しくなります。特に、昨今、近づいてコミュニケーションしてはいけないというルールがありますから、たとえ、日本人でも、たとえ、日頃ハグの習慣などなくても、このシーンは、喜びの表現として素直に伝わってきます。
 
 ところで、大学などの授業のうち、対面授業を始めたところもあり、久しぶりに再開したときは、学生同士、ハグせんばかりの勢いで、再会の喜びを表現していました。教員としては、「密」はだめなのに・・・と、ぶつぶつ思っていたものの、先日、課題を忘れた、なくしたという学生に、最後通告を出したその授業の終了時、「せんせい、ありました。こんなとこに!」と、妙に折りたたんだそれをもって来た彼女と、思わず「やったね!」とハグしそうに・・・「いかんいかん」と言いながら、マスクの下で、にっこり。よかった・・・これで、全員の提出がそろった。(続く)

☆写真は、「アンディとらいおん」のいわゆる献辞のページ(右)絵本の左に貼ったのは、ニューヨーク図書館のライオンの写真(1999年4月撮影:&Co.T)。ニューヨーク図書館のライオンについては、これまでも書いています。➡➡  ➡➡

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すきにならずには いられなくなるよ

マウス一家1
マウスさん一家とライオン(ジェイムズ・ドーハーティ作 安藤紀子訳 ロクリン社)

「アンディとライオン」の作者ジェイムズ・ドーハーティの絵本です。版が小さいので、読み物の本かと思いがちですが、絵が多く、文字数もそれ程多くないので、「アンディとライオン」(村岡花子訳 福音館)が楽しめる子どもなら、同じく楽しめます。

 話は「イソップ」のライオンとネズミの話を下敷きにしています。ネズミのピンチを助けたお礼に、ライオンのピンチをネズミが助けるというもの。ただ、ちょっと時代とお国柄を思うのは、ライオンが助かったとき、≪おごそかに国家や賛歌を斉唱しました。≫とある箇所。(1958年作のアメリカ合衆国の作品)
 
 陽気なマウス一家は家族仲良く楽しそうです。
 ライオンも≪「あんなたのしそうな家族には、このところ ずっとあったことがなかったなあ」と、声にだしていい、それから、にこにこしはじめました。ライオンは、だれもみていないところでは、こうして わらうことがあるのです。≫と、優しい気持ちになります。

 この絵本の初めは、人の服を着たマウス一家のたのしそうな様子が、かなりデフォルメされたタッチで描かれてはいるものの、「アンディとライオン」同様、動きのある生き生きと描かれています。そして、ライオンが登場したところから、ああ、「アンディとライオン」の、あのライオンじゃないの?元気だったのね。

 そして、イソップを下敷きにしているものですから、一言あります。
≪「ライオンは ひどくいばるくさって、いやなやつに みえていたけど、しりあってしまえば、ほかのやつらと、ちっともかわらないようだな。すきにならずには いられなくなるよ。」≫

 今、ここを読むと、かの国は、このスピリットがいまだに浸透していなかった現実を考えます。
 ほかのやつらと、ちっともかわらないようだな。すきにならずには いられなくなるよ。(続く)

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しりたがりネズミのおはなし

こわいj
「こわい、こわい、こわい?-しりたがりネズミのおはなし」(ラフィク・シャミ文 カトリーン・シェーラー絵 那須田淳訳 西村書店)
「ああ、こわい、こわい、こわい。ネコよ、ネコがおいかけてきたの」とお母さんネズミが、飛んで帰ってきます。子ネズミのミナは、「こわいって、どこにいるの?」と聞くと、お母さんネズミは「こわいというのは気持ちなの。いるとかいないじゃなくて、そんな気持ちを持つとか、持たないっていうことよ」
・・・・・と、抽象的な気持ちの説明から入るこのお話。最初に、子どもの関心を捉えるというところで、少々しんどい。
「コワイ」を見つけるために、子ネズミ ミナは、ライオン、カバ、スカンク、ハリネズミ、象、犬、バッタ、亀、そして、ヘビに会います。そのうち、カバやバッタ、ハリネズミ、亀の登場は、必要なのかとも思います。
「コワイ」を説明せんがために、回り込んだ文章表現になっているのではないかと・・・

