みんなみすべくきたすべく

新アラビヤ夜話

カルチェラタンjj
(承前)
  この際、読んでなかったこの薄っぺらい岩波文庫も読んでおかなくちゃ・・・「新アラビヤ夜話」(スティーヴンスン作 佐藤緑葉訳 岩波文庫)

 「南海千一夜物語」と「新アラビヤ夜話」と言う題名から、勝手に同じシリーズかと勘違いしていたのですが、前者は、南海の話で、後者はそれこそ、アラビヤの千一夜物語に着想を得て、いろんな話が、入っています。・・・といっても、岩波文庫には、3篇のみ。「醫師と旅行鞄の話」「帽子箱の話」「若い僧侶の話」

 「新アラビヤ夜話」(南條竹則・坂本あおい訳 光文社文庫)には、もう少しお話が入っています。
 こちらの光文社文庫には、「自殺クラブ」-クリームタルトを持った若者の話・医者とサラトガトランクの話・二輪馬車の冒険 「ラージャのダイヤモンド」-丸箱の話・若い聖職者の話・緑の日除けがある家の話・フロリゼル王子と刑事の冒険—-ーの7篇が入っています。

 で、この2冊とも、とっくの昔に我が本棚に鎮座していたのに、ちゃんと読んでいなかった。
 が、なにゆえ、この2冊が・・・
 サマセット・モーム「人間の絆」にこの本が出てくるのです。「人間の絆」(上中下)には、絵画も本もたくさん紹介されて、いずれ読み返さねばと思っているのですが、その中に、
 苦境に立つ主人公フィリップが公共図書館で借りた本が、この「新アラビヤ夜話」。
≪・・・公共図書館に行って、飽きるまで新聞をいくつも読み、それからスティーヴンソンの『新アラビヤ夜話』を借り出した。しかし、目で活字を追っても、少しも頭に入らない。考えるのは、自分の苦境のことばかりだった。あまり長い時間同じことばかり考え続けたので、頭が痛くなった。とうとう新鮮な空気が吸いたくなり、図書館を出て、グリーン公園に行って芝生の上に寝転がった。・・・≫

 そうですよね。自分のことで精一杯のときは、活字を追うのは、ままならず、ましてや、想像力を駆使して、お話にのめりこむということもできない。読書ができるのは、健全な証拠ということかもしれない。
 ということで、「人間の絆」の主人公フィリップが読めなかったのは、「新アラビヤ夜話」が面白くなかったからではありません。(続く)

*「人間の絆」上中下(サマセット・モーム作 行方昭夫訳 岩波文庫)
☆写真は、パリ サンジェルマン付近の水ギセルの店。

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われは フランソア・ヴィヨン、學徒成、

ノートルダムj
(承前)
 「ヴィヨン全詩集」(鈴木信太郎訳 岩波文庫)
 さて、ステーヴンソン「その夜の宿」の主人公フランソワ・ヴィヨン。パリ大学の修士で詩人で悪党。ヴィヨン略年表によると、【1463年1月以降、ヴィヨンに対する公正な言及は見出されない。…一般にはこの以後あまり長くは生きていなかったと信じられている。】とあり、最期も不明のような中世の人。

 それで、この「ヴィヨン全詩集」は訳者鈴木信太郎氏が、力を注いで生まれた結晶のようで、巻末の「後記 私のヴィヨン」もさることながら、全体の三分の一以上をしめる「後註」の細かさにも驚かされます。

 この詩集を読んでみると、ヴィヨンが悪たれながら、結局は死を恐れているのが読み取れます。ステーヴンソン「その夜の宿」の老人が諭したようなことから、ついつい離れるものの、深層ではわかっていたはずなのに・・・・と、上面だけの読者にはそう思えます。

 「フランソア・ビヨン形見の歌」40篇「ヴィヨン遺言詩集」190篇近く。もっと、素直に人生を謳歌した詩も作れただろうに・・・

・・・で、「形見の歌」の冒頭です。
≪惟歳(これとし) 四百五十六、   われは フランソア・ヴィヨン、學徒成、   落着き払って 想ふやう、   馬衘(くつばみ)噛んで 一心に、 傍目(わきめ)もふらず、   己が所行を 顧みよう、   羅馬の賢人、大學者 ヴェジェスの書(ふみ)にあるやうに、   然もなくば、身の過ちの因(もと)となる・・・≫
☆写真は、パリ ノートルダム大聖堂 後ろの屋根の上

