(承前)
さて、カササギ先生➡➡ のように騒々しくありませんが、ポターの作品に静かなトリックスターとして、「ピーター・ラビットのおはなし」(石井桃子訳 福音館)➡➡に、登場するのが、コマドリ。こちらは姿も小さく、胸のところが赤く、可愛い。
ピーターが、レタスを食べ、さやいんげんを食べ、はつかだいこんを何本か食べている、その横にあるスコップの上にコマドリ。(たべすぎて、調子にのったらあかん、あかん。)胸がむかむかしてきたピーターの後ろにコマドリ。(ほらね、やっぱ、食べすぎやん)…ピーターはマグレガーさんに追いかけられ靴を片方落とした、その靴を見ているコマドリ。(おいおい、靴 おとしたやないか)・・・着ぐるみはがれたピーターがびしょぬれでいる後ろにコマドリ。(ほれ、言わんこっちゃない)…ピーターの青い上着を着たマグレガーさんの作った案山子に止まるコマドリ。(あーあ、こんなことになっちゃって、困ったもんや)
コマドリだけでなく、スズメやクロウタドリや、ネズミ達も、時々は ピーターのそばに居ます。
さて、「ピーター・ラビットのおはなし」の続編である「ベンジャミン バニーのおはなし」(石井桃子訳 福音館)でも、このコマドリさん、少しながら、登場。ピーターのこと、心配していたんですねぇ。
野菜の荷物をもってベンジャミンより先を歩くピーター。目を丸くして立ち止まるピーター。その横の樽の上のコマドリ。(おいおい、前をしっかりみてごらん。ほら! ネコ!!)・・・・で、ベンジャミンのお父さんが現れ、ネコを追い払い、ベンジャミンとピーターにお仕置き、泣きながら帰っていく二人が木戸を出ていく、その木戸にコマドリ。(あれ、あれ、大丈夫?大変だったね。)
・・・・と、考えていると、他にも、こんな役割をする小動物や鳥が描かれているのは、あるものです。例えば、「おだんごぱん」(ロシア民話 瀬田貞二訳 わきたかず絵 福音館)にも、おだんごぱんがきつねのところに転がっていく、その木のところに鳥がいる(おい、調子にのって大丈夫か?)、・・・ぱっくと食べられたところにも、同じ鳥(あ~あ)。
で、もう1冊。(続く)
☆写真は、英国 ハンプトンコートパレスのコマドリ。
(承前)
「モーモーまきばのおきゃくさま」(マリー・ホール・エッツ文・絵 やまのうちきよこ訳 偕成社)➡➡のかけすで、思い出したのが、ベアトリクス・ポター「パイがふたつあったおはなし」(石井桃子訳 福音館)のカササギ先生。「モーモーまきばのおきゃくさま」のかけすほどの役回りではありませんが、話の最後を盛り上げ、話全体に落ちをつける役割を担っています。
猫のリビーさんのお呼ばれで、犬のダッチェスさんが、食べてしまったパイに入っていたものがネズミなのか、焼き型なのか?がこのお話の中心ですが、ダッチェスさんが気持ち悪くなったときに、呼んでくるのが、カササギ先生。何故か?それは、食べたものがパイ(Pie)だけに、マグパイ(Magpie)の種類であるカササギ。話自体が、滑稽なので、言葉遊びの域でしょうか。英語圏の子どもなら、この本の他にも、きっとある言葉遊びを楽しむんだろうなと思います。
とはいえ、以下、以前に書いたことをもう一度。
≪「ばきゃたれ、うすのろ!は!は!は!」と繰り返すカササギせんせいの台詞は、時として、今も、警鐘音として我が耳に響きます。この「ばきゃたれ」一つの言葉をとっても、「なに ばきゃ?」「たれ?」から、「ばきゃたれ?」となり、「ばきゃたれ、うすのろ!」、「ばきゃたれ、は!は!」となっていき、微妙に語尾を変化させ、ばきゃ(馬鹿)が確信になっていきます。細かいけど、そこを楽しむのも、ポター作品の楽しみ方の一つであり、石井桃子訳の楽しみ方でもあります。≫➡➡ (続く)
☆写真 ロンドン ケンジントンパークのカササギ。
(承前)
