みんなみすべくきたすべく

さてさて、きょうのおはなしは・・・・

    六地蔵j
(承前)
 瀬田貞二生誕100年記念の一冊に「さてさて、きょうのおはなしは・・・」(福音館)が出版されました。

 「三びきのやぎのがらがらどん」(マーシャ・ブラウン絵 福音館)の翻訳だけでなく、再話や創作、瀬田貞二が生み出す言葉から、日本語の楽しさが伝わります。子どもたちにぜひ、読んでやって、あるいは語ってやってほしいものばかりです。

 そんな瀬田貞二の昔話集は、のら社「日本のむかしばなし」「世界のむかしばなし」があるものの、今回刊行された「さてさて、きょうのおはなしは・・・」は、その二冊と同じものを含め、福音館から月刊誌や単行本として刊行されたものや、ほか、非売品として刊行されたものや、小冊子として刊行されたもの、全部で28のお話が入っています。

 瀬田貞二の昔話でカ・リ・リ・ロとその子どもたちが好きだったのは、特にその文末です。
 かの 「三びきのやぎのがらがらどん」の最後は、≪やぎたちはとてもふとって、うちへあるいてかえるのもやっとのこと。もしもあぶらがぬけていなければ、まだふとっているはずですよ。そこでーーーチョキン、パチン、ストン。はなしは、おしまい。≫
「まのいいりょうし」(赤羽末吉絵 福音館) ≪むすこの七つのおいわいに、はらいっぱいのごちそうをたべたのは、いうまでもないこと。それで、どっぺん、わたしたちまで、いちごさかえた。≫
「かさじぞう」(赤羽末吉絵 福音館) ≪それからふたりは、しあわせになったとさ。どっとはらい。≫
「ねずみじょうど」(丸木位里絵 福音館) ≪これで、とっぴんぱらりのぴい。≫
「ふるやのもり」(田島征三絵 福音館) ≪さるのしっぽは、ぷつん。はなしはこれで、おしまい。≫

以上、うちでは、絵本で楽しんできたお話ですが、この「さてさて、きょうのおなはしは・・・」のなかにも入っています。(続く)
☆写真は、静岡の六地蔵さん(撮影:&Co.To)

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瀬田貞二の「絵本論」

     レマン湖よあけ
(承前) リリアン・H・スミスの「児童文学論」(岩波)が、児童文学のバイブルならば、 「絵本論ー瀬田貞二 子どもの本評論集」(福音館)は、絵本のバイブルです。(もちろん、 「センダックの絵本論」(岩波)も、忘れていませんけれど)

 瀬田貞二の「絵本論」は読みやすい評論集です。
 特に「第一部 絵本にであう」は、「こどものとも」の月報に入っていたものなので、かみ砕いた文章になっています。
 後半は、作家論、作品論となっているのですが、これも、学術書のような硬さはありません。

 リリアン・スミスの「児童文学論」と同じく、瀬田貞二の「絵本論」も、何度も読んできました。1985年初版です。
 さすがに、「児童文学論」を読んだ時のような学生時代の無謀さはなく、赤インクや蛍光ペンで線を引くということはありませんが、やっぱり、青インク、黒ボールペン、鉛筆、そして書き込み、付箋が貼り付けてあります。

 リリアン・スミスの「児童文学論」にしても、瀬田貞二の「絵本論」にしても、初めから、全部理解できたわけではありません。数多くの作家や作品、絵本画家など、何度か読むうちに、「ああ、この人だったのね」「ああ、この絵画見たことある」と、つながっていくのは、うれしいものです。
 
 さて、この本で、一番初めに線を引いたと思える瀬田貞二の文は、ここです。
≪幼い子どもたちは、成長することを仕事にしています。のびのびと育っていく本能にかられて、動きたい、休みたい、愛したい、認められたい、成しとげたいという、体いっぱいの意欲にふくらんでいます。そして、本能的な意欲は、楽しみたいという欲求の形になってほとばしります。心身が火だるまのようになって遊ぶことは、その一つのあらわれです。そしてお母さんの読んでくれる物語に耳をかたむけながら、くりひろげられる美しいリズムのある絵に見いること、つまり絵本を「読む」ことも、その一つです。だから、幼い子どもたちが絵本のなかに求めているものは、自分を成長させるものを、楽しみのうちにあくなく摂取していくことです。…≫