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その夜の宿

小鬼12j
(承前)
「マーカイム・壜の小鬼 他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳)の巻頭に入っているのが、「その夜の宿-フランソワ・ヴィヨン物語ー」です。
 詩人フランソワ・ヴィヨンのことは知りませんでした。
 ヴィヨンは詩人であり、パリ大学の修士号を持つ中世末期の人ですが、かなりの無法者で、スティーヴンソンの描いたのは、史実からヒントを得たフィクションです。

≪時は、1456年11月の末である。≫から始まるこの作品は、ヴィヨンを含めた悪党たちのもめごとで殺人沙汰が起り、各人がその場から離れ、行く当てのないヴィヨンは、見知らぬ老人の家に…
 盗みを働いてその日その日の命をつなぐ若者と、主君のために命を戦いぬいてきた老人。その二人の問答、対話が、話の後半です。

 解説によると、1456年11月末という設定には、史実と関わりがあるとしています。
――この一か月後のクリスマスの夜、悪党仲間と示し合わせて神学校に忍び込み、大金を盗み出してパリから姿を消し、その後何年かはパリに戻れなかった――とありスティーヴンソンは「その夜の宿」の中で、ヴィヨンの惨めな未来を予知する問答を表現したからです。

 家に悪党を招き入れた老人は、こう諭します。
≪・・・あんたは小さな欲望に心を煩わせるが、唯一の大きな欲求を忘れている。最後の審判の日に虫歯の治療をする人のようなものだ。名誉や、愛や、信頼のようなものは食い物や酒よりも高貴なだけでない。なお、望むべきもの、これなくしてはさらにつらい思いをするものだと私は思う。できるだけわかりやすく話しているつもりだ。あんたは口腹の欲を満たすのに夢中で、心のなかのもう一つの欲求を忘れているのではないかな。だから生きる喜びを損ない、いつも惨めな思いをすることになるのでは?≫

 が、しかし、ヴィヨンは苛立って、叫び、反発し・・・1456年のクリスマスの夜・・・ということになるのです。(続く)
☆写真は、スイス チューリッヒ 駅前

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生涯の核そのものとなっているたくさんの小さな出来事

渓谷j
(承前) 「マーカイム・壜の小鬼 他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳)に入ってるのが、殺人を犯した人の心理的葛藤、そして、その時の流れと情景が描かれている表題の「マーカイム」。この話には、もう一人の自分と思われる人物が登場し、現代の作家の作品だと言ってもいいような古さを感じさせない設定です。

 また、「ねじれ首のジャネット」という、表題からして、怪奇ものというのがわかる作品も入っています。
≪スコットランド方言で書かれた怪談でスティーヴンソンの年長の友人ヘンリー・ジェイムズがこの短編の初出を読んで「十三ページで書かれた傑作」と絶賛したらしい・・・≫(訳者解説より)

 この怪奇ものより、先の心理ものより、個人的には「水車小屋のウイル」という短編が気になりました。
 ただ、淡々と粛々と生きた、一個人のフィクションです。渓谷地帯で、養い親に育てられた孤児の一生ものです。一度も自分の思いを叶えることなく成人し、成功もし、恋をしても、結ばれることなく独身のまま老いて亡くなる・・・という話です。
 少年の頃のときめきの描写、年老いた心の描写など、少年でも、その時は老人にもなっていなかったスティーヴンソンの想像力とその筆力に感心するのです。