ただ、絵は、あっさり、簡潔に物語り、楽しいものになっています。見返しの部分から、話が始まり(呑気に食べながら歩いているネズミを、背後からねらう猫の絵)、タイトルでは、猫に追いかけられているお母さんネズミの絵。本文こそ始まっていませんが、もう、お話は伝わってきます。また、活字の大きさも変え、「コワイ」を視覚化しているところもあります。そして、最後は、お母さんのもと、きょうだいのもとに戻った子ネズミが、身体を寄せ合い、眠りにつくという「コワイ」と、まったく反対にある「安心」というところで終わるのです。そして、最後の見返し(上記写真)で、目覚めたお母さんと子ネズミたちの楽しい明日が描かれています。

 この絵本を読んでみて、「コワイ」という概念を子どもたちに、文章で伝えることの難しさを考えました。作者はラフィク・シャミという、シリア出身のドイツ語の作家で、一筋縄ではいかなかった背景を持つ人ですが、絵本の中でコワイというのを115歳になるお爺さん亀に語らせる部分があって、「わしはな、280種類ものこわいをしっておる。・・・・」と、言わせています。これは、ラフィク・シャミという本人の言葉を代弁させているように思います。

 この作者は、「片手いっぱいの星」(ラフィク・シャミ 若林ひとみ訳 岩波)という、ヤングアダルト向けの作品、大人の作品をたくさん書いています。(続く)

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マルベリーどおりのふしぎなできごと

マルベリーj
 (承前)
 孫とのマルベリー摘みで思い出したのは、マザーグースの「桑の木の周りをまわろう」➡➡や「ピュラモスとティスベ」➡➡だけではありませんでした。ドクター・スースの絵本「マルベリーどおりのふしぎなできごと」(渡辺茂男訳 日本パブリッシング)もです。
 といっても、地名がマルベリーというだけで、桑の実や桑の木は、一切登場しません。(ただ、ニューヨーク マンハッタンにMulberry Streetは実在します。)

≪がっこうへいくみち、うちへかえるみち、じろじろ じろじろ、ぼくは ようく みてあるいたんだ。でも、ぼくにみえたものは、ぼくの足と、マルベリーどおりを とおってた うまと にぐるまだけ。こんなの なんでも ないよね。はなしになんか なりっこないさ・・・・・ただのうまが ひいていた おんぼろの にぐるまだけだもの。   これじゃあ、はなしにも なにもなりゃしない。そうだ、しまうまが にぐるまを ひいてたことに すればいい。これなら だれにも まけない おもしろい はなしに なるよ。マルベリーどおりの ふしぎな できごと!≫

・・・というわけで、しまうまに乗るのが、ギリシャの勇士。
しまうまじゃ小さすぎからトナカイ。
トナカイが引くのはそり・・・・と話はどんどん膨らんで・・・

他のドクター・スース作品にも共通する、空想を膨らませ、ナンセンスを楽しむ一冊ですが、写真左下、バラを置いたその下に、少々、引っかかる絵が描かれていました。お椀とお箸をもって、何かを食べながら走る辮髪で釣り目の中国人というステレオタイプの絵です。
 この絵本は、1937年のものですが、調べてみたら、このドクター・スースという作者は、出っ歯で釣り目で眼鏡の日本人をよく新聞の漫画に書き、日系人弾圧に一役買ったとありました。

 作者や画家や訳者、他、芸術家たちとその背景、その時代、その生み出すもの、そして、後から見えるもの・・・・・・とはいえ、作品は一人で歩き・・・・・・・・・まだまだ知らないことの多い一粒のマルベリーでした。

      マルベリー6j
☆写真下は、再度、マルベリーを採ってきて、ジャムを作ったお鍋、しかもスプーンでこそげ取ったお鍋を、まだ名残惜しそうに眺める孫二人。

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桑の木の周りをまわろう

マルベリーjjj

(承前) 
 孫とマルベリー(桑の実)を採りながら、かつて、イギリスに行ったとき、ルイスという町の公園に桑の木があって、実がなっていて、つい食べてしまって、手が汚れ、服にもシミが・・・ということを思い出しました。
 今回、孫と採ったマルベリーは東洋種のようで、生垣タイプでしたが、イギリスで見たのは、樹木でした。このとき、マザーグースの「桑の木の周りをまわろうよ」が頭にあったので、その樹木(低木だった)の周りで食べるのが嬉しかったのを覚えています。

