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みんなみすべくきたすべく

AHOY!

ランサムjj

「ピーター・ラビットの野帳  フィールドノート」(ビアトリクス・ポター絵 アイリーン・ジェイ  メアリー・ノーブル  アン・スチーブンソン・ホッブス 文  塩野米松訳  福音館)➡➡
(承前) この本には、ポターの自然保護活動や慈善事業の素地になった、湖水地方のこと、ポターがキノコの研究に力を入れていたことなどが書かれていましたが、もう一つ、彼女がこの湖水地方を保護する大事なポイントがありました。

 それは、この辺りは、人の住んだ歴史も古く、先史時代だけでなく、ローマ時代のものもたくさん出土していた場所でもあったのです。(ああ、ローマンブリテン!!!ここで、ローマンブリテンのサトクリフの作品に触れだすと、きりがない。)
 ともかくも、ここから出土したものをポターの才能を生かして、写真のようにも見える画に残しています。

 さて、ここでまた出てくるのが、アーミットコレクション➡➡で、ここには、その出土品も集められていました。そのアーミットトラストの初期の会長や会員らが、近郊のローマ軍砦の開発を止めるべく、寄付を募り、その土地を保護しようという動きにつながります。
 後に、アーミットライブラリーに展示された発掘品を、ポターは、水彩画にして寄贈します。それらは、≪専門家並みの正確さとビアトリクスの絵画特有の美しさが備わっており、たぐいまれな作品に仕上がっています。≫

 それで、今回書きたかった、たった一行のこと。
 アーミットトラストに無償で協力したのが、国際的に評価されていたコリングウッドで、その父親はラスキンの友人で秘書で、アーミットの論文を校閲した人でした。そして、≪その父子の弟分アーサー・ランサムも、同様に(アーミットトラストの)会員でした。≫

 AHOY!!!、アーサー・ランサム!!!
 カ・リ・リ・ロが、初めて、友人たちと英国湖水地方に行ったとき、ポター詣でとランサム詣での旅でした。その時は、まだつながっていなかったことが、今やっとつながった。なんと、うれしいことでしょう。
 ただ、ここで、ランサムに深入りするのは、やめます。
 湖水の地 今や遠くに なりにけり。

☆写真は、右 「ピーター・ラビットの野帳  フィールドノート」(ビアトリクス・ポター絵 アイリーン・ジェイ  メアリー・ノーブル  アン・スチーブンソン・ホッブス 文  塩野米松訳  福音館)ビアトリクスのスケッチ:」ローマ人の革製のサンダルの一部。
写真左 The Story of The Discovery of Intal as told by Roger Altounyan to the Society for Drug Reseach in York 1977にある、ロジャのモデルとなったアルトニアン博士が湖水地方コニストン湖で茶色い帆のヨットに乗る写真と
”Swallows and Amazons”「ツバメ号とアマゾン号」(アーサー・ランサム岩田 欣三・神宮輝夫訳 岩波) 

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自然教育

ヒルトップ12
(承前)
 長々と「ビアトリクス・ポターの生涯  ピーター・ラビットを生んだ魔法の歳月ー」(マーガレット・レイン著 猪熊葉子訳 福音館)、と、「ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)を紹介してきましたが、この2冊に、書かれていなかった大きな視点があります。
  それは「ピーター・ラビットの野帳  フィールドノート」(ビアトリクス・ポター絵 アイリーン・ジェイ  メアリー・ノーブル  アン・スチーブンソン・ホッブス 文  塩野米松訳  福音館)➡➡に書かれています。

 ポターが、ナショナル・トラスト自然保護運動や、慈善事業に尽力した素地のことです。
 我々は、彼女が親しくしていたローンズリー牧師の影響と、作家としての印税を湖水地方の土地を購入し続け、その自然を守ったことが、今のナショナルトラスト運動だと知っていますが、その湖水地方には、もともと、文化的先人がたくさんいたことも忘れてはいけないことだと思います。

 詩人のワーズワースや思想家のラスキンなどなど(他、個人的に知らない人多数)が居たのですが、その人たちの原稿や稀覯本、絵画等など、保存する教育分野の慈善団体アーミットライブラリーなるものが存在しました。(今も、ポターの寄贈作品などが展示される博物館としてあります。)
 そのアーミットライブラリーは、メアリー・ルイ―ザ・アーミットという女性の遺志を継いで、彼女の二人の姉の希望に基づき会員制貸し出し図書館として創立され、後に、近郊にあったアンブルサイド・ラスキン図書館を吸収しています。