例えば、少年の頃、
≪…彼は川に行って魚にそう言うのだった。おまえたちはこういう生活をするために創られた。虫と流れる水と、崩れかけた土手の下の穴があれば満足するのだからな。でも、ぼくはそんなふうにはできていない。さまざまな欲望と憧憬に満ち満ちている。指先はむずむずするし、目は欲望に輝いてる。多様に変転するこの世界全体の様相もぼくを満足させることはできない。ほんとうの生、ほんとうの明るい日射しをはあのはるか向こうの平野にあるのだ。ああ、死ぬ前に一度だけこの日射しを見ることができたら!黄金の土地を心楽しく歩くことができたら!鍛えあげた歌い手の歌や、音色うるわしい教会の鐘を聞き、休日の庭園を見ることができたら!「ああ、魚よ!」と彼は叫ぶのだ。「おまえたちは頭の向きを変えて流れに身をまかせさえするならごく容易に伝説の海に入っていくことができるし、大きな船が雲のように頭の上を通り過ぎるのを見ることも、大きな波の山が一日じゅうおまえたちの上で音楽を奏でるのを聞くこともできるんだよ!」だが魚たちは頑なに向きを変えようとはしないから、ウィルは泣いていいのか笑っていいのかわからなくなってしまう。≫

そして、老境に達した頃、
≪七十二歳のある夜、彼は心身にかなりの違和感を覚えてベッドで目を覚まし、身なりを調えると、考えごとでもしようかと東屋に出た。あたりは星一つ見えない真っ暗闇である。川の水かさは膨れあがり、雨に濡れた森や草地の芳香があたりに立ちこめていた。日中には雷が鳴ったが、明日も雷雨になりそうな気配がある。七十二歳の老人にはなんとも陰気な蒸し暑い夜だ。天候のせいか、寝そびれたせいか、あるいは老体にいくらかの熱があったせいか、ウィルの心は狂おしく叫び立てる過去の記憶に責め立てられた。少年時代、太った若者と話しこんだ寄る、養父母の死、マージョリーと過ごした夏の日々、そのほか、他人にはなんの意味も持たないけれど彼にとっては生涯の核そのものとなっているたくさんの小さな出来事――目で見た物事、耳で聞いた言葉、意味を取り違えた眼差しなど――がとっくに忘れていた片隅から立ち現れて彼の注意力を占領した。≫
(続く)
☆写真は、スイス ニーダーホルンから

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南西洋折衷

ハワイコピーj
「マーカイム・壜の小鬼 (他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳)
(承前)
 「マーカイム・壜の小鬼 (他五篇)」の中の短編「壜の小鬼」の中に、当時の英国人の思い描く南洋での家の設えの様子がこまごまと書かれていて興味深いです。小鬼に自分の終の棲家の建造を願うと、こんなに思い通りの家が出来ていたというわけです。ここには、和洋折衷ならぬ、南洋と西洋の折衷が見られます。

≪家のまわりの庭には色とりどりの花が咲き乱れ、片側にパパイヤの果樹園が、反対側にパンの木の果樹園がある。真正面に船の帆柱が立っていて、海に向かって旗をひるがえしている。家は三階建てで、どの階にも、いくつもの大きな部屋と広いバルコニーがある。窓には極上のガラスがはまっていて、水のように透きとおり、太陽の光のようにきらきら輝いている。≫

・・・・そうかぁ。ガーデニングを南洋でも、しようとおもっているんだ。イギリスみたいにはいかないと思うけど・・・それに、英国帝国主義のなごりは、庭の帆柱に旗が翻るといった表現。

≪部屋にはあらゆる家具がそろっている。壁には金の額縁に入れた絵がかかっている―――船の絵、戦う男たちの絵、絶世の美女たちの絵、珍しい土地の絵などだ。この家にかかっている絵くらい色鮮やかなものは世界のどこにもあるまい。≫

・・・・うーん、南洋の心地よい風の部屋に、こんなにこてこてしたもの暑苦しいけどなぁ・・・・海を空を眺めていたら、人工的なものは、どれも小さく見えてしまうような気がするけど・・・

≪装飾品の類いもまったくみごとなものだ。チャイム付きの時計、オルゴール、首の動く人形、たくさんの絵が載っている本、世界じゅうから集めた高価な武器、ひとり者の気晴らしにもってこいの凝った判じ絵。≫

文化の束縛からなかなか解放されないものなんだ・・・

≪裏のポーチに出れば、陸のそよ風に吹かれて、果樹園や花々をながめることができる。表のバルコニーに出て、海の風を吸いこみながら、山の絶壁を見おろし、週に一度ほどホーケナとペレの山々を行き来するホール号や、木材、バナナなどを積んで沿岸を航行するスクーナー船を見るのもいい。≫(続く)