♪桑の木をまわろう、桑の木をまわろう、桑の木をまわろう、寒い朝にね。♪

≪この木は、栽培樹木のうちで発芽が最も遅く、寒さが過ぎるまでは決して発芽しないから樹木のうちでは、最高の賢者と呼ばれている。(英米文学植物民俗誌 加藤憲市著 冨山房)≫とあります。
 一番の歌詞の最後のところは、”All on a frosty morning”というように、霜のおりるような朝には発芽しないものの、みんなで桑の木の周りをまわっているうちに、春も来る・・・という願いがこもっているのではないかと思うのです。
≪イギリス西部では、この木が発芽すればもう遅霜もないという。(英米文学植物民俗誌 加藤憲市著 冨山房)≫

 その次、イギリスでマルベリーの木を見たのは、テムズ上流、ウィリアム・モリス邸のケルムスコットマナーでした。そこでは、モリスの苺泥棒のモデルとなった苺や、有名なデザインの柳(ウィロー)にばかり気をとられていましたから、桑の木の周りで食べたり踊ったりしませんでした。(続く)

☆写真上は、ブラックベリーの花(バラ目バラ科木イチゴ属)。早く、実がならないかなぁ・・・。桑の実(マルベリー)は、バラ目クワ科クワ属。絵本は、ウォルター・クレイン「おさなごのオペラ」の The mulberry bushのページ。
☆写真下は、英国 ケルムスコットマナー(ウィリアム・モリス邸)の桑の木(マルベリー)。写真当時、8月ですが、まだ、赤い。先日、孫と摘んだ日本の桑(マルベリー)➡➡と、枝や実のなり方が、ずいぶん違います。

     マルベリー3

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だれにも とんと見えやせぬ

子ネズミj
「兄さんネズミがさらわれた!」「子ネズミきょうだい町へいく」(アリソン・アトリー作 フェイス・ジェイクス絵 まがたようこ訳 偕成社)
(承前)
 このフェイス・ジェイクス絵になる二冊は、Little Brown Mouse シリーズの、7つのお話を選んで作られた本です。もともとのシリーズは、アリソン・アトリーの友人であったキャサリン・ウィグルズワースの絵で人気を博していたもののようです。(***キャサリン・ウィグルズワースは「こぎつねルーファスのぼうけん」「こぎつねルーファスとシンデレラ」(アリソン・アトリー 石井桃子訳 岩波)の挿絵を描いています。)

『バラとカンムリ亭』と呼ばれる宿屋で居酒屋の子どもたち、時には危ない目にも合う元気いっぱいの子ネズミたちの話です。子ネズミたちなら、こんな生活しているだろうなと思う描写は、楽しいものです。
≪お客の小さなハタネズミたちはドングリのジョッキでお酒を飲み、タイムでつくるネズミタバコをねん土のパイプでくゆらせました。≫
≪子ネズミのスナッグとセレーナは、背の高い草の中でかくれんぼうをしたり、スミレやサクラソウのあいだの木かげの道で走りまわったり、サクラソウのみつをすったりします。雨ふりの日には、スミレの葉をかさにして、とびちる雨だれをながめてはしゃぎました。≫
≪父さんネズミは、ヒルガオをたばねた さおの先に、イグサの糸をむすび、糸の先には、えさにする野イチゴをゆわえつけました。「さあ、これでおまえもつりができるよ。・・・・≫
≪町ネズミのだんなさまは、子ネズミたちに歌をうたったり、麦わらの笛をふいたりしてくれました。糸まきのたいこの上で足をトントンうって、タップダンスもおどってくれました。≫

そして、子ネズミたちが(人間の)フラワーショーに行ったとき、そこの手芸品を見て
≪「人間の ぬいめって、あらいわねぇ。布きれの白い糸のぬいめを見ていたセレーナがいいました。「お母さんのおさいほうを、みならったらいいのに。」そしてセレーナは、うたいだしました。
♬ねずみが ぬいものするときは 小さな小さな 針の目で だれにも とんと見えやせぬ。ネズミが つくろいするときは だれにも とんと見えやせぬ。つぎはぎしても かがっても とっても小さく 可愛いよ。♬≫

  ビアトリクス・ポターの「グロースターの仕立て屋「」(石井桃子訳 福音館)➡➡ ⇒⇒ ➡➡ を思い出しますねぇ。ネズミが、人々の身近すぎる場所に暮らしていたからこそ、できた歌なのでしょうね。(続く)

