FC2ブログ
 

みんなみすべくきたすべく

あかいえのぐ

あかいえのぐj
 昨日の「ねこのミランダ」➡➡を本棚から出した時に、隣にあったのが、この「あかいえのぐ」(エドワード・アーディゾーニ作 津森優子訳 瑞雲舎)でした。
 表紙に、黒猫・・・猫絵本の1冊に積み上げました。

 話は、絵描きのお父さんはと子どもたちは、貧しくても仲良く幸せに暮らしておりました。いろんなものを売ってお金にしてきたものの、ついに、、仕上げの赤い絵の具がない・・・そこで、子どもたちが、頑張りますが、八方ふさがり・・・とはいえ、ちょっとクリスマス・キャロルを思い出す、スクルージじいさんんみたいなロバートおじさんが現れて(お話の初めに絵描きのお父さんとけんかしているおじさん)・・・お父さんの絵は完成、お父さんの絵は売れるようになって・・・・めでたしめでたし
 
 で、ちっとも、猫は関係ありません。しかも、その存在を知らしめるのは、写真左に写る絵で「ニャア」と言う箇所だけ。

 とはいえ、家族、仲良く団らんしているページでは、それを見守るかのように満足気(に、みえる背中)な猫。
 男の子のサイモンが何か描こうとしているページでは、興味津々に尻尾をたて、上の写真左のページでは、元気をなくしたお母さんに「大丈夫だよ」というお父さんと声を揃えて「ニャア」。
 赤い絵の具を探しているページでは、心配そうに引き出しの方を見て、売るものもなく、作品もできないと家族が悲観するページでは、猫の耳も垂れ、尻尾も下がっています。
 家族が食べるものも硬くなったパンと古くなったチーズの夕飯のページでは、猫もお皿に、何かほんの少し入れてもらい、お皿をなめています。
 そんなある日、大きなごちそうの入った荷物、赤い絵の具も入っている荷物が届くと猫も一緒になって、箱をのぞき込んでいます。
 そして、完成した絵の前では、尻尾を立て、姿勢を正した(かのように見える)猫が居ます。みんなでごちそうの用意をするページでは、足取りの軽い猫の姿。そして、ついにロバートおじさんが部屋に入ってくるページでは、見知らぬ人には「フゥー」とうなっているかの猫の絵。

 ・・・とまあ、お話の本筋とは関係ないかのように見える猫でしたが、ちゃんと仕事をしていたのがわかります。もちろん写真右の本の表紙(昨日も写っています)では、家族をモデルにして描くお父さんの傍で、じっと見守っている猫です。

PageTop

ねこのミランダ

ねこ11j
「ゆうかんな猫のミランダ」(エレナー・エステス作 エドワード・アーディゾーニ絵 津森優子訳 岩波)

 このアーディゾーニの挿絵のついた子どもの本の作者は、「百まいのドレス」「(石井桃子訳 ルイス・スロボドキン絵 岩波)や「モファットきょうだい物語」(全3冊 渡辺茂男訳 松野正子訳 スロボドキン絵 エスティス絵 岩波少年文庫)の作者です。
 
 「ゆうかんな猫のミランダ」は、肝っ玉お母さん猫ミランダの話です。時も場所も、古代ローマ。コロッセウムや広場が舞台です。
 歴史に興味がなくても、この大きくて勇敢で、しかも、妊娠しているお母さん猫の頑張りには目を見張ります。
 最後には、数十匹の猫たちのトップとなり、勇敢なという冠ではなく、猫の女王「コロッセオの女王ミランダ」という位置づけに。
 路頭に迷う子猫を助け、それも、自分の子プンカを含めて34匹(あとから、さらに、自分が産んだ4匹も加わり)、他にも、途中から加わった大人の猫など・・・ともかく、親分肌のミランダに、猫たちが集まった結果です。