・・・・そんな「絵本論ー瀬田貞二子どもの本評論集」と、「落穂ひろいー日本の子どもの文化をめぐる人びと」「児童文学論ー瀬田貞二子どもの本評論集」の三つの評論集(いずれも福音館)を編集した荒木田隆子が、その編集経験をもとに瀬田貞二について語った講演録が出ました。「子どもの本のよあけー瀬田貞二伝」(荒木田隆子 福音館)
 他にも、瀬田貞二生誕100年を記念して、新刊や限定出版など福音館から出版されています。(続く)

☆写真は、スイス レマン湖の夜明け 「よあけ」(ユリー・シュルヴィッツ作 瀬田貞二訳 福音館)➡➡ 

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リリアン・スミスの「児童文学論」

        ウェギグス14j
 リリアン・H・スミスの「児童文学論」(石井桃子・瀬田貞二・渡辺茂男訳 岩波)が2016年の秋に岩波現代文庫の1冊となって平積みされていました。
 箱入りの原本に比べ、少し手軽に手にすることができるかもしれません。
 が、やっぱり、文庫じゃ、傷みやすいしなぁ・・・

 というのも、もともとの「児童文学論」は、カ・リ・リ・ロにとっては、バイブルのようなもので、何度も読み返しています。昭和50年第13刷というのを持っています。これは、多分、卒論を書くときに、手に入れたのだと思います。赤インクで線を引き、青インクで線を引き、黒ボールペンで線を引き、蛍光ペンで線を引き、鉛筆で線を引き、書き込みをし、大小さまざまな付箋を貼り・・・
 ・・・・こんなに読む本は、やっぱり文庫じゃあね。

 たぶん、一番初めに線を引いたのは、ここ。
≪この世のどんな強制をもってしても、子どもが読みたくない本を、むりに読ませておくことはできない。自分たちの選択の自由を、子どもたちは、たいしたたくましさと頑強さで守りぬく。もちろん、子どもたちにしてみれば、どうして自分がこの本をはねつけて、あの本にしがみつくのかというわけを知らないだろう。子どもたちの判断力は、めったに分析的でないからである。しかし、それは、ある純粋なものーー楽しみに根差している。「楽しみ」のない場合は、もし読んだとしても、いやいやのことなのである。≫

 そうです! 楽しみのない読書は、大人だって嫌です。

 この本があったから、今のカ・リ・リ・ロが在るといってもいい1冊です。ま、そんなことはどうでもいいのです。ぜひ、子どもと子どもの本に興味のある人には、読んでほしい一冊です。 (続く)
☆写真は、スイス ルチェルン湖畔 ヴェッギス

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いいこと探しの達人

シオン城j
(承前)
 二冊の「人生処方詩集」を読んだわけですが、結論から言うと、まどみちおの「人生処方詩集」(市河紀子選詩 まどみちお詩・絵 平凡社)では、明るい気持ちが湧いてきて、ケストナーの「人生処方詩集」(小松太郎訳 岩波文庫)の多くは、薬がすっと体内に入りませんでした。

 一冊の詩集で、これ!と思える詩に一つでも出会えれば、と思っています。詩は、人生の処方をしてくれるものです。
 ケストナーの「人生処方詩集」に元気づけられる人もいれば、まどみちおの「人生処方詩集」に癒される人もいるでしょう。

 で、カ・リ・リ・ロがケストナーよりまどみちおの詩を楽しむのは、どういうことなんだろう?と、考えていたら、まどみちおの「人生処方詩集」に掲載されていた細谷亮太(小児科医・俳人)の文に、納得の言葉を見つけました。