 このアーミット三姉妹ソフィア、アニー・マリア、メアリー・ルイーザは、当時、すべてアマチュアでしたが、植物画家であり、論文を書く研究者であり、鳥類研究家でもありました。「ピーター・ラビットの野帳」には、ソフィア・アーミットの描いた絵が何枚か掲載されていて、彼女の才能を見ることができます。また、ポターと同じく「きのこ」の絵も描いていて、これも掲載されています。
 
 このアーミット・コレクションは贈与と寄贈で成長していき、会員も広がっていきました。ポターが会員になったのは、ずっと後の、すでに会員だった夫ヒーリスと結婚してからでしたが、その時には、湖水地方の鉄道敷設に反対しアーミットライブラリ―の教育委員だったローンズリー師が居たのです。(もともと、ポター一家とローンズリー師は親交がありました。)

 そのローンズリー師が崇拝していたシャーロット・メイソンという女性(モンテッソーリ教育につながっています)の信念は、
≪教育の中でもとりわけ自然教育は重要な位置を占めている≫でした。(続く)
☆写真は、英国 湖水地方 ニアソーリ―村(撮影:&Co.I)
 

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ポターの周りの人たち

ヒルトップ12
(承前)
「ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)
ポターが生涯、出会い、繋がる人々は、子ども時代、作家になる前の時代、作家時代、そして、農場経営時代・・・と年月こそ流れていきますが、階級、国を越えています。
 農場経営時代というのは、彼女の作家としての成功後の、晩年に近い時期からのことですが、ここに長々と書くきっかけとなった、マーガレットレインが「ビアトリクス・ポターの生涯  ピーター・ラビットを生んだ魔法の歳月ー」(猪熊葉子訳 福音館)で書いた、ポターが「辛辣で無礼」という言葉とは、裏腹のポターが見えます。

 例えば、当時は、ポターの住処としてあるいは、作品の舞台となった場所で、空襲を避け、原画をすべて疎開させていた湖水地方ソーリー村ヒルトップの家を、戦争で屋敷を没収された小さな子どものいる親族のために、鍵を渡し明け渡しました。小さな子どもと暮らしたことがある人には、おわかりでしょうが、子どもが家にいることは、家の中がどんなになってしまうか・・・・たとえ、その家族に乳母がついていたとしても。
 ポターは言います。
≪パーカー一家は今、こねこのトムの家にいるのですよ。・・・・子どもたちはとてもかわいらしく・・・・三歳のリチャードは、なかなかのきかん坊です。≫と、彼らのソーリー村滞在を歓迎しています。
 マーガレット・レインのいう「辛辣で無礼」➡➡というのは、どういうことだったんだろう?

 また、第二次世界大戦の戦場とならなかったアメリカのファンや友人からは、食料をつめた小包が届き、ポターも英国の様子を書いて送ったりしています。(ポターは、ヒットラーに憤慨し、当初、ナチスドイツに宥和政策をとったチェンバレンを批判する文を書いています。)
 そして、戦時下にもかかわらず、ポターに何度か会いにきた建設省の建築技師の訪問を歓迎し、その子どもの本にすべてサインするのです。
≪彼は手足の長い、すらりとした、とても背の高い・・・テナガザルみたいな人です。・・・・(中略)・・・・奥さんのミセス・ハートは小柄ではにかみやで、アリソンはかわいいおちびさんです。≫
 と、書かれた おちびさんのアリソンは、サインをしてくれたポターよりもポターの飼っていた犬たちに興味があり(5歳ですからね)、その時の心温まる写真が掲載されています。

 他にも、この「ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)には、庭師や親族の子どもたちの写真、 ヒルトップに案内したガールガイズ(Girl Guides)と一緒の写真、そして、ポターの遺骨を秘密裡に散骨した農夫のトムが小さく写るヒルトップ前の写真・・・などなど、明るく笑う人たちの写真の数々は、心温まるもので、ポターの人柄さえも伝わってくるものです。

 ポターは、絵本の印税によって湖水地方の土地や農場を手に入れ、保護に努め。死後は、遺言により、それらの土地はナショナル・トラストに寄付されました。他にも慈善事業に関わり―疾病児童援助協会のピーターラビット基金なるものを作っていたようです。(続く)
☆写真は、英国湖水地方 ニアソーリ村(撮影:&Co.I)

