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みんなみすべくきたすべく

トルコ至宝展

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 京都国立近代美術館の「トルコ至宝展ーーチューリップの宮殿トプカプの美ーー」に行きました。(~2019年7月28日)オスマントルコ時代からの日本との友好関係の歴史関係にも迫るとありました。先日のG20後に、トルコの大統領も寄って帰りましたね。(内政が、かなり厳しい状況であると思われるのに・・・)

 さて、ただの宝石展かと勘違いし、足を運んでいませんでしたが、行って見ると、OH!やっぱり、宝石に目を奪われてしまいました。嘘でしょ?というくらい大きなエメラルドや、水晶でしょう?というダイヤモンド。大体、ちっさーい宝石しか見たことがありませんから、展示されている本物具合が、よくわからん。展示説明を見て、ふーん、本物ね・・・
 その大きさもさることながら、その周りの細工も細かい事!!!日本の伝統工芸品で、何度も、ひぇーと、その細かさに驚いてきましたが、諸外国の多くの工芸品は、余裕(?)で、見てきました。それが、やっぱり、金銀財宝に目がくらみ、トルコもなかなかやるじゃないの。

 チューリップが、オスマントルコの象徴とされ、スルタンの衣装にも、美術工芸品にも、チューリップが表現されていました。トルコ語で「ラーレ」と呼ばれるチューリップ紋様で、優美な感じはするものの、そこは、イスラム社会。つまり、女の人が表に出てこないので、柔らかさに欠けるような・・・
 また、長すぎる袖も展示されていましたが、あいさつ代わりに、その袖に、口づける儀礼用らしく、安全上の知恵があることを知りました。女性用の長すぎる袖は、ひらひらと優美なだけなのに、このスルタンたちの袖は、長すぎ、多分地に着くくらいですから、スルタンに挨拶しようと思えば、膝を折り曲げなければなりません。

 なさけないことに、高校で習ったトルコの地歴から、進歩していませんが、たまたま読んでいたイランの(ペルシャの)「王書—-古代ペルシャの神話。伝説」*に、このトルコ展で、見たようなものが書かれていて、興味がわきました。また、隣国とはいえ、今や、トルコとイランの隔たりや、かの国々と関わる国々の位置づけ。先日、紹介した、イランの絵本➡➡から見る、イランとインドなどなど・・・事実は小説より奇なりなのですが、古いものは(古くから伝わるものは)、多くの真実を我々に示してくれます。(続く)

*「王書—-古代ペルシャの神話。伝説」(フェルドウスィ―作 岡田恵美子訳 岩波文庫)

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デスクの後ろに掛かっている絵

モネ
(承前)
 ずいぶん、あちこち散らかったももの、またジェフリー・アーチャーです。「ゴッホは欺く」(上下巻 永井淳訳 新潮文庫)➡➡が、ゴッホにつながっているのは、タイトルそのままですが、中には、コンスタブル、スタッブズ、、ターナー、マティス、ドラン、ヴラマンク、ドガ、ピサロ、モネ、フェルメール、ロセッティ、ホルマン・ハント、モリス、ゲインズボロ、ゴヤ、ラファエロ、カサット、ルノアール、レンブラント、ホルバインなどなど、印象派、英国ラファエル前派・・・、ともかく、有名な画家の名前が次々に出てきます。

 そのうちのいくつかは、複数回出てきたり、作品名を特定したりして、また、印象に残ります。
 例えば、アルジャントゥーユのモネ。
≪…会長のデスクの後ろに掛かっているアルジャントゥーユのモネを見上げた。モネはこののどかな川岸の風景を何度か描いているが、この作品の中でも最高の傑作だった。…≫

 先日来、モネの水辺の風景画が、先日のドービニー➡➡の影響もあったのが、わかったのも嬉しいのですが、モネは、セーヌ河右岸アルジャントゥーユ村での水辺の画を約170点も残したようです。(続く)

☆写真は、スイス オスカー・ラインハルトコレクション「アム・レマーホルツ」 所蔵のモネThe Break-up of Ice on the Seine
 

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クリムト展

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 せっかく、上京したのだからと、「クリムト展」(~209年7月10日 東京都美術館)にも、行きました。また、クリムトだけでなく、エゴン・シーレ、あるいは、ウィーンの世紀末文化も展示されている「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 」(~2019年8月5日 国立新美術館)も、開催されていましたが、こちらは、大阪での開催も予定されているので、今回は、行きませんでした。日本・オーストリア外交樹立150周年だとか、クリムト没後100年だとか、で、これらの展覧会が催されているようです。

