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みんなみすべくきたすべく

手蔓のようなもの

長い道
(承前)
 偶然とはいえ、堀口大學が手に取った「スバル」巻末にあった新詩社の案内には、与謝野鉄幹と晶子が短歌の添削とあり・・・・・・そこには、またもや偶然が・・・というのか、導かれるようにして、つながった赤い糸。入門した大學の父、堀口堀口九萬一と鉄幹は旧知の間柄だったこと。

 堀口大學の父親は日本で初めての外交官試験に合格し、外交官としての職務に就いていたので、日本の息子、大學やその妹のそばには居ず、外国での暮らしが多い人でした。また、大學の母の没後、再婚したのはベルギー女性でした。(それが、大學ののちの翻訳の道ともつながっていくのですが・・・、これも、またいつか)
 そんな父、堀口九萬一と鉄幹はどこで、出会っていたか・・・
 鉄幹が京城の日本人学校で教えていたとき、堀口九萬一は、領事官補として京城で任務。その時に起こった事件の関係で、鉄幹は官舎で暫く起臥し、また、堀口九萬一が漢詩人でもあったことから、詩文を通じての盟友でもありました。

 それで、17歳の大學が 与謝野鉄幹・晶子のところに初見参。緊張している少年に、鉄幹は訊ねます。
ー故郷はどこです?」
ー新潟県長岡でございます。」
―あッ、そうか!長岡には堀口姓が多いんだな?」
ーいいえ、家中で堀口は私どもだけですし、町家にもあまりききません」
ーそうですかね。では、君は同じ長岡の旧藩士で堀口九萬一という人を知っていませんか?」
ーはい、知っております。私の父でございます。」
・・・・・・・
その時、大學は「あの日、あの時は、奇縁とも宿命とも解される私の一生の大きな曲がり角でした。」とのちに回想します。

また、当時、「明星」の黄金期を過ぎ、森鴎外を主軸とした「スバル」の片隅で、鬱々としていた鉄幹にしても、旧知で盟友の子息が目の前にいるのは感動的な出来事だったと想像できます。

当時、田舎の文学少年は、与謝野鉄幹・晶子の名前も知らず、「かつて吉井勇という人も、この両先生のもとで添削を受け、指導されて、こんなに僕の心を打ち、魂をゆさぶる歌が作れるようになられたのだという、手蔓のようなものを」「汲み取ることができた」とあります。

・・・と、長谷川郁夫の「堀口大學 詩は一生の長い道」に、書かれています。どのエピソードも深いし、重い。そして、日本の近現代文学の側面を見ることができます。なので、この大著を、こんな拙欄に一度に紹介するなどという考えは捨てます。

 そして、「五足の靴」➡➡という薄っぺらい岩波文庫が、今ここで、600ページ余、しかも、二段組の「堀口大學 詩は一生の長い道」(河出書房新社)につながったのも、ちょっとした手蔓のようなもの。(続く)

*参考「堀口大學 詩は一生の長い道」(長谷川郁夫 河出書房新社)
☆写真は、岩波文庫「五足の靴」と「堀口大學 詩は一生の長い道」。カバーを取ったカバー背が写っています。絵はジャン・コクトー。【Nicoへ ・・・Jean 1936と読めます。Nicoというのは、フランス時代などの堀口大學の呼び名。Jeanは、もちろん、ジャン・コクトー。この絵は、「エッフェル塔の花嫁花婿」(ジャン・コクトー 堀口大學訳 求龍堂)に収録されています。】下に敷いてあるカバー右は1936年来日中のコクトーと堀口大學。カバー左は、ブラジル時代の堀口大學。

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執念の始り

ベリンツォーナj
➡➡ 承前)
 与謝野寛の「明星」を連袂脱退した一人、吉井勇について書こうと思ったら、まずは、堀口大學から書いていかないといけないような気がしましたが、ともかく11月8日が吉井勇の「かにかくに祭り」➡➡だったので、あとさきになったものの今日は堀口大學。

 この年齢になっても、文学好きなだけであって、文学についても、ほとんど何も知らず、この欄でも、浅学を露呈しているものの、吉井勇についても、かの大著「堀口大學 詩は一生の長い道」(河出書房新社)➡➡で知るまで、よく知りませんでした。
 しかも、まだこの大著についての本筋については、感想が書けていない。嗚呼! あれから、まだずーっと枕元に置いたまま。もはや、ただの放置?言い訳するなら、2年半も置いているのは、この本だけです・・・。深すぎて、この本単一で書けるとは思えなくなってきました。今日のような関連づいた形で紹介していくことになろうかと思っています。

