みんなみすべくきたすべく

サーカスの女の子

     サーカス
(承前)
 「とても とても サーカスなフロラ」(ジャック・センダック文 モーリス・センダック絵 江國香織訳 集英社)

 モーリス・センダック最後の作品「わたしの兄の本」と同時期に未邦訳だった「Circus Girl」もでました。

 サーカス生まれサーカス育ちのとてもとてもサーカスな女の子フロラが、ある日「外の人たちってどういうふうなの?」と不安な気持ちを抱きます。そこで、フロラは、サーカスの外に出ていき、見たもの、感じたものは・・・というお話です。
 お話は、画家のモーリス・センダックのお兄さんのジャックが書いたもので、絵はモーリス・センダックで1957年共作。

 たくさんの挿絵はついているものの絵本ではなく、お話が楽しめるのは、小学校以上の子どもたちかと思います。

  センダックの描く絵で、特に好きなのは、夜や薄暗がりのシーンです。そこに居る人物(動物のこともあるけれど)の背中が物語っているように見え、夜のしんとした音が聞こえそうだからです。
 この「とてもとてもサーカスなフロラ」も(上の写真の下半分)も、「うさぎさんてつだってほしいの」(シャーロット・ゾロトウ文 こだまともこ訳 冨山房)(上の写真の上半分)も、「ケニーのまど」(じんぐうてるお訳 冨山房)「つきよのこどもたち」(ジャニス・メイ・アドレー 岸田衿子訳 講談社){ムーン・ジャンパー」(谷川俊太郎訳 偕成社)「シャーロットの白い馬」(こだまともこ訳 冨山房)「ふふふん へへへん ぽん!-きっといいこと きっとあるー」(モーリス・センダック作 じんぐうてるお訳 冨山房)➡➡などなども。

 そして、背中を向けたシーンではありませんが、、明るい調子の「かいじゅうたちのいるところ」(神宮輝夫訳 冨山房)。あの深い夜の色合いは、他の絵本には見られないもので、やっぱり、センダックの描く「夜」は、いいですね。

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センダック最後の本

センダックj
「わたしの兄の本」(モーリス・センダック 柴田元幸訳 集英社)
 
 2012年に亡くなったセンダックの最後の作品と言われるこの「わたしの兄の本」が昨秋、邦訳出版されました。
 ウィリアム・ブレイクとイメージが似ています。
 シャガールの影響も見えます。
 この話は、シェイクスピア「冬物語」を下敷きにしています。
 子どもの絵本ではありません。 

 二人の青年、ガイとジャックの物語です。
 が、しかし、兄のジャックは1995年に亡くなっていますから、この本が、仲の良かった兄ジャックへの直接的なオマージュというものではないかもしれません。もしかしたら、50年パートナーであったEugene Glynnが2007年に亡くなっていますから、その彼へのオマージュと考える方が近いのだと思います。
 そして、「わたしの兄の本」について生前センダックは、ニューヨークタイムスのインタビューに答えて「哀しい謎解きは、自分にとって最善のものだ」という言葉を発しています。つまり、二人の絆を深く考えることが、敬意を示すことにつながる・・・・(続く)

☆写真左は、「わたしの兄の本」最初のところ
≪荒涼たる真冬の夜に
新星ひとつ!ーー燃え立つ光!
水晶のまばゆさ!ーー月を隠し、
空を焦がし、
ガツン!ーー鉄の大地をまっぷたつに裂き、≫の挿絵

☆写真右はモーリスが描いた兄ジャックの絵(「センダックの世界」(岩波)掲載)

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犬のジェニー

ジェニーjj
「ふふふん へへへん ぽん!-きっといいこと きっとあるー」(モーリス・センダック作 じんぐうてるお訳 冨山房)です。

「はじめ、ジェニーには なにもかも そろっていました。2かいには まるい まくらが、1かいには しかくい まくらが ありました。くしが ひとつと ブラシが ひとつ、のみぐすりが ふたつ、めぐすりが ひとつ、みみの くすりが ひとつ、たいおんけい 1ぽん、それから さむいときに きる あかい けいとの セーターが 1まい。そとを ながめる まどが ふたつ。しょくじの おわんが ふたつ。かわいがってくれる ごしゅじんも いました」で始まるこの本。