☆写真は、ハワイ島(撮影:&Co.Hi)

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壜の小鬼

キラウエアそばj
(承前)
 「南海千一夜物語」(スティーヴンスン作 中村徳三郎訳 岩波文庫)の中には、「瓶の妖鬼」と「聲のする島」も入っています。
 この2つの短編は、「マーカイム・瓶の小鬼 (他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳 岩波文庫)に入っている、「壜の小鬼」と「声たちの島」と同じ作品です。

 この2冊の文庫本を読んでみたのですが、後者が2011年刊であり、前者が1950年刊。片や旧仮名遣いが多く、老眼には字が小さいということも手伝って、個人的には、 「マーカイム・壜の小鬼 他五篇)」(スティーヴンソン作 高松雄一・高松禎子訳)が読みやすかった。 

 ゲーテの「ファウスト」➡➡ が悪魔と魂を交換、ディケンズの「憑かれた男」➡➡ が亡霊との取引で記憶を失う、シャミッソーの「影をなくした男」➡➡が、 「影」をなくす代わりに「金貨の出てくる袋」を手に入れる、そしてスティーヴンスンの「壜の小鬼」は、どんな願いもかなうが持って死ぬときは地獄へ。手放すには、「ちょっとした」条件が・・・
 と、禁断の交換話は、どれも、面白い。人間の弱さが、眼に見える形で描かれている点が読みやすいのでしょうか。
 デテールは異なるものの、禁断のものに手を出してしまう、人間の弱さが、どの話にも描かれていて、面白い。

 特に、「壜の小鬼」の面白さは、瓶を手放すときは、手に入れた時よりも安価で。というのがあるものですから、持ち主が代わると、どんどん値下がりして、もうこれ以上安くできない!
 いえいえ、そんなとき、柔軟な頭の持ち主がパートナーに居ると・・・・はて、さて?(続く)

*「ファウスト」(ゲーテ 柴田翔訳  講談社文芸文庫)
*「憑かれた男」(ディケンズ藤本隆康訳 あぽろん社)
*「影をなくした男」(シャミッソー 池内紀訳 岩波文庫)

☆写真は、ハワイ島 キラウェア火山 溶岩の作った穴(撮影:&Co.Hi)

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南海千一夜物語

ダイヤモンドヘッドj
(承前)
 スティーヴンスンは、「空想的な出来事を幼少の頃から考えるのが好きであった」と自らいうくらい(「南海千一夜物語」あとがき掲載「我が処女作」より)、空想的なお話の運びがうまく、なおかつ、その心理描写も優れていると思います。

 そこで、ワクワクしながら読んでみた「ファレサアの濱」・・・
 うーん、あからさまな帝国主義、女性差別、有色民族差別。

 ーー「それはそうと君に奥様を世話しなければならないね。」
・・・・・
ーー「あの娘が綺麗だ」
・・・・・
ーー「あの娘が良い。何という娘」
・・・・・
ーー「うまく行きそうですよ。貴君のものになりそうです。娘の女親と話をつけてみましょう。なあに板煙草でもやれば、どれでもお好み次第の娘が手に入りますよ。」
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
ーー此處に(結婚證書)其寫しがある。
≪其島の生れにしてファレサアに在住するファヴァオの娘ウマなる者は、非合法的に一週間ヂョン・ウィルトシャ氏に結婚せる事を證明する。該ヂョン・ウィルトシャ氏はいつ何時たりともウマを遺棄する自由を有する。≫

 確かに、100年も前の小説を読んでいると、現代の規範と明らかに違うと思うものがたくさんあって、あるいは、その直接的な言い回しにも、ひっかかるときがあることは事実です。
 が、しかし、大抵は、その話の運びや、構成の妙に、引き込まれ、楽しい読書体験をしますが、これは、さすがにむかつきました。
 ただ、よくわかっていなかった主人公ヂョン・ウィルトシャが、こんなことを恥ずかしいと思い、最後には、ウマがたくましい女性となり、話を引っ張っていくので、ほんの少しは救いがありました。とはいえ、文末にも、しつこく人種差別してるところがあって、やっぱりなぁ・・・と、がっかり。(続く)
*「南海千一夜物語」(スティーヴンスン作 中村徳三郎訳 岩波文庫)
☆写真は、ハワイ オアフ島 ダイヤモンドヘッド (撮影:&Co.Hi)