 さて、新潟長岡出身の当時17歳の堀口大學は上京していましたが、祖母の仏事で、長岡に行く際、たまたま列車までの待ち時間に駅前の書店で見かけたのが文芸雑誌「スバル」(42年第8号)。巻頭の短歌、吉井勇「夏のおもひで」百首を何気なく、拾い読み・・・これが、堀口大學と吉井勇の出会いであり、巻末にあった「添削には與謝野 鐵幹 ・晶子があたる」という案内、これが、堀口大學の「詩は一生の長い道」の始まりとなったのでした。

 のちに、堀口大學は回想します。
≪一読僕はたちまち魅了されてしまった。こんな美しい、こんな感動的なこんなに自分の夢にぴったりする歌があるのかと思った。知らなかったと思った。知ってよかったと思った。急に自分の前に新しい詩歌の新天地が開けたような気がした。早速その雑誌を買い求めて、駅の待合室へ戻ったが、その夜僕は車中一睡もせずに『夏の思ひ出』をくりかえし読みつづけた。熱っぽい気持で。そして思った、こんな短歌が、ただの一首でも作れたら、自分はそれきり死んでも惜しくはないと。≫(「青春の詩情」)

そして、のちに、「勇短歌との出会い」という詩も書いています。
≪『スバル』というその誌名が
星座の名だとさえ知らない少年でした
瀟洒な表紙に誘われて取り上げた
その巻頭が 
あろうことか!
天か 魔か
「夏のおもひで」吉井勇の短歌でした
・・・・(中略)・・・・
僕の詩歌の一生を決定した
これがその瞬間でした
永久に変わることのない
執念の始りでした

あの時から六十余年
今日までに宿酔は続いています

楽しい僕の詩歌の宿酔!≫
(続く)
☆写真は、スイス ベリンツォーナ駅前

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寂しければ

かにかくに3
(承前)
 堀口大學が感じたほどではないにしても、確かに、吉井勇の歌には、凡人にも強い引力がありました。

 「寂しければ」という歌は、
 「寂しければ」で始まる歌が延々と続き、続編を加えると55首。すべて「寂しければ」で始まります。
 この繰り返し。繰り返すことによって、深く深く入り込む気分になって行きます。また繰り返すことによって、落ち着いてくる安心感もあります。言葉の魔力です。
 55首書き写すわけにはいきませんので、もっとお読みになりたい方は「吉井勇全歌集」(中公文庫)を。
≪寂しければ人にはあらぬ雲にさへしたしむ心しばし湧きたり≫
≪寂しければ火桶をかこみ目を閉ぢて盲法師のごともあり夜を≫
≪寂しければ或る夜はひとり思へらくむしろ母なる土にかへらむ≫
≪寂しければせめて昔のおもひでの華奢風流の夢をしぞ思ふ≫
≪寂しければ爐にあかあかと火を燃やしほのぼのとしてもの思ひ居り≫
≪寂しければ鳥獣虫魚みな寄り來かのありがたき涅槃図のこと≫
≪寂しければ・・・・・・・・・・・・・・≫

その中でも、ちょっといいなと思うのが、
≪寂しければ昨日をおもひ今日をおもひ明日をおもひぬうつらうつらに≫
(続く)

☆写真は、京都 祇園白川 

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かにかくに

kanikakuni.jpg
(承前)
 「五足の靴」➡➡を履いていた一人の吉井勇の「吉井勇全歌集」(中公文庫)を、読んでみました。
 一つ一つの歌はわかりやすい言葉で歌われています。特に若い頃は、艶っぽい歌も多い。
 そして、一つ一つは歌なのに、通しで読むと、ひと夏の恋、その心情の連なり、動き・・・こんな書き方は、それまでの日本文学の中で見当たらないから、若き堀口大學の心に衝撃と希望を与えたのだと思われます。(このことについては、のちほど)

 そんな吉井勇の特に有名な歌というのがあるらしく、それがかの祇園を歌ったもので「酒ほがひ」に入っています。
「かにかくに 祇園はこひし 寝(水)ぬ)るときも 枕のしたを 水のながるる」で、その碑が京都、祇園白川にあり、なんと、本日11月8日は、その碑を詣でに、祇園のお姐さんたちがやってくる「かにかくに祭り」。この歌碑の発起人がまた凄い、里見弴、谷崎潤一郎、志賀直哉、堂本印象、井上八千代、湯川秀樹・・・・・・