  東京都美術館は、9時半開場だし、シニア65歳以上は1000円なので、喜び勇んで行ったものの、その日は、学生は無料ということもあって、とんでもない人出。凄い混雑。こんなに、みんなクリムトのこと好きだったの?と、いう感じです。メディアで紹介されたあとは、混雑するのは、常ですから、それもあったのかもしれません。

 なので、すでに、ウィーンで見た作品は、特に混雑していたこともあって、かなりスルーして、会場を回りました。
 確かにクリムトの描くものは、絢爛で不思議な世界に誘うものが多く、たくさんの人を魅了し続けてきたのだと思います。

 ただ、 今回は、ウィーン分離派会館を飾る壁画「ベートヴェン・フリーズ」の原寸大複製が再現されることに興味がありました。分離派会館より、低めの位置だと思いますが、確かに、その複製はありました。
 クリムト225
ベートヴェンの交響曲第九番 を絵画で表現(全長34メートルの壁画)というものですが、ウィーンで、実際に見たとき、三方を取り囲まれる空間の芸術に、官能や絢爛とは違うクリムトの力を見たような気がしました。
クリムト

 が、これは、壁画や、あるいは障壁画などの再現についてまわる宿命ですが、いくら、その壁画が完全に復元されていても、やはり、その描かれた場所でこそ、その芸術は、生きるのだなと思った次第です。クリムト25

☆写真は、上から、東京都美術館内。二番目は、ウィーン、分離派会館入り口、三番目は、「ベートヴェン・フリーズ」の英語の解説カード、四番目はウィーン、分離派会館の屋根の部分。

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速水御舟展

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 上京する都合と、「生誕125年記念 速水御舟展」開幕の日が、たまたま重なったので、山種美術館に開場早々、入館しました。(~2019年8月4日)

 何度か、この美術館には来たことがあったので、「炎舞」➡➡も「散椿」➡➡も見たことはあります。が、狭いところの展示で鑑賞したこともありました。そこで、開館記念の特別展なら、展示もゆったりとしているだろうと考えた次第でした。
 特に、「炎舞」は、実物を前にするしか、あの不思議さを感じ取れないと知っているので、また、見たかった・・・というのが、本当のところです。

速水御舟が、特に好きな画家というわけではありませんが、この「炎舞」に限っては、ロンドン ナショナルギャラリーのスルバラン「A Cup of Water and a Rose on a Silver Plate」➡➡と、同じように、目の前でのみ、ゆっくりと味わうことのできる、作品だと思っています。

やはり、「炎舞」は、何度見ても、どこから見ても、生きている絵としか思えない。

☆写真上は、会場で、写真を撮ってもよかった金屏風「翠苔緑芝」(四曲二双)の一部。写真下は、「翠苔緑芝」と向こうに、写真を撮ってはいけない「名樹 散椿」(同行した美術館作品写真収集家の夫の苦肉の策)
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行ってみたい オーヴェル・シュル・オワーズ村

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(承前)
 ・・・この歳になっても、まだまだ、見たいもの、行きたいところがあって、あるいは、また見たい、また行きたいところがあって、欲張りなことです。で、また、一つ増えてしまったのが、オーヴェル・シュル・オワーズ村です。先日来、この村のことを、だらだら書いているうちに、ドービニーという画家に出会ったことはかきました。➡➡

 この画家の描く水辺の風景画は魅力的ですが、「ドービニー展」(~2019年6月30日 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)➡➡で初めて見た、版画集エッチング「船の旅」の楽しいこと。
 上の写真右下の「水夫見習いの出発を祝う魚たち」のゆかいなこと。魚が、小躍り?して、水から跳ね飛んでいます。(そんなことあるもんか!)左下は、画家本人が、船のアトリエで作業してる様子。そしてまた、扉絵のカエルたちは、思い思いのポーズで、参加。暖かいユーモアを感じる作品集です。

 きっと、この画家は、画家という、ある種、個性的すぎる一派に於いて、穏やかな生活をしていたんじゃないかと思います。それが、証拠に、多くの画家たちが、彼のもとに集まっていました。

