みんなみすべくきたすべく

紅葉より団子

   もみじ2j
春に行った鞍馬口の本法寺と妙顯寺➡➡。満開の桜、しかも京都なのに、人が少なくて、いいお花見だったので、紅葉のこの季節にも、行ってみました。京都のたいていの桜の名所は、紅葉も期待できるのです。(下の写真は、前に枝垂桜。後ろに紅葉)
はるにはしだれj
 春には行かなかった妙覚寺も合わせて、三つのお寺が、夜には、紅葉のライトアップをしているようですが、平日の昼間、やっぱり、全然、人が居なくて近辺静かです。
 桜も紅葉も,どこで見ても綺麗けれど、京都の歴史と共にある桜や紅葉は、また格別。

 春に次いでなので、今度は道にも迷わず、楽しみました。裏千家と表千家の並ぶエリア➡➡で、ちゃーんと美味しいものも食べましたしね。花より団子、紅葉より団子。(写真は、釜揚げ団子です。)(続く)
もみじj

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ラモーのメヌエット

    ドーデ―j
(承前) 「風車小屋だより」(ドーデ― 桜田佐訳 岩波文庫)の中で一番可笑しかったのが、「三つの読唱ミサーークリスマスの話」➡➡でしたが、この短編は、ドーデ―の「クリスマス物語」の中の一篇であると解説されています。
 そして、その「クリスマス物語」の中のもう一篇が「マレー街の降誕祭の祝宴」という短編で、「月曜物語」(ドーデ― 桜田佐訳 岩波文庫)に入っています。

 こちらは、ディケンズの「クリスマスブックス」の中の「クリスマスキャロル」を意識したのじゃないかと思わせる内容です。
 タイトルの「マレー街・・・」からして、スクルージ&マーレイ商会のマーレイを思いだしたし、かつての館の住民たちが幻想(幽霊?)として現れるところもよく似ています。ただ、クリスマスキャロルより短いお話なので、その場の雰囲気は伝わるものの、スクルージの心の変遷を描いたものに比べ、二代目マジェステの心の深みを読み取るまではできません。しかしながら、ロンドンの幽霊やそれが見せたもの、フランスの幽霊とその登場場面の違いは楽しめるかと思います。

 かつて繁栄していたネーモン家のお屋敷が今や炭酸水製造者の倉庫兼工場兼住宅となっていて、その頃の紋章は炭酸水の商標に。
 そんな屋敷に、クリスマスの祝宴を終え、鼻歌を歌いながら家路についたマジェステ氏。
 そこで見たものは、
≪・・・・次第に炭酸水のあわが彼らを元気づけ、興奮させ、彼らに踊りたい気持を起こさせた。メヌエットが組み合わされた、ネーモン氏が招いた四人のじょうずなヴァイオリンひきがラモーの曲を始めた。全部が三連譜で、急調の中に軽い憂うつなところがある。美しい老婦人たちが静かにまわって荘重な楽の音に合わせてあいさつするのは見ものだった。この音楽のために彼女たちのお化粧も衣装も若返り、また、金をちりばめた胴着、金の飾りのあるの礼服、ダイヤモンドの留め金のついたくつも若やいだ。羽目板までがこの古曲を聞いて生き返ったように見える。二百年も前から壁に閉じ込められている古い鏡もこの歌が分かると見え、すっかり傷んで角が黒くなってはいるがものやわらかに輝いて、踊る人たちのしみじみした昔をしたう淡い姿を映している。こういう典雅さの中で、マジェステ氏は当惑してしまった。彼は箱の後にうずくまってながめている・・・・だんだん夜があけてきた。倉庫のガラスをはめた戸口から、広場が白んできて、それから窓の上、その次ぎに部屋の一方がすっかり明るくなるのが見えた。光が差し込むにつれて、人々の姿が消えて行き、見分けられなくなって行った。・・・・・≫

 それで、このラモーのメヌエットなる曲を知らなかったので、WEBで聴いてみましたら、うーん、すっかり気分はバロック。(続く)