 今や、昼間の祇園は、外国人客で溢れていますが、大昔、学生の頃、祇園花見小路を四条通から見るだけでも「子どもの見るもんやおへん」的な空気が漂い、実際、昼間は、人が歩いていなかった…その後、何年か前に始めた古筆のお稽古が当初、以前お茶屋さんだった二階だったこともあり、祇園の明るい時間に歩くことができるようになりました。 また、この碑のある祇園白川の辺りは、花見小路より、まだ少し、観光客が少ないように思います。

 さて、この写真を撮った日(日曜)、京都の街で、日常の着物姿の舞妓さん同伴の男性を複数お見掛けししました。
 そのうちの一組。お連れの男性は、少々横柄な態度でお店(クラシック音楽の流れる町屋を改造した小さなカフェ)に入ってこられました。が、すぐ後から入ってこられたお連れの舞妓さんの不満げなお顔。苛立っているご様子で奥のソファに座られました。ドスン!
 吉井勇が「祇園歌集」で歌ったような≪叱られてかなしきときは円山に泣きにゆくなりをさな舞姫≫とは、少々、違ったご様子の現代の舞姫でした。(続く)

 *「かにかくに」・・・何かにつけて とにかくも 
 *「酒ほがひ」→「酒祝ひ」「酒寿ひ」
kanikakuni2.jpg

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足に合わない大きい靴

夕立j
(承前)
 「五足の靴」(五人づれ著 岩波文庫)➡➡ のあとがきによると、著者の一人、与謝野寛は、この紀行文を書いたとき35歳で、のちに、吉井勇が回想するように「与謝野先生だけが黒い背広で、あとの4人はみんな金ボタンのついた学生服を着ていたのだから、よそ見にはまるで修学旅行のように見えたかもしれない」とあります。もしかしたら、ちょっと、窮屈?

 そして、この夏の九州旅行の翌年1月には、吉井勇、北原白秋、木下杢太郎の3人は、「明星」を連袂脱退してしまい、「パンの会」の創設に向かいます。
 のちに、吉井勇がいうように、≪・・・長い旅行を共にしたりして、与謝野先生と私たちとは、きわめて親密な師弟関係を続けているように見えていたけれども、実はもうすでにその時分から決裂の機運がきざしていて・・・・・≫というのが、本当のところのようです。ましてや、吉井勇と北原白秋は、その前の年の秋にも与謝野寛、茅野蕭々らと伊勢・紀伊・奈良・京都に旅行しています。

 とはいえ、残りの一人、平野萬里は、与謝野寛(鉄幹)・晶子夫婦と共に第二次「明星」に参画・協力したとあるので、五足の靴も、履き心地は、人それぞれだったということでしょうか。
「五足の靴」の始まりは、こうでした。
≪五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。五個の人間は皆ふわふわとして落着かぬ仲間だ。彼らは面の皮も厚くない、大胆でもない。しかも彼らをして少しく重みあり大量あるが如くに見せしむるものは、その厚皮な、形の大きい五足の靴の御陰だ。≫
(続く)
☆写真は、スイス レマン湖の夕立

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五足の靴

平安神宮j
「五足の靴」(五人づれ著 岩波文庫) 
薄っぺらい文庫本です。新聞連載だった紀行文なので、一つ一つの文も短く、すぐに読めるはずでした。

 五足の靴を履く面々は、与謝野寛 北原白秋 平野萬里 太田正雄(木下杢太郎) 吉井勇という雑誌「明星」に集う若き詩人たちです。三十代半ばの与謝野以外は、二十代前半の学生か、学生あがりの青年たちの集団が明治40年の盛夏に長崎・平戸・島原・天草・阿蘇・柳川に出向き、交代で匿名執筆した紀行文が「五足の靴」です。

 この「匿名」の紀行文・・・・というのが、読み手の心を惑わします。
 与謝野寛がK生、北原白秋がH生、平野萬里がB生、太田正雄(木下杢太郎)がM生、吉井勇がI生。
 どの文も、少しづつ、個性があって、この文は誰が書いたんだろう?と考えだすと、謎解きをしたくなります。

 一人 自然描写を生き生きと描く人がいて、他のと、ちょっと趣を異にしていうような気がするのですが、読み違いかもしれません。
≪朝、汽車は千代の松原を走る。松緑にして砂白き古来の絶景である。この中に箱崎八幡香椎の宮がある。潮風の荒きに圧され、松はみな低く地を這う。砂は黄味を帯びた白色の石英質である。投げられた松の影が虎斑を作る中を、めまぐるおしく走ってゆく。向こうに日を受けた日蓮の銅像の大頭がきらきらと輝き、博多湾を睨んでいる。・・・・≫(四)砂丘