 中でも、ドービニーのオーヴェル・シュル・オワーズ村の家の壁は、本人を含め、ドービニーの友人のプロの画家たち、コローやドーミエなどが、10年以上の歳月をかけて、描いたようです。つまり、彼らが集まる良好な関係を築ける人だったということでしょう。家中の壁は、自然を描く画家たちの雨の日の作業だったらしいのですが、コローが力作をアトリエにを描き続けている時には、ドービニーは、アトリエで作業ができなかったというエピソードも残っています。

 コローやドービ二ーはバルビゾン派と呼ばれる画家たちですが、その人たちが、印象派につながるオーヴェル・シュル・オワーズの家とつながっていったこと。・・・なかなか興味深いことです。
 で、個人的に、以前、バルビゾン村に行ったことがあるので、今度、いつかは、オーヴェル・シュル・オワーズ村にも行き、ドービニーの家にも行って見たいと思った次第です。

☆写真下 上の二枚は、ドービニーのアトリエに、コローが描いた1825年に旅したイタリアの風景の壁。下は、子ども部屋で、ドービニーの描いた「親指小僧」「赤ずきん」「カラスときつね」の絵のようです。
(上下写真は、ドービニー展ジュニア版ブックレットより)

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ドービニー展

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 (承前)・・・ということで、上京する際に、東京 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館の「ドービニー展」(~2019年6月30日)に行ってきました。

 本邦初と銘打つように、日本でのドービニーの知名度は低いものの、この画家が、自分の船(ボッタン号)をアトリエに持ち、自然に目を向け、特に水辺の風景作品を数多く残したことは、モネが船のアトリエを持ったことにも影響を与え、彼自身の画風も、のちの印象派に近い画風となって行き、それが、次世代の画家たちの指針となり、いずれ、印象派とされる若い画家たちを擁護する側にもなっていったことを考えると、また、なにより、画家たちがドービニーが住むオーヴェル・シュル・オワーズに集まってきたことを考えると、もっと、知っていてもよかったと思います。

 多分、「オーヴェル・シュル・オワーズの画家たち」という展覧会であれば、コローやクールベやドーミエ、モネやセザンヌやピサロ、ゴッホなども、集められることになり、ドービニーの位置も喧伝できると思いますが、今までも、そんな企画を知りません。

 ドービニーは、水辺の画家とも言われるように、水辺の風景を描き続けていますから、作品が同じような風景画に見えなくもない・・・ということが、ドービニーの今の集客力につながっているのかもしれません。
 が、しかし、同じように見える風景も、時間や天候で、まったく違った様相を呈し、自然の魅力は尽きることがないことをドービ二ーは表現しています。そして、セーヌ河、オワーズ川を行き来して描かれた彼の絵の風景を見ていると、それをこの目でみる船旅をしてみたいものだと思うくらいです。が、そんな素敵な船旅は難しいとしても、せめて、オーヴェル・シュル・オワーズ村には、いつか、行って見たいと思うのです。魅力あるものが、まだありましたから。(続く)

☆上の写真は、「オワーズ河畔」という絵の案内紙の上に、画風が変わってきた「ボッタン号」と「果樹の花」の絵葉書。下の写真は、、会場入り口にある写真スポットの垂れ幕「ヴァルモンドアの森の中(ル・ソスロン)」

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ドービニーの庭

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 (承前)
先日まで、ドービニーという、画家のこと、よく知りませんでした。が、ジェフリー・アーチャーの短編集「嘘ばっかり」(戸田裕之訳 新潮文庫)➡➡に入っていた「オーヴェル・シュル・オワーズの風景」➡➡を読み、オーヴェル・シュル・オワーズ村のことを調べていたら、ドービニーの名前にあたり、コローなどと同じバビルゾン派でありながら、そのあとに続く印象派の架け橋的存在だったことを知りました。コローなら、いろんな美術館で見ていたのに、名前をよく知らなかったばっかりに見落としていたかも・・・
 ともかくも、ゴッホの最晩年期の絵の「ドービニーの庭」は、バーゼル美術館所蔵らしいのに、バーゼル美術館に行ったときに見た記憶がない。ただ、この時、展示されていたかどうかは不明。美術館では、写真を、こまめに撮っていた夫の写真にもなかったので、このときは、展示されていなかったのかもしれません。(と、思いたい)