 子ネコたちのミルク不足を補うために、コロッセウムの中に閉じ込められたライオン(しかも、乳の出るメスライオン)と、取引するところは、「勇敢すぎる猫ミランダ」に改題してもいいくらい。

 そんな肝の座ったのミランダも、子猫たちに子守唄を歌い、生まれたばかりの子どもたちに寄り添って、のどをならし、子どもたちは、それに、ごろごろと応え、≪まるで、浜辺にうちよせるさざなみのように、子猫たちはのどをならしました。≫
 この優しい空気とローマの混乱と、最後の章でのミランダのソロと、猫たちの合唱、猫たちのオペラ・・・子どものための本ながら、壮大な歴史を伝えようとする作者の意気を感じます。もちろん、そこに生きる小さなものたちの生き方も。

 残念ながら、ローマに行った事はありませんが、今も、猫の多い街(と、言われている)ローマの遺跡トッレ・アルジェンティーナ広場などには、野良猫・捨て猫保護センターというのがあるようです。

エピローグにあります。
≪いつかあなたが、アッピア街道かどこかの道からローマを訪ね、コロッセオをおとずれることがあったらーそれも夜に、できれば馬車で石畳の道をぱっかぱっかと走ってたずねることがあったならーコロッセオから歌がきこえてくるかもしれません。その歌は、そこにいる猫たちの王国のなりたちを伝えるものです。あの壮大なオペラが、夜ごとさまざまにつけたされたり、ねりなおされたりしながら、テーマはそのままに、奇跡のようにすばらしい女王、コロッセオの女王ミランダをたたえているのです。もう何世代にもわたって伝えられてきた歌ですから、あなたもコロッセオで、きっとその歌を耳にすることでしょう。できることなら、ここぞというところで、「イオ、イオ!ブラボー!」といってごらんなさい。≫
 

PageTop

犬のタウザー

  タウザーj
次は、「チムの犬タウザー」(エドワード・アーディゾーニ文・絵 神宮輝夫訳 偕成社)です。昨日までのハリーや、ベンジーとは違い、話の主役ではありませんが、船のボーイのチムが可愛がる犬です。

 船の中で見つけられた子犬の名前を付ける時、もう一人の船のボーイ、ジンジャーが「バギンズってなまえにしようじゃないか」というと、チムが言います。「だめ!そんなつまらないのじゃなくて、タウザーにしよう。」
≪ そこで、ふたりは、この犬にタウザーというなまえをつけました。大きないぬといういみです。≫
 
 そうなんだ!Towserは、大きな犬!(そのとき、絵本では、まだほんのちいちゃい子犬です)
 で、港々で、飼い主を探すものの、誰も飼ってくれません。 
 パイパー船長は、犬が嫌いなのです。
 そして、タウザーは本当に大きな犬になり、タウザーを隠して育てているチムとジンジャーはやせ細っていきます。(二人の食事をタウザーに回しているからです)
 ・・・・二人が、まだまだタウザーを隠している時、船長には犬が見えるのですが、二人が口裏を合わせ、犬なんか見えませんというものですから、船長には、誰にも見えない犬が見えるのだと思い込み、病気になってしまいます。そこへ、嵐が・・・そこへ、船長のねこのタイガーとタウザーが・・・

 結末まで読むと、この絵本の主人公は、チムでもジンジャーでもなく,もしかしたら、タウザー?

PageTop

雨を見つめる

シーニッゲj
 毎年、大雨による被害が報道されるような国で、あるいは、あの阪神淡路地震の後、降った雨で、地盤の緩んだ自宅が流されてしまうのではないかと、不安で避難したような経験があると、「まりーちゃんとおおあめ」や「あめあめ ふれふれ もっとふれ」のようなタイトルの絵本を紹介するのは、憚られる気がするのは、神経質すぎるでしょうか。特に「まりーちゃんとおおあめ」(フランソワーズ・与田準一訳 福音館)は、大雨の中避難していますから、なかなか被害者感情と相いれないものがあるかもしれません。絵本では、避難をもポジティブに楽しく描いてはいるのですが。