≪・・・風の故かさほど蒸熱くもない。小さな船は常さえ荒れるという千々岩灘をこの荒れの日に横ぎろうとする。行くに従って海はいよいよ荒る。白い毛を頭に被いた怪物が海を埋め、己れ小癪と船をめがけて八方からひしひしと攻めかかる。船は思うがままに弄れる。思えば船も怪物である。鯨の一種である、頭もある、尾もある、腹も背もある、そう思えば眼もある、鰯の代りに石炭を吞み、潮の代りに烟を吐く。ひらひらと弄れながらも驀(まっしぐら)に進んでゆく。風がざざざあと鳴ると波がどどどおと答える。空には灰色の雲がまだらに散って荒れ狂う怪物に怪物に応援している。何しろ痛い(ひどい)暴風(しけ)だ。・・・・≫(十)荒れの日

≪柳河は水の国だ,町の中も横も裏も四方に幅四五間の川が流れて居る。それに真菰が青々と伸びている。台湾藻の花が薄紫に咲く、紅白の蓮も咲く、河骨も咲く、その中を船が通る、四手綱の大きなのが、所々に入れられる。颯と夕立が過ぎた後などはまるで画のようだ。・・・・・≫(二十三)柳河
(続く)
☆写真は、河骨 (ただし、季節は初夏、平安神宮)

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前頭葉の疲れ

ブリエンツ1
 だらだら続いたスイス報告2018も、終わりです。スイスで風に吹かれ、ゆっくりした時間を過ごし疲労は回復。
 スイスに出かける寸前まで、雑用に追われる日々。思考力低下、バタンキューという言葉がぴったりの日々。判断力も鈍り、怪我をしたり、忘れ物や失せ物や・・・誤字や脱字や・・・

 帰国して教文館という銀座の真ん中にある子どもの本屋さんが出版している 「メディアにむしばまれる子どもたち――小児科医からのメッセージ」(田澤雄作 教文館)という本を読んで、納得です。こんなばあばでも、前頭葉が疲れていたと思われます。
 もちろん、この本は、現代の子ども事情を伝えるショッキングともいえる内容です。大人のことを直接書いているわけではありません。タイトル通りです。が、心身が疲労していくとどうなるかを、体得していたカ・リ・リ・ロには、よくわかる内容といえました。

 刺激の強いメディアに侵されている子どもたちの危ない状況は、後頭葉への刺激が強すぎて、判断力や思考力、推理力等などのもととなる前頭葉の疲れを呼び、慢性疲労となり、それが、いわゆる「キレる」子どもたちにつながっているのではないか(否、つながっている)というのが、この本の大きな骨子です。
 
 また、序文にあたる「この本の誕生のいきさつ」という斎藤淳夫の文の中に≪・・・私たちもまた、便利さと豊かさのみを求めてつっぱしってきた日本の高度成長のもとで、さまざまな要因が重なり合い、子どもたちの心をゆがめてきたにはちがいないけれども、その中で、どうやらメディアが最も激しく、直接的に、子どもたちを追い詰めているのではないか、人間の成長にもっとも大切な五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)の感覚をひどく損なっているものがメディアなのではあるまいかと感じていたのです。・・・・≫とあります。

 ほんとうに小さな子どもがゲーム機を離さず、スマホやタブレットで動画を見ている状態を見かけることの多い昨今、子どもに関わる人みんなに、読んでほしいと思うものの、特に読んでほしい大人はきっと読まないだろうなあと思いつつ、せめて、目次からでも気になってもらえればと思い、書きます。

 Ⅰ 笑顔が希薄になった子どもたち   
   第1章 子どもの描く絵からわかること
   第2章 「まなざし」が赤ちゃんを育てる
   第3章 小児科外来にやってくる子どもたち
 Ⅱ子どもたちの叫び声が聞こえていますか?
   第4章 子どもの慢性疲労について
   第5章 子どもを「へとへと」にしているものは何か?
   第6章 映像メディアは子どもの脳にどんな影響を与えているか
   第7章 ヘビー・ユーザーと「大人になれない子ども」
   第8章 ゆがめられた子どもの心
   第9章 暴力的な事件の背景にあるもの
   第10章 最恐メディア「スマートフォン」
Ⅲ取り戻そう!感動あふれる子どもの世界
   第11章 いまこそ大人の意識改革が求めれる時
   第12章 子どもの本当の幸せのために

☆写真は、スイス ブリエンツ湖

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うそ

かしわばあじさいj
「まど・みちお詩集」(谷川俊太郎編 岩波文庫)
(承前)
「うそ」
≪はなしの かいてんは 
いよいよ いい ちょうしで 
いよいよ スピードを あげ
せんぷうきのように 
すきとおって くるのでした