「ピーター・ラビットのおはなし」(ビアトリクス・ポター作 石井桃子訳 福音館)ができた経緯は、ノエルという子に書いた絵手紙から始まります。ノエルは、ビアトリクス・ポターの家庭教師だったアニーの子どもです。アニーとビアトリクスは3歳しか歳が違わなかったこともあって、師弟関係というより、友人関係に近かったと考えられ、アニーが結婚してロンドンと離れても、文通などを通して交流していたようです。
それで、アニーの子どものノエルという(クリスマスに生まれたからノエル)当時4歳だった男の子に送った絵手紙が、「ピーター・ラビットのおはなし」の元になったものです。
≪ノエル君、あなたになにを書いたらいいのかわからないので、四匹の小さいウサギの話をしましょう。四匹の名前はフロプシーに、モプシーに、カトンテールに、ピーターでした・・・・≫
ノエルは、8人きょうだいの長男で、9歳の頃ポリオに罹り片足が不自由となりました。大人になってからは牧師となり、貧しい家庭の婦女子のために奉仕活動に従事したとあります。
さて、1936年、「ケント州の牧師だという、元気溌溂とした中年男性」がスコットランドへの自転車旅行の途中、湖水地方に立ち寄り、ポターを訪問します。そして、そのときのことをポターは、こう綴ります。
≪彼はここへ訪ねてきて、「ぼくを覚えていないんですか?」というので、私は「顔には見覚えがあるようなのですが」といいました。なんとそれが、ピーターの絵と物語を最初に絵手紙に書いてあげた、昔のノエル少年だったのです!≫
*「ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)
☆写真右上がノエル少年。手紙や封筒のコピーはピータ・ラビット100周年の記念に作られたもの(非売品)➡➡

「ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)
(承前) ビアトリクス・ポターと会ったとき、アン・キャロル・ムーアは、アメリカの図書館界で、すでに権威がありましたが、それは、彼女がなしえた一つの仕事、図書館に子どもだけの「児童室」の創設に尽力したからでした。
それまでは、子どもが本に触ってはいけなかったり、子どもの本棚にカギをかけていたり、子どもの本は少ししかないという実態があったようですが、彼女は、ニューヨーク図書館に作った児童室に、たくさんの子どもの本を用意し、読書会やコンサートやおはなし会などをの催しを企画し、有名な子どもの本の作家を呼んだり、また、英語がまだ苦手な子どもには、人形を用意し、和ませるなどしたようです。
その人形、ニコラス・ニッカボッカは、ビアトリクス・ポターを訪問した時のお土産に持参したものでもありました。そして、その木の人形を、ポターは生涯、可愛がったということです。
そして、このアン・キャロル・ムーアの働きは全米に広がり、ほかの国、日本にも、同じような児童室ができていったのです。
アン・キャロル・ムーアが児童室を作った経緯については、絵本『図書館に児童室ができた日 ――アン・キャロル・ムーアのものがたり』にも書かれています。(*絵はグランマ・モーゼスに似ていて、温かみがあるものの、絵本に遊び心を求めている個人的には、ポターとは、距離があると感じました。)
そして、また、The Art of Beatrix Potterの序文をムーアは書いています。(未邦訳)(続く)
☆写真は、前にも掲載したニューヨーク図書館➡➡
(承前)
「ビアトリクス・ポター ―――描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)には、1921年にアン・キャロル・ムーアが、ビアトリクスを訪問した、とあります。
え?あの石井桃子(1907~2008)と交流のあったアン・キャロル・ムーア?