 北原白秋の「雨」が「いやなこと」を切々と歌っていることと比べ ≪まどさんが「いいこと探し」の達人であることがよくわかる≫と、あります。
 そうなのです。ケストナーは「嫌なこと探し」をしながら書いているものが多かった。まどみちおは「いいこと探し」なのです。
 細谷亮太はまどみちおの「雨ふれば」という一編を雨の日のいいこと探しの詩にあげています。
≪雨ふれば
お勝手も
雨の匂いがしてゐる。
濡れた葱など
青くおいてある。

雨ふれば
障子の中、
母さんはやさしい。
縫物される針
すいすいと光る。

雨ふれば
通りのもの音、
ぬれてゐる。
時をり
ことり などする。≫
☆写真は、雨の日 スイス レマン湖の船の窓からシオン城。
  

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まどみちおの人生処方詩集

    ケストナー3j
(承前)
 さて、ケストナーの「人生処方詩集」と同じタイトルの詩集があると知りました。
 まどみちおの詩を市河紀子が選詩したものです。「詩と絵 まどみちお」(平凡社)とあります。
 かつて、平塚美術館で「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展で、まどみちおの絵を見たことがありますが、この本には、抽象画をはじめ、カットも掲載されています。また、工藤直子や谷川俊太郎他の文も掲載されています。

 で、ケストナーと同じタイトル「人生処方詩集」というのは、選者市河紀子が、ケストナーの「人生処方詩集」(小松太郎訳 岩波文庫)に想を得て独自の章立てに沿って選んだとありました。
 例えば、「自分が子どもだったことを忘れそうだったら」「さびしかったら」「生きるのがつらくなってしまったら」「歳をとったなあと感じたら」「眠れない夜に」などの章にいくつかの詩が選ばれているのです。
 「ぞうさん」は「人と自分をくらべてしまったら」のところに入っています。

 カ・リ・リ・ロの好きな「おみやげ」➡➡➡ ・→→→は「やさしい気持ちになりたかったら」の章にありました。
 同じ章には、こんな詩も
「人間の目」
≪よちよち歩きの小さい子たちを見ると
人間の子でも 
イヌの子でも
ヤギの子でも
どうしてこんなに かわいいのか

ひよこでも
カマキリの子でも
おたまじゃくしでも
ほほずり させてもらいたくなる

ほんとに どうしてなのか
生まれたての 生命(いのち)が
こんなに なんでも
かわいくてならなく思えるのは

いや こんなに
かわいくてならなく思える目を
私たち人間がもたされているのは

ああ むげんにはるかな 宇宙が
こんなに近く ここで
私たちに ほほずりしていてくれる

お手本のように!≫(続く)
 

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ケストナーの人生処方詩集

     ルチェルンj
(承前)
「人生処方詩集」(エーリヒ・ケストナー作 小松太郎訳 岩波文庫)
 ドイツで焚書されて以来、ドイツでは出版されなかったこの詩集もスイスで自選詩集「エーリヒ・ケストナー博士の抒情的家庭薬局」として出版され、その初版の訳が、この「人生処方詩集」であると、訳者あとがきにあります。

 処方された詩の多くには、何らかの皮肉やメッセージが見え隠れして、ちょっと苦い薬の処方詩のような気がします。
 が、中には、「待ちかねた春が来た」のような詩も・・・
≪なるほど そうだ 春が来ているのだ    
木々は だらりと 枝を垂れ 窓は おどろいている   
空気はやわらかい まるで 綿毛でできているよう
そして ほかのことは みんな どうでもいい
(中略)・・・・・・
よろしく また 散歩にでるべしだ
青も 赤も 緑も すっかり 色があせてしまった
春だ 地上が 新規に 塗りかえられるのだ
人間は ほほえむ おたがいが 理解しあうまで
(後略)・・・・≫

そして、月給をとる身分になった彼が母親と旅に出た時の詩「ひとり者の旅」は、母親との良好な関係が楽しい詩です。
≪ぼくは 母と 旅行をしている・・・
ぼくらは フランクフルト バーゼル ベルンをとおり
ジュネーブ湖に来た それから そのへんをひと回りした
ときどき 母は 物価をののしった
今 ぼくらは ルチェルンに来ている