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ヨーロッパから遠く離れた南洋の地

ギリ波
 「南海千一夜物語」(スティーヴンソン作 中村徳三郎訳 岩波文庫)
サマセット・モームの「片隅の人生」➡➡ のあと、ロバート・ルイス・スティーヴンスンの「南海千一夜物語」を読んだのは、偶然です。

 サマセット・モーム(1874~1965)のおはなしの舞台は、旧オランダ領東インド諸島(今のインドネシア辺り)でしたが、スティーヴンスン(1850~1894)の「南海千一夜物語」の南海は、サモアであったり、ハワイであったり・・・と、少々位置関係は違うものの、英国出身の作家が、ヨーロッパから遠く離れた南洋の地を舞台にしたことは、サマセット・モームにしても、スティーヴンスンにしても、根っこは同じじゃないかと思うのです。

 が、偶然といいながらも、岩波文庫の春のリクエスト復刊に、「南海千一夜物語」と表題が見当たらなかったら、手に取らなかったかもしれません。今回の復刊を待たなくても、2001年刊となっている一冊を持っていました。17年も読まずにほおっておいた一冊でした。
 
 スティーヴンスンは、「宝島」➡➡・ ⇒⇒ ・➡➡ 「ジキル博士とハイド氏」「二つの薔薇」➡➡、また子どもの詩集「ある子どもの詩の庭で」➡➡ などの作者で、英国エジンバラに生まれ、最期は、1891年にサモアに移住しサモアで亡くなるいう生涯でした。

 その海にまつわる作品の一つが、1993年作の短篇集「南海千一夜物語」で、岩波文庫の中村徳三郎訳では、3篇が入っています。「ファレサアの濱」「瓶の妖鬼」「聲のする島」・・・薄ぺらな一冊で電車用にぴったり。
 で、読んでみました、一つめの「ファレサアの濱」。(続く)

☆写真上は、インドネシア諸島のギリ島
写真下は、インドネシア諸島 ロンボク島はるか向こうにギリ島。(撮影:&Co.Ak)

向こうにギリ島 (2)j

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朝から暑い

夏4j
いつもより30分早くご近所周りの散歩に出ても、帰宅したら汗だく。
セミの抜け殻の急増。
夏2jj
生れたばかりのセミのアップも、朝早いから撮れた?
夏1j
静かな公園の池では、スイレンとアオサギの2ショット。
夏3j
公園のむくげは珍しい八重。
むくげj
琉球朝顔(一番上の写真)と鬼百合(一番下の写真)、どちらが真夏のイメージ?
                    夏6jj

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歌のうまい二人の女性

     ピアノj
 先日、キャロル・キングのことを書いたのは、近々、日本で「キャロル・キング」というミュージカルが上演され、それに伴い、新しいベストアルバムが出るという情報とは、まったく無縁のものでした。

 涼を求めて入った百貨店で流れている曲が、男性歌手が歌うキャロル・キングのものだったり、長らく、眼にしていなかった「Tapestry」という彼女のアルバムの写真を街で見かけたり・・・偶然にしては、面白いと、思っていたら、上記のようなことで、キャロル・キング再燃のような感じです。(つまり、何にも知らなかった・・・)

 たまたま、例のコンサートで、エレキギターの音を聞き、思い出した中に、キャロル・キングもいたし、レディーガガも居たというわけでした。
ジーンズとギターのキャロル・キング。
個性的すぎる眼鏡をかけて、凄い高さのヒールを履いたレディーガガ。
時代の違いこそありますが、この二人は、弾き語れる 歌のうまい二人の女性という共通点があります。そして、二人に、接点もあって、興味深い。ネットの恩恵で見たレディーガガのライブ。臨席せずとも、鳥肌がたちます。
☆写真は、ロンドン V&A

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