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ポターの周りの人 (5)ノエル

ポター10
(承前)
 「ピーター・ラビットのおはなし」(ビアトリクス・ポター作 石井桃子訳 福音館)ができた経緯は、ノエルという子に書いた絵手紙から始まります。ノエルは、ビアトリクス・ポターの家庭教師だったアニーの子どもです。アニーとビアトリクスは3歳しか歳が違わなかったこともあって、師弟関係というより、友人関係に近かったと考えられ、アニーが結婚してロンドンと離れても、文通などを通して交流していたようです。
 それで、アニーの子どものノエルという(クリスマスに生まれたからノエル)当時4歳だった男の子に送った絵手紙が、「ピーター・ラビットのおはなし」の元になったものです。
 ≪ノエル君、あなたになにを書いたらいいのかわからないので、四匹の小さいウサギの話をしましょう。四匹の名前はフロプシーに、モプシーに、カトンテールに、ピーターでした・・・・≫

 ノエルは、8人きょうだいの長男で、9歳の頃ポリオに罹り片足が不自由となりました。大人になってからは牧師となり、貧しい家庭の婦女子のために奉仕活動に従事したとあります。

 さて、1936年、「ケント州の牧師だという、元気溌溂とした中年男性」がスコットランドへの自転車旅行の途中、湖水地方に立ち寄り、ポターを訪問します。そして、そのときのことをポターは、こう綴ります。
≪彼はここへ訪ねてきて、「ぼくを覚えていないんですか?」というので、私は「顔には見覚えがあるようなのですが」といいました。なんとそれが、ピーターの絵と物語を最初に絵手紙に書いてあげた、昔のノエル少年だったのです!≫

*「ビアトリクス・ポター  描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館) 

☆写真右上がノエル少年。手紙や封筒のコピーはピータ・ラビット100周年の記念に作られたもの(非売品)➡➡ 

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ポターの周りの人(4-2)アン・キャロル・ムーア

NY28.jpg

「ビアトリクス・ポター   描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)
(承前) ビアトリクス・ポターと会ったとき、アン・キャロル・ムーアは、アメリカの図書館界で、すでに権威がありましたが、それは、彼女がなしえた一つの仕事、図書館に子どもだけの「児童室」の創設に尽力したからでした。

 それまでは、子どもが本に触ってはいけなかったり、子どもの本棚にカギをかけていたり、子どもの本は少ししかないという実態があったようですが、彼女は、ニューヨーク図書館に作った児童室に、たくさんの子どもの本を用意し、読書会やコンサートやおはなし会などをの催しを企画し、有名な子どもの本の作家を呼んだり、また、英語がまだ苦手な子どもには、人形を用意し、和ませるなどしたようです。
 その人形、ニコラス・ニッカボッカは、ビアトリクス・ポターを訪問した時のお土産に持参したものでもありました。そして、その木の人形を、ポターは生涯、可愛がったということです。
 
 そして、このアン・キャロル・ムーアの働きは全米に広がり、ほかの国、日本にも、同じような児童室ができていったのです。

 アン・キャロル・ムーアが児童室を作った経緯については、絵本『図書館に児童室ができた日 ――アン・キャロル・ムーアのものがたり』にも書かれています。(*絵はグランマ・モーゼスに似ていて、温かみがあるものの、絵本に遊び心を求めている個人的には、ポターとは、距離があると感じました。)

 そして、また、The Art of Beatrix Potterの序文をムーアは書いています。(未邦訳)(続く)
☆写真は、前にも掲載したニューヨーク図書館➡➡

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ポターの周りの人(4-1)アン・キャロル・ムーア

ヒルトップjj
(承前)
 「ビアトリクス・ポター ―――描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)には、1921年にアン・キャロル・ムーアが、ビアトリクスを訪問した、とあります。
 え?あの石井桃子(1907~2008)と交流のあったアン・キャロル・ムーア?
なんだか、時代がつながりにくいものの、アン・キャロル・ムーア(1871~1961)がビアトリクス・ポター(1866~1943)を英国に訪問したのは、彼女が50歳の頃。石井桃子が「児童文学の旅」(岩波)で紹介する1954年に47歳で渡米した際のアン・キャロル・ムーアは、82歳。
・・・そして、石井桃子はビアトリクス・ポターのピーターラビットシリーズを日本語に翻訳。日本と英国と米国が、本物の糸でつながっている。よかった・・・