なんだか、時代がつながりにくいものの、アン・キャロル・ムーア(1871~1961)がビアトリクス・ポター(1866~1943)を英国に訪問したのは、彼女が50歳の頃。石井桃子が「児童文学の旅」(岩波)で紹介する1954年に47歳で渡米した際のアン・キャロル・ムーアは、82歳。
・・・そして、石井桃子はビアトリクス・ポターのピーターラビットシリーズを日本語に翻訳。日本と英国と米国が、本物の糸でつながっている。よかった・・・
ビアトリクスを訪問したアン・カロル・ムーアとの会話は、≪本のこと、子どものこと、絵のこと、田園生活のことなど≫におよび、何時間も続いたようです。それから、農場を案内してもらい、スケッチをみせてもらい、予定していた二冊の「わらべ歌の本」➡➡についての意見交換もしたとあります。
その意見交換、この訪問こそは、ビアトリクスの創作意欲を刺激し、奮い立たせるものとなりました。
というのも、アン・キャロル・ムーアは、アメリカの図書館界で、すでに権威があり(その頃、イギリスではそれに相当する社会的地位のなかった)、その彼女が、ビアトリクスが十数年来の苦心の成果に、多大なる称賛と愛情あふれる理解を示したからでした。
ビアトリクス自身は、すでに高い人気を誇っていたピーターラビットのシリーズの存在価値が公に認められているという感じをつかむに至っていず、当時、子どものための本は、文学への真摯な寄与と見るよりは、おもちゃに等しいものとしか見られていなかったからだとあります。
この二人が出会って、100年経った今、子どもたちの絵本が、文学への真摯な寄与、おもちゃに等しくないもの・・・・と、考える大人は、果たして、増えたのだろうか。(続く)
☆写真は、英国 湖水地方 ニアソーリ村ヒルトップ(撮影:&Co.I)
(承前)
ピーター・ラビットたちの絵本を出版するにあたっては、フレデリック・ウォーン社のノーマン・ウォーンと厳しいやり取りを経たのち、出版されていきます。
≪ビアトリクスは今度も、二冊の本の制作に細心の注意をはらいました。紙の種類や印刷方法ばかりでなく、見返しや装丁についても、かなり細部にわたってノーマンと議論しました。「本の見返しは、表紙と本文のあいだで読書が目に休めるべきものだと、私はつねづね思っている。それはちょうど、額におさめた絵の台紙に相当するものである。・・・≫
そうなのです。絵本を楽しむ人(子どもも大人も)は皆、見返しや装丁から、楽しみが始まっていることを知っているのです。つまり、ポター自身が、絵本を楽しむ人だったのです。しかも、絵も文も創作できるのですから、最強です。(全作品のうち一部、別画家による作品もありますが、翻訳されていません。)
そして、その評判に伴い、様々な要請も増えていきます。
ビアトリクス・ポターは、小学校用の読本の執筆を依頼されたとき、こんなことを言っています。
≪私は、本業以外の仕事は本業の完成の妨げになる、という考えを強くもっています。私は物語を創るのが大好きなのです――物語はいくらでも出てきます――物語はいくらでも出てきます――けれども、絵を描くのがとても遅く、ひじょうに苦労します。したがって、私の創作人生が長かろうが短かろうが、その終わりを告げるとき、私が書きたいと思っている作品がいくつも未完で終わることは、まちがいないのです。≫
ビアトリクス・ポターは、画家だと思いがちですが、この件を読むと、ちょっと違うかもしれません。もちろん、ピーターたちや、彼女が残したフィールドスケッチの数々を見ると、画家としての実力が大きいものだと思います。が、時を越え、国を越えて、人々を魅了する作品の数々を見ていると、彼女のいう、物語る力も大きかったのだとわかります。
が、しかし、ピーターたちの出版の議論、やりとりを続け、信頼関係を築いたノーマン・ウォーンと、家族の反対を受け、極秘婚約するも、婚約後1か月後に、ノーマンが亡くなりました。1905年のことでした。その後、湖水地方、ヒルトップを購入、住居を移すのです。(続く)