 「ゴッホの手紙 上中下」➡➡の最後から二番目の手紙の追伸のような箇所に、「ドービ二ーの庭」について、ゴッホはこう、書いています。(この手紙は、ゴッホの死の6日前の日付)

≪ドービ二の庭の前面には、緑と赤の草が生えている。左側に緑の茂みとリラがあり、切株から出た葉が白味がかっている。中央の地面にばらの花壇があり、右側には柵と壁、壁の上に紫の葉の榛の木がある。それからリラの垣根と黄色い丸味のある菩提樹の列があって、奥の突当りの家は紅で、屋根の瓦は青味がかっている。長い腰掛けが一台に椅子が三つ、黄色い帽子をかぶった黒い人影と、前面に黒猫がいる。空は薄緑。≫

☆写真は、「ゴッホの手紙」の中で「ドービ二ーの庭」について、弟テオに報告する手紙に描かれたペンによる絵。
この絵にも、人影や左手前に猫らしきものが描かれていますでが、実際、バーゼル美術館の絵は、上記文章どおりのもののようです。また、もう一枚、ひろしま美術館ある「ドービ二ーの庭」の油絵は、黒猫が塗りつぶされているようです。

 さらに、調べていたら、今現在、損保ジャパン日本興亜美術館で「ドービニー展」(~2019年6月30日)やってるじゃありませんか。(続く)

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肖像画

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(承前)
 まさか、ジェフリー・アーチャーの短編の中でも、特に短い「オーヴェル・シュル・オワーズの風景」➡➡が、ドラクロワの「獄中のタッソ」につながるとは思っていませんでしたが、ゴッホは、弟に宛てた手紙の中で何度もドラクロアについて言及します。

 そして、耳を切る前日、ゴーギャンと二人して、モンペリエのファーブル美術館に行き、ドラクロアの描いたアルフレッド・ブリュイヤ*などを見るのですが、その三ヵ月以上前の弟宛ての手紙には、肖像画について、こんなことを書いています。
 (*ブリュイヤは富豪の美術収集家で、モンペリエの美術館には、その名を冠した部屋があります。クールベの描いた「出会い、こんにちは クールベさん!」の絵の中央の人物が、そうです。)

≪僕は絵の中で音楽のように何か人を慰めるものを語りたい。僕は男や女で何か永遠なものを描きたい。永遠なるもの――昔は後光がその象徴であったのだが、われわれは輝きそのものによって、われわれの色彩の振動によってこれを求めるのだ。…(中略)・・・『獄中のタッソ』やその他の多くの絵でユジューヌ・ドラクロアが、真の人間を表現しようとして、求めかつ見出したものに近いのだ。ああ、肖像、思想を持ちモデルの魂を把握した肖像、こういうものが現れるべきだと僕は思う。≫

  そして、耳を切る前の手紙にゴッホはこう書きます。
≪ゴーガンと僕は昨日、モンペリエの美術館を見に出かけた、特にブリュイヤの部屋を見に行ってきた。そこには、ドラクロア、リカール、クールベ、・・・(略)、その他の画家が描いた肖像画がたくさんあった。それからまたドラクロア、クールべ、ジョット・・・(略)などの実に美しい絵があった。まったくブリュイヤは芸術家たちの恩人だね、君にはただそれだけを伝えたい。ドラクロアの肖像だと、ひげのある赤毛の髪をした人で、君や僕におそろしく似ていて、僕にはミュッセの次の詩を思い出させた。・・・「どこでも私府が土にさわると、黒い服を着た不幸な人が、そばに来て腰をおろし、まるで兄弟のようにじっと私を見つめるのだった」・・・君にもきっと同じような印象を与えると思うよ。お願いだから、昔と現代の芸術家の石版画を売っている例の書店へ行って、ドラクロアの「獄中のタッソ」の石版画がひどい高い値段でなしに手に入るかどうか、調べてくれないか、僕にはそのタッソの顔が、ブリュイヤのすばらしい肖像と関係があるようにおもえるのだ。≫