 何でもそろっているということは、こんなに質素で有難いことなのか・・・と、小さい子どもなら思いませんが、大人の読者なら、感じるところがあるかもしれません。
 そして、ジェニーは「なにもかも そろっているよりも もっと いいこと きっと ある!」と、家を出ていきます。
 ここからは、波乱の人生(?)とはいえ、さいごは、舞台女優(?)になるジェニーの物語。

 センダックが彼の愛犬シーリハムテリアのジェニーを主人公をに描いただけあって、ジェニーの風情は魅力的なものです。それに、その不安だとか悲しみだとかを、センダックは、夜の風景や、陰の様子で表現し、実は、深い1冊になっているものの、最後は、コミカルな描き方で、肩の力を抜きます。

 初めは、わけがわからない長いお話だと思っていた子どもたちも、その何が起るかわからない人生に引き込まれていき、マザーグースの言葉を使って生まれたこの本、神宮輝夫のリズミカルな訳で楽しめます。

 が、しかし、もしかして、なんだか楽しめないなと思う人ならば、ぱらぱらとこの本を繰っていけば、丁寧に描かれたジェニーの画集を楽しむことになると思います。
 上の写真は、ブックカーバーを取った中にしかない、ジェニーの肖像。実は、この絵本、布張りで、丁寧な造り。センダックのジェニーへの思いを感じます。

 センダック」の犬の絵本には、漫画のコマ割りのような「子いぬのかいかたしってるかい?」 (マシュー・マーゴリス&モーリスセンダック作& モーリス・センダック絵 山下明夫訳 偕成社)もあります。

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センダック最後の絵本

       こぶたj
「バンブルアーディ」 (モーリス・センダック さくまゆみこ訳 偕成社)
 モーリス・センダックが亡くなったのは2012年5月のこと。亡くなる前、最後の絵本だったのが、「バンブルアーディ」という子豚の話。4月に訳され出版されました。最近の絵本には珍しく、表紙の絵と、表紙をとった中の装丁が違う丁寧な作りは、センダックへのオマージュのような気がします。(写真手前が、表紙の絵、奥のにこやかな子豚の絵は、表紙をとった中に貼られている小さな絵。)

 さて、子豚のバンブルバーディは生まれてこのかた、誕生日を祝ってもらったことがありません。バンブルアーディが8歳になったとき、豚肉にされたパパママの替わりにアデリーンおばさんに引き取ってもらいます。そこで、9歳にして初めてお誕生日を祝ってもらうことに。が、おばさんが留守の間に、招待した友だち達とどんちゃんさわぎになってしまい、(みんな変装してきます)おばさんは、怒り心頭。・・・とはいえ、素敵なおばさんに、許してもらえて、バンブルバーディは9の9倍キスしてもらうというお話。

 この「許してもらえた」理由が不明瞭なのがひっかかるものの、いつもどおりのセンダックカラーは、どんちゃん騒ぎで本領発揮。
 9歳の誕生日なので他にも9に関連しながら、お話が進む「しゃれっ気」もあります。
 もうこれ以上、センダックの絵本が出ないのは寂しいですが、最後の絵本も、センダック自身が楽しんで作ったのが伝わってきて、よかったよかった。

 実は、この絵本、現代に多くなっている児童虐待ネグレクトの問題を描いた一冊だとも言われています。確かに、ネグレクトとまでは言わなくても、誕生日や日本式のクリスマスを子どもたちと祝わないという親たちが居ることは知っています。が、そんな人たちも、ちょっと、自分の小さかったとき、どんなことに心が弾んだか、思い出してくれればいいのに、と思います。ちょっとでいいから、アデリーンおばさんのように。
  ・・・と、考えれば、「許してもらえた」理由なんかなくても、保護者の大きな心で、子どもを受け留め許したという解釈になるでしょうか。

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くつです。

         くつですj
(承前)
 「おうさまのくつ」 (ヘレン・ビル文 ルイス・スロボドキン絵 こみやゆう訳 瑞雲舎)を見て、一番に思い出したのが、センダックの「こびとのゴブリン」の話でした。

 子どもが小さい頃、何度読んだかわかりません。(と、どこかに書いたかもしれませんが・・・)
≪ほらあなのそばをとおりかかったゴブリンは、ほらあなの中のドガン!という音にびっくりしたそのひょうしに、くつが脱げてしまいました。そのまま逃げだしたゴブリンですが、ピッタ パッタ ピッタ パッタ ピッタ パッタ なにかがあとをつけてくるのです。怖くて後ろをみることができず、どんどん早く走ります。すると、そのなにかも、どんどん おいかけてくるのです。ピタパタ ピタパタ ピタパタ ・・・≫