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グレイ・ラビットのおはなし

グレイ・ラビット3
(承前)
 ねずみのラットの 結び目のついた尻尾の話の発端から、ぐるっと回って、時系列では、一番初めの「グレイ・ラビットのおはなし」➡➡に戻ってきました。
 「グレイ・ラビットのおはなし」は4つのお話が入っていて、石井桃子・中川李枝子訳です。
 福音館の方は絵本となっていて、石井桃子・中川李枝子訳(写真左)、岩波少年文庫の方はフェイス・ジェイクス絵(写真右)となっています。
 また、それぞれの名前の訳し方が、神宮輝夫訳の童話館のものと、石井桃子・中川李枝子訳のものでは少し異なっています。例えば神宮輝夫訳では、ふくろう博士とするのが、石井桃子・中川李枝子訳では、カシコイ・フクロウ、等。

 さて、ふくろう博士の家のドアについている銀の鐘の呼び鈴は、グレイ・ラビットが、自分の尻尾と交換したものですが、グレイ・ラビットは、何故、しっぽをふくろう博士に差し出したのか?
 それは、グレイ・ラビットは、自分のしっぽと引き換えに、人参の作り方を、ふくろう博士に教えてもらったからです。
 しっぽを提供してまで、一緒に住む者たちのことを思うグレイ・ラビットの健気さに引き換え、野ウサギのヘアやリスのスキレルのわがままで横柄な姿勢が、どうもやっぱり気にかかります。

 ・・・・ヘアもスキレルも、しっぽをなくしてきたグレイ・ラビットに容赦ありません。
≪「いったい、きみ、しっぽをどうしたんだね?」ヘアが、朝ごはんのしたくに、いそがしく動きまわっているラビットを、じろじろ見ながらいいました。「あなた、しっぽをどこにおいてきたの?」とスキレルも顔をしかめました。「カシコイ・フクロウにあげたの。」というと、ラビットはうつむきました。「はずかしいことだ。」と、ヘアがいいました。「はずかしぃぃぃ。」まけまいとスキレルもいいました。大つぶのなみだが、グレイ・ラビットのお茶の中に落ちて、カフスに、はねかえりました。・・・・≫

 ヘアやスキレルは、上記のような性格ですが、他の登場人物たちには、もっと近寄りたい気持ちです。改心したネズミのラット➡➡にも、厳しいふくろう博士⇒⇒にも、そして、グレイ・ラビットの尻尾をとり返すために、銀のコインを細工し、銀のベルをつくってくれたモグラにも。

≪モグラは銀のベルをもってきたのでした。そのベルは、ツリガネ草の花よりは、ちょっと大きくて、ジギタリスの花よりは、ちょっと小さくて、内側には、白い雌ウマのしっぽの毛につるした、サンザシの実がぶらさがっていました。モグラがふると、そのベルは「リン、リン」という、うつくしい、すずしい音をたてました。それは、とてもやさしく、とてもかすかな、うたうようないい音でしたので、スキレルとヘアは部屋のなかに、ミソサザイがはいってきたのかと、あたりを見まわし、ラビットは、星がうたっているのかと思って、窓の外を除いたほどでした。≫

≪このベルを、ふくろうに差し出すと、ラビットの柔らかい白いしっぽを、もとあったところにあて、ハコベの糸でぬいつけ、オトギリ草のしるをぬりつけましたので、グレイ・ラビットが家にかえりついたころには、しっぽは、またもとどおり、ちゃんとくっついたのです。≫

アリソン・アトリーの描写は細かく、豊かな自然を丁寧に描いているのは、このシリーズの魅力でもあります。
*絵本「グレイ・ラビットのおはなし」(石井桃子・中川李枝子訳 マーガレット・テンペスト絵 福音館)
*「グレイ・ラビットのおはなし」(石井桃子・中川李枝子訳 フェイス・ジェイクス絵 岩波少年文庫)

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ふくろう博士

梟j
(承前)
 ねずみのラットに知恵を授けたふくろう博士でしたが、フクロウは、昔から知恵と隣り合わせにいる役回りです。ネズミ年にネズミの本を探して書いていますが、梟年というのがあれば、脇役も含めると、けっこう、あるかもしれないなと、思います。ポターの「りすのナトキンのおはなし」(石井桃子訳 福音館)も!

