
(承前)
これまでも、拙欄で、シュルヴィッツの「よあけ」(瀬田貞二訳 福音館)のことを書きました。➡➡
シュルヴィッツのことを紹介した時、、この作者は、センダックと同じユダヤ系の人だと思うなどと、いい加減なことを書いている時さえあります。戦後 イスラエルにまで住んだユダヤ人です。
が、しかし、今、彼の幼い時の自伝「チャンス」➡➡ を読み、彼の背景を知って、また「よあけ」や「ゆうぐれ」(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)や「ゆき」(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)を開けると、
ああ、この解放感が、描きたかったんだろうなと思います。
そして、それが、読み手に伝わる。
今年は、まれにみる冷え込みで、日本列島が雪に覆われた日がありました。この辺りは、ほとんど降らなかったものの、雪や氷を間近でみるのが初めての孫たちは、大喜び。身体が冷えるのも忘れて「わーい、雪だよ」(*「ゆき」)
☆画面に映るのは、スイス ギースバッハ ブリエンツ湖 開いた絵本は「よあけ」文章最後のページ。「やまとみずうみが みどりになった。」
(承前)
もう1冊、ユリ・シュルヴィッツの絵本。
「あるげつようびのあさ」(谷川俊太郎訳 徳間)のことも、シュルヴィッツの自伝「チャンス」(ユリ・シュルヴィッツ 原田勝訳 小学館)➡➡に、ほんの少しながら書かれています。
戦争・迫害から生き延びたユリ・シュルヴィッツでしたが、肺に影が見つかり結核予防所に入ります。健康に問題のあるユダヤ人の子どものための施設です。
≪そこでの毎日は、それまで経験した学校や施設での毎日とはちがっていた。ぼくはほかの子どもたちも職員も、みんな好きになった。ひと言でいえば幸せだった。ぼくはこの予防所に半年いた。フランス語がうまくなり、昔からフランス語で歌われている歌をたくさんおぼえた。そして何年もたって、そのうちの一曲をもとにして描いた絵本が『あるげつようびのあさ』だ。≫
ニューヨークの朝の絵本だとばかり思っていました。
昔、この本を子どもたちと楽しんだとき、お洒落な展開と、絵の隅々にある秘密を楽しんだものでした。
それって、ニューヨークの匂いじゃなくて、フランスの古謡だったのですね。
それを知って、もう一度開くと、どうですか?

(承前)
「おとうさんのちず」(ユリ・シュルヴィッツ さくまゆみこ訳 あすなろ書房)
ユリ・シュルヴィッツの絵本に「おとうさんのちず」がありますが、この絵本ができたのは、まさに、彼の過酷な幼年時代に関わっています。
自伝の「チャンス」(ユリ・シュルヴィッツ 原田勝訳 小学館)➡➡にそこのところが書かれています。
晩御飯の材料を買いに行ったはずのお父さんは、食べ物を買わずに地図を買ってきます。
≪ぼくは頭にきた。おなかがすきすぎて痛いくらいだ。胃がさけんでいた。「おなかがへったよお!地図じゃなくて、食べるものをくれーっ!」・・・・・(中略)・・・・次の日、お父さんは地図を壁にはった。地図にはソヴィエト連邦と、まわりをとりまくヨーロッパやアジアの国々、そしてアフリカの一部がのっていた。くすんだ茶色だった部屋に、いきなり、あざやかな色があふれた。認めるのはくやしいけど、この地図はぼくの人生に大きな影響をあたえた。ぼくはどんな紙でも、絵が描ける紙が手に入ると、この地図のあちこちを描きうつすようになった。そして、友だちと地図ゲームまで始めた。・・・・(中略)・・・・ぼくは地図を見ながら、変わったひびきの地名を楽しんだ。そういう地名ははっきりと記憶に残り、何年もたってから、いかに外国らしくきこえる地名とならべて、韻をふんだ詩をつくったほどだ。・・・・(中略)・・・ぼくはその地図の前で何時間もすごし、あちこちの土地を想像し、そこへいって冒険する自分を空想した。≫