 ・・・と、大人の感情を持ち込む前に、いや、やっぱり、雨がひどくなる前に、この絵本を見てみましょう。
 かつてのようなアーディゾーニの挿絵の魅力があふれている絵本ではありませんが、アーディゾーニの描く、特に雨の中の子どもたちは健在でした。
 ≪まちじゅうに、あめがふっていました。あめは、あかいやねのうえにも、みどりのやねのうえにも、はいいろのやねのうえにも、ふっています。ひくくたれこめた、くろいくもから ふっています。もう三日のあいだ、あめはふりつづいていました。≫・・・・で、始まるのは「あめあめ ふれふれ もっとふれ」(シャーリー・モーガン文 エドワード・アーディゾーニ絵 なかがわちひろ訳 のら書店)です。

 雨の中、外に出たい子どもたちは、すでに外にいる、通りの斜め向こうのおばさんや新聞配達のおにいさん、しゅるしゅる走る自動車、芝生の上でミミズを食べる小鳥たち、それに近づく猫、それを追い駆ける犬・・・みんないいなぁと思っていると、
≪「さあ、あなたたち。レインコートをきて、そとであそんでいらっしゃい。いまなら、あめが こぶりのようだから」≫と、お母さん。
それで、男の子は大きくてかっこいい消防士みたいな長靴を履き、お風呂場からおもちゃの船を持ち、女の子は青いレインコートを着て、赤いつやつやの長靴を履き、戸棚から青い花模様の傘を取り出し、二人は雨の中飛び出していくのです。

 アーディゾーニの絵はいつものように、およそモノトーンで描かれていますが、ここに紹介した文の中だけでも、いろんな色が出てきて、かえって、そのモノトーンの絵が生きてくるような気がします。

 この絵本の献辞には、「あめを あんなにも たのしげに みつめていたステファニーとクリストファーに」とありました。
☆写真は、スイス シーニッゲプラッテ 植物園 

PageTop

ウェールズのクリスマスの想い出

       ディランj
 2016年のノーベル文学賞は、ボブ・ディランでした。(なにかと、話題に事欠きません)
 ボブ・ディランの歌は、「風に吹かれて」のほかをたくさん知るわけではありませんが、今回の受賞理由などを見ると、彼は、ずっと詩作を続け、歌い、支持されてきたことに栄誉が与えられたようなので、よかったと思います。途中、「小説も書かない人間がもらうなんておかしい」と言った小説家やなんやかや居たようですが、悪いけど、詩のほうがずっと古くからあったんだし、本という形になる前から、印刷される前から、人の口に乗って伝わて来たんだし・・・・

 ・・・・と、ボブ・ディランのことが書きたいのではなく、ボブ・ディランが敬愛して、その名をもらったという詩人ディラン・トマスの唯一の絵本「ウェールズのクリスマスの想い出」(ディラン・トマス文 エドワード・アーディゾーニ絵 村岡美枝訳 松浦直己監修 瑞雲舎)です。
 アーディゾーニの描く少年たちは生き生きとしています。

 それぞれのエピソードは、短く、断片をつなげて語っています。時折、ほらを交えながら、食べ物を思い出しながら。
 また、タイトルに「ウェールズの・・」とあるように、英国といっても、ウェールズ地方の意地も垣間見えます。もしかしたら、ボブ・ディランも、こんな意地、いえ、誇り高き詩人のスピリットが好みだったのかも?