スイスはきれいだ ひとは それになれなければならない
ひとは 山々に登り 湖水をわたる
あまりに美しいので ときどき お腹が痛くなる
(中・後略)・・・・・・・・・≫
(続く)
☆写真は、スイス ルチェルン 右奥の山はリギ山

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私生活の治療

ケストナー2j
(承前)
 「人生処方詩集」(エーリヒ・ケストナー 小松太郎訳 岩波文庫)

 「五月三十五日」や、「ロッテ」や「エーミール」など、ケストナーのほどんどの児童文学の挿絵を手掛けているのは、ワルター・トリヤーですが、ケストナーの「人生処方詩集」は子どもに向けて書かれていないからか、トリヤーではなく、エーリッヒ・オーザーの挿絵がついています。
 そして、「人生処方詩集」は、ポジティブな児童文学に比べ、少々重い。
 
 ケストナーは、ドイツに生きナチスに抵抗し続けた作家です。焚書を免れた彼の児童文学の中ですら、メッセージを読み取ることができます。この機会に、いえ、こんな時代だからこそ、大人向きに書かれたケストナーを、もっと読んでみなくちゃと思います。

 さて、ケストナーの「人生処方詩集」の意図はどこにあるのか。彼は序文でこう述べます。
≪なぜなら家具つき貸間住まいのやるせないさびしさに苦しむ者や、冷たい、しめっぽい、灰白色の秋の夜になやむ者は何を飲んだらいいのか。居ても立ってもいられない嫉妬におそわれた者は、どんな処方によったらいいのか。世の中がいやになった者は何でうがいをしたらいいのか。結婚生活に破綻を生じた者にとって、なまぬるい罨法がなんの役にたつか。電気ぶとんでどうしろというのか。   さびしさとか、失望とか、そういう心のなやみをやわらげるには、ほかの薬剤が必要である。そのうちの2.3を挙げるなら、ユーモア・憤怒・無関心・皮肉・瞑想、それから誇張だ。これらは解毒剤である。それにしても、どの医者がそれを処方してくれるだろう。どの医者がそれを瓶に入れてくれるか。    この本は私生活の治療にささげられたものである。・・・・・≫

 この序文にある、≪ユーモア・憤怒・無関心・皮肉・瞑想、それから誇張だ。≫こそが、ケストナーの中核をなすものなのだと考えます。
 そして、≪この本は私生活の治療にささげる≫と、わざわざ≪私生活≫と指し示すところが、ケストナー独特の皮肉で、本当はもっと大きな力への処方にしたいと思っていたはずだと思いながら、読みました。(続く)

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だれだっていつまでも子どもでいられるわけではありません。

       イヴォアールj
(承前)
 「五月三十五日」(エーリヒ・ケストナー 高橋健二訳 岩波)の巻末には、「叙情的家庭薬局詩集」から、いくつかの詩が掲載されています。
 この「叙情的家庭薬局詩集」⇒⇒「人生処方詩集」(小松太郎訳 岩波文庫)こそが、ナチスに焚書されながらも、スイスで自選詩集として出版され、今も生きるものです。

 「五月三十五日」の訳者高橋健二のあとがきによると、
≪人間の社会をよりよくするために、一番大切なのは、人間が子どもの心をなくさないことだと、ケストナーは繰り返し訴えています。≫≪「悪い醜い大人も、子どもの時は、非の打ちどころがなかった」のだからです。≫≪しかし、だれだっていつまでも子どもでいられるわけではありません。ケストナーは、大人を反省させ、子どもの頃を思い出せ、よりよい世の中に協力させようとします。また、大人を慰め、励まそうとします。それで、ケストナーは自分の詩を、お薬のように役に立つ実用詩と呼んでいます。そして「叙情的家庭薬局」という詩集を作っています。それを開けてみると、「貧乏にあったら」これこれの詩を読みなさい、という具合に「さびしさがつらくなったら」、「お金がなくなったら」「うちが恋しくなったら」、「おかあさんを思い出したら」、「自信がぐらついたら」、「お天気がわるかったら」というような見出しがついています。・・・・≫