ここのところは、絵本「おとうさんのちず」の上の絵のページにも書かれています。
≪ちずに ある ふしぎな なまえが ぼくを とりこに した。
フクオカ タカオカ オムスク、 フクヤマ ナガヤマ トムスク、 オカザキ ミヤザキ ピンスク、 ペンシルバニア トランシルバニア ミンスク! ぼくは ちめいで しを つくって まほうの じゅもんみたいに となえた。すると、せまい へやに いても、こころは とおくへ とんでいけるのだった。≫
☆上の写真右は作者10歳の時に模写。文字はロシア語。紙は便箋の裏。

「チャンスーーーはてしない戦争をのがれて」(ユリ・シュルヴィッツ 原田勝訳 小学館)
この本は、ユリ・シュルヴィッツの幼い時、第二次世界大戦頃の自伝です。
この欄でも何度か登場しているシュルヴィッツ➡➡ ➡➡ ➡➡ ➡➡ ➡➡ ➡➡ ➡➡ で、ユダヤ人の彼がポーランド出身で、各地を転々とし、アメリカで絵本作家になったのは知っていましたが、ただの引っ越しではなく、ユダヤ人としての幼い頃のこと、迫害のことが、書かれているのを読むのははじめてでした。
旧ソ連とドイツにはさまれたポーランド。この度、ポーランドの昔話のウサギ➡➡のことから書き進んできたことですが、「ケストナー1945年」➡➡ ➡➡ ➡➡ ➡➡ ➡➡ ➡➡ 以来、全部、つながっていくのが興味深いことでした。
今、ウクライナとロシアという緊迫した情勢を鑑みても。
あるいは、ウクライナが小麦のとれる国で、ポーランドがポーレ(平原)に由来すると知り、そこでの農作物の行き先を考えたとしても。(続く)
☆写真の絵と、今、ニュースで見るウクライナの映像とほぼ同じなのが、きつい。
先日、福音館 月刊「たくさんのふしぎ」の2月号「字はうつくしい」を読んだ孫が、中に出ている仮名がどう書いてあるのか?と 母親に聞きました。母親は、ばあばが習っているから聞いてごらん、と・・・・。
昔、その母親である娘や他2人の子どもたちは、毎月届く「たくさんのふしぎ」を、とても楽しみにしていました。多分、創刊から届いていました。今や、孫の家に届いているのかと、少々感慨深いものがあります。(母親自身が欲しかったらしい・・・)
それで、この「字はうつくしい」の号です。
この欄にも何度か書いているように、恥ずかしながら、仮名文字をお稽古しに京都に通っているのですが、なかなかその文字が読めません。美術館に行ったときに、古筆作品が読めなかったので、少しでも読めるようにという希望をもって、習い始め、ほんの少しは近づけた気持ちでいるものの、初見のものは、やっぱり無理。もっと古文に熟達していたら、わかる文字から、内容に近づくこともできるのですが・・・・やっぱり・・・
さて、本では途中で切れてしまっている(👆写真右隅)その書(高野切第三種)のお手本を先生に書いてもらい、孫に見せると、入学前の孫は、俄然、字を書くことに興味を抱き、その後、「あいうえお」を硬筆練習しましたが、子どものやる気というのは凄い。ま行になったときには、どっちがばあばが書いて、どっちが自分が書いたのか当ててもらうクイズも楽しんでいました。(*ばあば自身も、どっちが自分が書いたのか、迷う時があって、びっくり。)
☆写真は、たくさんのふしぎ「字はうつくしい」の号の上に、右隅の高野切第三種の一部のお手本を先生に書いてもらいました。左上に見えているのは、掲載されている藤原定家の書。
「今昔物語集」(池上洵一編 岩波文庫)は、電車で読むのにぴったりの短編集(*特に本朝の世俗篇)ながら、文章下にある注釈がなければ、ちっともわからない。英文を読むより、少しだけましなのは、主語と述語の順番のせいか?