≪もうずっとずっと昔のこと、ぼくが子どもの頃の話さ。その頃ウェールズにはオオカミがでたものだった。赤いフランネルのペチコート色の鳥たちが、ハープの形をした低い山々をかすめて飛んだりしていた。その頃ぼくらは夜も昼も、ほら穴の中で歌ったリ転げ回ったりして遊んだんだ。そのほら穴はね、日曜日の午後に農家の居間にたちこめているような湿った匂いがした。子牛のあご骨を手にもって、イングランド人や熊を追い駆け回したりもした。それは自動車もなければ、自転車もなく、公爵夫人のような顔をした馬車馬なんかもない頃の話さ。ぼくらは裸馬の背にまたがり、浮かれ騒いで丘をめぐっていた。あの頃もクリスマスといえば、しきりに雪が降っていた。・・・・≫

PageTop

筆まめな人

かーどj
(承前) 
 「エドワード・アーディゾーニ展」での、アーディゾーニの変わらぬ画風。だから、どれも見たことありそうで、でも、やっぱり一枚一枚違う。
 描くこと自体が好きな人なのだと伝わります。手書きのクリスマスカードや、絵手紙の類までも多いこと。

  ところで、新聞にピカソ(1881~1973)の絵はがき(ピカソの素描付きで、フランスのアポリネールに送ったものの、宛名がスペイン語で本人に届かなかったらしい)が見つかり高額で取引されたとありました。以前パリのピカソ美術館に行ったとき、ピカソが、いろんな紙の裏や箱にまで何か描きなぐっているのを見て、ピカソが、とにかく描くのが好きな人だとよくわかりました。・・・・そして、アーディゾーニ(1900~1979)も、ひたすら描いている。

 上記写真の向こうに写るアーディゾーニの書いたクリスマスカード集(“MyFather and Edward Ardizzone-A Lasting Friendship Illustlated with Ardizzone Christmas Cards ” Edward Booth-Clibborn Patrick Hardy Books)を手に入れたとき、
「いいなぁ。こんなクリスマスカード、もらえて・・・」と、とてもうらやましかったものです。

 のちに写真手前「エドワード・アーディゾーニ 友へのスケッチ」(ジュディ・テイラー編 阿部公子訳 こぐま社)が出た時も、「うーん、クリスマスだけじゃなかったのね。筆まめな人!」と、感心したものでした。
 この本の編者のジュディ・テイラーが「はじめに」の部分で、アーディゾーニの手紙類を集めた時のことを書いています。≪ある時は、スケッチ、ある時は水彩画の描かれたアーディゾーニからの手紙類を、受け取った人々が大切にしてきたから、40年以上の期間の手紙が集められた。≫

 さて、上記写真に写るワインのご婦人たちをのぞき込んでいるのがアーディゾーニなのですが、文面には、贈り物のワインのお礼と感想が書かれています。≪・・・若々しく酸味がある。というよりむしろじっくり熟して美味しいのです。≫
 こんな洒落たお礼状、そりゃ、大切に保管するに決まってます。

PageTop

エドワード・アーディゾーニ展

らいおんj
 先日書き綴ったのは「エドワード・アーディゾーニ 若き日の自伝」(阿部公子訳 こぐま社)と、「ライラックの枝のクロウタドリ」(ジェイムズ・リーブズ詩 エドワード・アーディゾーニ絵 間崎ルリ子訳 こぐま社)でしたが、これらの出版を記念して、幾つかの講演会などと「アーディゾーニ展―英国イラストレーションの伝統―」が、東京銀座の教文館9Fウェインライトホールで開かれています。(~2015年7月13日)(すでに、熱い鑑賞記は、沼辺信一さんのブログに書かれています。)

 出版記念の講演会の一つに参加したいものだと、申し込み開始日翌日に電話をしたものの、すでに満席・・・なので、展示の方も無理かと、上京自体を諦めかけていたものの、【アーディゾーニ作品の世界的なコレクターとなった佐藤英和氏(こぐま社創業者・現相談役)の蔵書を初公開】という案内には抗せず、行ってきました。

 昨年の「島多代の本棚から 絵本は子どもたちへの伝言」展も、島氏のコレクションを楽しませてもらいましたが、今回は、佐藤氏のアーディーゾーニ・コレクションでした。それも、すごい数!コレクターの熱意と迫力が伝わってきます。