 ビアトリクスを訪問したアン・カロル・ムーアとの会話は、≪本のこと、子どものこと、絵のこと、田園生活のことなど≫におよび、何時間も続いたようです。それから、農場を案内してもらい、スケッチをみせてもらい、予定していた二冊の「わらべ歌の本」➡➡についての意見交換もしたとあります。
 その意見交換、この訪問こそは、ビアトリクスの創作意欲を刺激し、奮い立たせるものとなりました。
 というのも、アン・キャロル・ムーアは、アメリカの図書館界で、すでに権威があり(その頃、イギリスではそれに相当する社会的地位のなかった)、その彼女が、ビアトリクスが十数年来の苦心の成果に、多大なる称賛と愛情あふれる理解を示したからでした。
 ビアトリクス自身は、すでに高い人気を誇っていたピーターラビットのシリーズの存在価値が公に認められているという感じをつかむに至っていず、当時、子どものための本は、文学への真摯な寄与と見るよりは、おもちゃに等しいものとしか見られていなかったからだとあります。
 
 この二人が出会って、100年経った今、子どもたちの絵本が、文学への真摯な寄与、おもちゃに等しくないもの・・・・と、考える大人は、果たして、増えたのだろうか。(続く)

☆写真は、英国 湖水地方 ニアソーリ村ヒルトップ(撮影:&Co.I) 

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ポターの周りの人(3)ノーマン・ウォーン

見返しj
(承前)
 ピーター・ラビットたちの絵本を出版するにあたっては、フレデリック・ウォーン社のノーマン・ウォーンと厳しいやり取りを経たのち、出版されていきます。
≪ビアトリクスは今度も、二冊の本の制作に細心の注意をはらいました。紙の種類や印刷方法ばかりでなく、見返しや装丁についても、かなり細部にわたってノーマンと議論しました。「本の見返しは、表紙と本文のあいだで読書が目に休めるべきものだと、私はつねづね思っている。それはちょうど、額におさめた絵の台紙に相当するものである。・・・≫

そうなのです。絵本を楽しむ人(子どもも大人も)は皆、見返しや装丁から、楽しみが始まっていることを知っているのです。つまり、ポター自身が、絵本を楽しむ人だったのです。しかも、絵も文も創作できるのですから、最強です。(全作品のうち一部、別画家による作品もありますが、翻訳されていません。)

そして、その評判に伴い、様々な要請も増えていきます。
 ビアトリクス・ポターは、小学校用の読本の執筆を依頼されたとき、こんなことを言っています。
≪私は、本業以外の仕事は本業の完成の妨げになる、という考えを強くもっています。私は物語を創るのが大好きなのです――物語はいくらでも出てきます――物語はいくらでも出てきます――けれども、絵を描くのがとても遅く、ひじょうに苦労します。したがって、私の創作人生が長かろうが短かろうが、その終わりを告げるとき、私が書きたいと思っている作品がいくつも未完で終わることは、まちがいないのです。≫

 ビアトリクス・ポターは、画家だと思いがちですが、この件を読むと、ちょっと違うかもしれません。もちろん、ピーターたちや、彼女が残したフィールドスケッチの数々を見ると、画家としての実力が大きいものだと思います。が、時を越え、国を越えて、人々を魅了する作品の数々を見ていると、彼女のいう、物語る力も大きかったのだとわかります。

 が、しかし、ピーターたちの出版の議論、やりとりを続け、信頼関係を築いたノーマン・ウォーンと、家族の反対を受け、極秘婚約するも、婚約後1か月後に、ノーマンが亡くなりました。1905年のことでした。その後、湖水地方、ヒルトップを購入、住居を移すのです。(続く)

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ポターの周りの人 (2)ギャスケル

ギャスケル2
(承前)
 次に、ポターの父親と教会関連の知己が、ウィリアム・ギャスケル。
 この人とも、家族ぐるみの付き合いをしていた一家でしたが、ビアトリクス・ポターは、たくさんの客人の中で一番慕っていたとされています。この人とのエピソードは、ちょっといいものです。

 すでに妻を亡くし70歳を越したギャスケルに、当時8歳のビアトリスは、クリスマスに毛糸のマフラーを編んでプレゼント。
「・・・・・これを首に巻くときは――この天候では毎日だろうけどね――かならずきみのことを思い出すよ」と、ギャスケルを、おおいに喜ばせたのでした。
  ウィリアム・ギャスケルは、子どもたちと遊ぶのが大好きで、また、子どもと一緒に動物を可愛がることも好きでした。スコットランドに行った時も、ビアトリクスにこんな手紙を書いています。
≪ヒースに寝転んでいるウサギを見て、トミーのことを思いだしましたよ。トミーはちゃんとごはんを食べて元気でいるでしょうね。もし私を覚えているようだったら、私からよろしくと伝えてくださいね。≫