 で、この後、ゴッホは、耳を切り、精神病院に入り、そのあと、オーヴェル・シュル・オワーズ村に行き、ガシェ博士の肖像画➡➡を描くのです。

・・・・で、上の写真のドラクロアの「獄中のタッソ」は、スイスの ヴィンタートゥールのオスカー・ラインハルト・コレクション「アム・レマーホルツ」➡➡にありますが、今回使った写真は、画像を引き延ばしたので、不鮮明かと思います。
 ただ、この絵は、見たことを覚えていたのですが、ああ、明日、登場する絵は、せっかく、バ―ゼル美術館まで行っているのに、記憶がなく、不覚にして、なさけない・・・(続く)
**「ゴッホの手紙 下 テオドル宛」(J.v.ゴッホ・ボンゲル編 硲伊之助訳 岩波文庫)➡➡

☆下の肖像画は、スイス バーゼル美術館のゴッホ「ガシェ嬢の肖像」。昨日のガシェ博士の娘さん。

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 DR.ガシェ

ゴッホj
(承前)
 耳を切ったゴッホは、精神病院に入院しますが➡➡ 、その後の療養をオーヴェル・シュル・オワーズ村➡➡で過ごすことになります。そのときの主治医がガシェ博士でした。カウンセラーという立場なのでしょうが、美術愛好家でアマチュア画家でもあった医師ガシェと、ゴッホは親密な交流を続けます。

 が、この主治医は、ゴッホの死を食い止めることが出来なかったという批判もあるらしいのですが、ゴッホ自身も、弟に宛てた手紙の中で、ガシェと初めて会ったときの印象をこう書いています。
≪ガシェ先生に会い風変りな印象を受けた、医者としての体験から神経質なのをおさえて正常でいられるのだろうが、少なくとも僕以上の神経症にかかっているようにみえた。≫
 
 そして、描いたのが、この肖像画で、弟に宛てた手紙の中でこう書きます。
≪いまガシェの肖像を描いている。白い鳥打帽をかぶり、純然たる金髪で、とても明るく、手の色も淡い肉色で、青い礼服を着け、背景は青い空色で赤い机にもたれている。机の上には黄色い本とジギタリスの真紅な花が置いてある。僕がここに向けて出発する間際に描いた自画像と同じ気持ちがこもっている。ガシェ氏はこの肖像画がめちゃくちゃに好きで、もし出来たらぜひ自分にも一点描いて欲しいと切望するので、僕もそうしたい。≫

ガシェ氏がめちゃくちゃに好きなのが、どの部分なのか不明なものの、ゴッホの第一印象通り、神経症の雰囲気が漂っている肖像画だと思います。

それで、この肖像画は、ドラクロアの「獄中のタッソ」の影響を受けているらしい。(続く)

**「ゴッホの手紙 下 テオドル宛」(J.v.ゴッホ・ボンゲル編 硲伊之助訳 岩波文庫)➡➡

☆写真は、岩波世界巨匠「ゴッホ」より

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雨のオーヴェール

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(承前)
 ジェフリー・アーチャーの短篇集「嘘ばっかり」(戸田裕之訳 新潮文庫)➡➡の中に入っている「オーヴェル・シュル・オワーズの風景」と長編「ゴッホは欺く」(上下巻 永井淳訳 新潮文庫)➡➡を読んだら、特にゴッホの最晩年「オーヴェル・シュール・オワーズ」村でのことが気になりました。それで、「ゴッホの手紙 上中下」➡➡下巻の最後,オーヴェル・シュール・オワーズ村,からの発信辺りを読み返してみました。(続く)

☆写真は、ゴッホ最晩年の一枚、「雨の風景」です。岩波世界の巨匠「ゴッホ」掲載の最後のページに掲載されています。その解説には、こうありました。
≪雨のオーヴェール。オーヴェールは、静かにうずくまっている。屋根は樹木のあいだに埋め込まれ、教会の塔だけが丘の背景に聳えている。この北斎にならった情景には、不作であったという特徴がすべてそなわっている。・・・・・・・ゴッホは、1890年の収穫が開始されるのを見届けるまで生きていた、刈られた小麦は束ねられ、刈り株が燃やされる用意が整っていた、とはいえ、雨は降り続け、家庭用聖書の読み取れないページのように、ぼんやりと輪郭の溶けたずぶぬれの耕地が目の前に広がっているのをゴッホは眺めている。・・・・≫(ウィリアム・フィーヴァー 水沢勉訳 岩波書店)

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