 この話の中で何度も読めとせがまれたのは「くつです。」という箇所。きっぱりと言い切る潔さ。「ああ、よかった」の感じが込められているのでしょうか。
 
 おうさまのくつは、ポッカ ポッカ ポッカ ポッカ
 こびとのくつは、ピタパタ ピタパタ ピタパタ
 ここだけでも、声に出して読んでみて。ちょっと、面白いから。

 「こびとのゴブリン」は、こぐまのくまくんがおじいちゃんに聞かせてもらったお話で、 「おじいちゃんとおばあちゃん」 (E.H.ミナリック文 モーリス・センダック絵 まつおかきょうこ訳 福音館)に入っています。

☆写真は、手前が、センダック「こびとのゴブリン」 奥はスロボドキン「おうさまのくつ」表紙。

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詩のすきなコウモリの話

       リスいないj
「詩のすきなコウモリの話」 (ランダル・ジャレル作 モーリス・センダック絵 長田弘訳 岩波)
(承前)
 ・・・やっぱり、この本のことは書いておこう。
 
 モノマネドリの歌を聴くのが好きな小さなコウモリは、眠らなくてはいけない昼にも、起きて、いろんなことを目にするようになります。そして、モノマネドリのような歌を作ります。モノマネドリに自分の作った歌を聞いてもらい、批評してもらうのですが「問題は、詩を作ることじゃないんだ。問題は、その詩をちゃんと聴いてくれるだれかをみつけるということなんだ。」・・・というわけで。詩を聴いてくれるシマリスに出会い・・・

 浮き世離れした小さなコウモリの話です。アクセクしない。のんびり、おっとり、謙虚な姿勢が魅力です。優しい心根のシマリスもいい。二人のやりとりは、心温まります。
 そして、コウモリは「生まれたばかりのコウモリは・・」で始まるコウモリ自身の歌を作ります。まず、シマリスに全編聴いてもらい、次には、仲間に聞いてもらおうと、仲間のところに戻り・・・

 ところで、作家で詩人の池澤夏樹が、須賀敦子全集第5巻(イタリア翻訳詩集他 河出文庫)の解説でこんなことを書いています。
≪・・・誰もが心の奥の方に「若いころ、わたしは・・・」で始まる記憶を持っている。それがこうして美しく普遍化される。共有のものになる。それが詩人の仕事である。・・・≫

小さなコウモリも詩人の仕事をしたというわけですね。

 さて、ランダル・ジャレルの残した4冊の子どもの本(「はしれ!ショウガパンうさぎ」「詩のすきなコウモリの話」「陸にあがった人魚のはなし」「夜、空を飛ぶ」)のうち3冊までがセンダックの挿絵だということからも、息があったパートナーだったのだと推測できます。そしてまた、そのうち3冊が長田弘訳というのも、国を越え、つながるものを感じます。

*「はしれ!ショウガパンうさぎ」(ランダル・ジャレル文 ガース・ウィリアムス絵 長田弘訳 岩波)
*「詩のすきなコウモリの話」(ランダル・ジャレル文 モーリス・センダック絵 長田弘訳 岩波)
*「陸にあがった人魚のはなし」(ランダル・ジャレル文 モーリス・センダック絵 出口保夫訳 評論社)
*「夜、空を飛ぶ」(ランダル・ジャレル文 モーリス・センダック絵 長田弘訳 みすず書房)
☆写真は、ロンドン ケンジントンガーデンズ 中央小さく見えるのは、ワッツ作≪Physical Energy ≫リスもどこかに写っているかも。

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ピーコック・パイ

くじゃく2jj
(承前)
 フレーザーのことを、他で書くチャンスも少なそうなので、続けます。
 このフレーザーを知ったのは「センダックの絵本論」(岩波)でした。

 センダックは、≪・・・1958年にアルゴシー書店で棚にぶつかり、そのおかげで『ピーコック・パイ』を発見しました。その本が頭の上に落ちてきたのです。ロヴァット・フレーザーのことは一度も聞いたことがなかったのですが、それがかえってよかったと思っています。・・・≫と、面白い出会いを喜び、その一撃を幸運の一撃と呼びました。
 センダックは、フレーザーの作品から進んで影響を受け、フレーザーを見せびらかしや自意識過剰などというもののまったくない、際立って偉大な達人だといい、彼の本はどれも不可思議な幸福感をもたらす・・・と、絶賛です。