☆写真は、スイス グリュイエール城

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バラゲール僧正の物語

台所j
 (承前)
「風車小屋だより」(ドーデ―作 桜田佐訳 岩波文庫)
 ドーデ―のユーモアと自然描写が魅力の短編が入っている「風車小屋だより」ですが、
 一番可笑しかったのが、「三つの読唱ミサーークリスマスの話」
 クリスマスのミサのあとの、ごちそうの話を聞いた僧正。
 その日、悪魔が僧正をうまく誘惑し、恐ろしい「どん食」の罪を犯させるかのように、話は進みます。
≪僧正は城じゅうの小さな聖器室で式服を着終った。そしてこのうまそうな有様を聞かされてすっかり心が乱れ、着物を着替えながら繰り返しこうつぶやいた。七面鳥の丸焼き・・・・金色のこい・・・・・こんなに大きなあゆ!・・・・≫

≪急ごう、急ごう・・・早く終われば終わるほど早く食事にありつける、と言っているように聞こえるあのやかましい小鈴ではないか。とにかく、この悪魔の鈴が鳴るたびに、僧正はミサを忘れてレヴェイヨンの事ばかり考える。ざわめく料理人、火の真赤におこっているかまど、ふたのすき間から立ちのぼる湯気、そしてこの湯気の中に、腹いっぱい松露を詰めて張り切った、二羽のすばらしい七面鳥・・・≫

≪三番目のミサが始まる。食堂に行くためには、もうあとわずか歩けばいいのだ。ところが残念!レヴェィヨンが近づくに従って、、不幸にも、バラゲール僧正はとても食べたくてがまんしきれなくなった。幻影はますますはっきりと現われて、金色に輝くこい、蒸焼の七面鳥が、それ、そこに・・・目の前に・・・ああ!・・・さらには湯気が立ち、ぶどう酒は薫る。そして、小さな鐘は、やたらに鈴を振って叫ぶ。ーー早く、早く、もっと早く!・・・しかしどうして、もっと早くできる事ができるか!くちびるを動かすばかり。はっきりした言葉は言われない…早くやるには神様をだましてミサをごまかすのでなければ・・・・・・・・ところが、それをしたのだ、この不届き者は!・・・誘惑の加わるにつれて、まず一節とばし、続いて、(後略) ≫(続く)
☆写真は、スイス グリュイエール城の厨房

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こどものとも

かきj
(承前)
 「おおきくなったら」⇒⇒にしても、「しゅっぱつ しんこう!」⇒⇒にしても、「くだもの」⇒⇒や「いちご」⇒⇒にしても、うちの一代目は、月刊の福音館こどものとも年少版でした。
 いずれも、セロテープで補強しているものの、要はボロボロ。
 それは、今に始まったことではなく、この家に引っ越してくる前の家でも、そんな状態でした。
 
 その収納の多い一戸建ての家から、収納の少ないマンションに引っ越すとき、たくさんの本を整理処分しました。
 そんな中、子どもたちの誕生から購入し続けていた「こどものとも年少版「」他、「「かがくのとも」や「たくさんのふしぎ」に至るまでのペーパーバックの月刊誌は、傷みもあるし、玉石混交でもあって、整理処分対象になりました。
 が、子どもたちに段ボール箱いっぱいのペーパーバックを見せると、
 「うーん、これは捨てたらだめ」
 「これは大事にしなきゃ」
 「あ、これこれ 懐かしいなぁ」・・・
 などと、三人三様で、何冊かずつ選びだしたものですから、さきの「おおきくなったら」などなどは、今も我が家にあるというわけです。

 その後、我が30歳代の3人の子どものときにはなかった赤もちゃんえほんというジャンルが、日本の市場にも登場し、月刊「こどものとも0・1・2」(福音館)というものもでました。これは、ページ数は少ないものの、ボードブック(厚紙でできている)なので、購入し続けたら、もっと凄いことになっていただろうと思います。

☆写真上は、1週間に一度通る道に、たわわに実る柿、なのですが、もう3週間も誰も鳥も食べずに、ずいぶん熟しています。渋柿だろうか・・・写真下も、同じく1週間に一度通る道の山茶花。遠く向こうは大阪平野。

かき2j

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絵本「いちご」

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(承前)
 「しゅっぱつ しんこう!」(山本忠敬さく 福音館)⇒⇒は、ボロボロになったペーパーバックの年少版こどものともでしたが、孫のために新しい1冊を購入。
 「くだもの」(平山和子 福音館⇒⇒も然り。
 が、未だ、ボロボロのままの1冊ながら、孫のお気に入りが、「くだもの」と同じ作者の「いちご」(平山和子 福音館)です。
 ペーパーバックの、その本も、他の二冊同様、表紙と中身が外れたもののですから、セロファンテープで修理。そして、経年劣化したテープは色づき、凄い1冊に。
 この絵本がボロボロになったのは、長女(孫の母親)が大好きな絵本だったからです。
 そして、いま、長女(母親)が読むその中身に、劣化はなく、最後のページで、いちごがみんな「さあ、どうぞ」「さあ、どうぞ」「さあ、どうぞ」・・・と、言い出す楽しさは、やっぱり、そのまま。いちごの好きな子どもの心を誘います。
 