 展示作品には、おなじみの子たちや大人たちが並んでいて、長田弘が言ったように「懐かしさ」でいっぱいになりました。
 どの子も知ってる子のような気がするし、おじさんやおばさんたちも見たことある様な気がする。部屋の設えや森の中までも懐かしい。

 と、帰宅して、「チムとゆうかんなせんちょうさん」シリーズを出し、眺めていたら、娘が参入。チムより、ジンジャーが懐かしいと、言うのです。
 「『チムふねをすくう』で、ジンジャーが『ねずみはえいようがあるんだぞ』というところの乗組員(ボースン)の目が、でかすぎたの覚えてる。懐かしいわぁ。」というので、改めて見たら、表紙に同じシーンが書いてあるものの、その絵の「目は」ごく普通なのに、本体の絵は、確かに、でかい目!しかもジンジャーもふくれっ面!そういえば、よく彼女も、こんな顔してましたねぇ。・・・懐かしい。

*「チムとゆうかんなせんちょうさん」シリーズは、一時期全11冊福音館から出ていたのですが、今は品切れの巻もあり、今回5冊が復刊されました。「チムとルーシーとかいぞく」「チム、ジンジャーをたすける」「チムとシャーロット」「チムききいっぱつ」「チムひとりぼっち」(なかがわちひろ訳 福音館)
 ただし、我が家のシリーズは、福音館あり、偕成社あり、瑞木書房ありで、ここに書いた「チムふねをすくう」は渡辺茂男訳 瑞木書房のものです。それは今「チム もうひとつのものがたりーコックのジンジャー」というタイトルになっています。(なかがわちひろ訳 福音館)

☆写真向うは、「アーディゾーニの原画展―英国イラストレーションの伝統―」で買ってきた「ムギと王さま」(ファージョン作 石井桃子訳 岩波)の絵葉書。
 手前は“The Lion That Flew”by James Reeves illustlated by Edward Ardizzone Chatto社、子どもたちを乗せベネチアから飛んできたライオンが、ロンドン ナショナルギャラリー前のライオンの横に着きました。すると、向うから「どろぼう!」のシーンです。このお話、ずーっとずーっと前、訳して、こぐま社に送ったけど、なしのつぶて。却下は仕方ないけど、当時は高かったカラーコピーくらい返してほしかったなぁ。

PageTop

背文字

背文字j
(承前)
 「ライラックの枝のクロウタドリ」(ジェイムズ・リーブズ詩 エドワード・アーディゾーニ絵 間崎ルリ子訳 こぐま社)の訳者あとがきに引用されているのは、オンリーコネクトⅢのアーディゾーニの言葉です。≪アーディゾーニは、「ウォルター・デ・ラ・メアとジェイムズ・リーブズと、エリナー・ファージョンの詩や散文の挿絵を描くことは無上の喜びだった」と言っています。≫

 そうなのです。今の小さな子どもたちは、絵本のアーディゾーニにまず、出会っていくのでしょうが、個人的には大人に近くなってから出会ったアーディゾーニは、「チム」だったのか?「ムギと王さま」だったのか?というくらい、ファージョンの本を介してもアーディゾーニと出会ってきました。

 写真に写る本は、英国の古本です。洋書が本棚に並んでいると、背の文字(タイトル)は首を横にして読むという、日本人(私個人)には面倒な作業です。そんななか、アーディゾーニ挿絵の本は、とても見つけやすいのです。背表紙に、彼独特の手描きの文字が印刷されているからです。

*「「オンリーコネクトⅠ~Ⅲ 児童文学評論選」(イーゴフ/スタブス/アシュレイ編 猪熊葉子/清水真砂子/渡辺茂男訳 岩波)
☆写真下から、“JamesReeves Complete Poems for Children”(Heinemann社)、 「エドワード・アーディゾーニ 若き日の自伝」(阿部公子訳 こぐま社)、“J.M.Barrie's Peter Pan  The Story of the Play Presented by Eleanor Graham and Edward Ardizzone Hodder & Stoughton社)、“The Eleanor Farjeon Book”(Harmish Hamilton 社)、“Eleanor Farjeon's Book Stories-Verses-Plays Puffin Books)