 ただ、賢く、冷静で、厳しいという役回りでもあります。が、厳しいだけでなく、本当は優しいのは、上の写真下のフクロウが書斎に積み上げている本の上に、ちゃーんとネズミのラットが作った白い帆船を置いていることでもわかるし、実際、挿絵には、帆で走る船の本をとりだして、綱のはり具合を調べ、ひとりごと「どんなこまかいところも、正確につくってある。」。
***「ねずみのラットの やっかいなしっぽ」(アリスン・アトリー作 マーガレット・テンペスト絵 じんぐうてるお訳 童話館)

 そして、シリーズには、ふくろう博士が主役の話もあります。「ふくろう博士の あたらしい家」 (アリスン・アトリー作 マーガレット・テンペスト絵 じんぐうてるお訳 童話館)

 強い風の吹く夜、ふくろう博士は夜の狩りをおえて、我が家へ帰ったものの、
≪わが家がなくなっていました!博士は息がとまるほどおどろいて、あたりをさがしてまわりました。けれども、銀の鐘のよびりんも、小さな茶色のドアもありません。それどころか、オークの大木まで消えていました。・・・・(中略)・・・地面を見おろすと、オークの大木が、地面にながながとのびていました。まるで、大男がたおれているようでした。玄関のドアははずれています。本は草地に散らばっています。水たまりには、辞書が、白いユリのように浮かんでいます。銀の鐘はどこにもありません。≫

ということで、ふくろう博士は家を無くしてしまうのですが、グレー・ラビットたちが力を合わせ、違う木を見つけ出し、ふくろう博士のために新しい家を準備・提供するのです。。

それで、上記、引用文の中に、二度も出てくる「銀の鐘」。ずいぶん大切なもののよう。それも、そのはず、この銀の鐘は、写真上(「どのようにして、グレイ・ラビットは、しっぽをとりもどしたか」)で、モグラのモールディが手にしているものです。グレイ・ラビットは、この銀の鐘で、ふくろう博士に取り上げられていた、自分のしっぽを取り戻したのです。

 ねずみのラットにしても、グレイラビットにしても、リスのナトキンにしても、尻尾というのは、なかなかやっかいなものです。では、しっぽをなくした人間は、やっかいなものがない???(続く)
 

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ねずみのラットの やっかいなしっぽ

アトリーjj
(承前)
 さて、グレー・ラビットの家での懲らしめにあったねずみのラットは、逃げ帰る途中で、自分の尻尾の結び目に気づき、ほどこうとするものの(写真:右)できません。
 それで、とぼとぼと帰ったあとのお話が「ねずみのラットの やっかいなしっぽ」(アリスン・アトリー作 マーガレット・テンペスト絵 じんぐうてるお訳 童話館)

 リスのスキレルに器用に結ばれた尻尾の結び目は、ちっともほどけず、時には、より硬い結び目になっていきます。そんな、鬱々としたある日、もぐらのモールディに相談すると、ふくろう博士にプレゼントを持って、知恵を授けてもらいに行けばいいということに。
 ラットは、そのとき、ポケットに入っていた骨を,歯でかじりはじめ、磨いて、こすり、仕上げると、出来たのは、小さな白い帆船でした。昔、帆船に乗っていたことを思い出し、その作品に「希望号」と名付けます。

 で、それをもってふくろう博士のところに。
 ラットが恐る恐る帆船を差し出すと
≪「見事な彫刻だ、ラットよ、おまえ、こういう仕事をもっとしたらいいのに。盗むより、働くほうがよかろうが?」「おねがいです。ふくろ博士。このしっぽのむすび目を、ほどいてくれませんか?」ラットは、おがむように両手をあわせて、たのみました。「おれは、葉っぱみたいにやせちまいました。でも、だれも、これがほどけないんです。」ふくろう博士は、なにやらぶつぶついいながら、骨でつくった小さな船を、ひねくりまわしていました。「ラットよ、おまえは、まだ、ぬすみをはたらいておるようだな。めんどりのスペックルのたまご。農家の納屋の小麦の袋。その鼻さきについたジャムは、どこでつけた?しっぽのさきの糖蜜あめは、どうした?」    ラットは、そわそわと落ちつかなくなりました。ふくろう博士は、どんなことも見のがしません。「おまえが新しい心をもつまで、むすび目はとけない。だれもほどけない。葉っぱのようにやせたのなら、新しい葉っぱにまなんで、新しい心をもて」≫

さて、ラットのしっぽの結び目はほどけたでしょうか?(続く)
 
☆写真右:「グレー・ラビットとヘアとスキレル スケートにいく」(アリスン・アトリー作 マーガレット・テンペスト絵 じんぐうてるお訳 童話館)写真左「ねずみのラットの やっかいなしっぽ」((アリスン・アトリー作 マーガレット・テンペスト絵 じんぐうてるお訳 童話館)

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