 そして、巻末、最後に掲載されている警句が、「道徳」というタイトルのこれ。
≪よいことなんて、世の中にはない。よいことをおこなうことがあるだけだ。≫(続く)
☆写真は、レマン湖フランス側イヴォアールの教会

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さかさの世界

     さかさまj
(承前) ケストナーの「五月三十五日」 (高橋健二訳 岩波)は、かなり荒唐無稽の話。今読み返すと、ピーと音が入るくらいの様々な表現でも訳されています。それにまた、よく知らなかった(はずの)歴史的な人物も次々出てきて、子どもの頃読んだときは、理解できずに読み飛ばしたところも多そうです。

 さて、夏にここでも書いたスロボドキンの「さかさ町」と同じ町が、「五月三十五日」にもあります。ケストナーの「さかさ世界」は、スロボドキンのさかさ町より、シニカルで大人っぽいとはいえ、発想は同じです。

≪往来は非常ににぎやかでした。書類カバンをわきの下にかかえ、シルクハットをかぶった少年たちが見えました。モダンな服装をして散歩したり買い物したりしている少女たちが見えました。見えるのは子どもたちばかりでした!「ごめんよ!」とコンラートはいい、自動車に乗ろうとしている少年をぐっとつかまえました。「ねえ、君たちのところにはおとなはいないのかい?」「いるとも。」とその少年は答えました。「だが、おとなはまだ学校にいるよ。」そういって彼は自動車に乗り、コンラートにうなずきかけ、「ぼくはいそいで取引き所に行かねばならない。」とどなりました。・・・・≫

 唐突に、この本を持ち出したのも、岩波文庫のケストナー「人生処方詩集」(小松太郎訳)を読んだからです。(続く)
☆写真は、東京 新江戸川公園の池

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五月三十五日

          ケストナー1j
 ケストナーの児童文学で一番初めに読んだのは「五月三十五日」(高橋健二訳 ヴァルター・トリアー絵 岩波)だったと思います。

 理由は簡単。カ・リ・リ・ロが、五月生まれだからです。そのあと、「エーミールと探偵たち」「エーミールと三人のふたご」「点子ちゃんとアントン」「ふたりのロッテ」「動物会議」そして、かの「飛ぶ教室」と続いていくわけですが、ともかく五月生まれとしては、5月35日!こんなんありえへん!*すべて 岩波書店刊 全集は高橋健二訳 少年文庫版は池田香代子訳

 50年も昔、日本の子どもの本には、なかった(と思える)このナンセンス話に、当時は(今も)ぎょぎょっ!
 その頃、すでに、「長くつ下のピッピ」や「エルマーのぼうけん」にも出会っていたのですが、このケストナーほど、すっ飛んでない、ついていける世界でした。

 が、タイトル「5月35日」という「初めからこれは嘘」という宣言だからでしょうか。ぎょぎょっとしながらも、お話にはすっと入っていけました。特に、コンラート少年とリンゲルフートおじさんと馬(ネグロ・カバロ)が出会うところや3人(!)で過ごすところは、なんの不思議も感じませんでした。

≪「それより部屋へもどろう!」ネグロ・カバロは楽しそうにいななきました。そこで三人はぶらぶら部屋にもどり、詩人あわせのカルタ遊びをしました。馬は思うぞんぶん勝ちました。古典詩人の名まえと作品をすっかりそらでおぼえていたのです。それにひきかえ、リングフリートおじさんはまるきりだめでした。なにせ薬剤師でしたから、詩人がどんな病気にかかっていたか、何でなおり何で死んだかということは、なるほどよく知っていましたが、小説や戯曲は残らず忘れていました。信じられないくらいですが、彼は、シラーの「鐘の歌」をゲーテの作だと、ほんとにいいはりました!・・・・・≫

 うーん、この難しそうなゲーム、正解は覚えているか、本で探すようです。(続く)

☆写真の挿絵、シンプルなものですが、誰が、今、優位に立っているか、わかるでしょう。

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