 ところが、センダックが嘆くのはその貢献度が評価されていないことでした。
 確かに、英語圏ではない日本では、いっそう、その本は見つけられないし、ほとんど知ることもできません。
 が、1990年に「センダックの絵本論」が岩波から出版された時は、何人も知らない画家や作家たち、あるいは、いくつもの見たことのない作品があったのに、「願えば、叶う」というように、少しずつ、出会っていったことから考えると、きっと、フレーザーにも、もっと近づける日が来ると信じます。(続く)

*「センダックの絵本論」(脇明子・島多代訳 岩波)
*「孔雀のパイ」(ウォルター・デ・ラ・メア詩 まさきるりこ訳 エドワード・アーディゾーニ絵 瑞雲舎) 
☆写真は、かつて「孔雀のパイ」(アーディゾーニ絵まさきるりこ訳 瑞雲舎)を紹介したときと同じ写真のズーム版

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かたいくるみの物語

まどのそとj
(承前)
 ホフマン原作の「クルミわりとネズミの王さま」(センダック「くるみわり人形」)にある、「かたいくるみの物語」は、ピルリパート王女ほど美しい女の子はこの世に生まれていなかった、というところから始まります。

≪…王女さまの小さな顔は、ゆりの花のように白い絹糸と、ばらの花のように赤い絹糸を織りあわせたほどの美しさ。その瞳は、るり石のようにきらめき、巻き毛の髪の毛は、波うつ金の糸。その上、かわいいピルリパート王女には、生まれた時から、真珠のように真っ白な歯が、上下にはえそろっていたそうだ。…≫

 それで、その王女の母親(王妃)が、ねずみの一族(マウゼリンクス)に脂身を分けてあげた結果、王さまの立腹を招き、ねずみ一族への復讐を決心。で、何匹かは罠にかかってしまうものの、残ったマウゼリンクスたちは怒りと失望と復讐の念を持ち、王妃に忠告します。
 「・・・気をつけな、王妃さま、ねずみの王妃に、おまえのかわいい王女さまが、まっ二つにかみきられないように、気をつけな!」
 ある晩、大ねずみが王女のゆりかごをのぞいているのを(写真上部が、そのシーン)侍女が発見するも、ねずみが消えた後、王女をのぞきこむと!≪金色の巻き毛にふちどられ、うす桃色だった天使のようなお顔が、ぶかっこうな大頭に変わり、その下に、やせてちぢんだ体がついていた。るり石のように青かった瞳は、緑のぐりぐり目玉に変わり、こちらを見つめていたし、かわいかった口は、耳までさけていた。≫
 
 ・・・・と読むと、思い出すのが、 「まどのそとのそのまたむこう」*です。
≪ゴブリンたちがやってきました。おへやにはいったゴブリンたちは、こおりのにんぎょうを かわりにおいて、あかちゃんをかかえて でていきました。≫(写真下部が、そのシーン)

・・・と読むと、思い出すのが、アイルランドの昔話の「取り換え子(Changelings)」のお話。
例えば、「たまごのカラの酒つくり」*
≪サリバンのおかみさんは、いちばんのすえの子どもが、「妖精かくし」にあって、かえ子をされてしまったのだと思いました。ようすを見ると、どうもそうとしか思えません。おかみさんのじょうぶな、青い目の男の子が、一晩のうちに、くしゃくしゃに、ちいさくしなびて、キイキイ、キャアキャア泣くようになったのです。…≫(続く)

*「くるみわり人形」(E.T.A.ホフマン ラルフ・マンハイム英語訳 渡辺茂男日本語訳 イラストレーション モーリス・センダック ほるぷ出版)
*「クルミわりとネズミの王さま」(ホフマン作 上田真而子訳 岩波少年文庫)
*「まどのそとのそのまたむこう」(センダック作 脇明子訳 福音館)
*「イギリスとアイルランドの昔話」(石井桃子編・訳 J.D.バトン画 福音館)

☆写真奥は、「くるみわり人形」。手前は「まどのそとのそのまたむこう」

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くるみわり人形

            クルミ割り人形j
(承前)
 今度はセンダックの「くるみわり人形」 (ほるぷ出版)。この本の中にもモーツァルトの胸像が描かれていて(おもちゃ戸棚の上)、センダックのモーツァルトへの思い入れを感じます。
 