PageTop

ボートにのって

       ぼーとj
(承前)
 上の写真は、英国オックスフォード テムズから分かれた運河で撮りました。
 「ハヤ号セイ川をいく」の「ハヤ号」みたい!と思いながら撮りました。
 以前「ハヤ号セイ川をいく」(フィリッパ・ピアス文 足沢良子訳 E.アーディゾーニ絵 講談社)について書いたときに使った写真と、まったく暮らしぶりの違う地域の写真となりましたが、家の敷地から水辺に出て、マイボートに乗る造りは同じです。ただ、アーディゾーニの挿絵、お話に近しいイメージは、今回使う写真でしょう。

 そして、「ライラックの木の枝のクロウタドリ」(ジェイムズ・リーヴズ詩 アーディゾーニ絵 間崎ルリ子訳 こぐま社)にこんな詩が、ありました。
≪「ボートにのって」
 朝の空の下、
 川はやさしくぼくらをゆする。
 歌って、歌って、歌ってゆする。
 アシのゆれるしずかな調べの中を
 ぼくらはゆったり、ゆられてただよう。
 午後になってもそのままで、
 ボートのなかにねころんで、
 ゆらり、ゆらりとただよっていく、
 灰色の柳の葉の下を。(後半 略)≫
(続く)
       てむずボートj

PageTop

ジェイムズとエドワード

       エルシーj
(承前)
 「ライラックの枝のクロウタドリ」(ジェイムズ・リーヴズ詩 間崎ルリ子訳 こぐま社)の訳者あとがきには、ジェイムズ・リーブスが書いた「黄金の国」の序文を引用している箇所があります。それは、子どもが詩を楽しむことについてですが、以下は、その後半部。

≪・・・・子どもは親しいものーー自分の家、飼っている動物、窓から見えるものなどーーの詩を楽しむが、同様に手の届かないものや知らないものなどの詩も楽しむことができ、そうすることによって、親しいものは永遠の生命をもつようになり、知らないものは身近になり、それに対する興味が目覚め、好奇心がかきたてられるようになる。ユーモア、悲しみ、いろいろな人や土地に対する関心、自然の喜び、動物や超自然のものへの興味などが子どもの心の中で目覚め、その子どもの精神を作っていく。≫

 また、訳者は、「エドワード・アーディゾーニ 若き日の自伝」(阿部公子訳 こぐま社)の「日本語版によせて」の執筆者の一人、英国児童文学評論家ブライアン・オルダーソン氏が2012年に講演したことに触れ、
≪その講演の中で、「アーディゾーニは、自分の作り上げたイメージを読者に押しつけるのでなく、その詩、またはお話がもつ世界と雰囲気のヒントを描き出し、読む者がそれに自分自身の想像力をはばたかせて豊かなイメージを作り上げる手伝いをする」というようなことを言われましたが、まことにその通りだと思います。≫

ジェイムズ・リーヴズは「子どもの精神を作っていく」、
「アーディゾーニは・・・・豊かなイメージを作り上げる手伝いをする」
その二人が組んで仕事をするのですから、子どもたちにとっては幸せなこと。(続く)

☆写真右挿絵は、アンデルセン「ナイチンゲール」(“Ardizzone's Hans Andersen ---Fourteen Classic Tales ”Translated by Stephen Corrin Andre Deutsch社)
写真中央表紙絵は、ファージョン「エルシー・ピドック ゆめでなわとびをする」(“Eleanor Farjeon's Book ---Stories、Verses,Plays”Puffin Books)
写真左挿絵は、ファージョン“On the Road”(from “Kaleidoscope”Oxford社) 三冊ともアーディゾーニ挿絵。

PageTop