みんなの 目には
もう むこうに
べろっと でている 
まっかな したのほかには
なにも みえません
で そればかりを
おもしろがって
いっしんに ながめていました≫

 嘘をついている人と、嘘をついていない人の表情に違いがあるのは、真っ赤な舌の有無なのか。二枚舌というのは、向こうに もう一枚べろっとでているものなのか・・・・

 この前も、幼い頃、嘘つきは、どうなるか教えてもらわなかった可哀そうな人たちのことを書きました。➡➡この話は、今や、いろんな分野に広がって、いい年をした大人が、やっぱり、うそをつきつき➡➡ 保身に走る日々。偽物為政者も偽物指導者も・・・・
 救いは、やっぱり、うそを吐けない『人の心』をもった人がいること。
☆写真は、かしわばあじさい

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よかったなあ

スイレンj
「まど・みちお詩集」(谷川俊太郎編 岩波文庫)
 (承前)
 この詩集には、まど・みちおのエッセイと詩が、谷川俊太郎の区分けしたタイトルのもと、掲載されています。
 昨日の「まめ」という詩は、「いま!」という章にありました。それで、その章の最初にあるエッセイの、一番初めの文「動物を愛する心」の冒頭が、これです。
≪この世の中に色々のものがあるのは、みんなそれぞれに、なんらかの意味において、あらねばならないからであろう。この世の中に存在するものあらゆるもの、それはそのあるがままにおいて可とせられ、祝福せられるべきはずのものであろう。この世の中のありとあらゆるものが、それぞれに自分としての形をもち、性質をもち、互いに相関係してゆくということは、なんという大きい真実であろう。路傍の石ころは石ころとしての使命をもち、野の花は草としての使命をもっている。石ころ以外の何ものも石ころになることは出来ない。草を除いては他の如何なるものといえども、草となり得ない。だから、世の中のあらゆるものは、価値的にみん・な平等である。みんながみんな、それぞれに尊いのだ。みんながみんな、心ゆくままに存在していいはずだ。……≫
そして、文末
≪ああ、世の中のありとあらゆるもの、みんながみんな、すべて心ゆくままに生きたいものだ。≫で終わっています。

この文を読むと、まど・みちおがうたい続けた底辺が見えてきます。
「よかったなあ」
≪よかったなあ 草や木が
ぼくらの まわりに いてくれて
目のさめる みどりの葉っぱ
美しいものの代表 花
かぐわしい実

よかったなあ 草や木が
何おく 何ちょう
もっと数かぎりなく いてくれて 
どの ひとつひとつも 
みんな めいめいに違っていてくれて 

(中・後略)・・・・≫(続く)

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サフォ

       マルモッタンj
(承前)
 昨夏から、ドーデ―の短編・長編など、続けて読んだ中に「サフォーパリ風俗」(ドーデ 朝倉季雄訳 岩波文庫)もありました。
 田舎出身の純朴な美青年と、したたかな娼婦の話。落ちていきます。この青年。
 そういえば、この手の話には、「マノン・レスコー」➡➡がありましたね。
 面白いと言えば、面白いのですが、どれもいっしょくたになりそうな、パリの情に溺れる近代小説の一つです。

 ただ、ドーデ―独自のユーモアを感じるのは、彼は、お伽話を身体の中にたくさん持っているのではないかと思わせる場面が、この「サフォ」にも、他の作品にも散見できます。例えば、かの「プチ・ショーズ」では、田園詩劇の朗読と称して一編の「青い蝶の冒険」という寓話を挿話しています。

 そこで、「サフォ」にあったのが、
≪彼女は、クリシー通りで、素晴らしい寝臺の出物を見つけた。それは新しいといってもいいくらいの品で。鬼の七人娘(ペローの童話『拇指小僧』参照)を並んで寝かせることができそうなほど大きかった。≫という表現です。

そうです。なんと、娼婦が選ぶベッドの豪華さと鬼の七人娘のベッドとを繋げてしまうあたり、かなり意味深でもあり、意図的に緩めているとも取れ、面白いと思います。

が、しかし、おやゆび小僧の話に鬼の7人娘なんか出てきたっけ?と思った人は、グリムの親指小僧のお話をよく知っている人。
実は、おやゆび小僧の話が、背丈の小さい男の子が活躍する話だと、わかっていても、フランスのペローのものとドイツのグリムのものでは、ずいぶん違うお話なのです。(続く)
☆写真はパリ、マルモッタン美術館

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