 今は季節外れのいちごですが、先日、冷凍いちごで、ヨーグルトにかけるソースを作ってみました。すると、どうでしょう。秋の香りとはまったく違う、苺の甘い甘い香りが漂いました。
 いちごの好きな大人の心を誘う香りでした。「さあ、どうぞ」
☆写真は、英国 ケルムスコットマナーのいちご⇒⇒

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しゅっぱつ しんこう!

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「しゅっぱつ しんこう!」(山本忠敬さく 福音館)

この絵本のことを書くのは、30年以上ぶりかもしれません。今や、30代半ばを過ぎた長男が、大好きだった絵本です。うちのは、子どものとも年少版のペーパーバックですから、ボロボロもボロボロ。
 
 「しゅっぱつしんこう!」はおかあさんとみよちゃんが、特急列車に乗って、急行列車に乗り換えて、普通列車に乗り換えて、おじいさんの家に行く話です。新幹線さえ出てきません。自動改札でもなく、みよちゃんが手渡しで、改札の駅員さんに切符を見せて駅にはいるところから始まっています。うちは、当時、自家用車ではなく、電車利用だったということも大きな関心につながっていたかもしれません。

 さて、先日、同じ福音館こどものともの新刊で、ロンドン二階建てバスを扱ったペーパーバックが出版されたとき、この30年以上の年月を思い、「隔世の感」があるなぁ・・・と、思いました。絵本のなかの街は、ロンドンという、異国の地。おとうさんとおでかけに二階建てバス。乗車は、カードをかざし、「チケットプリーズ」と車掌さんが回ってくると、マシーンにカードをかざします。ロンドン市内観光の雰囲気も漂う絵本です。

 そこで、その「隔世の感」の新刊を長男に見せますと、「これって、ただ乗ってるだけのお客さんやん」と言います。確かに、カードをかざし、窓から見えるものを楽しみ、日本ではほとんど見ることのない赤い二階建てバスに乗っているお客さんの男の子とお父さん。
 長男は続けます。「これより『しゅっぱつ しんこう!』やろ。あれは、いい絵本や。自分が運転手のような気分になれる。」「あの『出発 進行!』という言葉がええねん」

 確かに…英国の二階建てバスの二階の一番前の席は、眺めも良くわくわくするスペースです。が、子どもは、移り変わる景色より、乗り物そのものが、一番の関心事なのだと思います。
  
 うちでは、長男以外の二人の女の子は、長男ほど、この「しゅっぱつ しんこう!」を読んでいなかったような気がします。男の子は乗り物好きやからね、長男は保育所に電車で通っていたからねなどと、勝手に思い込んでいました。

 ところが、孫の女の子、この「しゅっぱつ しんこう!」が大好きなのです。何度も読めとせがみます。特に、「出発進行!」と文の中で3度繰り返すのですが、その度に、小さなこぶしをあげ、「しんこー!」と言います。自家用車移動で電車をほとんど利用したことのない子が、「しゅっぱつ しんこう!」の絵本を楽しむのです。

 おじさん(長男)がいうように「出発進行!」という言葉の臨場感。それを楽しんでいるかのようです。(続く)
☆写真は、「きゅうこうれっしゃ しゅっぱつしんこう!」のところで、こぶしをあげています。