また、ビアトリクスの方でも、ギャスケルの死後10年後に、彼と共に過ごしたスコットランドの休暇を、回想しています。
≪ああ、なんとはっきり今も思い出せるのだろう。彼はダイカイズの玄関口の医師団に、あたたかな陽射しをあびて、気持ちよさそうにすわっている。グレーのコートに古いフェルト帽子、膝の上には、新聞がある。と、ふいににっこりやさしい笑顔を上げる。とんとんと足音がきこえてくる。アオバエのぶんぶんいう音が小道に消えていく。プリント地のワンピースに横じまのストッキングをはいた幼い女の子が彼のそばに飛んできて、シモツケソウの花束をさしだす。彼はひとこと『ありがとうね』といって、かたほうの腕を少女にまわす。・・・・≫

さて、ウィリアム・ギャスケルは、作家エリザベス・ギャスケルの夫です。エリザベス・ギャスケルには「女だけの町(クランフォード)」(小池滋訳 岩波文庫)(写真上) 「ギャスケル短編集」(松岡光治編・訳 岩波文庫)などの作品があります。ディケンズが称賛した作家でもあります。当時の女性の地位を物語るかのように、写真上に写る作者の名前は、Mrs.ギャスケル。エリザベスという名前ではなく、ギャスケル夫人となっています。・・・と、話が、また横道にそれ、ポターから離れそうなので、今回は、やめておきます。(続く)

***ちなみに、ウィリアム・ギャスケルの英語版ウィキペディアの写真は、ビアトリクス・ポターの父親が撮ったものだと明記されています。

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ポターの周りの人 (1) ミレー

ミレーj

➡➡ 承前)
「ビアトリクス・ポターの生涯  ピーター・ラビットを生んだ魔法の歳月ー」(マーガレット・レイン著 猪熊葉子訳 福音館)と「ビアトリクス・ポター   描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)には、ポターが交流していたたくさんの人たちが、紹介されています。

 まず、ジョン・エバレット・ミレー。⇒⇒「オフィーリア」(写真右)➡➡でも、お馴染みの画家で、ラファエル前派➡➡ ⇒⇒の創始に関わり、のちにロイヤルアカデミー院長。ミレーとポターの父親は、知己の間柄です。この人から、当時の首相(グラッドストン)などと、交流が広がっています。ポターの父親が、グラッドストンの写真を撮り、その写真を参考にミレーは肖像画を描いたとあります。また、家族ぐるみの付き合いだった写真も掲載され、ミレーは妻子ともども、釣りを楽しんだとされています。また、ポターは父親に付いてミレーのアトリエに行き、絵の具の混ぜ方などを教えてもらったり、「きみは観察力があるね」と言葉をもらったり、その後「絵の方は、どうしているか?」と、尋ねられたりしています。

 また、ミレーの描いた「シャボン玉をふく子」(写真左)という、のちに石鹸会社の広告にも使われた有名な絵の試し描きのスケッチの段階からポターの父親の写真によって助けられる段階を経て完成していく様子も、ポターは知っていたようです。(続く)

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子どもを尊重し自然を愛する人

ポターj
(承前)
 さて、もう一冊のポターの評伝は、2001年に翻訳出版されました。「ビアトリクス・ポター ―――描き、語り、田園をいつくしんだ人」(ジュディ・テイラー著 吉田新一訳 福音館)
 この読後は、先の「ビアトリクス・ポターの伝記「ビアトリクス・ポターの生涯」(マーガレット・レイン著 猪熊葉子訳 福音館 1986年)➡➡ ⇒⇒とちがって、スッキリしたものでした。
 著者のジュディ・テイラーとポターは、交流がありました。もちろん、ポターは、著者だけでなく、世界中の人たちと手紙で交流し、晩年、子どもとの接触は、感じられなかったマーガレット・レインの著作とは違って、子どもたちとの写真や文通など、子どもと積極的に交流としていた様子さえうかがえます。

 ジュディ・テイラーも、初めは手紙でした。
 かのマーガレット・レインは、拒絶され、頭にきていました。そして、根に持っていたふしまでうかがえましたから、この差は、なんだろうと考えます。ここで、マーガレット・レインが読者に押し付けたイメージ、ポターは、才能ある女性ではあったけれども、辛辣で無礼な人というイメージは、払拭できました。
 その背景には、後日、書くことになる英国の児童文学作家アリソン・アトリー伝にもあるように、英国でも北生まれの人は頑固だというイメージ、あるいは、英国の階級社会のイメージ、あるいは、女性の社会進出などなど、けっこう、複雑なものもあるような気がします。

 ともあれ、個人的には、子どもを尊重し 自然を愛する人に、悪い人はいないと、思っています。(続く)
 

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