 E.T.A.ホフマンの「クルミわりとネズミの王さま」 (岩波少年文庫)は、チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみわり人形」として、世に知られていると思います。小学校の音楽鑑賞の時間に初めて聴いた「こんぺい糖の踊り」や「中国の踊り」や「花のワルツ」。うーん、素敵!バレエを習ってる子が居るなんて!うーん、いいなぁ・・・
 組曲は、どの曲もわかりやすく、我が家にLPを購入してもらい、子どもが勝手に触ってはいけないステレオで聴いた覚えがあります。残念ながら、その後も、実際のバレエ舞台を見たことはありませんが、何らかの映像で見たバレエの可愛く、ロマンチックなこと。
 ・・・と、バレエ用のお話だと、大人になるまでずっと思って居たら、原作には「かたいくるみの物語」という事件に至る原因のところもあって、少々お話が長い。

 で、センダックの「くるみわり人形」です。この本の序に、バレエ「くるみわり人形」の舞台美術の依頼を受けたセンダックは、こう寄せています。
≪・・・・「くるみわり人形」のバレー自体の持つ魅力には疑問の余地はありません。平凡な上演の場合でさえも、おおかたの観客を退屈させません。・・・・・(中略)・・・・・・バレー「くるみわり人形」には、ホフマン原作の物語の決定的なわき筋ともいうべき物語の中の物語が、まったく見られない、ということに気づきました。劇的な問題点といえます。「かたいくるみの物語」は、物語全体に劇的感覚と、必要とする心理的意味づけを与えています。バレーにこの部分が欠落していることは、中心部分を空白にし、弱めています。≫と、センダックや美術監督は考えます。そして、ホフマンの原作に立ち返るものの、ホフマンの字面を追うより、ホフマンの本質、ホフマンの精神に従う方法を選び、絵本としての「くるみわり人形」を作るときには、バレーのためのステージデザインと衣装、この物語のために描いた絵や、その他何枚かを加えたもので構成したと書いてあります。
 つまり、世に何冊か出ている「くるみわり人形」の絵本は、バレエ用のお話絵本ですが、センダックの「くるみわり人形」の大きくて重い一冊は、バレエの雰囲気と原作を正当にとらえようとした結果の一冊だということです。(続く)

*「くるみわり人形」(E.T.A.ホフマン ラルフ・マンハイム英語訳 渡辺茂男日本語訳 イラストレーション モーリス・センダック ほるぷ出版)
*「クルミわりとネズミの王さま」(ホフマン作 上田真而子訳 岩波少年文庫)
☆写真は、「くるみわり人形」(ほるぷ出版)の見返し部分と表紙。

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モーツァルトのヴァイオリン

 ヴァイオリンj
 センダックはモーツァルトを敬愛し、絵の中に時々、忍ばせて描いています。写真の右「まどのむこうのそのまたむこう」に、ピアノを弾いているモーツァルトが。お話には、直接関係ないものの、センダックは、そのシーンになんらかのモーツァルトの楽曲をイメージしているのだと思います。残念ながら、個人的には、絵本を開いても、その音楽のイメージがわきませんが、きっとセンダックと同じ思いで、楽曲が聞こえる人もいるかもしれません。

 さて、先月の上京の際、練馬、上野、六本木の美術館巡りの最後は、日比谷のロビーコンサートでした。
 企業のメセナ活動の一環ですが、モーツァルトの生家修復から縁のある生命保険会社が、モーツァルト自身のヴァイオリンの修復にも関わり、この度、250年ぶりに修復されたので、そのお披露目のロビーコンサートだったのです。
 早めに行って、楽譜の展示や肖像画の展示を見、壁にもたれてリハーサルのいい音を聞いていたのはよかったのですが、もっと早く行った人は座席の整理券をもらっていて、整理券のない我々は、本番1時間は、壁にもたれることなく直立で聴くことに。せっかくの音色も、フォルテピアノという日頃聴くことのない音色も、足が疲れ、腰が痛くなった素人には、余りありがたくなくなって・・・
 250年前のモーツァルトに思いを馳せることもできず、一日に4か所のアート探訪は無理ということだけがわかった一日でした。(続く)
*「まどのむこうのそのまたむこう」(センダック作 脇明子訳 福音館)
☆写真左は、修復なったヴァイオリンの写る案内パンフ。

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