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海を見つめることによってすべてを忘れ

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(承前)
 「風車小屋だより」(ドーデ―作 桜田佐訳 岩波文庫)
 この短篇集には、自然描写が生き生きと描かれているものも多く、また、自然の中で感じる喜びを伝えてくれるものもあります。
「サンギネールの灯台」
≪・・・・ミストラルやトラモンターヌのあまり強くない時は、かもめ、いそひよどり、つばめなどを友に、波の面にすれすれな二つの間へ行ってすわる。そうして、海を見つめることによってすべてを忘れ、快く身を打たれたようになって、ほとんど終日ここで過ごすのであった。諸君もおそらく御存じであろう。あの魂の美しい酔い心地を。考えるのでもない、夢を見るのでもない。身も心も我を逃れ出で、飛び去り、散り失せる、我身は、水に潜るかもめ、陽を受けて二つの波頭の間に漂う水のあわ、遠ざかり行くあの郵便船の白い煙、赤い帆かけたさんご船である。この波の珠と砕け、かの雲の一片(ひとひら)と流れる。すべてありとあらゆる我ならぬものに・・・・ああ、この島に半睡(まどろみ)と忘我の快い時をいかばかり過ごしたことか!・・・・   風の荒れる日は、みぎわには居られないから、隔離所の中庭にこもった。;;や野生のにがよもぎの豊かに薫る、ささやかな寂しい庭であった。ここで、古い壁によりかかって、私は静かに、荒廃と悲哀のほのかな香りの身に襲いかかるにまかせた。その香りは、古代の墓地のように口の大きく開いた石造りの小屋の中を、陽の光とともに漂っていた。時々、何かとびらをたたく、草の中を軽く跳る・・・それは風を避けて草をは食みにくる一匹のやぎであった。私を見て驚いて立ちどまる。そうして、根が生えたように、目の前にじっと立っている。活発な様子。角を高く立て、あどけない目で私をながめながら・・・    五時ごろになると、番人のメガフォーンが夕食に呼ぶ。そこで私は、海にのぞむ急な斜面に生い茂った木立の細道をたどる。そうして、登るにつれて広がるように見える。水と光の無限に広い水平線を一足ごとに振り返りつつ、ゆっくりと灯台の方へ帰るのである。≫*まんねんこう・・・まんねんろう。ローズマリー。

 目に見えるような描写は、読んでいる者をその汀に連れて行き、見えるもの、聞こえるもの、香るものを身近に感じさせてくれます。特に、最後の一行は、自然の雄大さと、心の穏やかさが表現されています。(続く)
☆写真は、芦屋川河口。

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風車小屋だより

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(承前)
 「風車小屋だより」(ドーデ―作 桜田佐訳 岩波文庫)も、30年前に購入した文庫ですが、これは、多分絵本の「スガンさんのやぎ」(ドーデ―作 岸田衿子訳 中谷千代子絵 偕成社)から、近づいた文庫だったと思います。
 「スガンさんのやぎ」・・・うーん、これは昔話風とはいえ、結末が子どもの本として、どうなんだ?
 それに、中谷千代子の描くやぎの優しい画風はいいものの、彼女の作品に多い突っ立ったままの登場人物は、物語る絵本として、どうなんだ?などと考えた結果、原作は?と思って読んだのだと思います。

 結果、原作が「おおかみは子やぎに飛びかかって、彼女を食べたのである。」となっているものの、絵本では、「動かなくなった」と書くことで、わかるでしょ、勝手なことしたらどうなるか、狼と何時間も戦ったとしても子ヤギではね・・・・と、直接的な表現で終わっていません。
 あんなに頑張ったのに・・・現実はね・・・・という後味が悪い。まだ、原作の方が、すっきりわかりやすい。これは、昔話にも言えることですね。
***「スガンさんのやぎ」の絵本は西村書店からエリック・バトゥー絵(ときありえ訳)ででも、出ています。こちらは、お話も原作にかなり近く、絵も美しいものの、やっぱり、原作の「はア暁方にゃ、おおかみめ、やぎっ娘を食っちまっただア。」という最後に、ぴったりという絵ではないと思います。

 「風車小屋だより」には、「スガンさんのやぎ」以外にも20以上の短編が入っている文庫本です。モーパッサンやモームのように人生の機微や心理に近づく面白さというより、美しい自然描写とちょっとしたユーモア(エスプリというのか?)を楽しむ短篇集です。

  20余年放置されていたプロヴァンスの風車小屋を買い取って、そこに住み始めたドーデ―。
 パリに住む友人に手紙を書いて「まあ、きいてくれたまえ」と報告する形をとる「風車小屋だより」。
 パリとは違う、自然の美しさに触れ、あるいは、土地の生活に触れ、新鮮な眼差しで書いています。(続く)
 ☆写真は、スイス シーニッゲプラッテ付近、斜面の牧草地

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アルルの女

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  「アルプスのタルタラン」(ドーデ―作 畠中敏郎訳 岩波文庫)➡➡の後、「アルルの女」(ドーデ―作 桜田佐訳 岩波文庫)を読みました。これも、20年近くほおっておいた文庫本。