ともかく、英文は辞書なくして読めないのとほとんど同じように、古文も下段の注釈なしに読めない。ただ、これは、芥川龍之介全集の時も、注釈なしに読めない➡➡と つぶやいた我が能力の低さです。
が、今昔物語に芥川龍之介が強く惹かれ、いくつもの題材から、自分の作品を作った➡➡のを見てもわかるように、今昔物語は面白い。(情けないけど、もっと読解力があれば・・・)
面白いと偉そうなこと言ってるものの、まず、原文に目を通しただけでは、まだまだまだなので、今度は注釈だけに目を通し、最後にもう一度全体を読んだら、なんとか、近づける気がしているのです。
それで、やっと読めたものには、こんなに昔から、こんなこともちゃんと言ってたやん!というのがあって、なるほど、面白いなぁ。
例えば、「三条の中納言、水飯を食ひたる語」(28-23)
凄ーく肥って、動くのもしんどい三条の中納言さん、お医者さんに助言を求めると、冬は湯漬け、夏は水漬け飯を食べるのがよいとの助言。すると、もってさせた食事で、まず 干瓜をたいらげ、鮎鮨をたいらげ、いつものように大盛りのご飯に、ほんの少しの水をかけ、しかも、おかわりをする始末。…で、医者はあきれて退出し、三条中納言は、ますます肥ったという話。
湯漬け・水漬けのご飯って、お湯や水で、おなかを膨らませ、ご飯の量を減らせということなのに、水をかけただけじゃあね。
加えてもう一つわかるのが、いわゆるお茶漬けといってないのは、今昔物語が成立したと言われる平安末期には、お茶は貴重品で、ご飯にぶっかけるなんて考えられなかったんだということ。
☆ 写真は 京都 西本願寺南隣 興正寺
先日、初午の日に、稲荷ずしのことや➡➡、「今昔物語集 本朝部 下」 (池上洵一編 岩波文庫 28-1)➡➡の初午詣でのこと を書いたのですが、
拙欄を読んでくださってる方から、お手紙をいただきました。今は、鹿児島に住んでいらっしゃるので、鹿児島神社でも初午祭があったそうな。五穀豊穣を祈るのは同じですが、馬が何頭か登場し、文字通り「午」祭りだったようです。
ところで、初午詣での続きです。
その後も、「今昔物語集」の他のところを読んでいたら、ん?どこかで似たような話をよんだぞ・・・と思いだし、調べてみると、その話は芥川龍之介の「好色」(芥川龍之介全集4 ちくま文庫)に使われているとのこと。
・・・で、「好色」を読み返してみると、おお、この話の前半は、初午の重方と違い平中であるものの、同じことかいてある!!
芥川の「好色」は、こうです。
「・・・・始めて侍従を見かけたのは、—--あれはいつの事だったかな?そうそう、何でも稲荷詣でに出かけると云っていたのだから、初午の朝だったのに、違いない。あの女が車へ乗ろうとする、おれがそこへ通りかかる、---というのが抑々の起りだった。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだったが、紅梅や萌黄を重ねた上へ、紫の袿をひっかけている。・・・・」
「今昔物語集 本朝部 下 28-1」 (池上洵一編 岩波文庫)の、この表現
「濃き打たる上着に、紅梅・萌黄など重ね着て、生めかしく歩びたり。」
・・・・と、今昔物語のこの表現や、一番大きく影響を受けたと思われる「平定文、本院の侍従に仮借せる語」(「今昔物語集 本朝部 下 30-1」池上洵一編 岩波文庫) から、芥川の「好色」は成り立っています。他、今昔物語の複数個所も含め、それらを膨らませ、芥川の「好色」は5章から成り立ち、最後も主人公平中の死で終わります。
☆写真は、ロンドンのホースガーズ交代式