 ビゼーの「アルルの女」組曲のもとになった戯曲ですが、ドーデ―の書いたものと、ビゼーの曲が、ぴったりという感じでないのは、お話の方は、結局、姿を現さないアルルの女以外の行動や心の動きも読み取るのに比べ、ビゼーの方は、可視化されていない「アルルの女」を表現しているようで興味深い。(といっても、ビゼーの「アルルの女」に詳しいわけではないけれど)

 いずれにしても、「アルルの女」というのは、悪女・・・ということになっています。フランス文学をここ何年か読むようになって気付くことは、多くの場合、どこそこの悪女を設定し、主人公の男性に起こる問題の根本は、悪い女がいたからやん・・・という設定が多いと思われます。この後、読んだ「サフォーパリ風俗」(ドーデ― 朝倉季雄訳 岩波文庫)も、然り。
 引っ掛ける方も悪いけど、引っかかるのも思慮が浅いなぁ・・・などという視点を100年以上も前の男性作家が持っているわけもなく、あるいは、当時の読者の多くも、やっぱり、悪女はあかんなぁ・・・と。
 ジェンダーにうるさいわけではありませんが、やっぱり、こと男女間に関しては、その単位で、平等だと思うし、そうでなければならないはず。

・・・と、ぶつぶつ言うより前に、書いておかなくちゃいけないのが、端役なのに、結構重要な役回りの「ばか」と呼ばれる子どもに、羊飼いのおじいさんが、おはなしをしていた設定なのですが、それが絵本にもなっている「スガンさんのやぎ」(ドーデ―作 岸田衿子訳 中谷千代子絵 偕成社)。
 夜っぴておおかみとたたかったスガンさんのやぎ。夜が明けたら、おおかみに食べられてしまったスガンさんのやぎ。「アルルの女」での挿話として、示唆に富むのか、単に意味深なのか。
 「スガンさんのやぎ」の掲載されている「風車小屋だより」(ドーデ―作 桜田佐訳 岩波文庫)も、久しぶりに読んでみました。(続く)
☆写真は、レマン湖畔ヴェヴェイの本屋さん

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まるで長くて はでな吹き流し

北斎2j
(承前)
 写真上は、北斎の富嶽三十六景「隅田川関屋の里」 下は、ランドルフ・コルデコットの「ジョン・ギルピンのゆかいなおはなし」(ウィリアム・クーパー文 ランドルフ・コルデコット絵 吉田新一訳 ほるぷ)の一場面。
 北斎(1760~1849)は、長生きで、しかも、最後まで力を発揮できた日本の画家。
 ランドルフ・コルデコット(1846~86))は、長生きとは言えない英国の画家。

 片や、日本の浮世絵師。片や英国で、エドモンド・エヴァンスという彫版師(彫師、印刷)のもと、仕事をした挿絵画家。
 馬の疾走の絵ですから、特段、ジャポニズムの影響云々をかざさなくてもいいと思いますが、北斎の富嶽三十六景「隅田川関屋の里」を見ると、コルデコットを思い出すのです。

 そこで、今回、どの絵だったかな?と「コルデコットの絵本 復刻版 全16冊」(福音館)を探してみました。
 3頭の馬の疾走だから、「3人のゆかいな狩人」(The Three Jovial Huntsman)だと勝手に思い込んでいました。が、何度か、3人の狩人たちが馬で疾走はするものの、北斎そっくりという感じではありません。
 それに比べて、「ジョン・ギルピンのこっけいな出来事」(ジョン・ギルピンのゆかいなおはなし)は、馬は一頭ながら、ジョン・ギルピンがマントを翻して馬で疾走するシーンが、北斎のそれに似ているのです。

 北斎にしても、コルデコットにしても、生き生きと物語る絵という点で共通していて、どちらも何度見ても、楽しい。

≪・・・「まあ そういそぎなさんな!」と彼が声をかけても効き目はなく たずなをあれこれ引いたけど だく足は すぐギャロップになる    こうなると ギルピンは前かがみ  まっすぐにすわってはいられず  両手で たてがみに しがみつく 力いっぱいしがみつく   馬のほうは そんなぎょし方を されたことがないので 背の上に 何をのせているのか ますます疑いをつよめた   ギルピンは  もう命がけ 帽子とかつらが吹っとんだ 出かけるときにはこんあ目に あおうなどとは思わなかった    風を切るので マントはばたばた まるで長くて はでな吹き流し あげくのはてに ボタンははずれ マントはさっと吹きとんだ・・・・≫
(復刻版解説書 吉田新一訳)

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